エピローグ
鉄製の門が、きしみながら開いた。
門から外に出てきたのは、藤川亮である。久しぶりの外の風景だった。周りは自然に囲まれており、人工物は見当たらない。
しかし、振り返れば鉄製の門と、コンクリートの高い塀がある。さらに、門の隙間からは紺色の制服を着た男たちが立っているのが見えた。
塀は分厚く、その高さは確実に十メートルはあるだろう。手がかりになりそうなものはなく、よじ登るのはほぼ不可能である。上にはワイヤーが張られているが、これに触れれば中の監視塔に伝わる仕組みとなっている。この塀の役目は、外からの侵入者を防ぐというより、中からの脱走を防ぐためのものなのだ。
そう、ここは刑務所である。それも、刑期が八年を超える受刑者のみを収容する長期刑務所なのだ。当然、「普通の」刑務所より凶悪な罪を犯した者たちが収容されている。藤川は、ここに受刑者として十年以上入っていたのだ。
歩き出した藤川だったが、近づいて来る人の気配を感じ、ぱっと振り返る。見れば、軽薄そうな若者だ。年齢は二十代、整った顔立ちだが軽薄そうだ。どこかのタレント崩れか、売れないホストといった雰囲気である。緑に覆われた場所には似つかわしくないスーツ姿で、にこやかな表情を浮かべ頭を下げた。
「どうも。あなた、藤川亮さんですよね」
「はい、そうですが何でしょうか?」
一応は尋ねたが、目の前にいるのが何者であるかは察知していた。おそらくマスコミ関係だろう。
「私、フリーのルポライター
予想通りだった。刑務所の近くで、藤川が出てくるのを待ち構えていたらしい。まさか、今になってマスコミに追い回されるとは思わなかった。藤川は、首を横に振る。
「嫌ですね。お話することは、何もありません」
「まあまあ、そう言わずに。あなたが、最後まで無罪を主張していたのは知っています。最高裁まで争っていますよね。あなたの言いたいことを、思う存分語っていただきたいのですよ」
馴れ馴れしい態度だ。藤川は、さらに不快になった。どうせ、あの人は今……のような書き方をするつもりなのだろう。
「あなたには、何も言いたくありません。失礼します」
言い放ち、さっさと歩き出した。付いて来るかと思ったが、どうやら諦めてくれたらしい。
あの事件から、十五年という歳月が経っていた。
殺人罪と覚醒剤の使用と不法侵入により、一審では懲役十二年の実刑判決を受ける。藤川の主張は、聞き入れられなかった。
藤川はすぐさま控訴したが、高等裁判所でも判決が覆ることはなかった。一審の判決を指示し、懲役十二年の刑を言い渡される。
それでも、藤川は諦めなかった。判決が出た次の日に上告し、最高裁判所でも無罪を主張した。だが、判決は覆らなかった。
裁判の間は、幾度となく保釈の申請をした。しかし、認めてはもらえなかった。裁判には約三年かかり、最終的に言い渡された刑は懲役十二年のままである。しかも、刑が確定するまでの期間はほとんど刑期に加算されなかった。全く無駄な時間である。
しかも藤川は、十二年の刑をきっちり満期で務め上げたのだ。
藤川は初犯である。大抵の場合、よほどの大きな問題さえ起こさなければ、初犯の人間は仮釈放で出られるものだ。藤川のような長期刑の場合は、少なくとも一年は早く出られていたはずだった。
にもかかわらず、藤川に仮釈放は認められなかった。仮釈放の条件の中に「改俊の状が認められること」「十分に反省していること」というものがある。したがって、受刑者たちは形だけでも反省しているふりをするものだ。
ところが藤川は、最後の最後まで罪を否認し続けた。さらには、無罪を主張し最高裁まで争っている。その態度が「往生際が悪い」「反省の情が感じられない」と地方更生保護委員会より判断され、仮釈放の申請をことごとく却下されてしまったのである。かくして、藤川は刑を満期まで務めあげ出所となった。
実のところ、弁護士は一審の段階から言っていたのだ。罪を認めて反省の情をアピールすれば、確実に刑は軽くなる。また、仮釈放ももらえる。したがって、早く出られる……と。また、弁護士しか知らないような、刑を軽くするための裏技も教えてくれた。それら全てを駆使していれば、半分程度の年数で出られていたかもしれないのだ。
しかし、藤川は聞き入れなかった。被告となっていても、ワンマン社長の悪い癖が抜けなかったらしい。最後まで無罪を争い、そして敗北した。金と時間を費やしたにもかかわらず、最悪の結果である。
その上、裁判の間に藤川は何もかも失った。妻との離婚が成立し、子供の親権は妻に移った。さらに、財産のほとんどは妻の所有となる。当然ながら、社長の地位も失った。今の藤川には、もはや何もない。
藤川は、とぼとぼと歩いていく。この先に、バス停があるはずだ。二時間に一本というペースで運行しているらしい。そのバスに乗って駅に向かうことになる。三時間ほどかかる、と刑務官は言っていた。
最初の数年は、復讐の念に支配され日々を過ごしていた。秋山薫を必ず潰す。この手で、両腕と両足をぶった切ってやる……そんなことを、心の中で誓っていたのだ。
ところが、月日が経つにつれ、その気持ちは少しずつ薄れていく。刑務所での生活は、覚えなくてはならないことがたくさんある。しかも、周りは犯罪者ばかりだ。ちょっとしたことで、いきなり殴りかかってくるようなタイプの人間も少なくない。
そんな者たちとの十年を超える共同生活は、藤川にとって大変なストレスとなった。髪は薄くなり、体重は落ち、歯も悪くなる。若きイケメン社長として騒がれていた頃の面影は、もはやどこにも見当たらない。ただの痩せた中年男となっていた。
一方、秋山にも変化が訪れる。少年時代に殺人を犯していた事実が、マスコミに暴かれてしまったのだ。すると、世間は一瞬で手のひらを返す。朝倉風太郎こと秋山は、様々なメディアやネットの有象無象から叩かれ、表舞台から完全に姿を消した。当然、作品の映画化という話もなくなった。
さらに一年も経つと、世間からは朝倉風太郎という作家がいたことすら忘れられてしまう。同時に、藤川の復讐心も薄れていった。
もちろん、秋山への憎しみは消えたわけではない。だが、かつてほど強いものでないのも確かだ。ほとんどの人間にとって、十年以上の時間を恨み続けることに費やすことなど出来ない。たいていの場合、時間が心の傷を癒していく。心の傷が癒えれば、当然ながら復讐の思いは薄れていく。
そう、復讐を遂げるには……ある種の才能と、癒えることのない心の傷が必要なのだ。秋山には、それがあった。だが、藤川にはなかった。
やがて、バスは駅前の停留所に停まった。藤川はすぐさま降りると、駅までの道を歩いていく。もう、目と鼻の先である。
十五年ぶりのシャバは、彼にとって異様な世界だった。何せ、今までは歩く先に刑務官がいた。ひとりで出歩くことなど、ありえなかったのである。
しかし、今はどこまでも歩いて行ける。待ち望んでいたはずの自由が、例えようのない違和感として四十五歳の藤川に纏わり付いていた。
左右を見つつ、歩いていく藤川。だが、その足が止まる。
車道を挟んだ向かい側の通りに、大型スーパーがあった。駐車場付きの店舗だ。そのスーパーから、男と女が出てきたのだ。どちらもエコバッグをぶら下げ、にこやかな表情で語らいながら歩いている。
女は、地味な顔立ちだった。美人というわけではないが、不細工というわけでもない。どこにでもいる平凡な顔である。どこかで会ったような気がするが、誰なのかは思い出せない。
だが、女などどうでもよかった。その隣にいる小柄な男の顔には、はっきり見覚えがあった。
誰であるかもわかっている。自分を地獄の底に突き落とした男・秋山薫だ──
秋山は、少しふっくらした顔つきになっていた。髪にも白いものが混じっているが、四十五歳という実年齢よりは若く見える。服装は地味なものだ。隣を歩く女と何やら話しながら、駐車場に停めてある車に乗り込んだ。スーパーに買い物に来た夫婦、という印象である。
その時になって、ようやく藤川の頭は働き出す。秋山は、炎上が原因で都内にいられなくなり、この辺りに引越したのだろう。自分と同じく、何もかも失った……はずだった。
なのに、あいつは今の自分よりも遥かに幸せそうだ。
駅は、目と鼻の先である。にもかかわらず、そちらに行けなかった。様々な感情が、藤川の中を駆け巡る。あいつを、このままにしておけない。
千載一遇のチャンスだ。今こそ、復讐を果たす時ではないのか。
藤川は、憑かれたような表情で歩き出した。車道を渡ろうとした途端、誰かにぶつかる。
その時、道いっぱいに広がって歩いていた少年たちがいた。しかし、秋山を凝視していた藤川には、全く見えていなかった。また少年たちも、前を見もせずベラベラ話しながら歩いていた。結果、藤川とぶつかってしまったのである。
「おい、おっさん! ちゃんと前見ろよ!」
舌打ちと同時に怒鳴られた。藤川は反射的に、声の主を睨みつける。
まだ中学生だろうか、幼さの残る顔立ちだ。制服を着た男女が五人立っており、藤川に敵意ある視線を向けている。
「はあ!? おっさん、何なのその目! 俺らに喧嘩売ってんのかよ!」
言いながら、ひとりの少年が顔を近づけてくる。身長は自分より低い。痩せており、威圧感を与えるようなタイプではない。刑務所の中で本物の犯罪者を大勢見てきた藤川にしてみれば、ただの子供でしかない……はずだった。
しかし、少年の方はこちらに何も感じていないらしい。藤川の襟首を掴み、顔を近づけ凄む。
「おい、何とか言えやクソオヤジ」
「お、俺は刑務所を出てきたんだぞ」
気がつくと、口からそんな言葉が出ていた。藤川は、この状況に怯えていたのだ。怯えた心は、無意識のうちに相手より優位に立てる言葉を探す。今の彼にとって、不良中学生より優位に立てそうな言葉……それは、今まで刑務所にいたという事実しかない。それを持ち出せば、危険な男だと判断し引いてくれると思ったのだ。
しかし、少年は怯まなかった。それどころか、怒りの炎に油を注ぐ結果となった。
「はあ!? 刑務所!? じゃあ、お前犯罪者か! だったら、ぶっ飛ばしてもいいんだな!」
言われた直後、他の少年たちも寄ってきた。藤川を取り囲み、威嚇するような目を向けている。
藤川は、ようやく悟った。彼らにとって、自分は弱者なのだ。刑務所を出た、つまりは悪い人間である。かつての自分たちにとっての秋山のように、いじめても構わない相手として映っている。
そう、目の前にいるのは昔の藤川や村本たちなのだ。周りにいるのは、七尾や山口や木下。
そして自分は、あの時の秋山なのだ──
「オラ! 何とか言えや犯罪者!」
いきなり突き飛ばされ、藤川はよろめく。と、別の誰かに後ろから蹴られた。バランスを崩し、前のめりに倒れる。何とか両手を着き、顔を打つのを避けた。
その時、後頭部を踏み付けられる──
「おい犯罪者、土下座して謝れ。そしたら許してやる。ぶつかってしまいすみません、って言えや。でないと、マジ殺すよ」
少年の声だ。周りからは、クスクス笑う声も聞こえる。
ここで謝ってしまったら、自分は終わりだ……裡に潜む何かが、そう言っていた。だが、体の痛みと恐怖が、その声を無視させた。
「ぶつかって、すみませんでした……」
言った途端、踏み付けている足に力が入った。額を地面にこすりつけられる。だが、何も出来なかった。数人の人間がその場を通ったが、意図的にこちらから視線を外している。
「お前、何やって刑務所に入ったんだ? 言ってみろやコラ」
上から声が聞こえる。
言いたくなかった。だが、言わないと何をされるか……迷っていたら、不意に後頭部を押さえていたものが消えた。
直後、強烈な衝撃が顔面を襲う。少年に顔を蹴られたのだ。あまりの痛みに、両手で顔を覆ってうずくまる。
「聞いてのかオラ! お前は何をやったのかって聞いてんだよ!」
声とほぼ同時に、またしても蹴りが飛んでくる。今度は腹だ。思わず、うめき声が出る。
直後、今度は髪を掴まれた。力ずくで、無理やり顔を上げさせられる。
「何をやったんだ? 言ってみろよ。言わねえとぶっ殺すぞ」
その時、また別の声が聞こえてきた。
「もしかしてこいつ、パンツ盗んで捕まったんじゃないの?」
途端に、周囲から笑いが起こる。同時に、後ろから蹴りが飛んできた──
「何? じゃあ、こいつパンツ泥棒?」
「うわあ、いい歳してパン泥とか、恥ずかし過ぎるでしょ」
「いっそ死んじゃえば? 生きてても、パン泥くらいしかすることないでしょ」
好き勝手なことを言いながら、少年たちは藤川を蹴飛ばす。彼らにとって、弱者であり犯罪者である藤川には人権すらないのだ。強者である自分たちの、気晴らしの道具でしかない。
そして藤川は、ひたすら耐えることしか出来ない。かつての秋山と、全く同じであった。
「おいパン泥、こっちはな、お前と違って忙しいんだよ。真面目に働けバカ」
ひとしきり暴れて気が済んだのか、少年たちはそんなセリフを吐いて去っていった。
少年たちが立ち去った後も、藤川はそのまま地面に額を着けたままだった。通り過ぎていく人たちは、彼のことを見ないようにしている。暴行を受けていたというのに、誰も通報してくれなかったらしい。
いや、ひとりだけ藤川をじっと見ている者がいた。正確には、スマホ越しに藤川を見ているのだ。何をしているのか、考えるまでもなかった。少年たちが藤川を暴行している場面を、止めもせず通報もせず、ずっと撮っていたのだろう。
顔を上げ、周りを見る。秋山とおぼしき者の姿は既にない。藤川のことなど、気にも留めていなかったらしい。
秋山は自分と同じく、頂点から一気に引きずり下ろされた男なのだ。全てを失い、ネットで大炎上し都会にいられなくなり、こんな田舎に引っ越してきたのだろう。
にもかかわらず、幸福そうな顔をしていた──
俺は、何のためにこんな場所で立ち止まってしまったのだ?
そう思った瞬間、藤川の目から涙が溢れ出た。
秋山本人は、意識すらしていなかったのだろう。だが、これこそがもっとも残酷な復讐だったのだ──
過去からの鎮魂歌 板倉恭司 @bakabond
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