第2話 ニッキ

引越すにあたって祖父の部屋を僕が整理することになった。

元々つっけんどんな人だった事もあって、なんだか近寄り難かったその部屋は祖父が亡くなって以降と言うものまるで家の中でその部屋が失われたかの様に誰の視界にも入らなくなっていた。

嫌われているとかそういう事ではなくて、触れない方がお互いの為みたいな、狡い言い訳で済まされていた。

整理とは言ったものの、亡くなった直後に両親がそれらしい事はしたので溜まった埃やらとりあえず放置されたものなんかを纏めて捨てるだけ。

何の数字を記帳していたのか分からないノートやら、聞いたことのない人から届いた手紙が輪ゴムで纏められた束、そんなものばっかりだった。

机の引き出しをあけると、ほんのりニッキの匂いが漏れ出す。

あぁ、すっかり忘れていたけれど随分久しぶりに嗅いだその匂いが紐付いて思い出した。そう言えば小さい頃はよくこの部屋で祖父の膝の上に座って何かを見せてもらっていた気がするじゃないか。

確かそう、祖父はいつもこうやって椅子にどっかりと座っていた。こんな具合に右肩を落として、引き出しと床の間に指を入れてそれを取り出していた。

記憶を頼りにまさぐると、見つけた。写真だった。

ちょうど今の僕と同じ、年の頃20位の祖父がまるでウエスタンな格好でリボルバーを持ち、上半身の肌けた知らない女性と肩を組んで笑っていて、その周りにも服を着ていたりいなかったりの人たちが各々の嗜好をさらけ出していた。

よく見れば、周りには老人や子供が血まみれで横たわっている。

道理で。ずっと僕が感じていた不満やらヤキモキはこれのせいだったのだ。もう忘れちゃいけないし無くしちゃいけない。

写真を小さく畳んで口の中に入れる。一向に溶けないそれを一生懸命ふやかす。

どこまでもついて回る厄介な隣人であり、半ば強制的に押し付けられ施されたそれは、どこまで無視しようと努めても心の底にはずっとあった。

すっかり忘れて歩んでいようと歪な影は依然僕の後ろでぐにゃぐにゃとその形に戻ろうと踊っている。

つまりは僕のせいでなかった。それが本当に嬉しくて、嬉しくて。生まれつきそういう人間なのかとがっかりするあの時間はもう無くなる。勝手に植え付けられたものだったのだから。


傍目から見て気持ちが悪いだろうから一人の時に街中で笑うのは控えてきた。

傍目から見て気持ちが悪いだろうから頭の中のあれこれを口に出して整理するのは控えてきた。

傍目から見て気持ちが悪いだろうから素敵な服を着ている人の後を付けるのは控えてきた。

傍目から見たら気持ちが悪いだろうから食べたものをその場で戻してみたりしなかった。


決してそれは欲なんて自分勝手なものではなくて、ただ皆んながやっているその時々に必要な諸々が、他と比べてよろしくなかった。皆んなが友達を必要とする様な時に僕は一人になりたかったし、皆んなが黙っているときは騒ぎたかったし、皆んなが寝ている時は起きたかったし、みんなが笑っているときは泣きたかった。

先生方はそれがとても悪い事で、いけない事だと教えて下さった。

テレビや映画なんかを見ても皆んなそうしていたしその通りだと思った。じゃあ僕だけなんでそう出来ないのだろう。

全てが悲しくて全てはざらざらして見えた。

全部悪いのは祖父だったのだ。

ニッキの香るこの部屋で、あの膝の上で、祖父が僕に囁いたアレコレが僕の中で枯れる事なく根を残し吸い上げ続けたのだ。植え付けられた僕はそれは可哀想で、どうしようもなかったんじゃないか。

だのに周りを否定しなかった僕は褒められるべきだし、これからはある程度を許して貰う権利があるであろう。

口の中のそれが途端に甘くなった。

世界の表面を覆っていたざらざらを、吹き込んだニッキの香るその風が攫っていく。

ぴかぴかと光り出した全てに光が当たってどこまでも乱反射していく。こんなにも世界は金ピカだったのだ。こうしては居られない。飛び出さなくては、今までの分を取り戻さなくてはいけない。

僕は服を脱ぎ、バットを手に眩い世界に飛び出した。

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短淡 あうん @aunnodokyu

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