retribution6

 深く息をする。彼を連れてユニスを迎えに行ったら、彼女は喜ぶだろう。そこには、メイもいなければならない。ナイフを納刀している彼に、一歩歩み寄った。


「メイはどこだ。無事なのか?」


 問いかけに、温順な彼の相貌が息無に蒼褪めた。耳鳴りよりも五月蝿く、心臓が揺れた。息を吸えば、肺が引き攣ったように痛んだ。


 晦晦かいかいと蒼茫な影が広がり始める。いつのまにか、雲は赤烏せきうを隠している。難色を浮かべた彼が言い掠んでいた。


「メイちゃんは……あの子は、優しいからね。きっと、兄上に従って死ぬことを選んでしまう」


「どういう……」


 拍動が、警鐘を鳴らしていた。耳殻が受け止めた微かな一音。錯覚じみたそれに背筋が粟立って、目を見開く。


 何度も味わった、感覚。本能に突き動かされるまま、俺は困り顔をしている彼の胸倉を掴んでいた。


「エドウィ──」


「リアム、お願いだ。メイを助けてくれ」


 優先すべきはメイの救出。リアムはきっと彼女の居場所を知っている。だとしたら彼を引き止めるわけにも、ここでこれ以上負傷させるわけにもいかない。彼が視一視している俺は、どんな顔をしていたのだろう。


 上階のホールから飛び立った闖入者の足音。俺達を掻き暗した影が、色深しい死であることに、リアムはまだ気づいていなかった。それが降りかかるよりも早く、込められる限りの魔力を注いで、彼を窓の外へ投げ飛ばした。


 窓と壁が砕ける音を片耳で聞きつつ、振り向きざまに刃を抜く。刀鋩で受け止めたのは人間の素手。赤い紐が蒼然に映える。魔女たる男の前腕部は、利刀さながらに硬く、重かった。


 重苦しさを叩き落として去なし、すぐさま後方へ跳ぶ。老いた父の姿が、そこに在る。


 アテナは払い除けられた己の手を見つめ、赤い紐を掴んでいた。皮下に至るまで縫い付けられたそれを、厭わしげに引き千切りながら、くつくつと笑っていた。


「この前は見逃してあげたが、今日は君を殺しに来たんだ。アッシュフィールド、君達はな、存在するべきじゃなかったんだよ」


 薄暗い室内に、風塵が吹き込む。くだけた窓硝子は雪華のようで、灰のようだった。アテナは赤い目遣いに俺を沈めたまま、譏笑きしょうする。父の肉体を奪い、妹を殺し、いくつもの生命を手折ってきた彼が、俺に手向けた言葉。その余韻が失せるまで、その雑音を、胸裏で反芻していた。


 焦熱の魔力が、骨を這い回っていく。憎しみが顔ばせを覆いつくした頃、髪を揺らす寒声に、ざらついた突声を重ねていた。 


「存在するべきじゃなかったのはお前の方だ。これ以上、命を弄ぶな」


「君は何も知らないのかい? 命を弄び続けて、魔女を生み出したのは、君の血筋らしいじゃないか」


 彼は自身の胸元を叩いて不興げに口角を歪めていた。器として利用している父にも、魔女にも、落胆しているような口吻。訳の分からない物言いに眉根を寄せ、片腕を構えていた。


 煩わしい耳鳴りをも押し退けて、仇の風が肌を引き攣らせた。


「少年。先祖の罪を──君が償え」


 瞬きをした寸閑、怨声が耳朶に触れる。彼の手の平が、胸元にある。彼の靴音は遅れて反響し、俺の拍動を穿刺した。肋骨を目指して突き立てられた鉤爪。痛みの起端が深くうずまる前に、彼の脇腹を勁鋭けいえいに蹴り退ける。


 ぶつかり合った肌骨。それを歪めた確かな手応え。


 だが顧みた目路で彼は悠々と佇んでいる。靉靆あいたいたる雲の陰影を冷笑で受け止めて、傷一つない風体で指の骨を鳴らしていた。


「俺は、他人の罪まで背負うつもりはない。お前に殺される筋合いは、ない……!」


 剽疾に飛び出す。彼我の距離が零になる。打ち籠んだ剣鋒。押しひしぐ彼の腕。皮膚を痺れさせる金属の鳴動。込めた魔力は不十分だった。腕を通徹することは叶わない。


 永遠に続くような鍔迫り合いの須臾しゅゆ。俯いた睫毛が瞬く前に、刃へ魔力を注ぎ込む。


 転瞬。


 歪ませた肉体の感触は大理石の影に逃げ散る。切り落とす力を下方へ逸らした彼。今やその姿は死角に潜む。


 魔女特有の速度に歯噛みして己の速度を上げた。ことわりから遊離した遅速。研ぎ澄ませた神経で鮮少の殺意を手繰る。風が荒々しく乱れたのは左。近接する彼の腕は既に振り上げられている。


 耳元の時計に念じた。まだ動くな。まだ。


 漸進する秒針を追い越し右腕を突き出す。それでも間緩まぬるい。彼の機鋒は左肩を抉って通り過ぎた。こちらの刃は無感触の空空くうくうを撃刺しただけ。肉を削がれた痛楚を噛み締め、後背の彼を振り仰ぐ。


 柱を背にした彼の、モーニングコートが飄揺していた。革靴が鏡のごとく閃爍せんしゃくを映し込んで、目路を白く染め上げる。靴底の狙いは胸骨。その一蹴りは勁風けいふうを巻き起こして打ち付けられた。


 反射的に腕で急所は庇った。それでも踏みしめられた尺骨が撓む。折れるな。己の腕に言い聞かせて切歯した。踏み止まることが出来ずに押し飛ばされた。


 風音かざおとが後ろ髪を弄ぶ。脊髄に冷気が走る。両脚は大理石に二本の足跡を走らせる。擦過音は止まらない。葉擦れがすぐ傍にあった。敵の呼吸音よりも、比して近くに。


 気付くや否や前方へナイフを投げ飛ばし、空いた手で窓枠を掴んだ。抑え留めた爪先が高い音を立てる。破損している窓枠は今にも砕けそうに鳴いていた。


 見下ろした踵は壊れた床から落ちそうに浮いている。先刻リアムを逃がした際、窓と隣接する壁までも圧壊していたらしい。


 態勢を立て直し、敵影を見遣る。投げたナイフは刺さったようだ。彼は刺創が滲む肩を見下ろすと、抜いたさいをこちらへ抛擲ほうてきする。


 甲高い気体の淅瀝せきれき。攻め寄る速度は弾丸、或いは矢さながら。


 鋭利な機鋒を凝視して先端を躱し、正確に柄を掴み取る。握った感覚を確かめ、執刀するなり吹き抜ける風から遠のいた。


 肉薄する俺をアテナの愉色が迎え入れる。木香から離れた室内は腥臭が弥漫びまんしていた。それは火花を散らす鉄錆の臭いだったかもしれない。


 踊るような寸断の応酬。攻防は目眩めくるめく転じる。互いの頬、腕、胴に血色が走る。柱の間で影を裂き、影を抜けた先で陽光を切り苛む。主旋律は剣戟、副旋律は跫然きょうぜん


 音は止まない。ただ、幻聴に包まれて朧げになっていく。上がっていく息に、血の味が滲み始める。


 薄れていく魔力を呑み込んだ、寡少の隙。前髪が風に跳ねる。顰めた頬に痛みが刻まれ、視界が点滅した。


 散渙さんかんする血飛沫を、細めた左目で捉えた。右目は苦痛に閉じたまま開かない。睫毛は溢れる血汐に結ばれて持ち上がらなかった。


 片目だけの視界で嘲笑を認める。その時には、彼の腕が臓物に沈んでいる。呻く前に柱へ打ち付けられて息が詰まった。


「っ……!」


「おっと。危なく心臓を貫くところだった。君の心臓は傷付けることなく抉り出さないといけないのにな」


 嬉笑が額に吹きかかる。彼の片手が蠢いて、臓腑を持ち上げられた感覚に嘔吐く。心臓へ這い上がろうとする彼の腕へ、刃を突き立てようとした。だが、彼は空いている手で容易く防いでみせる。俺の手首を捻り上げたまま、彼は脈打つ腸綿を握り込んだ。


「ぅ、ぐ……ッ!」


 拘束を振り払おうと片腕に魔力を込め続ける。魔女たる彼はそれさえも握り潰して手首の骨を軋ませる。蹴り上げようとした足は彼に踏み抜かれた。尚も反撃に移ろうとして、内臓を辿り上がる激痛に力が抜ける。


「っ、く……」


「足掻くな。君は誰も守れないまま死んでいく定めなんだ。受け入れろ。妹も、メイも、守れなかっただろう?」


 激痛に攫われそうな意識を、彼の余声が引き止めていた。妹と、メイ。それが熱情をおこし、痛覚を忘れさせていく。


 項垂れていた顎を僅かに持ち上げる。睨み上げた先で、彼の喉が上下している。擦り鳴らした牙を開き、彼の喉頸に咬みついた。皮膚を、肉を、骨を、このまま食い潰そうとした。


 喀血よりも苦々しい血の味に噎せ返りそうになる。腹部に在った彼の手が一気に引き抜かれ、赤々とした喘鳴を吐き捨てた。足元に散らばった血肉。彼の首から剥離したものが、嫌な水音を立てていた。


 俺の背にある柱と、対になる位置の柱の前に、彼は着地していた。蹌踉とした己の体は、柱に凭れることでどうにか立っていた。


 腹部の穴を魔法で塞ぎ、痙攣している腕を鎮静させていく。だが、彼に吹き込まれた嘲謔が木霊していて、流露する赫怒は鎮められなかった。


「お前、メイに……」


 苦り顔で喉元を押さえている彼は、俺が何を問いたいのか、すぐにわかったのだろう。想起するのは、廃墟で対面した時の彼の台詞。


 今、目の前にいるアテナは、とても可笑しそうに笑みを形作っていた。メイに、何をしたのか。その悪相が、答えを物語っていた。


 構え直した切っ先は標的を明瞭に定めて靡かない。魔力を溢流させる瞋恚しんいは熱く、脳に流伝した殺意は冷たかった。


 清冽に、殺すべき対象を眇目びょうもくする。太刀筋を揺るがす類の情感は、息吹となって零砕した。


「殺してやる」


 果鋭に詰めた間合い。横撃の狙いは彼の首。一条の光は皎皎きょうきょうと散る。混じりけのない白。色を持たない空気だけが弾けた。仄蒼い柱の陰へ彼は退いていた。


 暗らかな影に招かれるまま踏み出す。金属音をぶつけ合いながら明暗を巡る。搏撃は窓硝子を振動させた。彼の腕を避ければ柱の砕片が散る。薙いだ剣先が塵埃じんあいを引き裂く。


 衝突した威武が高鳴った。耳障りなそれは、何度も、何度も、何度も、鼓膜を引っ掻く。かからめく口無の舞台の喧騒。石造りの首が砕けていた。アテナに打ち払われた一柱が、轟音を伴って壊裂した。


 膨張して破裂した飴色の空気が視野を遮る。突風に僅か押し退けられる。滑った靴底は黒曜石から白榴石はくりゅうせきへ。広がった間隔。砂煙に立つ形影。尖った手が半透明の幕を突き破って目睫もくしょうに迫った。


 すぐに身を翻す。首を掠めた殺意。熱を持って零れた不快感に牙噛きかみ、大風を追いかける。後顧すれば驍悍ぎょうかんな腕がそこにある。刺刀で受け止めた力は重い。なにしろ先ほど柱を折った力だ。刃が折れぬよう鋼に魔力を注いで受け流した。だが、喉元から呻吟が込み上げる。


 肋骨に沈んだ彼の足。骨が歪む感覚。数刻前に塞いだ肺腑の傷が、開いていくような、息苦しい鈍痛。


 蹴飛ばされた体は窓枠へ叩きつけられる。砕けた瑠璃が喚いたはずなのに、耳鳴りの方が五月蝿かった。焦げ付く体内に顰蹙して態勢を立て直す。


 振り仰いだ室内は小暗い。その暗然は、跳び上がった彼の軌道に起因していた。天井の傍から直下する彼。その刃が届くまでに一秒もかからない。


 速度を上げて最低限の回避をした。巡る。それは窓際に着地した彼と密接するほどに軽微。避けるために爪先で描いたのは半円。その踪跡そうせきは止まることなく、追撃に向かう円形を描くため尚も巡った。


 紅血が噴き出す。アテナの片腕が雨を降らせる。険を孕んだ神色はそれ以上歪まなかった。痛みを知らない化物は一時も怯まなかった。


 一足も下がることなく接近する、もう片方の彼の腕。その先は見えていた。間に合わないことも、明白だった。焦慮が奥歯を擦り鳴らす。仕返しとばかりに、彼は俺の右腕を断ち切った。


「く……ッ!」


 猩紅を星散しながらも勁悍けいかんに地を蹴って彼から離れた。部屋の奥、壁に踵を接するほど、距離を取った。


 幾本もの柱の影を挟み、睨み合う。長い間乱されていた幽静が、寂び返った室内に充盈じゅうえいし始める。


 左腕はとうに失くしている。右腕も失った。警告の幻聴は常に耳底にある。口腔にはずっと血の味が沁みている。


 それでも、まだ立っていられる事実に、戦意を損なわずにいられた。


「両腕も片目も使い物にならないのに、私に勝てると思うか? 魔力も尽きて来てるんだろう? 大人しく跪け。そうしたら一息で首を刎ねてやるぞ」


 響き渡る嗤笑に目を伏せる。燃えるような傷口を、見下ろす。葡萄酒のような、椿のような流血に、少女の明眸オッドアイを思い浮かべていた。


 腕を失くしても、脚を失くしても、果敢に立ち向かう彼女。花物のような体には、鮮血ばかりが付き纏う。彼女の細腕から淋漓する血液が、今の己と重なっていた。


 アテナの靴音が沈黙を穿つ。想像した。《拡張》した。血液に、魔力と同等の役割を与えるように。血液に、片腕という役割を、ただただ願った。液体が魔力によって絡まり、腕を形作る様。何度も、見てきたはずだ。瞭然と、思い出せるはずだ。


 ──メイ、教えてくれ。お前の戦い方を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る