最終話

 空気の変化を感じ取ったのか、ひかりが目覚める。

 比較的空いた車内は、どこにでも自由に座れた。抱っこ紐を解くと彼女は真新しい空間に興味津々だ。窓へ手を伸ばす赤ん坊をしっかり抱きとめて、リュックからサンドウィッチを取り出して頬張る。


「おいしい」

 止まっては進む電車の中で外を眺めていた。どこに「帰ろう」としているのか自分でもまだ決めきれないでいた。風景の中には、いつも車で通る国道がある。それは線路の平行線として現れて垂直に交わって別々に進行する。


 しばらく機嫌よく膝の上で過ごしたひかりが次第にぐずり始める。停車した駅で車掌さんがアナウンスを始める。

「特急列車の通過のため二分停車します」

十時二十六分特急列車。ミルクのじかん、だ。遥のなかで電車の通過時刻がその音と共に、生活動作となって染みついている。けれど今日、わたしはいつものアパートの窓ではなく、車窓の内側にいる。特急が勢いよく通り過ぎる。


「そうだ、今のうちにミルク」

 止まっている車内はミルクを作るのに都合がよい。慣れた手つきで哺乳瓶に水筒のお湯を注ぎミルクを溶かす。ひかりは勢いよく哺乳瓶に吸い付く。


「そうだ、おむつも変えなきゃ」

そういえば、家のおむつの在庫が少なかったのだ。次の駅はいつも行くドラッグストアに近いはずだ。電車が発車すると遥は広げた荷物をかばんに詰め込み、ひかりを抱っこ紐に入れ電車を降りる準備を整える。


 降りたことも乗り込んだこともない駅だった。遥の住む沿線は無人駅ばかりだ。近頃は駅員さんが常駐する駅の方が珍しいのかもしれない。

 電子改札でカードをかざし、駅から降り立つ。構内のトイレでおむつ交換をし、外のベンチでひかりをあやす。


 いつも車道から横目でちらりと目に入るだけの景色の中に、今日は立っている。


 久しく営業していない自転車屋らしきものがあり、植木鉢の乱立する小さな廃屋があり、かと思うと広々した駐車場の老人ホームがある。どこかで見たような寂れた街並みだ。落ちてきそうな瓦屋根の下に悠然と昼寝する猫がいる。


「ねこちゃん」

 興味深そうに猫をみつめるひかり。

 生まれて初めて、猫と出会った日は今日になる。


「はじめて」

 そういえば電車に乗ったのも、初めてだ。


「はじめてね」

 わたしと、電車に乗って初めて旅に出た日は今日。


 いつか、帰ってきたと思える日常がふいに現れたら、その時はきっとくたびれたこのリュックサックがぺたんと横になっているのだろう。その時わたしはきっと、からっぽのリュックの中に本当に何も入っていないのか確かめる。そうして見つけてしまう。こんなに包み込むものがたくさんある日々の、どこかに残っているのだ。包んだそのまま、忘れてしまったもの。それをわたしは「もう必要ない」ときちんと全て捨てられるだろうか。


 今日、がどこから始まったのか思い出せなかった。あの線路際のアパートの一室で確かに始まったはずだった。


(もう降りちゃったね)

 まだ、もっとずっと乘っていたかっただろうか。帰るのだろうか。行くのだろうか。待っているだろうか。あのアパートの一室で電車が通り過ぎるのを眺め続けるわたしがおむつを抱えて帰ってくるわたしを待っているだろうか。



「おかあさん、行きましょうか」

老人ホームのドアから杖をついた白髪のおばあさんが手を引かれてスロープを下る。

「今日は病院に行く日ね」

「どうやって行く。電車で行くか」

「うーん。電車に乗せてあげたいですけど、おかあさん、電車、座れなかったら気の毒だから、タクシーね」

「汽車もいいね」

「あはは、汽車ですか。どこかで走ってるといいですけどね」

「走ってるさ。知らないのか。今度のせてやる。切符取っといてあげるさ」


 路地裏の猫はうっすら目を開けて、再び閉じる。ひかりはバタバタと手足を動かし、膝から降りようとする。


「おっとっと。あんよができるようになったら地球に着地しましょうね」

 まだ靴も持たないひかりの柔らかな足を手のひらで包む。と、こちらに気付いたおばあさんが嬉しそうにひかりに挨拶をした。珍しそうに未知の生命体を見つめるひかりの瞳は輝いている。


「おや、お母さん、赤ちゃん、笑ってるのかい。わたしの顔がしわくちゃだから珍しいんかな。赤ん坊や、お名前は?」


 お母さん、と呼び掛けられることに少し慣れ始めていた。そして話しかけられたひかりに代わって返事をすることにも。


「ひかり、です」

 遥は答える。

「ほう、新幹線じゃな」

おばあさんの口からそんな言葉を聞くとは思っていなかった。

「あら汽車、じゃないんですね」

 義理の娘さんと思しき女性も意外そうに眼を丸くする。


「ひかり、は確か、光くらい速い、という意味じゃな」


 自分で言って、うむ、とおばあさんはうなずく。


「こだま、は木霊、つまりやまびこ。ひかりに並んで音速、を表しとる」


 杖をついたままバランスを保ち、腕組みをする。


「…はるか、は何でしょう?」


 博学そうなこのおばあさんに、遥は思わず尋ねた。


「はるかは、空港行きの新幹線じゃからな、行先は空なんよ。はるか、かなた」

へえ、と感心して聞き、じゃあさくらは?と尋ねると、おばあさんは勢いよく言った。


「さくら、はわたしのなまえ」

 満面の笑みでそう言うと、タクシーが現れ、親子は会釈をし、慣れた風に乗り込んだ。タクシーが見えなくなると遥は空を見上げた。悲しいくらい澄んだ空だった。


「ひかり、あなたどこから来たの?」


 そう、ずっと、謎に包まれたままだ。出産は途中から状況が悪化し、全身麻酔の帝王切開に切り替えられた。遥は丸一日眠り、数日熱にうなされた。はっきりと赤ん坊に会った記憶があるのは出産から三日後だ。透明な小舟の如くの保育器が、整然と並ぶ港のような新生児室。その列の一番先端の舟の中で眠る赤ん坊を紹介された。「あなたの産んだ赤ん坊ですよ」と。

 こんな小さなプラスチックの舟にひとりで乗っているなんて。舫いだ舟は注意していないといつの間にか綱が解けてはるか彼方へ旅立ってしまうかもしれない。ついこのあいだまでおなかの中でわたしと繋がっていたその綱はもうあっけなく断ち切られたのだ。今度はどこに繋げればいいのか。どんな波がきても、どんな突風が吹いても、決して離れないように。

 不意に、さっきの言葉が浮かんだ。はるか、かなた。


「遥か、彼方」


 みんな、行先が違う。同じじゃない。すれ違うことはあっても、追いかけることはあっても、待ちあって先を譲ることはあっても、全く同じに進行することはない。

急にずっしりとひかりを感じ取る。もしかしたら。帰る場所は「帰る」たび、少しずつ帰る場所になっていくだけなのかもしれない。            

連なった電車の、ひとつのドアに乗り込んだに過ぎなかった。わたしが見ているこの車窓の向こう側から見たらたったひとコマ、流れて消える一瞬に過ぎなかった。乗り込むあなたはわたしの隣に座るだろう。まだあなたはわたしのことを知らないだろう。わたしはひと駅分一緒になったあなたをいつかアパートの窓から見たあなただと、ホームに降り立って初めて気づく。そうして腕の中のひかりが、何か別の次元の速さで「あなた」になってしまうことにも。


 一度降りたら、もう追いかけることはない。乗るのはまた、次の電車。それなら、一緒に降りることのできる今あなたと、また同じドアから乗り込もう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はるか 机田 未織 @mior

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説