二話


今にして思えば、人間だった頃の人生は、最高にクソッタレな人生だったと思う。


物心ついたときには、養護施設で育てられ、俺は駅のコインロッカーで発見された捨て子だったらしい。


もちろんそんな俺に両親なんてものは、いるはずもなく、親の知らない俺にとって、施設の職員が親同然の存在だった。


しかし、親同然といっても血の繋がった存在ではない。


だからこそ、些細なことですぐさま感情的になりやすかった施設の職員たちは当時の俺に殴る蹴るの暴行を加えた。


しかし、どれだけのアザや傷が増えても、暴行が止まることはなく、むしろその逆。


悪化する一方だった。


"痛い、苦しい、やめて"


苦痛に歪む顔を目の当たりにした職員たちはそれはそれは嬉しそうに笑っていた。


そして、狂気に満ちた日々が何日も続き、職員に対する不満もついに限界を迎えた。


意を決した俺は、職員の中でもっとも暴行の多かったリーダー格の男に調理場のナイフで襲いかかった。


今思えば愚策。しかし、当時の俺は仕返しが出来ればそのあとはどうでもよかった。


だが、結果は明白。


五歳の子供が大人に敵うはずもなく、俺はすぐさま奴の腕力に負けてしまい、ナイフを奪われて、そのうえ力ずくで押さえつけられてしまう。


そして、奴は手にしていたナイフを俺の身体に――






『ドクンッ! ドクンッ!』


心臓が激しく脈打つ。


「…………ゲッ! ゲホッ! ゲホッ!」


呼吸の仕方に戸惑い、地面に横たわったまま何度もむせ返った。


…………少しずつ呼吸が安定していく。


辺りを見渡す。


木々が広がる森の中。


俺は呼吸困難の危機からなんとか立ち直ることが出来た。


だが、すぐさま新たな問題が浮上した。


鋭い爪。


黒い毛で覆われた両手、両足。


そして、尖った両耳と長い尻尾。


…………こんなの、まるで犬や狼じゃないか。


しかも、一番の問題は顔がみっつあることだ。


と、目の前には水溜まり。


そこに映るのはみっつの顔がある狼。


つまりは化け物。


何度もそれぞれの顔を手で触った。


けれど、どの顔にも触られているという感触は確かにあって、だからこそ、いつの間にか俺は化け物になってしまったと現実が教えてくる。


「「いたぞー! ケルベロスだー!」」


「ッ!」


突然の叫び声に振り返ると――


『ダアンッッッ!』


『チュンッ!』


「ちっ、外した」


凄まじい銃声とともに、足元に火花が散る。


数秒ののち、自分が死にかけたことに気づいた。


遠くの方から、大勢の男たちがジリジリと距離を詰めてくる。


そして、奴らの先頭に銃を構えた男の姿。


「…………ヒッ!」


やばい。


殺される。怖い。死にたくない。そうだ、早くここから逃げないと。


…………なのに、クソッ、足が震えて動かない。


「次は外すものか」


その言葉とともに、銃を構える男の指が僅かに動いた――


「ダアアアンッッ!」


あまりの恐ろしさに目を閉じた。


"他人に殺意を向けられるという行為"


こればかりは、何度経験しても決して慣れたりはしない。


そして、最期に思ったのは、


"なんで俺ばっかり"


『ドサッ』


地面に尻もちをついて、身体を手で押さえる。


銃口は完全に俺を捉えていた。


今はまだ痛くない。


「…………」


だが、必ずあとでとんでもない痛みが俺を襲うはずだ。


「…………」


…………あれ? 長くない?


恐る恐る目を開ける。


…………すると目の前には、地面に横たわる赤髪の少女。


そして、少女から血がドクドクと溢れて、地面を黒く濡らしていく。


「リサリサッ!」


銃を構えていた男が、銃を放り捨て、慌てて赤髪の少女。リサリサのもとへ駆け寄った。


「リサリサしっかりしろ!」


男は少女の肩を掴み、激しく揺さぶった。


「よせ、ライドウ! 揺さぶったらいかん!」


リサリサを揺さぶる男、ライドウ。


他の男たちも駆け寄って、ライドウを押さえつける。すると、ライドウは男たちの袖を掴み、涙ながらに懇願した。


「ぐっ、…………だ、誰か! リサリサを、俺の娘を助けてくれ!」


「落ち着けライドウ!」


「誰か医者を! 医者を呼べ!」


男たちが大騒ぎで慌てふためく。


…………いつの間にか俺のことなんて蚊帳かやの外。


よしっ、逃げるなら今しかない。


「お前のせいだ! この化け物め!」


今まさに、逃げようとしたこのタイミングで、ライドウが腰に携えた短剣を抜き、鋭利な切っ先が俺を捉えていた。


「殺してやる!」


と、同時にライドウは俺に飛びかかる。


一瞬の出来事に逃げる暇などない。


低く構えた短剣が、勢いよく俺の心臓目掛けて襲い来る。


唯一俺に出来ることがあるとするなら、誰からも愛されない自分を呪うことだけ。


この世界に俺の味方はいない――


「やめてパパッ!」


甲高い叫び声に、ピタリと短剣が止まる。


「リサリサッ!」


ライドウが慌てて振り返る。


そこには男たちに支えられ、上半身だけ起こしたリサリサが、俺たちを睨んでいた。


「大丈夫かリサリサ!」


リサリサの元に駆け寄るライドウ。


「ダメだよ、パパッ。…………ワンちゃんいじめたら」


「…………リサリサッ! ちがう! あれは助けたらダメなんだ! 化け物なんだぞ!」


「…………なんで? …………ワンちゃんなにも、悪いことしてないよ」


「ッ!」


リサリサの姿に、リサリサの言葉に、思わず目頭が熱くなる。


「ガハッ!」


「リサリサッ! おい、しっかりしろっ!」


リサリサの口から血反吐が溢れる。


…………今だ。今なら逃げれる。


…………だが、生まれて初めてだった。


"自分以外の人間で、死んで欲しくないと思える人間"


そんな感情を抱いたことが。


抱けたことに、自然と涙が流れた。


…………俺はゆっくりと、ライドウとリサリサに近づいた。


「来るなッ!」


ライドウがリサリサに視線を向けたまま、俺に忠告する。


だが、それでも俺は歩みを止めない。


そして、リサリサの元まで駆け寄った俺は、ゆっくりとリサリサに右手を伸ばした。


『ザンッ!』


「グウウウウウウウッッッ!」


伸ばした右手に短剣が突き刺さる。


ライドウの渾身の一撃。


見上げるとライドウが鋭く俺を睨んでいた。


しかし、痛みに耐えようと奥歯を噛み締める。


絶対にこの場から逃げないと固く決意する。


だって、俺の抱いた感情に嘘はつきたくなかったから。


俺は、鮮血が滴る右手でリサリサの右手を握った。


「…………ありがとう」


俺がその言葉を口にした瞬間、リサリサは静かに微笑んだ。


「なっ」


ライドウが驚きの声を漏らす。


だが、すぐさまリサリサの右手は力なく離れた。


「「リサリサッ!」」


一斉にふたりして、静かに目を閉じたリサリサに声をかけた。


「医者が来たぞーッ!」


その言葉に顔を上げると、木々の向こうからこちらへ向かって来る白衣の老婆の姿が見えた。


「リサリサッ! 頼む! 死なないでくれ!」


俺はリサリサの右手を真っ赤に濡らしながら、涙とともに懇願した。



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転生したらケルベロス 尾上遊星 @sanjouposuka

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