残雪積もる湖畔にて、山嶺を望む
霧縛りの職工
「汀・渚・畔」「話す」「財布」
――1/6――
12月。肌がひりつく様に冷えた空気を貫き、朝日が照り始めている。
久しぶりの晴天で道には僅かに氷結が残るだけだが、脇道には掻き出された雪が積っている。豪雪地帯とは言えないまでも、すっかり葉の散った木々に雪化粧が施されているのがこの季節だ。
――2/6――
まだ車の往来が少ない峠道をリムの広いファットバイクに跨って僕は登る。
呼吸を規則的保ったままペダルを踏み込んで一回し二回し、愛車が路面に残る雪をしっかりと踏みしめる。ここを越えれば湖まではあと一息、なだらかな道筋を進めばいいだけだ。ペースを一定にぐいぐいと車体を押し上げ勾配を抜ける。
負担をかけていた肺を労わるように大きく空気を取り込み、ゆっくりと吐いた。呼気で顔の前が白くなる。強く打つ鼓動を感じながらホルダーに差したドリンクのボトルを取ってあおった。
目的地に向かって道路沿いに土産屋が並ぶ。店の前には顔なじみの大人たちがどてらやダウンジャケットなどを纏いつつ掃除をしている。
「おはようございます」
僕が声をかけると、笑顔を浮かべて声を返してくれたり無愛想ながらにも頭を軽く下げたり、それぞれ反応を返してくれる。こうして来るのは随分と間が空いたものだけれど同じようないつものやり取りだ。
路面を行くのは僕だけじゃない。行き違いにも自転車乗りがやって来る。山の冬景色を楽しみに来た観光客達だ。すれ違いざまにハンドサインを交換した。
土産屋の集まる辺りを抜け湖が近づくとレストランや旅館が増えてくるけど、目的地は湖面を回り込むように沿道を抜けた先だ。建造物が減った辺りには、夏場ならキャンプ場としても使われる湖畔が広がっている。
舗道を外れて積雪へ突っ込み木々の間を抜けて湖面に近づく。視界が開けると、朝の日差しが映る広い水面の向こうに通り抜けてきた町並が見渡せた。繁忙期には売店として機能しているコテージに寄せてバイクを停める。チェーンとアースロックでしっかりと固定すると、1本目のボトルの残りを飲み干した。
――3/6――
このファットバイクは父の誕生日プレゼントだ。僕は幼少から自転車に乗るのが好きで、家の周りを乗り回していた。
両親の心配をよそに少しずつ家から遠くまで行くようになり、暇があれば坂道だらけの近隣で四季折々の景色を見て回った。けれど冬場には雪が長く降るとせっかくの晴れ間にさえ自転車を乗り回すのは難しい。不満を漏らしていた僕に、中学に上がる頃このファットバイクは贈られた。言葉数の少ない不器用な父なりの親心だった。
水際へと歩みを進めながら改めて周りを見てみれば、少し離れた所に顔なじみの釣り人が居た。向こうはこちらに気付いていた様子で、釣り竿から片手を離して親指を高く突き上げてきた。同じポーズを返すと、満足したのか釣りに戻る。これも馴染んだやり取りだ。
顔なじみと言っても近くで顔を見合わせた事なんてないから、釣り姿でない普段着で会っても分からないだろう。ぼんやりと伺えるウェアや道具の好みでなんとなく"よくいる人"というイメージがあったのだけれど、きっと向こうも同じ様にこちらを見ていたのだろう。ある時ふとお互いの目があったのだ。これも正しく言えばなんとなく顔を向き合わせたような気がした程度だったのだけれど、釣り人が親指を突き立てて僕が答えた。それ以来、お互いが気付いて顔を合わせたらどちらからともなくこの挨拶をしている。
こうしてお決まりを重ねた僕は、コテージ傍の自動販売機で買ったコーヒー缶を手にこれまたお決まりの席に雪を払って着く。風に揺らぐ渚を眺められるよう備え付けられた木製のベンチだ。
山を登ってここに座る。これが受験で忙しくなる前、僕が休みの度に繰り返していた朝の習慣だ。ここからまた山奥を目指すのか、湖をもう半回りして山を下るのかその日のプランを決めていた。
でも、僕がこれをまた習慣にするのは難しいだろう。
冬が深まる前に無事に大学の指定校推薦で合格を得られた。慣れ親しんだ山中を離れ、雪の積もらない都会へ行かなくてはならない。
僕は手にした缶のプルを引き、熱いコーヒーを一口啜った。曇ったままの気分を変えてはくれないけれど、寒気を抜けて波を照らす陽の光の様にじわりと喉から腹に暖かさが残る。
背に回したショルダーバッグから補給食を取り出してこれも一口頬張る。ざらりとした舌触りを味わいながらもう一口咥えて、財布をバッグから取り出した。普段使いではないお守り代わりにしている小ぶりのがま口財布だ。
――4/6――
太い口金がカパカパと開閉する。
「なんだか煮え切らないやつだなぁ。」
声がこぼれた。この財布を手にして考えに耽るのも、僕が悩んだ時の常だった。
「せっかく志望通りの進路に行けるってのに、浮かない顔だ。もう一度洗い直ってみたらどうだ。」
「ほら、そこにちょうどよく冷えた水がたっぷりあるじゃないか。」
少し暖かいにしたって所々には氷が張っている湖水だ。手で水を掬ってみるだけでも目は覚めるんじゃないだろうか。
「不用意に湖には近づくなって、常識じゃないか。」
「そうやってまじめにやってきたんだろう。その甲斐あって春にはいいところで学べるんだ。もっと喜んだらいいじゃないか。」
「まじめかはともかく、嬉しくない訳じゃないさ。」
「勉強はずっと人並み以上だったから推薦をもらえた。苦手だった面接も本番にはきちんとこなせるようになったんだ。」
「上々だよ。嬉しくて当然じゃないか。」
「じゃぁどうしたっていうんだ。まだまだ先は長いんだぞ。」
人間40年なら半分弱、70年そこそことみるなら四半と少し、捉え方は人それぞれだろうけど長いと言えば長いのだろう。地元で過ごした時間なんて気付けば一瞬に思える時が来るのかもしれない。
「それでも今は、そう言える気分じゃないんだよ。」
第一志望に合格できた悦びはもちろんあるのだけれど、余裕が出てきてこうしていつもの山の景色を前にすると、当たり前のようにそこにあった四季を見られない事への寂しさが湧いてきてしまった。その寂しさが合格通知を受け取ってから徐々に増してきた、過ごした事のない環境に移る事への不安と入り混じる。
気晴らしのつもりで出てきたサイクリングだったけれど、そう簡単に切り替えられるものでもなさそうだ。
僕はもう一度コーヒー缶を口にして、またがま口に視線を落とした。
「環境が変わる時に不安のない奴ばかりじゃないよ。むしろきちんとやれるかどうか、馴染めるかどうか、心のどこかで考えている方が多いだろうさ。」
財布は幼い頃に祖母から譲り受けたもので、自転車を乗り回す頃にはお守りとして身に着けていた。これを手にしていると両親が働きに出ている間に良くしてくれた祖父母の事を思い出す。父によく似て口数の少なかった祖父と基本的には優しいけれど不作法には厳しかった祖母の関係は、両親によく似ていたかもしれない。
祖母はがま口を人の口に見立ててパクパクと動かし、人形代わりに物心がつく前の僕をあやしてくれていたそうだ。少し大きくなって祖父母の家を訪れた僕は、財布を見かけて捨てる前に譲って欲しいとねだったらしい。その時の記憶は朧気だけれど、こうしてがま口と顔を見合わせていると祖母の嬉し気な顔は浮かんでくる。
「そうかもしれないね。」
「そうだろう。君の近くにだって、もう少ししたら次が決まって同じ心地の仲間が増えるよ。」
「もちろん、この山でまだまだ過ごす奴らも居るだろうけどね。」
その通りだ。一般入試はまだまだこれからだし、近場の専門学校に行くことを決めている学友だってもちろんいる。
地元に残る友人の中には僕と同じように都会に出て、僕よりもっといい大学に行くんだろうと決めつけていた奴もいた。そいつは故郷の伝統工芸を継ぐと決めていて、弟子入りしながら近くの大学に通うんだそうだ。
僕はと言えば、なんとなく成績に見合った大学の中からなんとなく興味を持てるといいなと思った学部を選んで、それらしく志望動機を飾ってそのまま受かってしまった。
「それだって君が築いてきた1つの成果なんだよ。」
「問題は行った先で何をするのかさ。大学だけじゃないその先でも、いつだってね。」
ふと、僕の中でがま口と祖母の顔が重なった。祖母は遊びに行くとよく、昨日や先週、今月に何があったのかと近況を聞きたがった。楽しかった事を話せば一緒に喜び、悩んでいる事があればこれも一緒に考えてくれた。そして見送るときには決まってこう言ってくれたのだ。
「まずは今を大事にすることだね。しっかりやったなら、きっとその次に活きてくるさ。」
カチンカチンと金口を鳴らして、手元の財布がかつての祖母の言葉をなぞった。僕の口は閉じたままだ。
――5/6――
僕が目線を上げると、釣り人の姿はもうなかった。波紋が照り返す陽光は気持ち強くなっただろうか。打ち寄せる波音は遠くからもよく聞こえている。立ち上がって缶に残った最後の一口を喉に通すと、コーヒーは少し温くなっていた。
「さて、今日はもういいのかい。」
がま口がこんな風に僕と話すようになったのはいつ頃だろうか。最初はそれこそ記憶の中の人形遊びを真似ていただけだったはずだ。こうしてこの湖畔を訪れるようになってしばらくして、口を打ち合わせながら"声"を発したのだ。
「まぁね、もう少し先まで登ってみようと思ってさ。」
「今を大事にするんだろう? 悩むのはまた明日もできるけれど、明日も晴れるとは限らないからさ。」
「そうかい。」
最後に一言発すると、がま口は動くのを止めた。
補給食の残りを口に放り込むと、僕は包装と一緒に財布をバッグに入れる。ファットバイクを取りに戻りながら、すっかり冷めた缶をゴミ箱に捨てた。
「今日のところは、ありがとう。」
がま口が動いていない時にこちらの言葉が伝わっているのか、僕は知らない。
停めていたファットバイクのロックを外して跨り、行きがけにかき分けた残雪の上をもう一度通り抜けて路上に出る。
それからもう一段山を登って一回り小さな湖に辿り着く頃には日も随分と高くなった。シャッターを閉じっぱなしにしている店はすっかり無くなって、町にはまばらにお客が歩いている。外から来た人はマフラーやコートを身に着けていて少し洒落た雰囲気だ。足湯に浸かる人の姿もある。
さらに人里を離れた山道に回って緑の針葉樹を横目に通り過ぎる。こんなにもゆっくりと山を巡ったのはそれこそ1年以上前の事だっただろうか。最後に長い長い下り坂を重力に任せて降り切る頃には、2本目のボトルが空になった。
――6/6――
家に帰り着くと、朝食を済ませた父が新聞を読んでいた。両親が起きる前に出かけた僕は、おはようと挨拶をした。
「山はどんな様子だった。」
父が訊いてきたけれど、広げた誌面で隠れていて表情は僕からは伺えない。うちは今時紙の新聞を取り続けているのだ。
「よく晴れてたよ。乗り回すのにはちょうど良かったかな。」
しばらく見ていなかった山の様子をあれはこれはと僕が伝えると、そうかい、とだけ父は言った。祖母と僕の話を傍で聞いていた祖父にそっくりの口調だった。僕はあまり表情を動かさない祖父が僅かに口角を上げていたのを思い出した。
「きっと来年もいい年になるよ。」
僕の言葉に父はまた、そうかい、と呟いた。
終
残雪積もる湖畔にて、山嶺を望む 霧縛りの職工 @mistbind_artisan
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