三巻/エピローグ

hatred

 白磁の肌は、艶色を失って眠っていた。彼は、神様の手で精巧に造られた彫塑ちょうそみたいで、心麗うらぐわしい睫毛を揺らすことさえなかった。晩照がどれほど彼を色付けても、そこに熱は通わない。彼の頬に触れても、僕の体温が透き通って消えるだけ。


 窓明かりがハンモックを作って僕達を包んでいる。それなのに、ひどく、寒い。引き攣った息が喉を焼く。僕の啼泣だけが、響く。微かな吐息さえも、彼は零さない。


 嫌だ。


 エドウィンがいなくなるなんて、嫌だ。せっかく会えたのに。ずっと、一緒にいたかったのに。嫌だ、嫌だ、嫌だ。こんなの、いやだ。


 頑是ない幼子のごとく、声もなく喚いていた。彼の傍から動けなかった。僕の名前を呼んでくれた声が、鼓膜から離れない。本当の僕を、優しく受け入れてくれた解顔が、角膜から離れない。


 前腕を失くした彼の肘を持ち上げて、冷え切った袖を握りしめる。指を絡めることすら許されないのが、悲しい。この息吹を彼に捧げることさえ出来ないのが、悔しい。


「エドウィン……いなくならないでよ……」


 彼が意識を手放す前に、そう告げていたら、何かが変わっただろうか。


 彼が、僕を抱きしめてくれて嬉しかった。ずっとそうしていたいくらい、あたたかくて、幸せだった。だけど、彼が倒れて、その傷口に触れて、助けられないと理解した時、万感で頭がおかしくなりそうだった。


 ただ、意識を繋ぎ止めなければと必死だった。そうすれば、誰かが助けてくれる。そう信じた僕は、あまりに利己的で、愚かだった。


 魔法を使おうとして、でも、出来なくて、諦めてしまったのだ。僕には、救えないって。だからせめて、彼と、話がしたい、って。


 なんだ、それ。ふざけるな。


 自分に対する怒りが、膨らんでいく。水泡に包まれていく視界を手の平で覆い隠して、ひたすらに呻いた。彼の胸に倒れ込みそうなくらい項垂れて、彼に被さって、咽び泣いていた。


 頭の中に、シャノンの声が響く。葉先からしずる雪のような、静かな響きだった。


 ──メイ。かなしい、ね。


 泣き出しそうに、脳が揺れる。僕は静かに頷いて、エドウィンを抱きしめ続けた。


 どのくらいの間、そうしていたのだろう。階段から響いた靴音が、僕の背筋を伸ばす。ぼやける目を背後に向けて身構え、片膝を立てる。彼を、これ以上傷付けさせはしない。


 衛兵は大勢殺してきた。国王とクレイグだけは見つけられなかった。ここに現れるとすれば、クレイグだろうか。上ってくる影を見定め、扼腕して待ち構える。


 だが、駆けあがってきたのは、マスターだ。広い宮殿内を走り回っていたのか、彼は荒い息をして、肩を上下させていた。


「メイちゃん、ここにいたのか! エドウィンは……」


 安堵した瞳が、僕の後ろを見遣って瞠られていく。硬直した彼の顔が、愴然を露わにして青ばむ。その姿に、僕は奥歯を噛み締めていた。


 僕をエドウィンから遠ざけて、エドウィンの命で僕を脅しておいて──今更、なんでそんな顔してるんだ。


 掴みかかる代わりに、僕はその場で床を打っていた。打ち付けた拳の側面が痛む。痛みを以てしても、激情を堪えきれずに立ち上がっていた。


「遅いんだよ……! 貴方がここにいれば、エドウィンを助けられたかもしれないのに! 貴方のせいで!!」


 飛び掛かりそうになった僕は、見えない手に後ろ髪を引っ張られて踏み止まる。シャノンが僕を諫めていた。マスターは、深く苦しんだような顔で僕を見つめていた。


 彼のせいだけじゃない。僕達はお互い、選択を間違えたのだ。間違いと間違いが絡まり合って、現実が僕達を嘲笑っていた。


 元には戻れない。それでも、考えてしまう。僕がもっと早く、クレイグに抵抗していればよかった? 初めから、マスターの話を聞き入れずに戦っていればよかった?


 夜会の時、僕も一緒に行きたいって、我儘を言えばよかった?


 己の甘えが、どんどん浮き彫りになってくる。この世に『絶対』なんてものはないのに。


「っ、違う……僕のせいだ。僕が、自分のことばっかりで、誰かを救う力を身に着けようとしなかったから。もっと魔法を学んでいればよかった。僕だって、貴方と同じ血液型で、傷を癒せる魔法を使えたはずなのに……! 出来なかったんだ! 死なないでって、こんなに、こんなに祈ったのに! 治せなかったんだ……!」


 泣きじゃくり始めた僕に、彼がゆっくりと近付いてくる。肩に触れる掌が慮外なほど優しくて、僕は尖り声を呑み込んでいた。撥ね退けてしまいたいのに、目の前の哀傷を否定するような真似は、出来なかった。


「すまない、私のせいだ。君は悪くない」


 彼も、泣き出したいのを堪えているのかもしれない。そう思うくらい、掠れた声だった。


 僕は、エドウィンと一緒にすべての四季を歩めなかった。何年も一緒にいた彼の方が、たくさんの思い出を抱いているはずだ。


 たった数ヶ月の、淡い日々が溶け出して、鉛のように肺を塞ぐ。なのにマスターは、どうして息苦しくないのだろう。どうして、こんな思いをする前に、僕達に寄りそってくれなかったのだろう。


「貴方は、これでもクレイグの味方なのか。エドウィンが、こんな……こんな風に殺されても! 贖罪だからって認めるのかよ!?」


 何故今更、マスターが僕を探してここに来たのか。きっと、衛兵との決闘を荒らした僕を、クレイグに言われて捕えに来たのだろう。そう思っていたから、面食らった様子で静かに首を振られ、動揺した。


「すまなかった。ずっと、君達を巻き込んで、苦しめて。エドウィンにも、怒られたよ。エドウィンと、話したんだ。話した、というより……戦って、負けた。だから、今の私は贖罪に縛られた王子じゃない。君達の味方だ」


「話したって……一緒にいたの? じゃあなんで、エドウィンは一人で戦ってたんだ? なんで、貴方が傍にいなかったんだ……!」


「私は……」


 彼は、勢いで返答しようとしてから、言葉に詰まっていた。眼差しが左右へ彷徨う。それが中央に戻って、僕を映した時、彼は困ったように笑っていた。


「メイちゃんを、探していたんだよ。エドウィンが、君を助けてくれって、そう言ったから。彼は一人で……復讐を果たすために、ここに残ったんだろう」


 千草色の瞳は僕の向こうを映して愁いを浮かべる。エドウィンを見ているのか、その奥の扉を見ているのか。過去を、静かに思い返しているようだった。


 僕は投げかけられた返事を、ずっと、頭の中で繰り返す。エドウィンが、マスターを遠ざけて一人で戦った理由。自分のことよりも、僕を想ってくれた彼。


 彼を、振り返った。大理石に横たわる姿は、絵画のようだった。歩み寄って、傍らに膝をついて、静謐せいひつな輪郭を揺り動かす。エドウィン。と、落とした呼声は、きっと届かない。


「僕は、魔女だから……助けなんてなくても、大丈夫だったんだよ。なんで、そんな心配して……」


 もっと自分を大事にしてほしかった。だけど彼の優しさに、慈しみが溢れて。愛おしさが僕の喉を塞ぐ。離れていても、彼は、僕を大切に思ってくれていたのだろう。


 こんなに恩愛を注いでもらえたことなんて、なかった。それでも、僕は欲張りだから。もっと沢山、彼がくれる愛情を抱きしめていたかった。


「帰ろう、メイちゃん。これからのことは、エドウィンを弔ってから、考えよう。今は彼を……ゆっくり、休ませてあげるんだ」


 背中に降りかかる声へ、小さく頷いた。エドウィンは、何の花が好きだろう。考えて、少しだけ寂しくなった。誰よりも大好きだったのに、彼について、知らないことばかりだった。


     *


 葬送の歌は清籟せいらいに消えて、僕達は歔欷の中に取り残されていた。蒼穹に見下ろされる墓地は、喪服の人々で黒み渡っている。


 エドウィンの葬儀は、カレンさんの葬儀と同時に行われた。彼女の家族や、二人を弔ってくれた酒場のお客さんが、涙ながらに帰路を辿っていく。


 エドウィンは、たくさんのお客さんに愛されていたみたいだ。それがなんだか誇らしくて、僕は泣きながら微笑んでいた。


 カレンさんのご家族も墓から離れていく。アビーが泣き返った顔で僕に片手を振ってくれる。彼女に手を振り返し、腫れた目をしたリンダさんに会釈をした。


 僕と、ユニスと、マスターだけが、幽静に佇む。少しだけ肌寒くて、羽織ってきたエドウィンのコートを軽く引っ張った。コートにはまだ、彼の体温が残っているような気がした。それが錯覚でしかなくとも、とても温かかった。


 墓には、沢山の花が供えられている。白い花が多いのは安らかな眠りを祈る為。赤い花が多いのは、きっと彼の眼差しを忘れられなかったから。


 小さな花畑に、小さな影が近付いた。ユニスが一歩だけ、彼が眠る場所に、歩み寄っていた。トークハットのレースの向こうで、彼女の目尻が幽かに光る。


「約束、したじゃないですか。貴方って本当に、無茶ばっかり……」


 零れた涙は、彼女の両手に掬われていた。彼女は顔を覆って、か細い肩を震わせる。必死に押し殺されている幽咽が、僕の胸を刺す。


 ユニスがどれほどエドウィンを好きだったか、僕は知ってる。マスターからエドウィンの死を伝えられた時、彼女が赤子のように号哭していたのも、知っている。


 強がっている今の姿が、見ているだけでも辛くて、袖を引かずにはいられなかった。


「メイさん……」


「ユニス。……抱きしめても、いい?」


 濡れそぼった顔が、持ち上がる。ユニスは唇を震わせて、辛そうな息をする。流涙は止まらなかった。赤らんだ目で僕を見つめて、そっと、踏み出してくれた。


 臆病な手つきで、彼女は僕にしがみつく。震える体に腕を回して、強く、抱きしめる。僕の胸元に、泣き声が零れた。歯止めが利かなくなったみたいに、その声は乱れて、彼女は天心に届くほど泣哭きゅうこくしていた。


 ユニスの向こうで、マスターが僕達を見守ってくれている。彼と困り眉を向け合いながら、しばらく、哀絶を受け止めていた。


 ユニスがしゃくり上げて身を引いていく。ほんの少し離れた彼女は、僕のコートの襟を引っ張って、寂しげに笑った。


「エドウィンの、香りがしますね」


 涼風が強く吹いて、僕達の間に赤い花片が舞い込む。はためいたコートが清香を漂わせた。まるでそれは、彼が通り過ぎた後の、残り香だった。


 己の体を、そっと掻き抱く。彼のコートに、手の痕を刻む。


「そう、だね。あったかくて……手放せなくなっちゃった」


「あとで、私にも貸してくださいね」


 拗ねた口吻に、長らく気抜けた反応をしてから噴き出した。ユニスも、そんな僕を見て可笑しそうに笑っている。コートの取り合いだなんて、エドウィンが知ったら呆れるだろう。相和する僕達を見て、胸を撫で下ろしたマスターが、靴音を鳴らしていた。


 近付いた彼は、色を正して僕を正視する。真剣な目遣いに、僕も思わず姿勢を正していた。


「メイちゃんは、エドウィンの故郷で読んだ、神話を覚えているかい?」


 神話。確か、魔女を造った、古い時代の人々の話。


 人間に植えられた魔力の種、人間が奪われた魔法の記憶。全ての因果が、童話みたいに記されていた書物。


 脳裏で留記を捲り、首を傾げる。


「なんで今、そんな話を」


「兄……クレイグは、エドウィンの心臓を欲しがっていた。人間の心臓に宿る『魔力の種』は、同じ血を繋ぎ続けることで開花する。エドウィンは、特別な血を継ぎ続けた『魔力の花』の持ち主だった。兄は彼の心臓を神に捧げて、この世から魔法を消すつもりなんだ」


「なんですか、それ……」


 書物を読んでいないユニスが、わけがわからないと言いたげに眉を顰める。僕は今一度追考する。古ぼけた本を、脳裏で捲って文字を追う。


 古代の王は天罰を受けて死んだ。その息子である王子は、贖罪を背負わされて生かされた。種を開花させるために、美しい一族の色を受け継いだ。


 それが、エドウィンの血筋であると、マスターは語った。信じられない思いが込み上げる。それと同時に、エドウィンの現実離れした芳姿ほうしに、納得してしまう。


 しかし、その納得は当然、彼の畢生ひっせいに対するものには成り得なかった。


「そんな、ことの為に……そんな馬鹿げた物語のせいで、エドウィンが殺されたっていうのか⁉ そんなの、思い通りにさせてたまるか……!」


 殺してやる。


 クレイグへの殺意が、熱く流露してくる。許せなかった。クレイグが魔女に抱く怨みも、魔女の生まれない世界を望む気持ちも、理解できるのに相容れなかった。


 他人の命を犠牲にして理想を追う。魔女を生む研究者達と、何が違うというのだろう。


 僕の唸りは、マスターの落ち着いた声に押し退けられる。


「そうだね。だから、探そう。私達も読んだ通り、あの本のページは破れていた。心臓をどうすれば神に捧げられるのか、兄も知らない。だから、兄もその術を探すはずだ」


 彼に頷いたのは、ユニスだ。涙ぐんだ眼は凛と、僕達を見回していた。


「つまり、その人よりも先に神話の記述を探して、食い止めるんですね」


「同じ目的で動けば、僕達が探している間に、奴本人と遭遇できる可能性も高い……」


 唇を噛み締める。怨恨を心髄まで沈めていく。牙を、収めていく。憎しみを振り抜くのは、奴と再会した時だ。それまでは深く、肋骨の向こうへ埋めて、研ぎ澄ませる。


 僕は顔を上げた。心臓を失くしても、僕に会うまで生きてくれた彼を、涙眼で見つめる。彼の強さに、瞳が濡れていく。


 結んでいた唇は、ふ、と力を緩め、掠れた息を吐き出した。


「絶対に、エドウィンの心臓を取り戻すんだ」


 意を決した僕に、マスターとユニスが笑って頷いてくれた。帰ろう、とマスターが言って、僕達は小さな花畑から離れていった。


 先導するマスターとユニスの影。俯けば、僕の影が伸びて、二人の足元にくっついている。いつもなら、そこには彼の影もあるはずで、俯く僕に『どうした?』って優しく声を掛けてくれるはずで。


 もう、そんなこともないのか、と、虚しさに襲われた。

 後ろ髪を引かれ、立ち止まっていた。彼の墓を、振り返る。幾人いくたりもの情愛で鮮やかに飾られた、彼の居場所。


 彼は、大切な家族の元に向かうのだろう。だけど、僕達という家族のことも、忘れないで欲しかった。


 眠る彼を想って、瞑目する。


 今も、時折夢の中にいるような気分になる。悪夢を見ているだけで、エドウィンが起こしてくれるような──そんな空想に、浸りたくなる。


 大切なものを失うたび、夢裡に逃げたくなる。それは、この肉体を譲り受けたあの日から変わらない。シャノンとして生きた全部が夢のようで、だけど現実だったからこそ、僕はまた誰かを信じることが出来た。エドウィンと、出会えたおかげだ。


 震える肩に慰めの温度が纏わりつき、苦笑する。シャノンの意識が僕の髪を揺さぶって、腕にくっついてくる。きっと彼女も、寂しくて堪らなくて、しがみつかずにはいられなかったのだろう。


 僕達はずっと、優しさを教えてもらったから。彼が沢山、甘えさせてくれたから。思い出は全部、この双眸の内にある。彼に抱いている深愛は、僕だけのものじゃない。


 頬を流れた冷たさに、目を開けていく。風に煽られた髪を撫でつけて、ユニスとマスターが待つ場所へ、歩き出した。


 ──夢語りは、終わりだ。


 道はうつつにしかない。それを、しかと踏みしめる。


 彼を殺した仇敵に繋がる道。僕達にとっての大罪人を、誅戮ちゅうりくする為の道。








────あとがき────


 お読み頂きありがとうございます。


 メイの物語が始まるまで、時間がかかると思いますので、一旦完結の設定にさせて頂きます。今暫く、お待ちいただけると幸いです。


 私自身、エドウィンがどんな最期を迎えるのか分かっておらず、彼がどんな気持ちで終わるのか、実際に書くまで分からなかったのですが……最後まで生きることを諦めない姿が、書きながら浮かんで。


「あぁ、これが彼なんだな」という気持ちになりました。


 エドウィン、ありがとう。


 彼の姿を見届けてくださった読者の皆様にも、深い感謝を申し上げます。

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誅戮のヘイトレッド 藍染三月 @parantica_sita

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