第4話 

 考えられないほど汗をかく。気付くと「おつかれさま」と書かれた看板の前にいた。遥はひかりをほどいて膝に載せ、手作りらしい丸太のベンチに腰掛ける。見渡すと高い空の先にいる。他と同様に紅葉したはずの桜は、他の木々と同化しようのない雄大さを隠しきれていない。


「これは、さくら。お花は咲いていないけど、春になったらとてもきれい。さ、く、ら」


 ひかりに教える。

(あ、これも新幹線の名前じゃない?)

「ふふ、」

 遥が笑う。と、ひかりが声を上げて笑う。ひかりの蒼白く澄んだ白眼の部分を、じっと見つめる。なんてきれいなんだろう。


 実質ひとり、だったのにいつのまにかふたりになっていた。いつも旅先では口をつむいでいる以外なかった。どんなに面白いことがあっても自分ひとりの思い出にしかならなかった。わたしが憶えている景色は他の誰ともつながらない記憶。写真を撮ってメモに書き留める。見返してあの時の自分とつながりあう。それがいいと思っていた。わたしひとりだけの大切な記憶の堆積。

 急に風が吹きあがる。時間と空間がまばらに散らばって拾い上げたはずの今は、落ち葉に紛れた、昔憧れた未来だった。


「さくら、さあ帰ろうか」

 さくら、と呼ばれた小さな女の子が遥の手を握りしめている。いつのまにか夫がいて、その先で飛び跳ねている日焼けした女の子が今にも走り出そうだ。


「ひかり、ここから駅まで全部下り坂だぞ、きょうそうしようか」

 みんないた。みんな、実質ひとりなのにたまたまふたりになったり、三人になったり、四人になったりしているだけ。だから、そう。いつかまたひとりになることを確信する。


 遠く、電車の走る音がする。

 おもちゃのように小さな家々が街をつくる。山の端をカーテンにして向こうの景色、そのまた向こうの景色と重なり合う。どこかのひとりをふたりにさせて、どこかのふたりをひとりにさせて、電車はそれらの景色を縫い合わせ、どこまでも走っていく。


 遥は唐突に帰りたくなった。この旅の行き先は「ここ」という設定。じゃあ帰る先はどこ。

 いつのまにかひかりは膝の上で眠っていた。そっと抱っこ紐に入れ、駅までの下りを軽やかに歩く。

「ママはおなかが空きました」

ひかりにそうささやき、思い出す。(そういえば朝、コーヒーを飲んだきりだ)


 パン屋に入り冷たい牛乳とサンドウィッチを選ぶ。今日のパン屋は旦那さんがレジ係だ。奥さんは店先で植え込みの手入れをしている。窓全体を覆うほどみっちり生い茂った朝顔は勢いを増してderacine」と書かれた看板に絡みついている。


「これ、朝顔ですよね、十月でもこんなに咲きますか」


「これはね、琉球あさがおって言って、沖縄では海岸なんかに生えているのよ。生育旺盛でつるがどこへでも延びちゃって困るくらい。だけどその丈夫さが緑のカーテンにはいいのよ。それにこれ、宿根草でね。根っこが冬越しして毎年この店を涼しくしてくれる。わたし、実は北海道出身なの。礼文島ってわかる?北の最果て、よ。だからこういう暑さは何年経っても慣れなくてねえ」


「すごい。礼文島!北の最果てのかたが、南国沖縄の朝顔をここで育てていらっしゃる」


「実はパリでも、琉球あさがおを育てていたの。随分むかしのことだけど」


 海外修行の噂は本当だったのだ。パリも、やっぱり暑いのだろうか。


「今は、どこにももう、行かないのですか?」


 朝顔に代わって尋ねたような気持ちだった。


「そうねえ」


 奥さんは花殻を摘みながら考える。


「じゃあ、帰りたい、というのは?」

 重ねて質問する。

「ええっと北海道に?」

「そうなりますかね?」

 朝顔にとっては沖縄だろうか?頭が混乱する。


「そう、ねえ」


 じっと手の中のしおれた花びらを見つめ、奥さんは言う。


「生活、しちゃってるからねえ。色々なことに始末をつけて出かけるのがもう、億劫なのよ。それにね、ここ駅でしょう。行き来している人たちと話をしていると行先を教えてくれるのよ。するとどんなところかなあ、って地図で確認したりガイドブックを見たりするわけ。今頃どこかなあ、って想像するの。そして帰ってきたらお帰りなさい、どうだった?って、土産話を聞かせてもらうの。ね。ほら、結構行ったような気分よ」


 ウインクし、(フランスで得たコミュニケーション法かもしれない)魅力的に声を立てて笑いその口の形のまま「それに」と付け足す。


「アパートで暮らしている人たちのことも気になってね、だからもう旅行なんてなかなか」


 そこで初めて奥さんは遥の背中のリュックが目に入ったらしい。


「あれ?どこかへ行くの?」

「はい、あ、ええっと帰るんです」


 高い空に向かって咲き誇る琉球あさがおのブルーは空より青い。

「ご実家とか?」

 遥はひかりの寝顔を見つめながら言った。


「いいえ、帰る場所を探すためにちょっと、出かけるんです」

「あらあら、deracine、ね」

「デラシネ、はこの店の名前ですよね?」

「フランス語で根無し草。さすらい人といったところかしら」


「derasine」


 奥さんの発音をまねて呟き、さらにこっそりフランス風のウインクをしてみる。開け放たれたパン屋のドアからアパートではなく、駅へ歩く。


 ホームに間もなくやって来たのは十時十三分、各駅列車だ。


「帰ろう」

 開け放たれたドアに、今日こそは乗り込んだ。

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