第3話 


十月に入り、ぐんと過ごしやすくなった。

ひかりは、すっぽり覆われていたバスタオルから常に手足がはみ出るようになった。


(確か、ひとまわり大きなひざ掛けを持っていたはずだけど…)


 思い当たる所を探し回っても一向に見当たらない。

 最後の可能性にかけて、リュックを逆さまにし中身を床に広げる。

 底の形を決めていたらしいそれが重力に負けてすぽん、と床に落ちる。

 おむつ交換ロボの顔がしょんぼりして見える。


 (あった)


 どんな季節の旅にも大抵持ち歩いていたひざ掛けだ。手触りが好きで、電車内が肌寒い時重宝していた。入院中からここに入っていたのだろうか。入院は急で、夫がとりあえずの必要物品を詰め込んでもってきてくれたのだ。


 ひざ掛けがなくなると、リュックは急にぺたん、と横たわる。

 床には十枚程度の紙おむつ。心許ない枚数だ。今日はまだ火曜日。ひかりはチャイルドシートに固定すると火が付いたように泣き続けるので、夫が週末、ひとりで買い出しへ出る。このリュックを持っていってドラッグストアで二袋のおむつを詰め込んで帰ってくるのが習慣だ。


(それにしてもこのひざ掛け、)

 余分な荷物を、夫が平気で持ち歩いていたと思うとおかしかった。


(ほかに何、入れてたかな)

 遥は旅の準備を想像してみる。ふらっと出かける旅が好きだった。ふと降り立つ無名の駅から歩き始める路地裏。


(ちょうど、こんな駅、じゃない?)

 自分の今いる場所を、旅行先と仮定する。そう仮定すればその気になれる。


「ひかり、旅にでよう」


 すやすや眠るひかりを横目に、遥は準備を始めた。衣類、歯ブラシセット、ミルク、哺乳瓶、おむつ一式、ひかりの衣類、読みかけの本。チョコレート、水筒。そしてひざ掛け。おもむろに詰め込んでもまだまだ余裕がある。ひかりが目覚め、ああ、と泣き始める。


「よちよち。起きたね。お出かけしようね」

 十月吉日。秋晴れの空は清々しく、今日は旅行日和だ。


「ここは、どこかな?」

 ここは。瀬戸内海の近い、片田舎の無人駅。遥はひかりを抱っこ紐に入れてしっかりと結ぶ。帽子をかぶる。リュックを肩に掛ける。


「電車から、おりました。ピッ」

 一旦ホームに入り改札で電子音をさせる振りをする。

 ICカードの残高はどのくらいだろう。確かいつもゼロにならないうちに入金していたから大丈夫だと思うけれど。

 乗る時の心配をしている自分に、驚きつつも楽しくなる。


「あ、パン屋さんです。帰りに買ってお昼にしましょう」

 大家さんは海外の有名店で若いころにパン修行をしたという噂だ。以前は街中に店を持っていたらしいけど、今は旦那さんの実家近く、この駅前にひっそりと店を構えているという。


 駅を出ると真正面に

「天然記念物 大山桜」

 と書かれている。ここから山へ向かってずっと歩くと登山道があり、百メートルほど上に樹齢五百年の桜の木があるのだ。三年前、引っ越してきた年に夫と行ってみたことがある。雄大な桜が急斜面に咲き誇っていたのを思い出す。


「行ってみて、決めましょう」


 背中にリュックを背負い、前にひかりを結わえて、いつもの散歩道を歩く。ぐんぐん歩く。散歩中のひかりは上機嫌だ。


「行ってみて、決めましょう」

 いつも、そうだった。行ってみて、その景色の中で行先を決めて、行く先はどこも目的地になった。


「ひかりも一緒に登れるかな?」

 実質、答えるのは遥。


「登ってみようか」

 かさばるばかりの荷物を、なぜ持っていくのかわからない。なぜ、今日ここを旅しているのかわからない。なぜ、その桜を今日、この秋の日に見る必要があるのか、わからない。


「旅って、そういうものでしょう?」


 考えるより先に、遥は進む。両親は生まれた娘を新幹線の名前にしたわけじゃない。遥が先だ。「新幹線はるか」は遥の後から生まれてはるかと名付けられた。

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