番外『イニシェリン島の精霊』の感想と雑多な考察
要約/アイルランドの島を舞台にした、男二人に起こった悲喜劇。暗喩が多く台詞も秀逸で、小説を書く人間には非常に有意義な作品と思う。「奇妙な味」の作品なので観る人を選ぶが、たくさん考察できるのは楽しい。
▽原題など
原題:The Banshees of Inisherin
2022年、アイルランド・イギリス・アメリカ。109分。
監督:マーティン・マクドナー
出演:コリン・ファレル、ブレンダン・グリーソン、ケリー・コンドン、バリー・コーガンほか
▽あらすじ
1923年。内戦状態にあるアイルランド本島からほど近い島、イニシェリン。そこで牧畜をしてつましい生活を送るパードリックは、ある日親友のコルムから突如絶縁を言い渡される。昨日まで親しかったのにどうして、と困惑するパードリックはコルムに問いただそうとするが、コルムは取り合わない。これまでの二人の間柄を取り戻したいパードリックがなおもコルムに詰め寄ると「これ以上話しかければ、俺は俺の指を切り落とす」ととんでもないことをコルムに宣言されてしまう。
鑑賞後、なんとも言えない印象を残す、「奇妙な味」の悲喜劇。
◆感想
【本作を知るきっかけ】
私はこの映画を『THE BATMAN』の予告で知り、それ以降ずっと楽しみにしていた。
あらすじにあるように、「いきなり絶縁を言い渡す」「話すたびに俺は自分の指を一本ずつ切り落とす」というトンデモ台詞が飛び出し、「一体全体どうしてこんなことに!?」「この物語の結末はどうなる??」と一気に興味をそそられたのだった。
その興味は、鑑賞するうちに思いも寄らない方向に転がっていった。そして、私の予想を完全に裏切った。
しかし鑑賞後は「しっくりくる結末」に安心し、「映画はこうでなければ見た意味がない」と思い、大いに楽しんで映画館を後にした。
【「奇妙な味」というジャンル】
「奇妙な味」と江戸川乱歩が名付けた小説のジャンルがある。多くは推理、怪奇、またはその双方で、ある謎が用意はされるが、トリックより物語の展開や台詞の皮肉や冷笑、状況や登場人物の特異性、また結末の異様さ、不気味さといった、小説の味付けが奇妙というほかない作品を指す。
Wikipediaの言葉を借りれば「読後に無気味な割り切れなさを残す」作品を指している。
O・ヘンリーの『最後の一葉』『賢者の贈り物』のような、心温まる感動ストーリーの対極に位置する物語といえるだろう。
ロアルド・ダール、サキといった名手がおり、本作はダールの『南から来た男』を彷彿とさせる。
まさしく奇妙な味だ。コルムの異様な態度と行動、徐々に見えてくるパードリックのヤバさ。
鑑賞後、いったい結論はなんなんだ?? と戸惑う人は多いと想う。でもこれが「奇妙な味」の面白さだ。
【本作をお奨めしたい人々】
この映画の雰囲気は明るくない。
そして登場人物も明るくない。
話の進みもゆっくりで、コルムのとんでもない言動、行動の他にさしたることは起きない。
が、目が離せない。ページをめくる手が止まらない。
そんな作品だった。
万人にはお奨めできない。しかし、唯一お奨めしたい人々がいる。
それは「小説を書く皆さん」だ。
この映画は全ての要素が慎重に、緻密に構成されている。
一言一句見逃せない。一挙手一投足を見過ごしてはいけない。それらは全てがつながりあい、全てが必然となるように扱われ、無駄なものは一切ない。
こんな脚本を見せられたら打ちのめされるし、ショックを受けつつも触発されて、書かずにはいられなくなると思う。
【人それぞれが持つ存在意義を受け止めること】
ところで、何か失敗をしたとき、
「なぜ、こんなことになったんだろう?」
と困り果てながら自問したことはあるだろうか?
私はある。何度も。
そして考える。こんなことになる前はどうだったか? と。
どこまでも自問すると、結局自分が悪かったことに気づくこともある。
でも、それがもし「人とけんかしてしまった」など、人間関係上のこじれだったらどうだろう。
自問しても答えは出ない。相手がどう考えていたか、それは相手しか知らないからだ。
相手の答えに近づくには、相手がどんな反応をしたか? なんと言ったのか? 実はどう思っていそうか? を吟味する必要がある。
ただしそこまでしても、外から見える行動や言動から予想することしかできない。真意は相手が心の内にあるからだ。
本当の答えはわからない。
本当の答えがあるかどうかすら、解らない。
でも、相手と納得しあう答えには、たぶん近づけるだろう。
人間関係は、大抵「お互いが持つ価値のぶつかり合い」でこじれる。
そのとき、「相手の存在意義を知ること、理解を示すこと」「自分の存在意義とぶつかり合ったとき、どうするべきか考えること」はとても大事だ。
そして、それらを考えるには「人生経験」「知識や見聞」「道徳」のような、とても退屈で地道な日々の積み重ねが必要なのだろうと思う。
コルムとパードリックの持っているお互いの価値は、どちらも尊いもので、ないがしろにはできない。
しかしパードリックは、相手の価値観が見えていないし、認めようとしなかった。
考えるのを放棄し、学びもしなかった。
ただただ自分の価値観の揺らぎに当惑し、それを取り戻そうとばかりしていた。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉が私の頭をよぎった。
【無為の過去と決別し、未来をどう掴むか】
本作は、ある一点を捨てなければ、二人の間が平穏無事になり得ないのが解る。
それは「二人のこれまでの関係」だ。
コルムは自身の指をかける覚悟で、過去との決別を示し、自分の未来を得ようとした。
自分のなしたい未来と、守りたい自分の領域のトレードオフ。相手が侵害してきたら、自分の欲しかった未来を捨ててでも領域を守る、という行動だ。
パードリックは過去に固執し、コルムの覚悟も未来も全く見ようとしなかった。
コルムはパードリックに比べて老い先短い。
人は「リミット」が見えて初めて、濃く生きようとするのかもしれない。
そして、未来を見るには多少の知恵が必要だと思う。
それは決して「知識階級、知的ブルジョワだから」ではなく、「誰でも動けば得られる」ものだ。
その証拠に、パードリックの妹シボーンは本を読み、友人と会話していた。彼女は当然、知識階級ではない。当時の女性に対する扱い、島での自分の見られ方などの悪意と対決し、戦うか逃げるか、自分の人生を前向きに生き、未来を選択する知恵を本や他人から得ていた。
「考える」、つまり行動は、いわばエンジンで、「知識」はガソリンなのかもしれない。
知識が全くないところで考えるのは、とても難しい。多少なりとも知識を学べば、考える行動にきっかけだとか狙いだとかが得られる。知識がないところに知恵は浮かばないのだ。
シボーンは、原題にある「バンシー」の呼び声から、知恵によって逃げおおせた人だと思う。
【役者のこと】
パードリックはコリン・ファレル。『フォーン・ブース』でもそうだったが「僕何にも悪いことしてないのに……」と、巻き込まれたときの慌てぶりや当惑、殺されかける、といった悲喜劇がすごく似合う男だと思う。『THE BATMAN』でバリー・コーガンとともにヴィラン(ペンギン)を演じていたが、眉以外原形を留めてなかった。
コルムはブレンダン・グリーソン。『ブレイブ・ハート』でウィリアム・ウォレスとともに戦ったハミッシュ、『28日後...』で高層マンションに娘と住んでいた、二階から目薬のフランク、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』で主人公をいきなり戦場送りにするブリガム将軍……と、私は何度もこの俳優を見ていたのだが、全く気づかなかった。
シボーンはケリー・コンドン。アヴェンジャーズシリーズでF.R.I.D.A.Y.の声を担当。知らんかった。
ドミニクはバリー・コーガン。『ダンケルク』で、助けた砲弾ショックの男に襲われ、頭を強く打って死んでしまったジョージ。朴訥でいいやつだった。行動の自然さがすごくいい。だが、『THE BATMAN』ではジョーカーを演じたものの、ああいう出演のしかただとジョーカーがバリーでなければならなかった、というさしたる理由はうかがえない(しかしあの妙な狂気じみた感じはすごかった)。
監督はマーティン・マクドナーという人で、天才的な才能のある劇作家といわれているようだ。本作を見てもその片鱗がある。他の作品も見てみたいと思う。
【感想の終わりに】
予告と出だしの様子から、パードリックが余りにもふびんじゃないか? と思った。
しかし見ていくうち、パードリックの計り知れない異常さにおののいた。
本作にはいろいろな暗喩が当然のように落ちている。脚本は慎重で、台詞の一つ一つを聞き逃せない。もし吹き替えだったらどんな台詞が聞けたのだろうか。パードリックが明らかに色々しゃべってるので、台詞を読んでみたいと思った。
人の決心に対して、その背後にどのくらいの時間が積み上がったか想像するのは簡単ではない。
そして、そうした決心を軽んずるのは実に簡単だ。
本作は「black tragicomedy」ブラックな悲喜劇とされているが、私は実に考えさせられた。
何も考えずにいることの楽さ、そしてその罪深さを改めて思い描いた。
感想終わり。
◆雑多な考察
ここからは感想ではなく、色々と考えたこと、見えたものを書いてみる。完全ネタバレ。
【内戦の暗喩】
本作は1923年を舞台とし、アイルランド本島ではイギリス帝国からの独立後、政治思想的な対立があり、内戦状態である。
コルムとパードリックの関係もこれによく似ていると思った。
島には一人だけアイルランドの警官である「ガーダ(ガルダ)」のピーダーという人物がおり、かなり強権的な人物として描かれている。これはイギリス帝国の暗喩ではないかと思った。
マスターや常連客は傍観者、第三者、戦うことを諦めてしまった人々のように見える。
シボーンはパードリックの肉親でありながら、自らの新天地を求めて島から出ていった。それもまた内戦と戦う一つの方法ではないだろうか。
【過去の削除】
映画はコルムが一方的に自身の領域を宣言したところから始まる。
当然、それまでの経緯があるはずだが、そこは全く語られない。語られないだけではなく、かなり慎重なセリフ運びによって「過去の経緯はあったはずなのに、作中から明確に読み取れない」仕組みになっている。
これによって、観客は想像するしかなくなっている。
コルムが激怒するまでに、どのくらいの時間があったのか。
コルムはぶち切れるまでに、パードリックとなにがしかの話し合いをしたのか。
パードリックはコルムに毎日パブでどんな会話をしていたのか。
本当にコルムとパードリックは親友だったのか。
ここで、では私たちが1923年に生きていたとして。
「アイルランドで内戦が勃発した!」というニュースを聞いたとする。
それ以前の情報は、基本的にはない。
ここで、では私たちが2001年に生きていたとして。
「高層ビルに飛行機が突っ込んだ!」という映像を目の当たりにする。
それ以前の情報は、基本的にはない。
私たちが「戦争」を知るのは、ほぼ全て「勃発してから」であり、その前にどんな外交努力が行われたか、どんな水面下の対立があって、どんな諍いがあったかなんてことは、当事者でない一般大衆は知らない。
コルムとパードリックも同じことだ。少なくともコルムはもう関係をやめたいとずっとおもっており、やめるための話し合いや行動をパードリックに示したと考えるのが普通だろう。
だがパードリックはのれんに腕押しとばかりに相手の意をくまないし、全く手応えがない。
毎日のルーティンとうんざりするような無駄話でコルムの時間を奪う。
過去は役に立たない。
宗教も役に立たない。
警官も役に立たない。
まして「まぁまぁ」と第三者が介入したところで収まるはずもない。
「コルムよ、そんなに邪険にするもんじゃない」
「何で一方的にパードリックを拒否するんだ」
「コルムさん、もう一度パードリックと話し合って」
などというのはお門違いなのだ。
では逆に、作中で描かれていないのだから、さしたる過去は全くない、と仮定すると。
パードリックが「昨日まで親友だった」という「すがる過去」が消滅するので、これは矛盾してしまう。過去はあったのだ。
【余談】過去の描写があったら?
本作は「過去何があったかを省いた」からこそ鑑賞に堪える作品である。
もし「もともとコルムとパードリックの間に何があったか?」が描かれていたら?
とんでもなくつまらない作品になったに違いない。
なぜならこんな展開にしかならないからだ。
「退屈なパードリックの話が何度もあり、コルムがうんざりしている。コルムはもういい加減交流をやめたいと思っており、なんどかパードリックに持ちかけたがパードリックは取り合わない。そして――コルムは決心した。きっぱり交流を絶つために、一言爆弾を落とさねばならないと」
これでは物語にならない。
「コルムはよく我慢したなぁ……」
と、観客がコルムに同情するのが目に見えている。
過去の描写がないことで、「コルムが爆発した!」「爆発したコルムにも何か原因があるんじゃないのか?」という疑念を湧かせ、二人の対立という構図を成り立たせている。
【パードリックの異常さ、他人への侵害】
コルムの激烈さがとにかく目立つので、パードリックは人畜無害で単なる被害者に見える。
気が強くないので暴力は振るわない。むしろやられっぱなし。
冗談だよな? とやんわりした笑みで相手と和解したいと思っている。
悪口を言おうとしても忘れてしまう。
動物を愛しており、動物も彼になついている。
酒癖が悪い。
パードリックは「優しい」男なのだ。
が、本当にそうだろうか?
パードリックの実際の行動を見てみるといい。彼は他人の気持ちを想像できないし、理解もできない、しない。
彼は自分にしか関心がない。自分がどうなってしまうか、自分がどう思うかしかない。いつも他人に依存し、また変わらない毎日に依存している。
自分の価値観はある。が、人の価値観が解らない。
なので、「もっと仲良くしようよ」という割には、相手がなぜ豹変したかを想像しないし、相手の興味を引く「その場だけでも楽しい話」ができないし、嘘をついて音大生を追い払うし、何回言ってもロバを部屋に入れる。
極めつけはコルムが指を実際に一本落としたのに「その痛みをまったく想像しないし、できない」。
さらに言えば、自分の大切にしていたロバが死んで、自分の激烈な怒りだけは素直にぶつけていく。
全体を通して、他人を侵犯するのはほぼすべてパードリックになっている。
ちなみに家を焼くのは「戦火があがる」ことの暗喩だろうと思う。
自分に価値観があるなら相手にも価値観がある。それをパードリックは理解できないし、しようとしない。人当たりはよく見える。が、実際は気が弱いだけで我を通しつづける。知恵が働かないから、それ以外の方法を知らないのもたちがわるい。
俗な言い方をすれば、パードリックはマイルドヤンキーなのだ。
どんな理由があろうとぶっちぎってコルムに話しかけ、コルムの覚悟の意を汲むことなく。
コルムの意を汲まないから、愛するロバが死んだときには、「愛するものを殺されて黙っている人間などない」とばかりにコルムの家に火まで付けてしまう。
コルムに一定の非があると考える人は、パードリックの行動をつぶさに見てどう思うのだろうか?
【コルムという男】
コルムもそこまでしなくても……。と思った人は多いと思う。
作中の事象だけ見ると、コルムの言動がすさまじいし、やっていることが過激なのでそう見えてしまう。
でもよくよく見れば、パードリックのサイコパスっぷりの方がよっぽどすさまじい。
ところで、コルムはそもそもどういう男なのだろう。
ある日、パードリックに絶縁を言い渡す。
毎日14時になるとパードリックがやってきて、コルムはパブに誘われる。
あるときパードリックに二時間ウマの糞の話を聞かされる。
※本作は日本語の上映が「字幕」しかなかった。大半の言葉が意味を捉えていると思ったが、パードリックの長い台詞はもっと無駄な言葉が入っているように思う。
もう話しかけるなと言い、話しかけたら「自分の指」を切り落とすと言った。パードリックの指ではない。
そして実際に切り落とした。
港で理不尽な暴力を受けたパードリックを助け、自宅への分かれ道まで馬車を走らせてやり、肩を叩いていたわってやった。
音楽を愛しており、フィドルを弾く。
シボーンほか、普通に会話する。
内戦のことを知っているが、新聞以上の情報はなく、政治に関心をほぼ示さない。
パードリックが酔っ払ってちょっと面白いことを言ったときには、面白くなってきたのに、と聞きたがる様子を見せる。
パードリックがやってきてまた話をし、指を全部落とした。
自分の指が原因でパードリックのロバが死んだとき、懺悔室で狼狽している。
島での暮らしは続けていくが、余命はそれほどないとおもっている。
コルムはパードリックに断固として言い渡した決意と、その意志を貫く精神力を持っている。
では普段もその激烈な物言いで、周囲に自我をぶっ通しているか? といったら完全に「否」だ。
音楽という、他人の楽器演奏と協調しながら弾く作業で上手に溶け込んでいるし、パブで女性の歌にあわせてフィドルを弾く姿は皆の気持ちをきちんとくんでいる。
彼がパードリックに主張したのは「自分の領域をもう侵犯するな」という、テリトリーを守りたい気持ちだけであり、他人を侵害するつもりはこれっぽっちもない。それさえ実現できるなら、他のことには何も言わない。
捨てた自分の指でロバが死んだことによって、図らずもパードリックを侵犯してしまったことに激しくうろたえた。
……という男だ。
ここでやはり思うのは「ここまでスゴいことを言わせ、実行するほどの何が彼らにあったのか??」だ。
【作中以前の過去】
本作は、「観客は外野」と意識させる演出が色濃い。監督が劇作家であることも大きく影響しているのかもしれない。安易に登場人物へ感情移入させることのない、突き放した構成になっている。
なぜかといえば、『【過去の削除】』のところですでに書いたように「外野が事件を知るのは、いつでもことが起こってから」だからだ。
では、ことが起こる前はどうだったのだろう?
作中以前の過去に答えはある気がしてくる。
だが、過去に戻っても後悔する以外なにもできない。だから過去はすっぱり描かれない。
コルムは過去を断ち切りたいと思っているから、過去はもう関係ない。
では、パードリックは?
物語はパードリックを主人公として、彼の視点でほぼ描かれている。
だから過去をみたいと思ったら、本当なら彼の回想なりセリフなりが出てきて当然だとおもうのだが、彼は言えない。なにしろ覚えてないのだ。
もし大切な思い出なり大切な友人との時間があるのなら、何らかの記憶があるはずだが、パードリックは答えられない。
パードリックがとんでもないのは、「昨日まで親友だった」といいながら、コルムとの過去について何も思い出せないことだ。
私はこう考えるのが自然ではないか? と思っている。
パードリックの大いなる無駄話に毎日何時間も付き合わされて、うんざりしていた。
何度か関係を清算しようとコルムは働きかけたが、パードリックは全く理解しようとしなかった。
そんな押し問答がおそらく幾度となくあった。
本作の現在で、ついにコルムは絶縁を宣言した。
こんな所だろう。
【シボーンの決意】
パードリックの妹シボーンは、本をよく読み、友人を家に招いておしゃべりをするのをとても好んでいる。
日常が停滞して老いていく一方の時間の中で婚期が遅れており、兄の世話や女性という立場の弱さや侮辱から、一時は自殺まで考える。だが、ドミニクにより図らずも救われ開眼し、ついに島から出ていく。
彼女の決断は明らかに「書物(知識)」「人間関係」「自身の置かれた状況」をきちんと頭で理解した知恵からきている。知識階級とは何の関係もない。
彼女は港から小さな漁船(ゴールウェイ・フッカー。アイルランド西岸の帆走漁船)で出立している。アイルランド本島との距離はかなり近いはずだ。
生まれ故郷から離れるのは相応の覚悟が必要であろう。たった一人の兄という肉親とも離れなければならないし、女一人だ。が、それほど大それた決意でもない。事実、彼女の出立のエピソードは軽やかですらあり、何らかの一押しさえあれば、彼女はいつでも出て行ったであろう。
シボーンはパードリックへの手紙において「逃げろ」と表現していた。
領域を守ること、相手を攻撃すること、逃げること。どれも人間関係の攻防であり、大規模な戦争の攻防でもある。賢い選択は何か? というのを考えさせられる。
【ドミニク】
聖ドミニコはドミニコ会を立てた人聖人で、嘲笑される人々、偽りを訴えられた人の守護聖人である。
ドミニクは精神薄弱ではないが、頭が弱く、父親から虐待され、島の連中から笑われている若者だ。愚かで場の空気も読めないが、感受性が鋭く純粋で、時に本質を突く。唯一の友人がパードリックだった。
ドミニクのおかげでシボーンは「女性としての価値」を再確認して救われたが、代わりに振られたドミニクは、友人を失い、内心抱えていたであろう希望(シボーンと結ばれること)を全て失って命を落とした。
死の原因については真相は不明だが、他殺以外であるのは確かだと思う。
老婆マコーミックの謎めいた予言は聖パトリックには及ばず、加護のないシボーンに向いていた。しかしドミニクがその一切を受けて死ぬ、という結末になっているのは、なかなか皮肉が効いていると思う。
コルムとパードリックの「内戦」をアイルランド内戦の暗喩でもある、とする私の考え方からすると、いささか牽強付会ではあるが、ドミニク青年は当時のイギリス国王ジョージ五世の嫡男エドワード八世(人妻との不倫と結婚で退位した元国王。「王冠を賭けた恋」で有名)に似ているようにも見受けられる。
【第三者たち】
マスターや常連客などは、コルムの態度の豹変をよくわからないでいる。パードリックは「いいやつ」といいながらも、若干引きつっている。
彼らは内戦の暗喩からすると完全に第三者である。浅くしか彼らを知らないし、立ち入らないようにしているし、島の人間でありながら、二人に積極的に介入するでもない。
同胞として何とかするべきところ、無策であり、無関心か諦めてしまった人々、つまり一般大衆なのだろうと思う。
【毛刈りばさみ】
コルムは自分の指を羊の毛を切る毛刈りばさみで断ったが、なぜあんなモノを持っていたのだろう。
あの島は家庭に一つあるんだろうか? アイルランドだからか?
これは、ちりばめられたキリスト教のモチーフの一つなのだろう。いわゆる「神の子羊」だ。
パトリックに迫られた聖コルンバが、羊を意味するはさみで指を断ち切る。
懺悔も意味をなさない、徹底したキリスト教への皮肉と無意味さがずっとついて回っている、と思う。
ついでに、本作のロケーションには、二人の家の分かれ道に「マリア像」が立てられている。また港にはケルト十字の石碑が建っている。全編にわたってキリスト教の意識が貫いているのは確かだ。
しかし港のシーンになるとあれほどまでケルト十字を大写しにするのは、何か意味があることなのだろうか?
現時点で私にはよくわからない。
【雑多な考察の終わりに】
みればみるほど色々なことが見えてくる。通り一遍の感情でみてもいい。映画に限らず「鑑賞」はそういうものだ。しかし気がついたこと、知っていることなどを丹念に当てはめたり、解らない部分を調べてみると、その作品には様々な意図が含まれていることに気づく。
そういう気づきを得たとき、より深く作品が楽しめるのは確かだと思う。
今回私は気づきをさらに調べてみて、アイルランドの近代の歴史に興味を持った。映画とは直接関係しない部分にも手を伸ばしたことによって、色々面白いことを知った。
映画一本でこれだけ楽しめたのは幸いだし、今後も面白い作品を鑑賞し、同じように考えたり悩んだりしていきたい。
おわり
「」ヨムカク。 桃樹 @rihla_bazaar
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