第2話 


 大学生の頃、「青春十八きっぷ」を使い、始発に乗ってどこまででも行った。

 東西南北、線路の敷かれたところ、一日で行けるところ。それはゲームのようで、迷路のようで、現実逃避のようで。


 青春十八きっぷは五枚つづりで一万円ちょっと。お金のない、時間だけ有り余る学生にはありがたかった。乗った次の日、最初に到着する駅まで有効な一枚の切符。

 五枚を続けて五日間使ってもいいし、一枚ずつ、別々の日に使ってもいい。ただ乗り込むだけ。そしてただ降り立つだけ。どこからどこまで行くかは自分で決める。途中で気に入った場所があれば途中下車してもいい。

 到着した駅を、再びスタート地点にして、改札口で切符を駅員さんに確認してもらう。

 一番最初に押された消印、わたしの住む街の地名を見た駅員さんが、(おっ、遠くからきたんだな)という感心した表情になるのを期待している。ええ確かにわたしははるか遠くからここまでやって来ました。でもずっと「はるか遠く」の人間でいるつもりはありません。たまたま、遠くから来ただけです。もしかしたら今いる「ここ」がわたしの新しい「はるか遠く」になって、そしてまた未知の場所が「ここ」になるかもしれない。


 わたしはまるで風の気まぐれで降り立った、この駅に止まってみたかった、ただそれだけだというように駅から出て、電車の窓から見た景色の中を、今度は歩き始める。



 ───あのころ。確かにあちら側にいた。窮屈そうに並ぶアパートの、ひとつひとつの窓のカーテンが開いているか閉まっているかなんて、気にしなかった。

 建物の間を縫うように進む列車が向かう先を、もっとその向こうを見ていた。雄大な海が目前に現れるのを期待して、目も覚めるようなきらびやかな街のネオンが夕闇に輝きだすのを期待して、わたしは連なる車窓から通り過ぎる景色を見ていた。


 もぞもぞと布団からちいさな足が伸びあがる。ひかりのお目覚めだ。


「おさんぽ、行こうか」


 抱っこ紐を体に巻きつけてひかりをぴったりと結わえ付ける。まだ暑いけれど真夏に比べたら抱っこがしやすい。首の据わったひかりはゆっくりとこちらに視線を向ける。

「行きたい?そーかそーか。行きたいよねえ」


 駅の西隣がパン屋「deracine」で、東隣に三棟、線路に沿ってアパートが連なる。


 アパートの大家さんはパン屋を営んでいる。

 午後の無人駅に人影はない。パン屋にも客はいない。花壇にはぐったりした朝顔がなんとか晩夏の午後を持ちこたえている。


「ひかりちゃん、どこ行くの?」

 開け放したドアの内側でパンを並べながら、大家さんがひかりに話かける。


「ちょっとお散歩です」

 実質、答えるのは遥だ。


「へえ、いいねえ。おかあさん、お昼食べたかな?」

「ああ…、そういえば、まだです」

「まだ!もうお昼っていうよりお夕飯の支度の時間だよ」


 パン屋の奥さんは「売れ残りだから」といくつかパンを袋に詰めて遥に押し付ける。済まなそうにお辞儀を繰り返し遥はパン屋をあとにする。


「ひかり、パン、食べよっか」

 実質、食べるのは遥だ。おもむろに駅のホームに入り、ベンチに腰かけパンを頬張る。


「おいしい」

 遠くで踏切の音がし始める。時間差でもうひとつ向こうの踏切もカチコチ鳴り響く。


「あ、来るよ」

 がたん、ごとんとホームに電車が現れる。十五時十三分、上りの各駅列車だ。プシューっとドアが開く。誰もいないホームで、開け放たれたドアに乗り込む人はいない。車掌さんは時刻がくると指差し確認し出発の合図をした。


「バイバイ」

 小さくなる電車に向かって、遥が手を振る。

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