はるか

机田 未織

第1話 



 遥はここ何年も電車に乗っていなかった。


 旅行の友だったリュックには今、大量のおむつが詰め込まれている。

 退院した日から定期的に補充され続けるおむつは、時々銘柄を変えサイズを変え、リュックが空になることはない。常にベビーベッドの柵にぶら下がり、おむつ交換まで待機する。「赤ちゃん、泣いてるよ」雨蓋のふたつの留め具がこちらを見ているようで、思わず眼を逸らす。


 乗らない電車の音は通り過ぎては消えていく。

 腕を通さないリュックの肩ベルトは「目」の隣にあると耳に見え始める。

 非日常は日常になり変わる。

 違和感だったベビーベッドもその脇のリュックも暮らしの景色に固定され、毎日の違和感はやがて既視感になり習慣は記憶になりこんなふうな毎日がやがてわたしのこの夏をどれも判別のつかない一日にしてしまう。

 あの「耳」に腕を通して旅に出たはずだった。

 乗らない電車の乘り方を上手く思い出せない。



 赤ん坊が産まれたのが七月の初めで、その子にひかりという名を付け一緒に暮らし始めたのが八月初めだ。


 結婚後に経た、三つの夏を順に遡る。昨夏は仕事が忙しくて三日間ある夏季休暇は分散させ、ただの休日として使った。一昨年の夏は車好きの夫の隣に座って海へ行った。もうひとつ前の夏は新婚旅行。飛行機でハワイへ行った。


 夫は電車やバスが苦手だ。ぐるぐる巡る乗り物に、停車したタイミングで素早く乗り込まなければならない緊張感、乗り込んだら今度は停車したタイミングで降りなければならない緊迫感。それらが苦手だと言う。


 予定日より一か月早く生まれた未熟児のひかりは、しばらく保育器で過ごす必要があった。遥は毎日母乳を届けに車でひかりの入院する病院に通った。その一か月の間に梅雨明けし真夏が到来した。感染症対策のさなか、面会者のチェック項目にひとつ該当するものがあって、結局一度の面会もかなわなかった。


 ひかりが退院するまで、遥はバーコードが刻まれたプラスチックの腕輪を二本巻かれていた。ひとつは自分の名前。もうひとつは名前の代わりに「ベビー」と印字されたものだ。窓口でそれらを順番に見せては毎回本人確認された。名前が決まった時、ビニールの仕切りが垂れ下がる小さな受付窓越しに「うちの子、(ひかり)になりました」と書類を提出した。看護師さんは、もう他の名前で呼んでいたのに、というような、少し納得しきれない顔をして書類に目を落とす。


「ひかり、です。新幹線の」


 返事がなかったので、もう一度口を大きくはっきり動かしながら「ひかり」と言うと、若いその看護師さんは名前より新幹線という言葉に反応して言った。


「えっ、新幹線はお母さんの方ですよね」


 お母さん、と呼ばれたのが自分だと時差で気づき、遥は仕切りに顔を押し当てて小窓に身を乗り出す。


「私も娘もどちらも新幹線のなまえなんです」


 看護師は、新生児氏名欄と保護者名を見比べた。

「ひかりには。新幹線のひかりにはいろんなひかりがありますけど、始めは新幹線といえばひかりだけだったんです」

 遥の主張に、彼女はへえ、と少し驚いたかおで「ひかり、ちゃん」とうなずき書類を引っ込めた。その後呼び名が「ひかり」に修正されたどうか確かめる術もなく、体重の満ちたひかりは退院した。


 それからの毎日は、おむつをあてがい皮膚をぬぐいおくるみでくるんでそれを抱き上げ揺らしては縦にし横にし、くるみ直し、そんなことをしていただけだった。初夏から夏の盛りへの、夏の盛りから終わりへの、夏の終わりから秋への、果てしない暑さの日々だ。


 その間、電車は幾度も通り過ぎていった。ホームから伸びる線路沿いに私たちのアパートはあった。数十分おきに電車が行き交い、往来は時計代わりだった。


(八時十三分の普通列車。もうひかりは目覚める頃)


 朝の満員電車は鉄道を這うような鈍い音をさせる。ずんずんおなかに迫る響きはアパートの壁を床を鉄筋を心細く揺らす。


(十時二十六分の特急列車。四回目のミルクのじかん)

特急はそれそのものが風のように通り過ぎる。


(十四時二分快速マリンライナー。五回目のミルクのじかん)

 快速は街と街を結ぶバトンのように行ったり来たり忙しい。


 ひかりを抱いて少し首を伸ばせば、アパートの部屋からは電車を斜め上から見た景色が広がる。まるでパラパラ漫画をめくるように、電車の窓が、ドアが、遥の前に新しい場面を繰り広げる。電車の速さによっては乗っている人々の表情まで見える。「間に合った」と安堵する女子高生の顔。腕組みしてうとうとするおじさん。定期券を首から掛けた小学生。リュックを背負った外国人旅行者。向こうからこちらは見えるのだろうか。少なくとも遥の見る窓枠の中の誰も、線路際に立ち並ぶアパートの、ひとつひとつの窓を気にする人はいない。


 切り取られた一瞬は次の一瞬、次のページへめくられてその前の一瞬がその先どんな結末を迎えるのか見届けるよりも先に、そこにはただ線路が、その向こうには田んぼが、残っているだけだ。

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