真相・廃墟の中で起きていたこと、そして告白

 東京拘置所には、数多くの独房が設置されている。各部屋の広さは、四畳半ほどだろうか。中には洗面所とトイレ、そして鉄格子の付いた窓がある。もっとも、トイレと他のスペースとの間に壁はない。一応、仕切りの板のような物があるだけだ。したがって、職員からは丸見えである。プライバシーも何もあったものではない。この段階から被告人のプライドを壊しにかかっているのだ。人質司法とは、よく言ったものである。

 そんな独房の一室で、藤川亮はノートを広げて何かを書き込んでいた。雑誌や本を読み、必要な部分を自分なりにまとめてノートに写す。こんなのは久しぶりだ。しかし、勉強のコツのようなものは未だに覚えていた。

 藤川は、特に学びたかったことがあるわけではない。純粋に、暇つぶしのため勉強をしていたのだ。拘置所の娯楽といえば、本を読むこと、室内に設置されたラジオ、運動の時間に外に出られること、それくらいしかない。ここでは、勉強すら暇つぶしの手段になるのだ。

 チャイムの音が鳴り響き、途中で手を止める。そろそろ点呼の時間だ。拘置所の職員が部屋の前で立ち止まり、窓から覗いていく。それに合わせ、被告人は職員に向かい称呼番号(拘置所に入ると同時に個人に与えられる番号)を言うのだ。ただ、それだけの儀式である。いったい何を確かめようと言うのか……時間の無駄としか思えないシステムだが、これも決まり事である以上は仕方ないだろう。




 藤川は現在、裁判を待つ身である。警察署での取り調べが終わり、拘置所に送られたのだ。

 裁判は、始まったばかりである。弁護士によると、無罪判決は厳しいだろう……とのことだ。もっとも、彼は有罪判決が下ったら控訴するつもりだった。

 無罪を主張せず、罪を認めて情状酌量のための材料を集めた方が確実だし、出所も格段に早くなる……と、弁護士には言われている。しかし、藤川は納得できなかった。自分は誰も殺していないし、覚醒剤もやっていない。にもかかわらず、このままだと人殺しとして刑務所に入らなくてはならないのだ。

 藤川は、今後も無罪を主張していくつもりだった。自分は、一切の犯罪行為に関与していない。何者かの陰謀によりハメられたのだ……と、主張し続けるつもりである。弁護士にも、その方針で動いてもらうつもりだ。

 そう、今の藤川は何もかも失ってしまった。妻と子供は去っていき、代表取締役の地位も解任された。彼はもはや、ただの容疑者でしかない。いや、ただの容疑者の方が彼よりマシかもしれない。

 かつては、大ヒットしたゲームアプリを制作した会社の若きイケメン社長だった男。タレント活動もしており、世間の注目を集めていた。

 それが、今や東京拘置所の独房にて生活しているのだ。

 しかも、拘置所では屈辱的な目に遭わされた。全裸での体のチェックをされ、さらには居丈高な態度の職員たちの命令に従い生活しなくてはならない。人権すら奪われてしまったのだ。

 今、この男を支えているのは意地だけだった。藤川は、必ず無罪を勝ち取るつもりでいた。


 ・・・


 全ては、藤川が廃墟の中に入る前から始まっていた。

 まず施設内のあちこちに、山田がカメラを仕掛ける。ついで、一階の入口付近にある応接室には、スピーカーをセットした。ここから、秋山が声を出して藤川らに指示していたのである。

 また応接室の空気には、気化した覚醒剤が混ざっていたのだ。山田は、事前に大量の覚醒剤を仕入れている。藤川が入ったと同時にそれらを少しずつ気化させ、室内に流し込んだのだ。覚醒剤は、飲んだり注射器で打ち込むだけでなく、気化した煙を吸うやり方もある。

 藤川は、その煙の混じった空気をずっと吸い込んでいたのだ。また、他の者たちも煙を吸い込んでいた。もちろん、その成分は微量である。吸い込んだだけで、倒れたり前後不覚になるような可能性は低い。ただし、尿検査など行えば反応は出るだろう。

 秋山は、彼ら四人を集め気化した覚醒剤を含んだ空気の漂う部屋に入れた。彼らにそれを吸わせた後、廃墟の探索をするよう指示する。彼自身は、都内のホテルにて映像を見ていたのだ

 さらに秋山は、お膳立てさえすれば、彼らが勝手に疑心暗鬼に陥り争い合い、挙げ句に自滅するという展開になる……そう読んでいた。彼ら五人は、もともと固い絆で結ばれた親友というわけではない。いざとなれば、その関係は簡単に壊れる。

 結果は、その予想通りになった。

 



 まず、行動を起こしたのが美奈代だ。もともと彼女は、七尾に強い憎しみを抱いていた。その上、夫である達俊を自らの手で殺してしまったのだ。もちろん、最初から殺意を抱いて夫と会話をしたわけではない。殴ったのも、殺意によるものではない。

 また、夫の直接の死因は、後頭部を壁に打ちつけたことによる脳挫傷である。事故に近いものだが、達俊が死んだ事実に変わりはない。

 しかも、藤川らは誰も彼女を覚えていなかった。美奈代はあらかじめ三階に潜んでおり、外に出た山田が藤川たちと会う。何食わぬ顔で入っていった山田を、全員が美奈代だと思い込んだ。顔形がまるで違うはずの山田を、疑うことすらしなかったのだ。

 自分のことを、誰も覚えていなかった……その事実が、美奈代をさらなる絶望へと追い込む。

 何もかも失ってしまった美奈代は、七尾を滅多刺しにして殺す。ここまでは、秋山の計算通りである。

 ところが、ここから村本の暴走が始まった。自身がゲイであることをバラされ逆上し、美奈代と山口のふたりを素手で殺してしまったのだ。この村本の凶暴さは、完全に秋山の予想を超えていた。あるいは、微量とはいえ気化した覚醒剤を吸ったことにより、村本の精神に何らかの影響を与えたのかもしれない。

 やがて村本は、藤川をも殺そうとした。もともと、藤川の活躍を日頃より苦々しい目で見ていた男である。しかも、異様な環境に加え覚醒剤を含む空気を吸い続けた挙げ句、激発的な怒りに駆られ美奈代を殺してしまった……それら諸々の要素が、彼をさらなる凶行へと駆り立てたのかもしれない。

 しかし、村本をそのままにしてはおけなかった。彼のような感情で動く男は、何をしでかすか予想がつかない。全てが終わった後……つまりは、全員を皆殺しにした後、いきなり我に返ることがある。そこで、ようやく己のしたことの重さに打ちのめされ、自殺してしまうこともあるのだ。殺人事件では決して珍しくない展開であるが……そんな結末は、秋山の望むところではなかった。

 ただ死なせるのでは、本当の復讐ではない。自分の人生は、彼らによって大きく狂わされたのだ。ならば、彼らの人生も狂わせる。その狂った人生を、きっちり全うしてもらう……それこそが、秋山の目的である。

 そのため、山田が動く。藤川を殺そうとしていた村本に背後から近寄り、喉を切り裂いた。プロの格闘家といえど、暗殺者の一面も持つ山田の不意討ちを受けてはひとたまりもなかった。村本は、その場で命を落とした。

 あとは、逃げる藤川を山田が絞め落とす。さらに、村本の遺体を滅多刺しにした後、凶器を藤川に握らせておく。帰り際には、カメラやスピーカーなどは全て回収しておくのも忘れない。

 これで、全てが終わった。あの場にいた五人全員は、廃墟に侵入しドラッグパーティーをした挙げ句に幻覚と幻聴を見て殺し合ったクズ人間たちとされてしまったのだ。

 被害者であるはずの七尾は、人の道を外れた極悪非道な人間として、ネットで未だに叩かれている。村本もまた同様だ。ネット界隈では、シャブ中ファイターなどと呼ばれている。さらに、山口は薬物による逮捕歴がクローズアップされ「一千万円分の覚醒剤を用意していた」などというデマを書き立てられる始末だ。美奈代も、平凡な主婦でありながら覚醒剤の常用者であるかのように報道されている。

 たたひとり生き延びた藤川は、今や世間の目のかたきにされている状態だ。何もかも失い、未だに炎上中の身である。裁判では無実を主張しているが、望みは薄い。とある識者は、藤川に無罪判決が出る可能性は、世界から核兵器がなくなる可能性より低いだろう……と、ワイドショーにてコメントしていた。




 廃墟内での一部始終を映像で見終わった秋山に、山田が口を開く。


「ねえ、あいつ殺しちゃって良かったの?」


 あいつ、とは村本のことだろう。秋山は頷いた。


「うん」


「何なら、藤川みたいに首絞めて落とすことも出来たんだよ。生かしておいて苦しめる方が、あなたの好みなんでしょ?」


 ニヤリと笑う山田の顔からは、己に対する絶対の自信が感じられた。しかし、秋山は首を横に振る。


「いや、ダメだよ。君に万が一のことがあったら、僕は一生後悔する」


「あのさあ、あたしはプロだよ。あたし、失敗しませんので。まあ、あんたがいいと言うならいいけどさ」


 山田は、自信たっぷりの表情で言い放つ。その顔を見た秋山は、思わず苦笑した。確かに、彼女なら失敗する可能性は低い。これまでの仕事ぶりを見る限り、全幅の信頼を置ける。

 だが秋山は、あの男を生かす道を選ばなかった。あの時の村本は尋常ではない。しかも、曲がりなりにもプロの格闘家である。いくら不意打ちとはいえ、素手での闘いともなれば、村本の方が有利だ。それに、万が一のアクシデントが起きる可能性もある。

 秋山にとって、復讐より山田が無事でいる方が大切だった。それに、絞め落として生かしておいたら、息を吹き返した後に何をしでかすかわからない。


「で、そのプロは、この後どうするんだい?」


 秋山が尋ねる。


「どうするって……あんたから成功報酬をもらって、いつもの生活に戻るだけだよ。作家先生のそばに、あたしみたいなのがウロウロしてたらマズいでしょ。でもさ、あんたとの生活は面白かったよ。華やかな世界の舞台裏を見ることが出来たしね」


 明るい口調で言ってのけた山田を、秋山は真剣な表情で見つめる。

 その口から出たのは、山田の想定していなかった言葉だった。


「もしよければ、もう少し僕のサブマネージャーを続けて欲しいんだけど……いや、本音を言うなら、僕の人生のパートナーになってもらいたい」


 途端に、山田の表情が強張った。無言のまま。じっと秋山を見つめる。

 少しの間を置き、彼女は尋ねた。


「あんた、正気なの?」


 その問いに、秋山はくすりと笑う。


「たぶん、正気じゃないだろうね。あの日、僕の正気は破壊されてしまったと思う。ただ、ひとつ言っておく。正気ではないかもしれないけど、本気なのは間違いないよ」


 答える秋山の瞳には、一点の曇りもない。その眼差しは、山田に向けられたままだ。くだらない冗談を言っているわけでないことは、すぐにわかった。だからと言って、はいそうですかとも言えない。

 山田の口から、ふうという音が漏れる。溜息だ。


「あのさ、あたし人殺しなんだよ。わかってんの?」


 面倒くさそうに言いながら、彼女は目を逸らす。だが秋山は、表情ひとつ変えずに口を開く。


「僕も人殺しだよ。今はまだ、少年時代の罪だから公にはなってない。でも、いずれはどっかのマスコミにすっぱ抜かれるだろう。そしたら、僕は全てを失う」


 それは、大袈裟でも何でもない。この先、己の身に振りかかるであろうことを冷静に述べているだけだ。

 山田は、ちらりと秋山を見る。すると、彼はニッコリ微笑んだ。

 だが、それは自嘲の笑みだった。


「今の世の中、人殺しが書いた小説を映画化するほど優しくないからね。昔の罪がバレれば、確実に大炎上さ。僕は、あちこちから叩かれる。その結果、作家人生は終わるのさ。はっきり言えば、日本の社会では前科の付いた人生は、やり直しが利かないんだよ。殺人ともなれば、特にね。どんな事情があろうと、この国では殺人犯のやり直しを許してくれない」


「そんなこと──」


 ない、と言おうとした山田だったが、言葉が出てこなかった。秋山が真実を語っていることを、山田自身もよく知っていたからだ。


「君だってわかるだろう。いや、むしろ君の方が詳しいんじゃないかな。この世の中は、罪を犯した者を認めない。殺人なら、なおさらさ。僕は確実に、今の地位を失うことになるよ。なまじ小説がヒットしてしまったばかりに、過去の罪を暴こうとする奴らが必ず出てくる。後は、言わなくてもわかるだろう」


 静かな口調で、秋山は語り続けた。

 どんな善人の中にも、偏見と差別は存在する。それらを、完全に拭いさることは不可能だ。秋山が過去に犯した罪を知った人間は、心の中では確実に秋山を殺人犯として忌み嫌う。これは理屈ではない。恐らく、生き物としての本能なのだろう。

 ましてや、ネットの世界では……正義という大義名分を掲げて誰かを攻撃したい者が大量に潜んでいる。秋山には、少年時代に犯した罪をマスコミに暴かれ、藤川のように大炎上し、今いる地位から引きずり下ろされる未来が待っているのだ。本人もまた、それを理解していた。

 一般大衆は、犯罪者を自分たちの一員とは認めない。ましてや殺人犯ともなると、同じ空間にいることすら拒絶する者がほとんどだ。自分たちとは違う種類の怪物……そう判断し、疎外する。その方が簡単だからだ。それどころか、社会の敵として攻撃しようとする者も少なくない。

 更生のため、どんなに努力したとしても……殺人犯という過去が、その努力を全て無に帰す。


「僕は、いじめを受け人生を狂わされ、挙げ句に人を殺した。今でこそ小説家の先生なんて呼ばれてるけど、今後は藤川と同じ運命を辿ることになるよ。そんなクソみたいな人生だけど、君と出会えたことで全てが報われる気がする。こんな風に思ったのは、人生で初めてなんだ」


 語る秋山の表情は、妙に清々しいものだった。その澄んだ瞳は、山田だけを見つめている。

 そのまま、秋山は語り続けた。


「それ以前に……僕の人生は、あの勝谷に捕まった時に終わっていたはずなんだよ。それからは、復讐のためだけに生きてきた。復讐を遂げた今となっては、残りの時間はおまけみたいなものさ。だったら、その時間を全て君に捧げたい。僕の人生において、初めて愛した女性である君のためにね」


 その時、山田が真剣な顔で口を開いた。


「前にも言ったよね。あたしと付き合った男は、みんな死んでる。全員、あたしが殺した。あんたもいつか、あたしに殺されることになるかもしれないんだよ」


 その話は聞いていた。

 山田花子は、ずっと裏の世界で生きてきた女なのだ。母親はモグリの売春婦であり、届け出もされず産み落とされた。教育も受けぬまま、戸籍のない人間として成長した……と、本人は言っている。彼女は、平気で嘘をつくタイプの人間であることは間違いない。だが、己の壮絶な生い立ちを語る山田の表情や仕種から、嘘は感じられなかった。

 もっとも、彼女の言葉に嘘があろうがなかろうが、それすらどうでもいい。たとえ山田が、違う星から来たエイリアンだと聞かされても、気持ちが変わることはないだろう。

 秋山は、表情ひとつ変えず答える。


「構わないよ。僕は、君のおかげで復讐計画を完了できた。もう、長生きなんかに未練はない。それに……さっきも言った通り、君は僕が生まれて初めて、本気で愛した女だ。君のおかげで、僕は自分が女性を愛せることを知ったんだ。君になら、殺されてもいい。人間、いつかはみんな死ぬんだしね。正直いうと、僕は復讐が終わったら死ぬつもりだったんだ」


 そう言って、秋山は笑った。彼の顔には、不思議な雰囲気がある。まるで、厳しい修行の末に何かを悟った聖者のようだった。彼女に向けられた瞳は、澄みきっている。

 そんな秋山を、山田はじっと見つめた。

 少しの間を置き、口を開いた。


「……ちょっと考えさせて」






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