蓮の花

花菱林太朗

蓮の花

 ある朝、僕の家に一通の手紙が届いた。

 「暖かな風が満開の桜を散らす季節となりました。蓮田君、いかがお過ごしでしょうか。私は日々加速していく時の中で、新しい何かを産み出そうと必死に格闘しております。

 さて、私事ですが、先日でた『藪の中』が思わぬほど人気を博するに至りました。それに際して出版社の主筆が、記念の宴会を開いても良いのではないかと助言をしてくれました。だから私も欧米人のようにパーティーを開かせてもらおうかと思います。息子が生まれてから客人を我が家に招いたことはなく、いつか息子を私の友人たちに会わせてやりたいと思っていました。ですから会場は私の家にしようと思います。そこで、ぜひ君にも来てもらいたいのです。こうして手紙のやり取りはするものの、先生の葬式以来君とはしばらく顔を合わせていないような気がします。お互いあの日は涙顔で別れましたね。ですからもう一度晴れやかな顔で会いましょう。ぜひ私の家にいらしてください。」

差出人は芥川龍之介だった。

 芥川君とは、夏目漱石先生の下で門下生として作品の趣向は違えど互いに刺激を与えあった仲だ。僕たちは新進気鋭の小説家として肩を並べた。夏目先生からも一目置かれる存在だったのだ。そして芥川君は、大学在学中に発表した作品が夏目先生に絶賛されてからその才を自覚し、活動に拍車をかけていった。今では新鮮な発想と見事な構成を武器に読者の心を揺らし続けている。今では時代を象徴する文豪の一人に成ったのだ。かくいう僕は、大学には行かず夏目先生の下で思想と表現力を養ってきた。一時は芥川君と並んで、名だたる先輩作家達の目を引くような作品を発表する時期もあったが、僕はすぐに己の才能の限界が目睫に迫っていることを自覚した。僕は彼のような天才ではなかった。彼がますます名を広め、文豪としての道を走る傍ら、僕は小説家としての自信を失い文化人としての気概を無くしていた。この時代の先頭を走っている芥川君のような傑出した天才とは渡り合えないと気付いたのだ。今は夏目先生の下で学んだ英語を活かして、一介の通訳家として妻と暮らしている。それでも日本では欧米の風が吹き荒れ、欧米人と会談するような富裕層達は今更通訳など雇わず自ら英語を話すようになっている。だから最近では仕事がめっきり減ってしまった。それでも僕は芥川君の才能に嫉妬することはなく、彼を尊敬している。彼のような天才がこんな古い凡人のことを忘れずに手紙をよこしてくれたのだ。だから、僕は今度芥川君の家にお邪魔することに決めた。きっと門下生時代の昔馴染みも招かれていることだろう。

 記載されていた住所と日時を確認しながら僕は汽車に揺られた。「彼と会うのは久しぶりだ。旧友達にかつての面影は残っているのだろうか」そんなことを思いながら歩いていたらすぐに彼の家に着いた。芥川邸は二階建ての木造建築だった。大きな庭を拵えており、塀の内側からは松の木がその大きな巨体を覗かせている。当たり前だが芥川邸は僕の家のようにちっぽけで不恰好な姿ではなく、厳かで、それでいて美しかった。門をくぐり家の扉まで歩く途中楽しそうな笑い声が聞こえてきた。もうみんな集まっているようだ。そして家の扉を叩くと奥で女性の声がした。きっと奥様だろう。奥様は足音を立てながら扉の後ろに近づきすぐに開けてくれた。中に入ると庭に面した部屋に通され、かつての戦友達と顔を合わせた。もちろんその中で芥川君も楽しそうに過ごしていた。そして芥川君はすぐに僕に気づき声をかけてくれた。

「おおー。蓮田君来てくれたんだね。久々に会えて嬉しいよ。元気にしていたかい」

「ああ、僕は元気だよ。最近は仕事が減ってしまって苦しいがね。芥川君こそ最近はますます忙しいんじゃないのかい」

「僕は大丈夫さ。子供も産まれて気を揉むこともあるがね」

彼はささやかな余裕を混じらせた言葉を僕にかけてくれた。どこにでもあるような会話が済んだら、僕は芥川君の隣に用意されていた座布団に座った。卓に並べられたご馳走に目が走る。しばらく食べていないものばかりだ。僕は涙が溢れそうなのを抑えて卓の先に目をやった。すると、今では各界の第一線で活躍している賢人達が酒を片手に会話に花を咲かせている。荘厳な髭を顎に生やしているもの。威厳の象徴のような着物を来て座っている者。僅かな霜を頭に降ろしている者もいる。近況について語り合っているようだが、僕にとってはまるで別世界の話だ。かつての青臭い面影は彼らからはすっかり取り除かれている。

「蓮田君。しばらくぶりだね。君は最近何をしているんだい」

ある男が話しかけてきた。みんなの視線が僕に集まっている。

「そうだね。最近は翻訳の仕事をしているよ」

僅かな沈黙が訪れたあと僕に話しかけてきた男が口を開いた。

「そうか執筆はまだ続けているということだね」

 不意をくらい動揺したのか、小さなプライドが邪魔をしたのか。僕は通訳家でありながら「翻訳をしている」と小さな嘘をついた。

僕はこの会話を続けずにもう帰りたかった。すでに落ちぶれた自分がいていい場所ではない。すでにそのような考えに支配されていた。

「まあまあ。せっかく美味そうな料理が揃っているんだ。妻が作った物もあるんだぜ。ぜひ口をつけてみてくれ」

困り果てた僕を見兼ねたのか芥川君が割って入ってくれた。

「この家の主人がそういうのなら仕方ない。よし、そこの小皿を取ってくれ」

会話は打ち切られた。皆が料理に集中し始めたが、僕は居た堪れなかった。ここにいると僕は自分の何もかもがちっぽけに感じられ、形容し難い敗北感を味わっていた。この一瞬までの出来事は、僕をこの場から立ち去らせるのに十分すぎるほどの惨劇だったのだ。

「芥川君。便所を借りてもいいかい」

「ああ、構わないよ。そこの廊下を進んで二つ目の扉が便所だ」

尿意を催したわけじゃない。ただその場から姿を消したかっただけだ。

 歩く廊下がやけに長く感じられた。廊下を進むと二つ目の扉の前に階段があった。その階段を音を立てないように登った。ただの興味本位だ。すると畳の部屋に行き着いた。書き散らされた紙が机の上に散乱している。きっと彼の書斎だろう。「ここで数々の名作が生み出されたのだ。きっとこれからもここが芸術の源泉となるのだろう」そんなことを思い、部屋から出ようとすると机のそばに落ちている一枚の紙が目に入った。紙の上部には「新西遊記の構想」と書かれている。未発表の題だ。芥川君は確か西遊記が幼い頃の愛読書と言っていた気がする。きっと彼の色に染め直した西遊記を近々発表するのだろう。僕はそれだけ思い、すぐに目を離した。けれど、その時に下から響く男達の笑い声が僕の耳を刺した。それから僕はその紙にもう一度目を落としてしまった。未発表の作品の構想を盗み見るなんて許されない行為だ。僕はわかっていた。心臓の鼓動が速くなるのがわかる。時計の音と笑い声に急かされながら僕は構想を読み終えてしまった。彼の言葉で綴られた構想はまだ文学作品の体を成していないにしろ、鮮やかで唯一無二の雰囲気を強く放っていた。彼の言葉は生きているのだ。やはり彼は天才だ。

 僕は早々と席に戻り彼等に別れを告げた。もう帰りたかった。みんなに引き止められながらも、腹痛だと偽り、逃げるように邸宅を出て、ささやかに吹く風に身を曝しながら帰路に着いた。熟れた柿のような太陽が一人の男の影を伸ばした。

 三年後、僕は「新西遊記」の題名を改し「中国旅紀」として発表した。僕にだって小説家の過去がある。芥川君のようにはできないけれど、原石を磨く真はできるのだ。芥川君が練った構想だと本人に悟られないように年月をかけ僕なりに作り上げた盗作はよく売れた。それによって食べる物も変わったし着る物も変わった。僕に対する妻の態度も変わった。すっかり舐めきっていた態度は跡形もなく消え、僕を見直したようだった。苗字を重ねたあの頃のような幸せに再び包まれた。盗作を売って生活を立て直したという事実は僕の頭の片隅に追いやられ、今は美しい幸せが人生を彩っている。都合の悪い事実は忘れていた。いや、故意に忘れようと努めていたのかもしれない。しかしその翌年、僕は芥川君の病気が悪化したことを知り鵠沼に彼を訪ねることになった。彼から呼ばれたのだ。家に着き、部屋に入れてもらうと、芥川君は窓の外を見つめながら放心しているようだった。しかし僕が足を踏み出すと、足音に気づいた彼は目を光らせ、不意に僕にこう語りかけた。

「昨年の『中国旅紀』読ませてもらったよ。素晴らしかったと思う」

 その言葉だけで僕は察した。芥川君は僕が彼の作品を盗んだことに気付いたのだ。だから今日僕を呼んで詰問するつもりなのだろう。心臓が胸を内側から強く叩いている。だけれども、僕は平静を装いながら寄り添うように彼の言葉に耳を傾け続けた。彼は淡々と続ける。

「だけど僕が思っていた未発表の作品に酷く似ているんだ。だから蓮田君も僕のような作品を書いて、もう一度花を咲かせようとしたんだろう。そう信じていたよ。でも思い返してみると、僕が机の上に表向きに置いていた構想図は裏向きになっていたんだよ。それに君があの日便所から帰ってくるまでの時間もやけに長かった。もし仮に君が本当に腹が痛かったのなら、便所に長く居座るのもおかしくはないと思うんだ。たしかに君は腹痛で帰ると言っていたから、本当に腹が痛かったのだろうと思う。だけど、僕らが先生の邸宅にお邪魔した時のことを考えてみると、君が腹痛で帰るのは不自然なことのように思えるんだ。だって、元来腹が弱い君はこの前のように先生のお宅でも腹を壊すことが幾度かあったけれど、その度に君は、帰り道にうずくまることがあるかもしれないからと言って先生のお宅に泊めて貰っていただろう?だからあの日も本当に腹を壊していたのなら、君は僕の家に泊まるのが自然な流れだと思うんだ。だけど君は腹痛が理由で帰った。これは過去の君からは予想できない流れであり、不自然なことだ。あの日本当に君は腹を壊していたのか?それとも別の理由で長く席を立っていたのか?」

 僕の予想通り芥川君は冷静に見破っていた。僕が行ったことを。

「僕は今、君を疑っている。あの日、僕の親友は、腹痛と偽って僕の構想図を読んだと考えるのが最も自然なんだ。本当のことを言って僕を安心させてくれ」

芥川君の目は黒く染まったビー玉のように輝いている。彼の目に反射した光は鈍くも確実に僕の目を貫いた。聡明な彼にはわかっていたのだ。窓を叩くほどの強風が木々を揺らしているのが見える。風と時計の音だけが鳴っていた。彼の構想図を見てしまったことに起因する後ろめたさは、構想図を裏向きに戻してしまうという僕の痕跡を生み出し、構想図を読みながら増大していった焦りは、僕と芥川君が育んできた共通の時間の記憶を僕の頭から掻き消してしまったのだ。しばらくして僕は口を開いた。

「なんて言えばいいのか、、僕は、、、」

言葉が続かない。口から必死に言葉を絞り出そうとするも、喉仏に迫った言葉はすぐに腹の底へ落ちてしまう。今の僕には、言葉を引き摺り出すための微かな力すら無い。芥川君は僕を一心に見つめながら、僕の言葉を待っている。目の前に座る男にはもはや僕に対する慈しみの心は無く、真実を知ろうとする情熱だけが男を操っていた。静寂は部屋の隅まで充満し、二人の間に無言の時間が流れた。数字で表せば取るに足らない時間なのだろうが、今が何よりも長い時のように感じられる。僕は次の言葉を考えているようで考えていないのだろう。この状況を頭で理解していたとしても、心では理解していない。ただ現状に打ちのめされるだけで、僕の頭は全く機能していないのだ。言葉が出てこない。

「いいんだ、もう何も言わないでくれ。君を信じていたよ。だけどこれ以降はもう僕の視界の中に入ることはしないでくれ」

芥川君はそう言った。彼は僕を軽蔑しているのだろうか。そして今となっては僕は友として認められていないような気がする。言い訳すらできないこんな人間をどう思っているのだろうか。人の作品を盗むような醜悪な心を持っている愚人のことを彼はどう思っているのだろうか。知りたいことは募るばかりだが、結局のところ彼の思考は彼にしかわからない。しかし彼が思っていることについて定かなことが一つある。それは彼が僕に対して怒りの感情を滾らせていることだ。それは彼の丁寧な語り口から見え隠れする声の揺らぎや、じっと僕を捕らえている彼の目が物語っていた。

 芥川君は部屋の扉を開け、僕は無言で彼の部屋を後にした。彼を横目で見ることもできなかった。夏の日のことだった。僕は家を出て、斜陽に突き刺されながら歩いた。彼の家に入る前と後では世界が違って見えた。ただどんよりとした苦しみが僕の体を包み込んで、足取りは重かった。

 それからは、あの日の芥川君の言葉が鉛のように心にへばりついていた。僕は取り返しのつかないことをしてしまった。世に出た盗作は取り消せない。それなりに売れている作品なだけに、今後もあの盗作は誰かの記憶に残り続けるだろう。親友を自らの愚行で失った罪悪感は全く消えなかった。生々しく響く子どもたちの歓声。以前ならそれだけで幸福を感じていたであろう料理の匂い。妻の素直な笑み。この世の全てが灰色に染まった。どんな幸福に僕の心が浸かっていようと、ふとした瞬間に過去の愚行が目の前をよぎる。そうすると陰鬱とした世界に引きずり落とされてしまうのだ。僕は今更ながらに、過去の行いの重大さを実感していた。彼の盗作を売ったことで手に入れた品々が僕の家を豊かにしていたが、今すぐに捨ててしまいたい。そんな気分だった。濃厚で薄汚い雲が僕の心を満たしている。なぜあの日あんなことをしてしまったのだろうか。なぜ僕はこんな人生を過ごしているのだろうか。どこで踏み外したのだろうか。そんな問いばかりを繰り返す日々だ。自分の愚かさに失望し自分を責め続けていた。同様に、本が売れるたびに入ってくる金が僕の精神を非情に蝕み続けた。いつも、痛いくらいに眩しい街灯が星の光をかき消している夜の小道を一人で歩き続けていた。

 その一年後、僕は信じられない一報に触れることになる。芥川君が自殺したのだ。その事実は一瞬で世間に広まった。神経を病んでしまって自宅で服毒自殺をしたのだ。親しい人々に彼は遺書を遺していた。だけど僕に遺書は遺されていなかった。そして彼が遺した手紙の数々にも僕のことは一切書かれていなかったようだ。

 僕は青い空を見上げた。暖かな風が頬を撫でる。僕の目からは涙が溢れた。

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蓮の花 花菱林太朗 @Rintahanabishi333

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