珈琲
ハヤシダノリカズ
コーヒー
カタカタと小刻みに陶器が震えて擦れ合う音がキッチンから近づいてくる。開いているリビングの出入口の方から、まだ香ってきてはいないが、智子がいつものようにコーヒーを持ってきてくれている気配を私は感じている。
休日の昼下がり、私はソファチェアに身体を預け、両足をオットマンに放り投げて、小説を読みながら、智子のコーヒーをリビングで待っている。
「コーヒーを淹れてきましたよ」おっとりとしたいつもの口調の智子の声が聞こえる。「あぁ。ありがとう」私は小説に目を向けたまま礼を言う。智子は屈んで、盆をテーブルの端に置き、ソーサーに載ったカップ一杯のコーヒーをテーブルに運ぼうとしているようだが、陶器が出すカタカタという音が妙に大きい。私は小説から目を離し、老眼鏡を外しながらすぐ隣に屈む智子の手元を見る。すると、智子の右手はブルブルと震えている。その親指と人差し指で挟んでいるソーサーの上のカップの黒い水面は大きく揺らいでいる。先ほどのおっとりとした口調とは裏腹に、智子の横顔は真剣そのものだ。私はそれにギョッとしつつも、智子が左手で軽く押さえている盆の方に目をやった。すると、運んでくる道中でこぼしたであろうコーヒーがそこここを茶色く濡らしている。
「どうしたんだ。具合でも悪いのか。すまない、そんな時にコーヒーを淹れてもらったりして」
「いいえ。元気ですよ、敏夫さん。ただ、手が震えるだけで……」智子は私の方を向いて、困った様な弱々しい笑顔を見せた。
「ふむ。ちょっといいか?」そう言って私は智子の右手を両手で包み込む。「あっ」智子は驚いたように小さく声を上げたが、それに構わず私は智子の手から何かを感じられないだろうかと目を閉じて集中する。智子の手は私の手の中で震えている様には思えない。汗ばみも無く熱くも冷たくもない。分かったのは『私にはこの症状がなんなのか分からない』という事実だけだった。私は医者でもなんでもない。仕方のない事だ。
「明日は会社を休むよ。一緒に病院へ行こう」
「そんな大げさな。お仕事を休んでもらう程の事ではないですよ」
「ま、そう言うな。この歳まで真面目に勤めてきた会社だからな。こういう時にスッと休めるくらいの立場にはいるんだよ」そう言って、私は智子に笑顔を向けて片目を一瞬閉じた。
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「
診察室から出て来た智子は私にそう告げた。聞けば命の危険に直結するような病気ではないらしいが、クスリの効きが悪い人は悪いらしく、生活に支障をきたす程に悪化したなら手術という選択肢もあるのだという。ホッとすればいいのか、それとも、今後になんらかの覚悟がいるのかよく分からない。
「お薬を飲みながら経過を見て、手が震える事による危険な行為は避けてください、ですって」智子は困った様な笑顔を見せながらそう言う。
「手が震える事による危険な行為って……、あぁ、包丁を使うとか、熱湯の入ったカップを持つとか、か」
「あとは、ミサイル発射ボタンの近くでのオペレーション作業とか、ね」それほど私は心配そうな顔をしていたのだろうか。智子は無理やりにでも私を笑わせようとしてくる。
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「智子、今までありがとう。これからはコーヒーは私が淹れるよ。料理も私が作ろう。あまり上手にはできないけどね」病院からの帰り道、車を運転しながら、私は助手席の智子に語りかける。
お昼前の地方都市の幹線道路は空いていて、私たちを乗せた車は退屈な道をスイスイと走っていく。色んなチェーン店の巨大な看板が立ち並ぶ中を走りながら、『今日の昼はどこかで食べて帰ろうか』なんて考える。あれ?おかしい。私の問いかけに智子は何も答えてくれてないままだ。私は信号で停まったタイミングで智子の方に顔を向ける。すると、智子の頬に涙の筋が見えた。黙ってじっと前を見ながら、智子は音も立てずに泣いていた。
「え、わ。うん。なにか酷い事を言ってしまった?ゴメン。どうしたんだ、智子」
「酷い……」
「え?」
「大好きな敏夫さんに、コーヒーを淹れるという私の生きがいを奪わないで。『コーヒーは手回しのミルでゆっくり挽いたものが最高だけど、自分で挽いてしまったら、その時こそがコーヒーの香りに包まれる幸せ時間のピークになっちゃって、いざ飲む時に、コーヒーの香りに感動できなくなるから、コーヒーは誰かに淹れてもらうに限る』って敏夫さん言ってたでしょ?コーヒーを敏夫さんの為に淹れている時間は私の幸せそのものなの」智子はそう言ってさめざめと泣いた。
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「コーヒーが入りましたよー!」キッチンから大きな声で智子が叫んでいる。「ハイハイハイハイ」私はウキウキしながらキッチンへ向かう。
コーヒーを淹れる係は智子。コーヒーを運ぶ係は私。
飲む直前に入ってくる香りという感動は少し薄まったけど、リビングで智子と一緒に飲むコーヒーは悪くない。
珈琲 ハヤシダノリカズ @norikyo
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