retribution7

 真っ直ぐに仇敵を射抜く。振り上げられている彼の腕。血が滴る音は、もう聞こえない。仮初の右腕を強く握りしめた。怨憎はひどく熱かった。


 中空の彼が異変に気付いていた。しかし自ら邁進した速度はどうにもならないだろう。何より、たとえ彼が退こうとも、逃す気はない。


 突きを躱すと同時にその腕を切断する。閃かせた己の手は赤黒い刃を象っていた。魔女のように鋼をも断ち切る手。その切っ先を、よろめく彼の心臓に、深々と突き刺した。


「死ぬのはお前だ」


 刃を引き抜き、彼の胴へ赤い水平線を刻む。両断された体が、足元に落ちる。


 鑿空さっくうした彼の胸を見下ろす。魔女は心臓や脳を潰しても、死なないことが多い。それゆえ、四肢を失くして仰臥した彼の首へ、狙いを定めた。肉の露出した喉は上下して、余喘を漏らしていた。


「なぁ……アッシュフィールド。どうしてあの時……見殺しにしたんだ」


 虚ろな眼が俺を睨め上げる。問いかけの相手は、俺ではないのだろう。彼の肉体たる、父でもない。赤い瞳が、俺の虹彩を忌々しげに正視していた。父の眼差しで逆恨みを湛える彼から、目を側めた。


「地獄で当人そいつに訊いてくれ」


 革靴を、頸椎に叩きつける。虫の息はそこで終わった。葬った命に、色の分からない溜息を吐き出していた。奪われた家族が眼裏に漂う。コーデリアも、両親も、これで安らかに眠れるのだろうか。


 割れた窓から、瑞花が舞い込んだ。白片が、血の海に溶けていく。色彩があの日に似ていて、潰えた故郷の記憶に、意識は沈んでいく。交睫が黙祷になることを願って、そっと目を開けた。


 寂寞に、浅い霧が浮かんで消える。乱れた息を整え、なえぎながらも廊下を目指した。血液も、魔力も、足りない。だが、メイの無事を確かめるまで、倒れるわけにはいかない。


 マスターは頭が回る。魔法を駆使して難なく着地出来ただろう。彼とメイが合流出来ていることを願い、造りものの手でドアノブを捻った。


 重厚な扉を引き開け、霞んだ視界で──いつか見た面影に、視覚を絵取られる。マスターとよく似た千草色の星眼が、すぐ傍に、在る。


「ッ!」


 革靴は外へ踏み出すことなく傾き、滑らかな石の上に踵を打ち付けていた。突き除けられた痛みが全身に伝播し、次第に胴部へ凝集していく。仰向けに倒れた俺を、クレイグが見下ろしていた。


 跪いている彼の手元が銀色の柄を動かす。内臓をりなす灼熱に、喉が引き攣った。


「魔女など生まれない世界になればいい。そうは思わないか?」


「は……」


 傷口を広げる彼の手首を、掴んだ。アテナも心臓を欲していた。この男も、同じなのだろう。抗心を剥き出し、彼の腕を磨り潰していく。互いの呻き声が重なり、彼の腕が掌中で折れた。だが、彼は片腕を犠牲にして、無傷の手を俺の内臓に押し込んだ。


「ぁ、ぐ……!」


「私はこの世から魔法を消し去る。『魔力の花』を使って」


 内側から胸郭をこじ開けられていく圧迫感。収縮する肺を打たれて嘔吐く。早鐘を打つ心臓に、彼の手が絡まる。拍動を強く引かれ、息苦しさに全身の魔力が霧消していた。


「────!」


 幾本もの管が引き千切られ、躯幹が痙攣した。動脈が熱を吹きこぼす。扉の向こうにある返照が、溶暗していく。赤い逆光と彼の影が溶け合っていた。影絵へと変わっていく彼の手から、滔滔とうとうと滴が零れ、それがやけに眩しく思えた。


「安らかに眠れることを、祈っているよ」


 睫毛が、交差していく。そのまま闇を見つめる。塞いでいく夜の暗さではなかった。微かな陽射しが瞼に触れ、朝焼けに向かうような薄闇だった。耳鳴りがまだ聞こえていた。五感は正常で、呼吸が出来る。だが、このままでは死ぬことも、理解していた。


 死ぬのか。


 仄明かりが、走馬灯じみた追想を描く。一面の夜空に、思い出が星のように散らばっていく。村にいた日々も、コーデリアとの約束も、メイとの出会いも、ユニスと交わした言葉も、泡影となって、くずれていく。


 話がある、と、メイが緊張した面持ちで言っていた。カレンの母が、憂わしげに俺を見ていた。ユニスが、晴れ退いた色差しで放笑していた。


『貴方が諦めないから、私も諦めないでいられるんです』


 俺は、苦笑いを浮かべて床に爪を立てていた。諦めるわけには、いかなかった。彼女のおかげで、まだ立ち上がれる。


 止まらない血液を《拡張》する。右腕を形作ったのと同様、血を掻き集めて心臓を想像する。脈打つ錯覚は残留していた。その形無しの鼓動に、実体を与える。全身が熱い。迸る魔力が、神経という神経を焦がしていく。


 生彩が行き渡る痛みに胸を撫で下ろしていた。存生している現実と向き合う為に、目を開けた。そうして体を起こす。赤く染まった胸元を一瞥し、歩き出す。針の上を進むような疼痛に苛まれていった。


 踏み出した通路は、眩暈がするほどの晩景を映し出している。数刻、眠っていたのだろうか。雲に覆われていた空は、いつのまにか千切れた紅霞こうかを燃やしていた。人肌を思わせる夕陽が温かく、寂びれていた。


 長い廊下を打ち眺める。衛兵は一人もいなかった。クレイグの姿も、跡形もない。残夢を彷徨う時の悲観を噛み殺して、前へ進んだ。


 靴音は、二つ。


 それは、俺の歩みが木霊したわけではない。一路の奥で、皎白がたなびいていた。


 階段を飛び越えて降り立った少女が、振り向く。懐かしい姿が、斜陽の奥にある。眩い真珠色の長髪。透き通った白皙。ワインレッドとカメリアのオッドアイ。夕焼けに溶けてしまう雪のような瓊姿けいしは、霜刃のように凛然と立っていた。


「エドウィン……?」


 赤い明眸が満月のように丸くなっていく。彼女の呟きは、俺の元まで、はっきりと届いていた。俺を見つけて華やいでいく花貌が──嬉しくて。立ち尽くしたまま、ただ微笑みかけていた。


 数歩近付いたメイが、蒼褪めていく。焦燥した彼女は、真紅の紐を揺曳ようえいさせて駆け出していた。


「エドウィン!!」


 目の前で踏み止まった彼女を見下ろす。狼狽えている雪肌に、血が伝っていた。頬の血を拭ってやろうとして、己の腕が血の塊であることを思い出した。震える手が、崩れていくのを感じ取る。消えてしまう前に、彼女の体を片腕で抱きしめた。


「メイ……無事、だったんだな」


 少しだけ、現実を疑っていた。メイの体温が、現実感を伴って染みてくる。まるで温めるように、彼女は俺の背中に手を回してくれた。陽だまりよりも、温かい。


「僕は、全然。それよりも、傷が……──!」


 動揺で震えている背中を、強く、掻き抱く。その時にはもう、指先は壊れていた。


「遅くなって、ごめんな」


 離れている間、どれほどの塗炭が彼女を蝕んだのだろう。守りたかった。己の無力が、悔しくて堪らなかった。けれど、彼女が生きてくれていただけで、ひどく安心していた。


 力が抜けて、膝から崩れ落ちる。脱力に抗えず、右肩を床に委ねていた。保っていた腕はそこになく、僅かな血だまりを広げていた。


「エドウィン!」


 傍らに屈んだメイが、流血する腕を押さえて俺を映す。繊指は震えていた。彼女は俺の胸元を見遣り、息を呑んでいた。両手が腹部を押さえる。止血しようと思ったのだろう。真っ白な手を赤く染めながら、波打つ髪を左右に振り乱していた。


「っ、遅くなんて、ない。僕のこと、探してくれてただけで嬉しい。僕も、ずっとエドウィンに会いたかったんだ」


 泣き出しそうな笑顔に、力無く笑い返した。何か、言葉を返してやろうとして、唇が上手く開かない。小さな隙間だけを生んで、浅い呼吸を繰り返す。腕の先から凍えていくようだった。だんだんと、身動ぎすら出来なくなる。心臓が揺れているのか、分からなくなっていく。


 閉目しようとして、目の前に降りた燦爛たる赤が、俺の視線を引き上げていた。


「エドウィン、動かないで。傷……治さないと……」


「ああ……」


 頼りない肩から白髪が零れ、俺の頬に触れる。彼女が作る日陰は、俺を庇蔭ひいんしているようで、穏やかだった。強い力で、そっと創傷を押さえる彼女。強く、押さえて、押さえて。その手は、震えながら俺のシャツに皺を刻んでいた。


 温かな雨が降り出す。零れた涙は、彼女のものなのか、俺のものなのか。分からないくらい、清福を湛えた笑みを向け合っていた。


「ねえ、エドウィン、聞いて。ずっと、聞いてほしい話が、あったんだ。あのね、本当は、僕はシャノンの……この体の、姉じゃなくて、兄なんだ。女の子じゃなくて……それでも、僕はエドウィンのことが、大好きで。本当に……本当に、大好きで。大好きで。でも、えっと、そうだ、名前。ほんとは、僕、名前……」


 涙声が、もつれながらも真情を綴っていく。ようやく、彼女の話を聞いてやれた。安心して、彼女の涙を拭ってやろうとして、失われた腕に苦笑した。


 伝えたいことは、いくつもある。性別なんてどうでもよかった。注がれる好意は、愛おしかった。ただ、ひたむきで、飾らない彼女に、惹かれていたのだから。


「……メイ。本当は、なんて、名前なんだ?」


 きっと、それは彼女にとって大切なものなのだろう。だから、意識が朦朧とする前に、大切に受け止めてやりたかった。


 メイは、大粒の真珠を零しながら、花唇を震わせて開口する。長い睫毛がまたたいて、鮮やかな赤を広げる。解語の花は、かわらかに咲笑った。


「メイナード。僕は、メイナード」


 少女は少年のように笑う。メイ。メイナード。どちらの響きも、彼女によく似合っていた。大切に隠されていた音色は、きっと彼女を彼女たらしめる。名前を呼んでやりたかった。沢山の言葉を、紡ぎたかった。けれど、全てを披瀝するには、今は息が足りない。せめて伝わるように、相好を崩していた。


「そう、か。良い名前だな。メイ、ナード……」


 不安げに明かしてくれた彼女は、知らないのだろう。俺がどれほど、彼女を大切に思っていたか。何を隠されても、何を明かされても、笑って抱きしめられる。もっと早く、教えてくれてもよかったんだ。


 メイの笑顔が、崩れていく。拭われない涙を見上げて、俺は、冷えていく血液に奇跡を祈った。


 もう一度だけ、魔法を。


 気道から込み上げる血を呑み込み、片腕を持ち上げる。徒物あだものの指先で、彼女の涙をぬぐった。彼女の頬を、包み込んだ。


 ──大丈夫だから、そんな顔をするな。


 そう告げて安心させてやりたかった。けれど、衰弊した肺が声を紡がせてはくれない。瞼が重い。柘榴石の砕片が袖に溜まっていく。細めた視界には霞硝子のような水膜が張り付いて、メイの容色を滲ませていた。


 少しだけ、目を閉じる。もう一度立ち上がる為に、僅かな眠りへ落ちる。休らう中で、魔力が回復すれば、まだ戦えるはずだ。


 無感覚の暗闇が、音を呑み込んだ。メイの声も、己の心音も、聞こえなくなる。感じたことのない静けさに意識が絡め取られていく。


 目を覚ませば、安堵して飛びついてくるメイと、涙ながらに怒るユニスがいるのだろう。リアムの苦笑も目に浮かぶ。皆でカレンに花を供えて、グレンに会いに行って、観光をして──。


 笑いさざめく家族を思い宥らみ、深い夢の底へ、感情が漂溺ひょうできしていく。


 譫言うわごとが音もなく、無影の渦に巻かれていった。



 約束を、守らなければ。

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