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     (四)


 降霊会で渡された住所は、広い敷地を持つ宮殿のものだった。柵の向こうに広がる庭園が寒々とさざめいていた。見放いた宮殿は窓までも芸術品のようで、部屋数すら数え切れない。俺は一人の衛兵を前にして、もう一人の衛兵が戻ってくるのを待っていた。


 クレイグに指定された日は、まだ先だ。だが、何もせず待っていられるわけもなく、カレンの家を発ってから身支度をしてすぐ、宮殿を訪れていた。


 降霊会でクレイグに会ったことや、彼に住所を渡されて招待されたことを衛兵に話したところ、衛兵は筆跡と内容を本人に確認するべく宮殿内へ走って行った。


 早朝の空気は薄れ、昼光が少しずつ赤ら引いていく。カレンの街は雪が降っていたが、この場の冷気は形を持たなかった。空を見霽みはるかしていれば、衛兵が駆け戻ってくる。上がっている息を整えながら、彼は頭を下げていた。


「クレイグ殿下に、確認して参りました。宮殿内へご案内いたします。ただ、クレイグ殿下は別件で立て込んでおりまして……代わりに、ローレンス殿下がお待ちしております」


「……ご確認いただきありがとうございます。よろしくお願いします」


 緊張した様子の彼に続いて庭へ進んでいく。彼が強張っているのは、一般人である俺に対して、ではないはずだ。クレイグの別件とやらが重要なことなのだろうか。


 枯草や枝の色彩を打ち眺め、少しずつ宮殿へ近付いていく。宮殿の手前には、豪奢な馬車が停まっていた。艶めく黒に金の装飾が施されていて、窓から垣間見えるカーテンや椅子も、上質な造りに見える。多くの衛兵が、その客人を歓迎して取り囲んでいた。


「申し訳ありませんが、中庭を通ってご案内いたします。こちらです」


 俺を一瞥した衛兵に頷いて、中央玄関から遠ざかっていく。壮年の男が、馬車から下りていた。肩章や胸章が彼の身分を暗に示す。彼はどうやら、宮殿の左側へ向かうようだった。俺と案内役は正反対の道を辿り、長い通路の端を目指していた。


 庭から日陰に移り、大理石を踏みしめる。いくつもの柱を横切って、二階へ通される。絵画がかけられた壁を視界の端に収めつつ、人気のない深閑を歩む。思いのほか衛兵の数は少なかった。静けさに、唾を飲んだ音すら響きそうだった。


 廊下の先に、大きな両開き戸が見える。部屋の両端には女神像が立っていた。左右対称に置かれた小棚には、花と果物が飾られている。衛兵は俺に入室を促すと、一礼をして、慌ただしく踵を返していた。


 俺は金色のドアノブに手を掛けて、息を、魔力を、吸い込んだ。扉の軋む音は、感情の響きに似ていた。


 豁然かつぜんと広がる二色の大理石はさながらチェス盤のようだ。左右には柱が立ち、柱の向こうから窓明かりが伸びて床を綾なす。


 広い部屋の中央で、見知った背中が上方を見つめていた。上階ホールを囲む柵の向こうに、軍神の彫像がある。それを見上げていた長髪がなびき、彼は俺を盤上へ手招く。


 扉を閉め、数歩先へ。白い大理石の上に立ち止まる。六本の柱で祈る彫塑が、俺達の隔たりを見ていた。マスターは黒檀に陰を落としたまま、困り顔を浮かべていた。


「ユニスの方へ行かなくてよかったのかい」


「俺にあんな手紙を残したんだ、ユニスは無事なんだろ。メイはどこだ。あんたの本当の目的は……なんだ?」


「君は本当に、諦めが悪い。五年間で大人びたと思ったが、そういうところは変わらないな」


 互いの声は広い空間に響動とよんで染み渡る。光耀が彼の片手に生じた。回転して握り込まれた寸鉄。慣れた手つきでナイフを構えた彼を、睨み据えたまま懐に手を伸ばす。


「力尽くで聞き出してごらん。ここまできたら、君と戦う以外の選択肢は残されていないだろ?」


 諦念の上で木漏れ日が揺らめいていた。光は彼の疲弊という窪みを浮き彫りにする。彼に何があったのか、俺は知らない。いつから辟易を溜め込んでいたのかも、俺には分からない。


 千草色の円の中に、生と死を見る。相反する感情が彼の虹彩に隠顕していた。虚勢で掩蔽することすら出来ていない真情は、俺に顰め面を浮かべさせた。


「カレンを殺したのも、俺を駒だと言ったのも、全部、俺に恨まれる為か?」


 音にした回想は不協和音でしかなかった。告げられた真誠も、カレンの体温も、小さな針を象って皮下を巡っていた。彼は力なく笑う。だが、天光を一層強く映し込んだ刀は、明確な戦意を握り込んでいた。


「分からなくていい。君にとっての私は、裏切り者で、恋人を殺した男で、君を騙し続けてきた悪者でいいんだ」


 彼の靴底が、大理石に滑って高い音を立てる。腰を低く構えた姿に、牙噛みながらナイフを抜く。腕を引いた彼の眼勢。鋭さに唾を飲んだ。


 剣先を地面に向けたままの俺へ、彼は、うそ笑みさえも削ぎ落して能面を貼り付ける。


「エドウィン。私は本気で、君を殺しに行くよ」


「俺は、マスターを殺しに来たわけじゃない。あんたの本心を引き摺り出しに来ただけだ」


「会話なんて何にもならない。私が死ぬか、君が死ぬか。私が何を選ぶのか……全部、勝敗に委ねた方が楽だろう……!」


 甲高い跫音に皓白の一閃が糾われる。鋭い風が睫毛を揺らした。眼前を一文字に色付けた薙ぎ。前髪が僅かに散って奥歯を軋ませる。半歩退いた俺を真っ直ぐに急追する刀尖。踏み出した彼が切り上げ、刃を翻す。


 斜めに走った光は触覚と関わりを持たない。太刀筋を変えた彼の突きを、外側から前腕部で押し退け、そのまま伸ばした拳で頸部を狙った。宛がったのは柄の底面。込める魔力も骨が折れない程度。速度を緩めることなく打ち込もうとしたが、釁隙きんげきの間に彼は上体を反らしていた。


 空を打った感覚に身を引く。広げた間隔を彼が寸時に詰める。刃よりも前に出ている彼の徒手。それに注視を奪われていれば足元が崩れた。軽やかに繰り出された蹴りが僅かな隙を作らせる。舌打ちは秒針の音と重なった。


 速度と手数で攻める得物だからこそ、僅少の隙で事足りることを、彼は知り尽くしている。ゆえに、彼が追い付けない速度で迎え撃つしかない。


 秒針がふれるまでの玉響たまゆら。態勢を整えると共に、間合いの外側へ踏み出す。彼の腕を手繰り寄せた。時の刻みを聞きながら、その腕を彼の背中側へ捻り上げ──視界が巡る。


 気付けば俺が赫奕かくえきとした空無に投げ出されている。角膜に光が横たわる。強引に背負い投げられた体を中空で起こして着地。嫌な音がした。骨が折れたのは彼の肩だろう。彼は自身の肩を押さえてから、痛痒を感じていない素振りでナイフを構え直していた。負傷を魔法で治したと思われる。


 瞼にこびりついて明滅している残光に眉を顰めた。大理石が鳴く。踏み込んだのは彼。軽い斬撃が繰り返される。光華が水平に散り、斜線を描き、表皮が幾度も風で嬲られる。一定の連撃の後に退いた彼を追いかけ、ナイフを振るう。


 彼の黒目が剣先を追っていた。その胴部へ、力強く蹴りを打ち込もうとした。しかし彼の足は素早く動く。回避に、ではない。長い足は攻撃を蹴りのけるように跳ね上がる。違う、その爪先が目指しているのは、俺の蹴りを受け止める道筋じゃない。狙いは、軸足。


 秒針を意識した。だが間に合わない。軸足を絡め取られて上体を押され、床へ突き放される。それでも秒に挟まる空白を聴き続けた。倒れる俺に彼の追撃が向かう。靴底を見上げながら床を転がり、彼の影から遠ざかった。


 魔法で速度を上げて十分な間合いを取ったまま、剣先を彼へ向け、空いている手を胸元へ添えて駆け出す。


 切る。一秒の中に五手を捻じ込む。針が進まない時間の中で彼の退避は緩徐だ。避けられないことを彼も理解しているのだろう、両腕が防御の形に持ち上がっていた。


 五芒星を描くように白刃を翻し、彼の袖を赤く綾取る。深追いはせずに魔法を解いて避く。


 攻めに転じた彼の剣先、彼の足さばき、彼の目線。全てを心理的に追いかけてから物理的に追いかける。


 向けられているのは確かな殺意で、互いに犀利な刃を握っているのに、全身が懐かしさを覚えていた。


 切り裂かれた紅鏡の眩しさに瞬く。眼裏に数年前の彼を見る。かつての彼が、我武者羅な俺に苦笑していた。穏やかな音吐が耳に蘇って、力んでいた拳から、力が抜けていく。


 彼に教わった振るい方。彼の癖。彼に注意された俺の癖。錚然そうぜんと切り結びながら、いくつもの思い出が火花となって現前で爆ぜていた。


 金属音が甲走る。彼に払い除けられたナイフを目で追うことなく、後背へ飛び退いて別のナイフを抜き取った。


 曈曈とうとうたる光の絨毯を、彼が一歩踏みしめて彼我の余地を狭める。冷静になれ、と胸臆に吐き捨てた。


 色褪せた幻視の彼は、力を抜けと何度も俺に言った。軽快に、敏捷に、四肢を動かせと。それゆえ彼の動作は軽く、早い。隙が生じない程度の踏み込み。素手に視線を誘導した上で、足や剣を用いて油断を攻める柔軟さ。深手を負わせるよりも相手の精神と体力を着実に削っていく戦い方。


 大ぶりな攻撃や重い一撃は命取りになりやすい。だが、それは人並みの速度を交える場合だ。魔法で速度を上げられる俺なら、相応の魔力を込めた方がいい。彼の真似をしたところで、彼を出し抜けるわけがないのだから。何より、同じ戦法の相手を組み伏せる術など、彼なら了得しているはずだ。


 勁疾けいしつな彼が眼路を辿り来る。その逸足は押し留められた一秒の中で鈍足へ変わる。片足を下げ、迎え撃つ準備をして迅速に深慮した。


 自分がどうするべきか、明確に意識する。


 一秒が経過するごとに耳を澄ますことを。一撃一撃に全霊の魔力を注ぎ込むことを。すなわち速度と力を同時に上げる想像を。散らばった思考を、旁魄ほうはくに固める。


 時の音を合図に躍り出た。彼の瞠若は目前にある。俺に向けられていた手首を掴み、外側に払い除けて首に峰打ちを仕掛けた。既のところで彼の刃に弾かれる。吃驚を返された気分だ。魔法無しに反応出来る速度ではなかった。


 彼の動作は俺よりも遅い。彼がナイフを構え直している間、その寸陰に五度ほど刃を翻せる。だが、手応えは全て金属音に奪われていた。


 速度を上げた俺に、彼は快捷かいしょうに応じる。速度を上げられない彼が、全ての攻撃を正確に受け止めていく。まるで、俺と彼のナイフが糸で繋がれているかのようだった。


 何度も利刃をぶつけ合って理解する。彼の《吸収》の魔法。彼は、俺の斬撃を全て己の刃に


 磁石のように、差し向けた寸鉄は氷刃に引き付けられる。意識的に描いた軌道は、無意識下で彼にねじ曲げられていた。


 ならば、とぶつける威力を魔法で高めた。舌打ちは外耳道を覆い始めた耳鳴りにかき消される。


 刃金が打ち鳴らす戛然かつぜん。二つの腕が描く閃影せんえい。打違う手先が掻いがれていく痛みに、じわじわと迸出へいしゅつしていく赤ばんだ熱に、息遣いはもはや喘鳴のよう。


 互いのナイフがくるめく光を回す。寸裂されていく陽が瀰散びさんする。殷々と璆鏘きゅうそうが響いて硬質な陽射しが跳ね上がった。


 追撃の為にナイフを突き出してから、思い知る。秋霜は柄だけを残して折れていた。彼の真刀を砕こうとして、音を上げたのはこちらの得物。気を抜いた小隙、秒速への意識が薄れる。


 しまった、と退嬰たいえいする前に彼がナイフを振るい上げていた。柄を握る感覚が失われる。断截だんせつされる感覚が上腕に迸る。腥羶せいせんな臭いの向こうに羶血がこぼれた。切り離された手が落ちていくのを、目界の隅で見ていた。


 退避は今更。だから、徒手のまま彼を追いかけた。


 伸ばした手で掴み上げたのは胸倉。互いの髪が枝葉のごとく擦れ合う。彼の瞳孔が開いていくのを間近で目視した。刻下、引き寄せた彼の頭蓋に、己の額を打ち込んだ。


 呻き声が耳鳴りを貫いて鼓膜に触れる。よろめいた彼の顎に、勃然と突き上げた爪先を沈めた。


 白橡しろつるばみの髪が虚空に舞って乱れる。大理石に背を打ち付け、仰け臥した彼。俺は懐からナイフを抜いて彼に跨り、刃を喉仏へ宛がった。


 睨めかけた彼の目尻は草臥れたように頬骨へ下る。肩を揺さぶる己の息と、臓物まで響く耳鳴りだけが劇伴になる。切断された片腕の酸痛が、少しずつ滲出してくる。握りしめた霜剣に色を与えることなく、ただ、彼の降参を待っていた。


 紅雨をあやす左腕に意識を注ぎ、止血していく。傷口が熱いのか、魔力が熱いのか、曖昧だった。


 気息を整えていれば、蕭条しょうじょうに彼の微苦笑が絡まっていく。


「どうして、トドメを刺さないんだい。私のことが、憎くないのか? 君を利用して、メイちゃんやユニス、カレンさんまで君の傍から奪った。なのに何故私を殺さない? 殺し方を忘れてしまったのかい? ちゃんと教えただろう」


 彼の肩は脱力し、敵愾の残香さえ漂わない。深憂に塗られた瞳が俺を見上げている。見慣れた、父親然とした表情。その慧眼で何度も俺の心を見透かしていた彼。それなのに、今の彼は、目の前にある渋面の訳さえ分からないみたいだった。


 彼に影を落としたまま、俺は歪み切った唇を動かした。


「……あんたから学んだことは、何も忘れてない。戦い方も、強く生きる術も、酒や料理の作り方も……何も、忘れられない。殺せって言うならそんな顔をするな。まだ連れ戻せるって、信じたくなるだろ」


 上体を起こし、ナイフをショルダーホルスターに収めた。立ち上がって数歩下がると彼も起き返る。両脚を床に伸ばしたまま、彼は遠くを見ていた。


 窓の向こうに、思い出でも転がっているのだろうか。その眼差しを一度だけ追いかける。細い窓枠が蒼穹を区切っていた。冬色の木々が揺れ、殺風景なのにどこか懐かしい、絵画のような佳所が瑠璃の向こうにある。


 衣擦れと革靴の音に、顔を向ける。彼は両足で大理石を踏みしめ、煥乎かんこな暄暖を片笑みで受け止めていた。


「戻れないよ。初めから私は、ずっと、兄に償う為に生きているんだ。『リアム』もそのために必要なハリボテだった。それだけのものだったんだよ」


 噛み締めた奥歯が、清寧を軋ませる。彼の科白の出所が、本心か僻心ひがごころかは分からない。それでも、許せなかった。俺やユニスと過ごした日々を、浅らかに扱う彼へ、心火が盛る。


 ──なにが、『ハリボテ』だ。なにが『それだけのもの』だ。酒場に居たあんたは、あんなに楽しそうに笑っていたじゃないか。笑い方さえ忘れそうだった俺達を、あんたがずっと繋ぎ止めてくれたんじゃないか。


「ふざけるな……」


 怒鳴りたくて、叫びたくて堪らなかった。五年前、心髄に沈めた子供心が、今になってせり上がってきているようで、情けなくて、口に出せなくて、必死に飲み下していた。喉が、頭が、痛い。創傷よりもずっと、傷口のない痛みの方が理性を締め付ける。


 人の殺し方を教えてくれたのは、確かに彼だ。命を奪うことへの恐れも、罪悪感から溢れる涙も、自我の裏側へ遺棄してきた。だけど、思い出の殺し方なんて、俺は知らない。


 肩を震わせて、首を左右に振った。魔力に伴われる幻聴を、槍声で押しつぶしていく。


「俺は、マスターへの信頼を捨てきれないから、ぶつかりにきたんだ。あんたが俺達への甘さを捨てきれていないから、話し合いに来たんだ。俺やユニスを殺せなかったくせに、『リアム』だったあんたを否定するな……!」


 歪んだ眼界の中で、彼が揺らぐ。彼は駭目に俺を収めていた。


 三文芝居など一人でやっていればいい。他人を巻き込んでおいて、他人の人生に干渉しておいて、嘘だったなんて言わせない。彼の目的が何であろうが、今の俺達がいるのは、彼のおかげなのだから。


 瞼の裏に、メイとユニスの姿が浮かぶ。彼女達のよすがを、取り戻したかった。


 だから手繰り寄せる。存在理由に惑う彼から、片時も目を逸らさずに引きずり込む。


「勝敗に全てを委ねた方が楽だって、あんたは言ったな。なら──王子として死んでくれ。『リアム』として生きてくれ。ユニスにも、メイにも…………俺にも、父親あんたは必要なんだ」


 傾いた陽が、彼の迷情を真白く呑み込む。日光が雲に遮られて、彼はようやく観念したように「仕方ないな」と溜息混じりに顰笑していた。俺は愁眉を開いて、ほんの少し魔力を緩めていた。

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