眉のない人

ぽんぽん丸

眉のない人

 私が特売の10個入のたまごをとって横を向くと目の前には坊主の女性が立っていた。私が一歩後ろに後退しなければいけないほど近かった。


皮膚を削るようにして剃ると医者が言うのを聞いたことがある。確か脳手術前の準備の話だ。スーパーマーケットでは出会うと思わなかった。タンクトップを着て皮膚を削った坊主の女性。肌はキレイで20歳そこそこに見えた。今手に取ったたまごみたいに綺麗で白い頭。そこにわざわざ無表情を描き付けたような、加えて絵に描いたようなという比喩がしっくりくる整った顔が収まっている。彼女は美人だったが、それ以上に不気味だった。


 私が坊主だとすぐに判断したのは彼女には長いまつ毛があったからだ。病気のたぐいで脱毛に至ったわけではないことがわかった。長い睫毛と青いカラーコンタクトのドット柄が重なって彼女の瞳を隠していたがそれはそれは綺麗だった。だけどその皮膚を削った坊主よりも、長いまつ毛よりも、隠れた瞳よりも強烈だったのは眉毛だった。


 彼女の眉はやはり綺麗に剃り落とされていた。私が坊主に目を奪われていると、そのない眉が上下して私に返事を促した。その部分は僅かに盛りあがり浮き出て眉毛の形を感じる。白い皮膚に覆われてこそいたが、むき出しの筋肉が直接動いているような生々しさがある。きっとあの部分を舐めてみたら血の味がする。


「どうしましたか」


 蛇に睨まれたカエル。彼女は確かに蛇のようだった。毛のない見た目というだけでなく、そこには意識というものを感じることが出来ない。ただない眉の動きが止まったところを見ると、細いカエルの声も届いたのだろう。


 彼女の口がひらいた。長い舌がまっすぐに出てきて、そこから上唇のまんなかのくぼみのところを舐めるとそのままゆっくり、ぽっかり開いた唇の輪郭を丁寧に舐めて一周した。反時計回りだった。


 これが返事なのだろうか?私がしばらく呆気にとられて見ていると、彼女は実に機械的な動きで唇の周りに塗付けられたテカテカ光る唾液を手の甲で拭ってから口を閉じた。右手だった。蛇のような女にも利き腕はあるのかもしれない。だがこれが返事なら先程のどうしましたかという問いはいっそう強まってしまった。が私は発言する勇気をもうなくしてしまったいた。


なにより彼女の白い腕にはタトゥーもリストカットや注射の跡もなくてそれが一層奇妙だった。どういう道筋を辿って今この状況が出来たのか、腕や顔にヒントが書かれていないのだ。理解する糸口さえなかった。だから対処する手段もなくて私は固まっていたのだ。


「そうやって安いものばかり買う?」


 唇は当然潤っていて滑らかに動いている。それなのにこの女から出ている声なのか疑った。店内スピーカーで流れている気がした。女の声が澄んだ可愛らしい響きをしていたから。


「おくさんはいるの?」


 またない眉の、筋肉がビクッ、ビクッと上下して返事を求める。それは私の人生の中で受け取った中で最も不快な合図になっている。


「いません」

「一人で節約する40円、卵一つ当たりは4円。4円の節約があなたは幸せ?」


 私の言葉に重ねて彼女は言い始めた。また彼女はない眉をビクッビクッと上下させた。今度はない眉の脈動をそのままに話しだした。


「カロリー50%オフならね、オフしてないものを2回に分けて食べたらいいの。カロリー変わらないから生きてくために必要なものはとれてるの。人間ってそうできるじゃない。数字でみて本質を考えて行動すればいいじゃない」


 冷蔵棚とクーラーの両方を浴びて冷たくなった私の頬は動かない。彼女のない眉毛の上下動はますます激しくなり私を促す。私はもう苦笑いも作れていないのに。


「本質なの。4円。おくさんもいないのに節約してる。一人で少し良い卵食べなさいよ。あなたのこと好きになる人、きっとこういう。いいたまごたべなさいよ。それが本質。わからない?」


 そう言うとない眉は私の鼓動の脈打つ速度に合わせて早まっていった。自分の脈動が聞こえている。いやこれは彼女のない眉が跳ね上がる音なのかもしれない。そういえば私の心臓も彼女のない眉も筋肉で出来ていた。それが本質かもしれない。そう思った時、彼女の眉の動きは止まった。幸い私の心臓がつられて止まることはなかった。


「そう、あなたにはわからない」


 眉の動きが止まって彼女の表情をやっと見た。それは悲しい表情だった。西洋の絵画に顕される、巨匠が何度も油絵具を重ねて初めて生まれる現実では生まれない悲しさを彼女は顔に出していた。


「仕方ないわ」


 彼女は眉毛ペンを取り出して眉毛を書き始めた。それはまたいっそう悲しい眉だった。眉間の方は少し上がって、眉尻は下がっている。右の眉を書いてる頃に彼女の左の瞳から一筋涙がこぼれた。


「私あなたが好きだったの。さようなら」


 唾液は拭いたが涙は拭かなかった。悲しい眉毛を書き上げて眉毛ペンを私の足元に叩きつけて、彼女は私に背を向けて調味料コーナーの方へ去っていった。彼女は底の硬いブーツを履いていて人間の足音のリズムで去っていった。


 私は気付くと卵のワゴンの前にいた。ここは異空間ではない。出来事が済んだから、たまごを後回しにした人がなぜだか私に、彼女の分の軽蔑の眼差しを向けて特売の卵をもっていく。私は買い物かごをその場において出た。今日はもう食べなくてもいいと思った。


 夏だった。夕立が駆け抜けたあとに、また熱くなったアスファルトからむせ返る湿度の熱気が立ちのぼる。ファミリーカーが行き来して、決して広くない駐車場で器用に譲り合いをしている。買い物袋で両手のふさがった歩きづらそうな男性。その腕にわざわざ身を寄せる女性が夕日が傾き始めたほうへ歩いていく。私は日常に少し正気を取り戻したことを覚えている。


 こうやって語るほどに私は彼女のことを何度も思い出す。会社に新人の女性が入ると眉毛を見る。その眉が書かれたものだったら、私は距離を開けて接するようになってしまった。もしその眉がビクッビクッと跳ね上がりでもしようものなら、私の心臓は今でもつられてしまうことだろう。


 新しい恋人ができるとスーパーで特売のたまごを手にとり一拍待つようになった。そして振り返り愛しい顔を見つめてみるが、誰もいいたまごをすすめてくれない。


 後悔を感じる。あのときほどの激しい情動を感じさせてくれた人はいない。あの悲しい眉毛が書き上がる前に、涙が一筋流れた時に、彼女の手をとって握ってしまえばどうなったのだろう。


-唾液を拭った彼女の手のひらは人間らしい臭いがしたのだろうか?

-彼女のない眉を舐めてみたら血の味がしたのだろうか?


 眉毛がある人ばかりの日々に安堵を感じながらも、今でもあのない眉を思い出しては人生の本質に囚われて脈動を早めてしまう。

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眉のない人 ぽんぽん丸 @mukuponpon

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