スノーヒーロー

水舞琴実

第1話

 私は雪国で育った。なんて少しオーバーかな。でも雪と一緒に育ったのはほんと。家から一番近いゲレンデは庭みたいなものだった。

 小さいころはまっさらな雪をそりで滑ることが好きだった。私だけの線路が引かれていくみたいでわくわくした。屋根から零れるつららはコントロールできない中学生の私の心みたい。高校生になると雪山はしんとしていることを知った。そのすまし顔に幾度となく助けられたと思う。

 私だけの雪国は探さずともそこにあった。


 視界いっぱいに、ぱっと雪が舞った。強く打ちつける波みたいな音がした。目の高さで、カチャカチャとブーツが外される。その足先がボードの先をぐっと踏む。少し浮いたボードの下に反対足を差し込んですっと持ち上げた。その先を目で追えば、スノーボードを抱えた青年が立っていた。

「何をしてるの? お嬢さん」

 第一声は笑みをふくんだ声だった。どこからともなく颯爽と現れたヒーロー。幼い私にはそう映った。

「ゆきのなかにある、あしあとをさがしてるの。ちいさいちいさいあしあとなんだよ」

 ヒーローは私に視線を合わせるように屈んだ。

「へえ、動物さんの足跡かな?」

「うん! おにいさん、よくしってるね」

「ありがとう」

 その微笑みはやっぱりヒーローって感じだった。

「とってもかわいいあしあとなんだ。このまえ、ここでみたんだよ。でもゆきがつもってみえなくなっちゃったの。だからみつけるんだ!」

「お兄さんも一緒に探していい?」

 私は、ぱあって笑顔を浮かべて答えた。

「うん!」

 二人で手袋をして、近くの雪に触れていった。

「積もった雪ってメレンゲみたいだね」

 ふと、ヒーローがそう言った。

「メレンゲってなに?」

「えっと、卵の白身を泡立てて作るんだよ。白くてふわふわしてるの」

 そう聞いて心底驚いたのを覚えている。

「たまごからゆきができるの!?」

 ヒーローはくくっと笑うと、私の頭を撫でながら言った。

「世界は広いんだぞ」

 今なら、この言葉の意味に触れられるかもしれないし、やっぱり触れられないかもしれないと思う。

「わたしはね、さらさらしたゆきは、おさとうみたいだなっておもうよ。でもね、いちにちたつと、かたくりこみたいになっちゃうんだよ」

 ヒーローは目を丸くして聞いていた。そんな反応お構いなしに私は話を続けた。

「かたくりこは、ままといっしょにぎょーざをつくるときに、つかうからしってるの。わたし、ようちえんせいだけど、ぎょーざつくるのうまいよ」

「それはすごい」

「おにいさん、どうやってかたくりこをつかうかしってる?」

 ヒーローはちょっとおどけて言ったと思う。

「わかんないなあ、教えてよ」

私はきっと、心底得意げに説明したんだ。

「みずにとかして、のりにするんだよ。ぎょーざのかわをくっつけるのり」

 よくわかったような顔をしたヒーローを見て、満足した私は話を本筋に戻した。

「それでね、かたくりこのゆきをそりですべるとケーキのまわりのなまクリームみたいになるの!」

「それは大正解だね。何度も降って層になった雪はほんとにケーキみたいだ」

 そう言ってヒーローは楽しそうに私を見た。

 たくさん喋ったせいか暑くなって、私はマフラーから顔をあげた。

「とーめーなあいすだ!」

 私がそう言ったときの、キョトンとしたヒーローの顔は忘れられない。私は今でもあのころと同じように思う。雪の世界の空気は透明なアイスクリームの味だと。それを説明するとヒーローは言った。

「やっぱり小さな子には適わないなあ」

 私の顔に橙の陽が落ちはじめヒーローは別れを告げた。たぶんタイムリミットだったんだよ。ヒーローだからね。

 これが私の一番古い記憶。


 粉雪のちらつく日は、絶好のスキー日和。ただこの日はちょっと背伸びをしすぎたんだ。

 そりを滑るときの小山とは違ったところも探検してみたいって、そう思った。いつもと違うリフトに初めて並んだ。小学生になりたての私は、私のことをほぼ大人だって思いこんでいた。

 ゲレンデはたぶん白い砂漠。表面をかける粉雪が、正しく砂漠のそれだから。そこに凍らない川があれば、それはオアシス。そして雪の砂漠には0.1カラットのダイアが散りばめられている。そんな景色を見ながらいつもよりほんのり高い山頂へついた。当時の私はほんの少し……いや、割と焦った。だって山頂から麓が見えなかったから。小学生の私にとっては、自分が生きていた世界が全てだった。いつもの山は探検しながら歩いて降りられたから、ここにある山は全てそうなんだと思っていた。

 当時の私は案外勇敢だった。スキーやスノーボードが行き交う中、ゲレンデの端の方をゆっくりと下り始めた。さらさらとした粉雪を両手ですくい、思いっきり投げ上げる。晴天を舞う粉雪は光の雨みたいだった。その雨の向こうに、私は再びヒーローを見つけた。

「ころんだの?」

 ボードのついた足を投げ出して座るヒーローに尋ねた。

「いいや」

 とだけ言って顔を上げたヒーローは何かに気づいたように笑った。

「お嬢さん、今日の雪はどんな?」

 なんでそんなことを聞かれたのか、というかこの人が誰なのかも当時はわからなかった。覚えていなかったんだ。

「さばくみたい。広くてまっ白なさばく」

 それを聞き変わらない笑顔を見せたヒーロー。

「今はさばくだけど、ちょっと水をふくむとビーズみたいになるんだよ。そりですべるとじゃらじゃらって音がするの!」

 ヒーローはそっと目を伏せた。数秒した後、その目をぱっちり開いて言った。

「じゃあ僕は、そんな君に素敵な景色を見せてあげよう」

 私が驚くよりも早く、ヒーローは私を抱き上げながら体を起こした。

「ちゃんと捕まってるんだよ」

 そう聞こえた直後、目の前の空気が切り裂かれた。思わず目をつむる。頬に、降っていないはずの雪が触れる感覚があった。うっすらと目を開ければ、ボードは雪を舞わせながら進んでいた。ボードから雪が降っているように見えるほど速く。そりで滑ったときとは比べものにならないくらいに深い線路を作りながら進む。私たちだけの線路。

 くっとスノーボードが止まった。

「もう少し高いとこから滑っていい?」

 よく見るとそこはリフト乗り場だった。ここまで来る時間がどれだけ楽しかったか。それは心臓がきゅうっとなる感覚だった。

「うん!」

 私の返事を合図にリフトの列に並んだ。ヒーローの視線の先を見ると、スキーストックで開けたと思われる穴があった。その中は、冬の晴れた空を水に溶かしたみたいな色だった。

「この穴の中、なんで青く見えるでしょう」

「空の青がうつるから?」

 一生懸命出した答えにヒーローは嬉しそうだった。

「この部分の雪は人工みたいだね。人工の雪の中が青く見えるのは」

 ヒーローはすっと目を細めて言った。

「海が青く見える理由と一緒」

 当時の私は、海が青く見える本当の理由なんて知るはずもなく喜んだ。

「じゃあわたしのよそうは当たり?」

「そういう世界もあったりする」

 世界?と聞き返そうとしたとき、図ったように順番が来た。

「落っこちないようにね」

「うん」

 リフトに乗る瞬間は少し緊張する。油断すると膝カックンされて驚いちゃうから。でもそのせいで、聞き返しそびれてしまったんだ。

「ゲレンデで暮らしてるもみの木って白い絹糸で縫われてると思うんだ。ただ、どこかで一雫の青が混ざってしまった白色」

 リフトからゲレンデを眺め、ヒーローはひとりごとのように言った。幼ながらに綺麗な言葉で好きだなと思った。その言葉の余韻を感じながら登っていく。ゴールが見え始めたころヒーローは登ってきた景色を振り返って言った。

「このゲレンデ、夜になるとどうなるか知ってる?」

 私も振り返ってその広いゲレンデを見た。夜に来たことなんてなかったから何も答えられなかったけれど。

「音が消えるんだよ」

 想像もしなかった答えに私は面食らった。それからそんな様子を想像してみた。たぶんその静けさは少しうるさいんだろうなってわかった。

「それからナイターの光に照らされた雪が綺麗なんだ。いつか一緒に見ようか」

「見たい!」

 素敵な提案をこぼさないよう、すぐに返事をした。

 リフトから降りると前の人たちとは逆のゲレンデへ向かった。跡の少なさから、こちら側へ行く人は少ないんだってすぐにわかった。一晩の間に積もり積もった雪の上に藍色の影を二つ作る。少し下に見えたあれは、きっと雲だった。

「朝日が昇ると雪が溶けるでしょ。すると世界に色が帰っていく。例えば、真っ白かった木が茶色い枝を見せたりね。でも雲の上はモノクロのまんま。ここはいつでも雪国なんだよ」

 そう言いながらヒーローはボードを足に固定した。よしっと私を抱えると、地面が下りはじめるギリギリまで進む。雪山の空気は湿っているのにくちびるを乾かすから不思議だった。私はマフラーに半分顔をうずめながら、心臓がドキドキ言うのを聞いていた。目の前が崖みたいに急な斜面だったから。

「大丈夫?」

「うん!」

 少し震えた返事だったけれど、ワクワクもたしかに滲んだ声だった。

「行くよ」

 その声はすぐに後ろへ飛んでった。目まぐるしく流れる景色。ボードが雪を切る音と息づかいが聞こえる。ヒーローの口角が上がった気がした。直後、体が傾く。ボードごと空を飛んでいた。次の瞬間、宙に舞ったボードが着地した衝撃が伝わってくる。だんだんと麓が近づいている感覚があった。この時間が続けばいいと、そんなありきたりなことを願った。

 本当に夢のような時間だった。気づいたときには、一番下まで降りて来ていた。

 私をすとっと雪の上へ下ろすと、ヒーローは何か言おうとして口をつぐんだ。それは言ってはいけないことだったのか、それともなんと言っていいかわからなかったのか。それは今も知らないこと。その時のヒーローの表情は初めて見せた寂しそうな顔だった、気がした。最後にひとつヒーローは言った。だから私もひとつ返した。

「雪、綺麗だね」

「とけないんだよ。きっと、ずっと」

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