天地無用

八日

第1話



 最後に一度大きく揺れてから、木船はあらかじめ決まっていたかのように穏やかに着岸した。

 足先が濡れるのも気にせず、彼は浅瀬へと降り立った。

 風がない。

 さっきまで荒れて、波立っていた川も、振り返ると嘘のように静かに流れている。

 そこは物寂しい河原だった。

 足元の石がれて音をたて、静けさをいっそう際立たせる。

 そこに生気のあるものは何もなく、ただ一本、枯れた大樹だけがあった。

 葉がことごとく落ち、き出しになった異様に長い枝が、まるで何かを求めるように、うねりながら四方八方に伸びている。


「おや、来ましたね」


 どこからか、女の声が聞こえた。

 いやに澄んだ声だった。

 辺りを見回すも、それらしい人影は見当たらない。

 視線を正面へ戻すと、たった今渡ってきた川が、急に現れた灰色の深い霧に覆われて、水面を見ることも叶わなくなっていた。

「おーい、こっちですよー」

 どこか間延びした女の声は、彼の背後、平野の方から聞こえてくるように感じた。


 荒涼とした平野が広がっていた。

 乾き切った地面は、上空の曇り空をそのまま映したように暗い。

 その中にぽつんと、まるで大地から生えたような大岩があった。

 その陰に、簡易的に据え付けれらたスチール製の事務机があり、そこにその女は座っていた。

「ようこそ、お待ちしていました」

 女は神秘的な容貌ようぼうをしていた。

 歳は不明だが、若い。

 真っ白な肌が、落ち着いた色合いの古風な中華服から覗いている。

 艶黒つやぐろの髪を後ろで結って、残りを顔の横に垂らしているのが、目鼻立ちのすっと通った端麗たんれいな顔によく合った。

 その女は、人間とは思えないほど美しかったが、同時にどこか氷のような冷たい印象があった。

「あの、記憶処理はもうお済みでしょうか……?」

「…………あぁ」

「本当ですか! よかった~、最近、霧の発生装置の出力が安定しなくて。もしかしたら濃度不足でたまに戻っちゃうかもしれないんですけど、記憶」

 女はおずおずと尋ねたかと思うと、打って変わって相好そうごうを崩し、人懐っこく微笑みながら「すみません」と続ける。

「あ、名乗るのを忘れていましたね。……私は『マヤ』と言います」

 彼女は自分のことをそう名乗った。

「お加減はどうですか?」

「大丈夫だ。……ここは、死後の世界か」

 どこか非現実的な風景を見回しながら尋ねると、マヤは頬をヒクつかせた。

「…………き、記憶処理、済んでますよね?」

「あぁ」

 マヤは安堵したように「それならいいんです」と言い、それから神妙な顔で頷いた。

「その通りです。あなたが先ほど渡ったのが、いわゆる『三途の川』です。本当はもう少し丁寧にご案内したかったのですが、如何せん人手不足なもので……」

 案内というのは、河原で聞こえた声のことだろう。彼女は再び「すみません」と頭を下げる。

「そんなに謝らないでくれ。こっちが申し訳なくなる」

「すみません」

「……それで、これから俺はどうなるんだ」

「そうですね」

 マヤはようやく謝るのを止めた。

「あなたはこれから、『天国』か『地獄』へ向かっていただくことになります。どちらに向かうかは、生前に犯した罪の軽重に応じて決まるのですが……」

「聞かなくてもわかる。俺は地獄だろ」

「……本当に記憶処理、済んでますよね?」

「あぁ」

 即答に一応は納得するも、マヤはまだいぶかしげに、切れ長の目を少し細めた。

「そうですね。あなたにはこれから地獄へ向かっていただくことになります。ですが」

「断る」

「……え?」

「俺が生前に犯した罪を知っているか?」

「え、あ、はい、調べればすぐに出てくる──っていうか、本当に記憶処理済んでるんですよね!?」

「食い逃げだ」

「え。嘘、それで地獄? ちょ、ちょっと待ってください」

 そう言ってマヤは、机下の引き出しから資料を引っ張り出そうとするが、中で引っ掛かっているのか、引き出しを掴んでガタガタとやっている。

 その隙に、一目散に駆け出した。

「あ、ちょっと待って、ありました──ってこれ! 食い逃げじゃないじゃないですか! あ、待って、逃げないで! まだ話終わってないですから!」

 わき目も振らずに飛ぶように駆ける。

 彼の身体はあっという間にマヤの視界を振り切った。

「もー! ただでさえ雑務で身動き取れないのに! あんまり遠くまで行かないでくださいよー!」

 マヤは巨大なため息をつく。彼女の心からの叫びは、平野に虚しく響いただけだった。



「草を抜いているんです。たまに生えなくなる時があるんですよ」

 初老の女は、早口でそう答えた。

 あの後、マヤのいる場所から遠ざかろうと駆けまわっていると、岩場の陰に妙な穴を見つけた。

 穴は垂直に掘られているようだったが、中を覗きこむと奥にうっすら光が見えた。どこかに続いているようだった。

 飛び込んでみると、確かな浮遊感があった。薄暗い中を緩やかに落下していくと、急に視界が明るくなり、気づいた時には開けた場所に立っていた。

 建造物などは何もなく、見渡す限りやせこけた地面だけが続いていた。

 地面には時折人がしゃがみこんでいて、そのうちの一人がすぐ近くにいたこの女だった。

 彼女らは皆、草を抜いてた。

 地面をよく見ると、かすかに線が走っている。それは地面を正確に、小さな正方形に区切っていた。それに従って、区切られたその小さな区画の片隅をこれから覆わんとする、まだ生まれたばかりのほんのわずかな草。

 それを彼女らは引き抜いていた。

 草は地面から少ししか出ていないので、丁寧に引き抜く必要がある。

 生え跡が地面に生々しく残るが、それはどうしようもない。

 地中の根から引き抜けるような、柔らかな地面ではなかった。

「一つ一つ抜いていくしかないんです。放っておくと生えてきますから」

 女は手を止めることなく、そう続けた。


 しばらくのあいだ、女の仕事をそばで見ていた。女は熱心に、まるで何かに強制されているかのように、草を引き抜いては端に除けていく。

 するとある時、区画の左端から、再び草が生えてきた。

 位置的に既に一番最初に引き抜いたであろう、草の生え跡。そこから、青々と瑞々みずみずしい草が現れた。

 女は、急いでそれを抜きに戻った。

 辿り着き、抜くが早いかその右隣にまた草が生える。

 それも慌てて引き抜く。

「……何周も、これをやっているのか」

 女は答えずに草を抜き続ける。

 ふと気になり、ブロックの右端に目をやると、そこはまだ草の影もない。

「たまに、生えなくなる時があるんです」

 女は一段落ついたのか、ふぅと息を吐いてから最初の言葉を繰り返し、「今みたいに」と付け足した。

「そういう時に、新しいものが生えるんです。もっと奥まで。最後は区画の端まで行って、多分また折り返してくるんだと思います」

「これは、何をしているんだ?」

 尋ねると、女は汗まみれの顔で答える。

「ですから草を抜いているんです。決して伸ばしてはならない」

「その……」

 理由の方が知りたかったのだが、もう一度問い直す前に、女は足元に視線を落とした。

 視線の先には、先ほどまで何もなかった地面に新しい草がぴょこりと生えていた。

 それは瑞々しい緑色で、まだ短いながらも可愛らしいほど健気に、力強くピンと葉先を反り返らせている。

 ふと気になり、草をじっと見つめている女の横顔をうかがう。

「────」

 女はその若々しい草を、血走った目でにらみ付けていた。


「おい若いの、サボっておるのか?」


 後ろから声が聞こえた。

 振り向くと、少女がふんぞり返っている。

 彼の腰ほどまでしか身長のない、小柄な少女だった。

「……こんな地獄に、子供までいるのか」

「誰が子供じゃ誰が! ──わしはきぬめ。こう見えても地獄の獄卒じゃぞ」

 言われてみると、少女はマヤと同じ、しかしこちらは鮮やかな色の中華服を着こなしている。少女は「驚いたか」と得意げに言い放った。

「そうか。きぬめちゃんだな」

「ちゃん付けするでないわ、若いの!」

 きぬめは、ウガーッと怒って見せる。

 ちらりと八重歯がのぞいた。

「それで、サボっておるのか?」

「……ちょっとはぐれてな」

「ふむ?」

「案内を頼みたいんだ」

「よいぞ。ちょうどひましておったところじゃ」

 きぬめはそっけなくそう言って、ついてこいと言わんばかりに、くるりと背を向けて歩き出した。

「地獄の獄卒が暇っていうのも、変な話だな」

「暇なんじゃよ。マヤ様が色々と仕組みを整えて下さったからの」

 マヤ様。

 あの美しい顔が目に浮かんだ。

「でも、なんできぬめちゃんみたいな子が獄卒なんだ?」

「ちゃん付けするでないわ。……想像じゃが、刑をいい感じにサボっておったからかの。それでお声が掛かったんじゃ」

「刑?」

「わしも以前、ここの囚人だったんじゃよ」

 そう言って、きぬめはさっきの女がいる方角に冷めた視線をやった。

「あの草は、働き者を見つけ出す」

「?」

「言葉通りの意味じゃ。さっきの女の話、聞いておったじゃろう? たまに生えなくなり、新しいものが生える。しかし、既に抜いた草も再び生えてくる。つまり抜けば抜くだけ、仕事をすればするだけ仕事が増えていくということじゃ」

「ならどうすればいいんだ」

「簡単じゃ。抜かなければいい」

「…………」

「草を放っておけば伸び放題になる。しかし、一区画だけじゃ。それ以上増えることは決してない。……それにあの草は、しばらく伸びたらになるんじゃよ」

 言って、きぬめは遠くに視線をやる。

 その先には、抜く人がいないのか、生え放題になった草が小さく見て取れた。

「何になるんだ、この草は?」

「知らん。それにたとえになったとしても、それはわしのあずかり知る所ではないしの」

 きぬめはそっけなくそう言い、「ともかく」と続ける。

「あの女は形式を嫌う。わしもそうじゃ。気が合ったんじゃろ」

 どこか得意げに、ふふんと鼻を鳴らした。

「……要するに、囚人から獄卒に昇格したってことか」

「うむ。『大抜擢です』とあの女も言うておった」

「じゃあ、きぬめちゃんは唯一刑を免れた囚人ってことか」

 きぬめは目を細める。

「なんじゃ、おぬしもサボりたいのか?」

「そういう訳じゃない。……たとえそうだったとしても、獄卒に正直に言うわけないだろ」

「まぁ、そうじゃの」

 きぬめは納得する。

「それに、地獄で嘘は大罪じゃからな。もしマヤ様なんかに嘘でもつこうものなら……」

「舌でも抜かれるのか?」

「アゴごともってかれるわ」

 彼は思わず自分のあごでた。


 きぬめの先導でしばらく歩いていくと、遠目から見ても真っ黒に汚れている区画があった。

 近付いて見ると、それは汚れではなかった。

 鉄格子。

 その区画には、びた鉄格子がピタリとはまっていた。

「……これは?」

「抜け穴じゃ」

 きぬめはそう言って、格子を取り外し、その中を指さす。

「下の層まで続いておる。マヤ様から逃げておるんじゃろ?」

「────」

「顔に書いてあるわ。それにここは地獄じゃ、刑の強制力から逃れられる囚人などおらぬ。最初からわかっておった」

「きぬめちゃん……」

「よせ、暇つぶしじゃ。おぬしの事も、何もかも」

 促されるままに穴のふちに腰掛ける。最後に、きぬめが耳元に早口でささやいた。

「行くなら地獄の最深部へ行け。ここはまともじゃない。マヤ様は狂っておる。きっとどこかにほころびがある。ここは何かを隠しておる」

「何かって……」

「行け、早く」

 急かされるように、穴へ飛び込んだ。



「なんで最後まで私の話聞いてくれなかったんでしょうか、あの人! 今日の仕事は早く終わると思ったのに!」

 マヤは、机にかじりつき雑務をこなしながら一人怒っていた。

「そもそも衣領樹えりょうじゅのプロセスを省いたせいで罪状の照合に手間取るの、絶対どうにかした方がいいんですよね……」

 声のトーンが少し落ちる。

 しかし再び声を荒げた。

「とはいえ、いきなり逃げ出す人間をどうしろって言うんですか! やっぱり私は悪くないです!」

 一人叫ぶ。

「もう! 思い出したら腹が立ってきました! この私に嘘をつくなんて、舌の一枚や二枚じゃ……それにとか言って驚かせるし…………はぁ……」

 言うだけ言って飽きたのか、マヤは肩を落とし小さくため息をついた。

 遠くに目をやる。視線の遥か先には、河原に一本だけ物寂しくたたずむ大樹があった。

「──やっぱり奪衣婆だつえばくらいは残しておいたほうが良かったんでしょうか」

 彼女の後悔を聞き届けるものは、もういなかった。

「…………お腹、すきました」



「花を探しているんです」

 奇妙な浮遊感と共に降り立った下層で、気づくと目の前にいた若い男は、満面の笑みを浮かべてそう言った。

 恍惚こうこつ

 一点の曇りもない笑顔には、ただ目的のものが見つかることへの期待だけがあった。

「紅い花なんです。真っ赤な。一目でわかると思います」

 男は慈しむように言う。

 その顔に、息が詰まるほどの既視感を覚えた。

「もし見つけて下されば、下層に繋がる穴の場所を教えますよ」

 男は軽い口調で続けた。「逃げてきたんでしょ」

「……あんたはここから逃げようとは思わないのか?」

「とんでもない。私は花を探すためにここにいるんです」

 男はそう言って微笑む。

 男の手は、既にボロボロだった。

 地面を何度も掘り返しているのだろう、指先の皮は切れてずる剥けている。ここの土は、踏んだ感触からしても上の層と同じく異様に硬い。地中で石にでも引っかけたのか、中指の爪はがれかけ、血がにじんでいた。

 それでも男は笑顔だった。充実感を顔中に浮かべながら、髪の先から汗をしたたらせて、もう何度も掘り返したはずの地面に再び指をねじ込んでいた。

 居ても立っても居られなくなった。


 男は、その周辺だけを長い間探し回っているようだった。

 「絶対にここにあるんです」と豪語していた。

 確信があった。そこにはないと。

 『になるんじゃよ』

 きぬめはそう言っていた。

 草が生えれば、やがて花が咲く。

 もし、上の層とこの層の植物の生育環境がリンクしているとすれば、上の層で草が抜かれていなかった場所に花が咲いている可能性がある。

 穴の位置から垂直に降りてきたと考えると、おおよその方角は掴めた。


 見渡す限りの真紅だった。

 上の層の記憶を頼りに向かった座標、そこには、紅い花が一面に咲き誇っていた。

 鼓動が大きくなり、いつのまにか握った手の中に汗がにじむ。

 花に興味はなかったし、あの男がああまで執心する理由も、この光景を目にするまでは、上層での草取りと同じような、地獄の刑の強制力の一種だろうとしか考えていなかった。

 紅い花の一輪一輪が、周囲の空間から浮き出て見えた。

 細い茎を抱き込むようについた葉。そして頂には、小さい椀のような真紅の花弁。

 その赤色が、まぶたに焼き付いたように離れない。

 花を摘んで、その場を後にする。

 しばらく歩いてもまだ、視界を埋め尽くす真紅が頭にこびりついていた。


 男は足音だけで反応し、ぐるりとこちらを振り向いて震える足で駆け寄ってきた。

「ああ、ああああああ、ああああ」

 男は差し出した一輪の花を見て、物欲しそうに顔を上げて、また花を見る。

「ありがとう。穴はあの大樹のうろの中です、斜め下に続くように伸びています」

 視界の端の大樹を指し、早口でそれだけ言って、男は飛びつくように花を受け取った。

 すがるように花をかき抱き、花弁に何度も口づけし、目に涙をためる。

「……………………ああ、これが────」

 突然、男は胸をおさえて倒れ込んだ。

「大丈夫か!?」

「あ、がッ…………は……花が…………」

 男は目を見開き、足をばたつかせる。尋常ではない。見ると、花の茎が男の右手首の内側に刺さり、中に入り込んでいた。

 焦点のあっていない目からぼろぼろと涙を流し、低い声で呻き続ける口からは涎が止まらない。息が出来ていない。

「おい!」

「……………ぎ………ぅ…………」

 男は、両腕を千切れそうなほど震わせながら、手首から伸びる花を胸元に手繰り寄せる。

「…………ぁ…………」

 その花びらをわずかな間じっと見つめ、男は最期、微笑んで息絶えた。

 大地に、一陣の風が吹いた。

 涼やかな風は、まるで男を労わる様に、汗で濡れた男の前髪を揺らした。

 この層に降りてから感じた初めての風だった。


 刑を終えた男を大樹の陰に動かしてやろうと、そばに屈みこむ。

 直後、男の手の中で、花が枯れ始めた。

 それはまるで、男の死を見計らったかのようなタイミングだった。

 鮮やかな真紅の花弁はしおれ、瞬く間に黒く変色して腐り落ちた。ピンと張っていた緑の茎もぐにゃりと折れ曲がり、手首から抜けてすぐに腐り、花弁の後を追った。

 男の手からかつて花だったものが全て零れ落ち、下の土と混じって、周りの土と区別がつかなくなった時。

 ──かすかに土がすれる音がした。

 何かが地面の上で身じろぎしたような、音。

 初めは勘違いだと思った。

 思おうとした。

「………………ここは」

 あっさりと男は起き上がった。

 そしていくらもしないうちに、青ざめた顔で辺りを見回し始めた。

「私は──私は、花を探す必要があるんです」

 さっきまでと、まるで変らない声。

 しかし、興奮の中に、極度の焦りがあった。

「花……花を…………」

 男はこちらを見ることもなく、立ち上がり、どこかへ歩き始めた。



 洞は大樹の根元にあった。

 しかし、おかしい。

 直感があった。この層に降りたときに感じた奇妙な浮遊感。確かにここが地獄の底のはずなのだ。

 それなのに、斜め下に深くまで続いているように見える洞穴。

 入り、奥へと進んでいくと、急に視界が光に包まれた。


 白い世界だった。


 一点の曇りなき白色の空を希釈きしゃくしたような白光が降り注ぎ、それを受ける床も、鏡映しのように純白だった。

 奥行きが感じられないのは、その床が地続きに遥か先まで、永遠に続いているからだった。

 そこには地平線が存在しなかった。

 さえぎるものを何ももたず、偽りのない白だった。


「天国ですよ」


 女の声が聞こえた。

 いやに澄んだ、美しい声だった。

「天国の維持は、千年前に限界を迎えたんです。これには構造上の欠陥もあり、元々長くもつものじゃなかった。だから地獄が引き取ったんです」

 振り向くと、マヤが小さく笑った。

「どうして俺の居場所がわかった」

「ここは地獄ですからねー。逃げるとすれば下しかないですし。……それに」

 マヤは、一度言葉を切り、後ろを向いた。

「この子が教えてくれましたから」

 マヤの陰からスッと出てきたのは、中華服の少女だった。腰ほどしかない身長。

「──きぬめちゃん」

 焦点の合っていない瞳。

 声も届いていないようだった。

「きぬめちゃんに何をした」

「何をも何も、この子は私が作ったんですよ。獄卒としての身分を受け入れてくれる、私に忠実な僕として」

 虚ろな目。

「きぬめちゃん」

 返事はない。

「…………きぬめちゃん」

「無駄ですよ。今は私の命令しか聞かないようにしてます」

 マヤはきぬめの肩をそっと抱いて、自身の隣に立たせた。

「きぬめちゃんの記憶も消したのか」

「……だから、作ったんですって。全部。記憶も。一から」

 マヤは面倒くさそうにそう言った。

「一つ、昔話をしましょうか」


「千年前、天国が上から落ちてきたんです。天国は、経年劣化と神の老衰による統治者不在のため、重力にすら逆らえず、なすすべなく滅びようとしていました。天国が滅びれば地獄もただではすみません。ですから私は、落ちてきた天国の滅びの運命を地獄で引き受けることにしたのです」

「経年劣化、統治者不在。この二つの運命はあっという間に地獄を窮地へと追い込みました。設備が老朽ろうきゅう化し囚人は逃げ出すわ、統治者不在により頼れる部下たちも消えるわで、滅びは間近でした。私も便宜べんぎ上、閻魔えんま王『ヤマラージャ』の名を冠してはいますが、これも有名無実の肩書にすぎず、地獄を維持するには至らなかった」

「だから私は、地獄を変えました。衣領樹えりょうじゅを停止させたのもその一環です。業務を削減し、引き受けられる仕事は私が全て引き受け、刑の性質を変えることで囚人には身一つで受刑させるようにしました。彼らが望んで地獄の刑に服する姿は、あなたの目には残酷に映るんでしょうね」

「最初私は、あなたを雇おうとしたんですよ。逃げられてしまいましたが。でももし、全てを知った今からでも、あなたにその気があれば」

 マヤが微笑み、腕を差し伸べる。

「私と一緒に、この地獄を支えてくれませんか?」

 彼はしばらく沈黙し、その間も、マヤはずっと腕を降ろさなかった。


 彼はようやく口を開いた。

「嘘だろ」

 マヤの肩が跳ねる。

「お前はそんなに大層なことはしていない」

「……随分な物言いですね」

 マヤは苛立たしげに眉をひそめる。

「お前の説明には、いくつか足りないところがある」

「一応聞きますけど、どこですか?」

「階層の順番だ。何度も生えてくる草。そしてなかなか見つからない紅い花」

「……草が生え、やがて花になる。因果関係は自然でしょう? 我ながらよくできていると思いますが」

んだよ。まともに作るなら普通、花が上だ。花が生えてくる原因を、下で解決するんだ」

 つまり、運命の書き換えも、落ちてきた天国を引き受ける必要もない。

 単純な話だ。


「入れ替えたんだろ。上と下を」


「………………」

「書き換えたり、引き受けたり、そんな面倒なことを、お前はしていない。ただんだ。……そうなると、一つ疑問が生まれる。人手不足の原因だと言った統治者不在の運命、それを引き受けてないとなると、つまりこの地獄は、んだよ。……そしてそれは、もう一つの疑問にも繋がる」

 マヤは黙って聞いていた。

「どうして今ここ、天国が無人なんだ?」

この空間に初めて降り立った時、一面の純白を遮るものは何もなかった。

「……住人は別の場所に移動させています」

「それも嘘だ。全員まとめて地獄に入れたんだろう」

「…………面白いことを言いますね。どうしてそう思うんですか?」

 上層で出会った二人を思い出す。草を取り、花に憑りつかれた二人を。


「あれは俺の両親だ。絶対に、天国にいるはずの人たちだ」


「……記憶処理、やっぱり済んでなかったんですね」

「元々いたはずの地獄の囚人は、獄卒はどこへ消えた?」

 マヤはずっと、張り付いたような笑顔で彼を見つめていた。

「人手不足の地獄にとって、滅びかけた天国から引っ張ってこれる人員の存在は、さぞかし都合が良かっただろう。お前にとって、天国の崩壊は渡りに船だったはずだ。……これはあくまで憶測だが」

 彼は問う。

「──天国を滅ぼそうとしたのも、お前なんじゃないか?」

「………………ふふ」

 マヤは笑いを零した。

「そこまで予想がついたのなら、これから自分がどうなるかもわかるでしょう?」

 マヤは大きく両腕を広げ、ペロリと妖艶に舌を覗かせる。極めて原始的な、の構えだった。

 彼はただ、ため息をついた。

 観念したように見えた。

「……最後に聞かせてくれ。なんで穴があった」

「?」

「抜け穴だよ。何でそのままにしておいた」

「あぁ、あれですか……」

「──お前も本当は、ここまで辿り着いてほしかったんじゃないのか?」

 かつて天に召されたものたちに。

 穴を抜け、刑を逃れ、かつて天国だったこの場所へ。

「んー、あれはですね」

 しかし、マヤはばつが悪そうにはにかんだ。

「通気口ですよ。ちゃんと隠しておいたつもりだったんですけどね」

「………………そうか」

「そうです」

 それを最後の言葉に、どちらからともなく動いた。

 一瞬の交錯。

 マヤの笑みは最後まで崩れず。

「────え?」

 直後、澄んだ声が、絶叫に歪んだ。

 マヤの胸には、紅い花が突き刺さっていた。

「な、あ、なんでっ──!?」

「地獄の住人にだけ効くんだろ、これは。俺が摘んでも何ともなかったからな」

「ぐ、うううううううう────っ!」

 マヤは上半身を捩って、血を吐きながら苦痛に身をよじる。

 ほどなくして、彼女の白い顔を血涙が流れ始めた。

「と、取ってっ! 取って下さい!」

「…………」

「き、きぬめ、助け……」

 言い終わる前に、マヤは地面に崩れ落ちる。

 近寄ると、既に息はなかった。

 手足は力なく地面に伸び、光の無い瞳。

 その胸には、紅い花が深く突き刺さっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天地無用 八日 @subesube10

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ