2-4. 雲霧の向こう側
急激に船が傾いた。
とたんに右舷から着水し、慣性と水の摩擦抵抗で強引に船は右旋回。船体は耐用年数を四半世紀無視したヴィンテージだ。落雷なみの悲鳴をあげてヒビ割れし、浸水は躊躇を許さぬ速度に変わる――沈没に巻き込まれる前に、船縁からなるべく遠くにジャンプしなければ! だがバックパックをひっつかんで立ち上がった瞬間、フィンレイの視界はぐらりと揺らいだ。船ではなく、自分の眩暈で。
そうとうぶざまな飛びこみをした。足からでも頭でもなく、肩口から落ちたようだ。必死に掻く指のすきまを水が漏れ、身体が回転したが上下左右が混乱していた。
ぞっとしたのは、背中にある強い流れ――沈没船が引き寄せる回転流だ。吸い込まれて縦渦のループに捕まれば、簡単には浮上できない。これは、溺れる。覚悟したとき、首に何かが巻きつくのを感じた。フィンレイはとっさに全身の力を抜いた。
赤泥で濁りきった視界に救済の薄明かりが差してくる。水面に頭が突き出すと、フィンレイは多少咳きこんで、あとはソードオフに曳かれるまま岸辺まで泳ぎ着いた。
「カナヅチだったのに、ずいぶん泳げるようになったな……。えらいぞ、ソード」
「わかったら
「助かったよ、冗談抜きで……。はあ、俺もなまったもんだ。情けない……」
四つんばいの手足を岸辺の深泥から引き抜き、立ち上がるのも一苦労だった。
隣のソードオフが野獣のようにブルッと首を振っている。あてつけがましい水滴を浴びながら、フィンレイはよたつく足取りで背後を振り向いた。こき使われた憐れなボートの舳先が、ちょうど濁水に呑まれていくところだった。
少し先で、悲嘆と憤懣の入り混じった叫びが聞こえる。漁師が川に向かって雑言をわめいているのだ。大げさに身ぶり手ぶりしつつ岸辺を右往左往するのに、
「俺も同じ気分だよ……」
フィンレイは共感しつつ、軽くなったバックパックを逆さに振った。落ちた荷物の中からは、大事なトビウオの干物が消え失せていた。
「ソード。漁具はともかく、船は弁償すると言ってやれ。あれより性能の良いエンジンでよければの話だが。お前ならどこぞの闇市で安く入手できるだろ。あんな骨董品を探すほうが高くつくってもんだ」
さて、ここからは徒歩で進まねばならない。
不測の事態には慣れきっている。見渡してみれば、黄土の絶壁までもう二、三歩という地点まで来ていた。だが、草木の絡まりあった未踏の森を切り進むのがいかに大仕事か、元軍人のフィンレイは骨身に沁みて知っている。それにジャングルの樹冠の下では、夕暮れからはや闇に落ちる。
願わくば、目的の部落まで遠くありませんように――しかし、ついていない日こそ、とことんついていないものだった。
「今度は雨かよ……」
頭上がどろどろと翳り、おなじみのスコール。また水の猛威だった。
泥が流せてちょうどいいぜ! 轟然と降るスコールに打ち叩かれ、フィンレイはやけくそ気味に顔を仰向ける。
アルテラに帰ったら、今度こそ必ず休暇をもらおう。乾いた部屋でくつろぎながらジャンクフードを貪って、流行りのくだらない映画を流すんだ。まかり間違っても、わけのわからん相棒や教授のわがままなんぞに振り回されたりしないで……。
――今回の任務は、失敗かもしれない。
らしくもない悲観が、現実逃避を誘っていた。
気弱さは体調不良のせいだろう。せめて風が吹けばいいのに、とフィンレイは願った。追い風がいい。この澱んだ暑気と雨雲さえ取っ払ってくれれば、俺の足も多少は前へ進む気力を取り戻すだろうに……。
けれど突風は後ろではなく、正面から吹きつけてきた。
そして風に分厚い雨の紗幕が巻き上げられ、雲霧の帳が一気に押しやられたとき、フィンレイはぽかんと口を開けていた。視界にまばゆい輝きが踊りこみ、火花を散らしていた。
傾いた太陽に、目前の絶壁が黄金色に照り映えている――赤く燃えたつ大火事のような密林の樹冠、そこから一気に、空を直線で区切るテーブルマウンテンの頂上まで。
絶壁を垂直に切りこんだ峡谷の奥深くは影となって闇が濃く、しかしその真上の雲霧の一角が風に吹き払われていた。まるで雲上の世界まで峡谷のつづきが立ち上がり、はるか蒼穹まで届くかのように。
「おい、あれ――」
ソードオフがフィンレイを呼び、フィンレイも曖昧な返事をする。二人とも同じものを見ていた。
雲の峰々に切りこまれた青灰色の峡谷、その雲壁と雲壁のあいだを、煌めく無数の金属片に似た一群が翔けぬけていた。右に左に、上へ下へ――自由自在に、一糸乱れぬ動きで、まるで一個の巨大な意志あるもののように統率されて。だが時には大きく膨らみ、扁平にたわんでは分裂する。宙をのたうつ巨大蛇か、吹き流されてきた花弁か、あるいはこの樹海の精霊のみぞ知るもっと別の怪物か。輝く一群はめまぐるしく謎めいた形態をかたどり、分散し、そしてまたひとつに戻る。
それが何者か、フィンレイの眼には見えていた――銀の鱗に陽光を反射させた、小さな小さな魚の群れだ。ただしその胸からは、乾物からは切りとられてしまっていた透明で長大な翅が伸び広がり、同様に長い三角の腹ビレは猛禽の尾翼によく似た動きで機敏に舵を取っている。彼らは小虫を追っていた。強い谷風に吹きあげられてくる下界からの羽虫の群れに、集団で襲いかかっているのだ。
と、突如そこに青い影が小隕石のごとく突っ込んだ。船から見かけた五目インコ。魚たちは、割れ散る鏡面さながらに烈しく群れをさざめかせ、襲来した捕食者を巧みに囲いつつ変幻自在に逃げ惑う。
はたして魚食のインコが夕飯にありつけたのかどうか、フィンレイは見届けられなかった。そこで移り気な雲霧の幕が再び渦巻いて流動し、幻の雲の谷は左右からぴったり閉ざされてしまったからだ。
「あれは稚魚で、まだまだ小さい。育った魚は、山の上にある伝説の湖に棲むと言われている。しかし、雲の中に棲むと言う者もいる。わたしの祖母は、岩壁の内側に走る水路を泳ぐのだと信じていた。誰も飛び魚がどこにいるかを知らないんだよ」
いつのまにか並んで見ていた漁師がなんということのない顔で教えてくれた。船が新しくなるどころか、より新式のものが手に入ると聞いて、すっかり気をよくしたふぜいだ。
ソードオフが肩をすくめて言った。
「どこに巣があったって、どうでもいい。あの雲の中に網を張れば獲りほうだいだ。フィン、一度宇宙港に戻って航空機でまたこよう」
「そうだな。山頂に直接……」
「だめだ! そんなまねは許されんぞ。山々はわたしら森の部族の聖域だと言っただろう。機械で汚されてはならない!」
「なら、機械を使わなければどうだ? 人力だけで、足で登るのは」
フィンレイの質問に、ソードオフが冗談だろうという目を向けた。しぶしぶ通訳したソードオフの期待をおそらく裏切って、今度の漁師は鷹揚に頷いた。
「それは禁じられていない。しかし、これまで成功した者は誰もいないよ。挑戦して死んだ無謀ものは何人もいるが、崖の頂上まで登りつめたものは一人もない」
「じゃあ決まりだな。ソードオフ、俺たちが銀河で最初の登頂成功者になろう」
「…………」
さっき自分は、どうしてこのイカレたアルテラ人を見殺しにしなかったのか?
無表情に――しかし、腹では心底後悔している横顔でソードオフが断崖を見上げるので、フィンレイは笑った。彼も山に視線を戻す。
――なぜ、俺はこんなところに来ているのだろう。
その疑問の答えを、今やフィンレイは明快に理解していた。これまで経験した多くの旅でも、幾度も繰り返し確信してきたように。もう隠されてしまった雲霧の内部に垣間見た秘密は、鱗の反射の光輝とともに瞼の裏に鋭く焼きついている。
あの光景に出遭うために、俺はまた冒険に出るだろう。何度でも、何度でも。自分でも頭を疑うほどに、こうした感動をいつまでも憶えている。
旅は、きつい。特に今回のような、制御不能な自然に翻弄される野生の星への旅は。――それなのに、だ。
いつも帰宅し、柔らかい慣れ親しんだソファに身体を沈めながら思い返すのは、どういうわけか美しい旅の記憶である。見た風景、楽しかった出来事や人との関わりだけでなく、焦り、怒り、緊張したり驚いたり、恐怖や不安を感じたトラブルすらも、その一瞬一瞬を鮮やかに生きた時間として思い出すのだ。
そしてまた疼きはじめる。平穏で退屈な日常で、いくらか翼を休めたあとに。
もう一度あの経験をしたい。次はどこへ行こうか、と。
「いやはや、このへんからだと村へは日暮れてから着くよ――」
軟泥の岸辺に深い足跡を残しながら、先導する漁師についていくフィンレイの歩調は、完全に気力を回復していた。厄介な虫除けの副作用も、どうやら泥と雨で洗い流されたようだ。諦めたソードオフが最後尾にのろのろついてくる気配を確認すると、すでにフィンレイの思考は銀河初登頂をかけた人力ロッククライミングの計画でいっぱいになっている。
もし幸運の女神のご褒美をまた得られたなら、晴れた崖の上からは、どんな世界が見渡せるのだろう? それは登ってみればわかるだろう。汗を流し、文句を垂れつつ、この手で、この足で、この身体で登ってみれば。
思いながら再び絶壁を見上げると、いつのまにか鮮やかな虹が架かっていた。高い七色を飛び越えるように、あの銀色の小片がきらりと光輝を描いた気がした。
フィンレイ&ソードオフ 鷹羽 玖洋 @gunblue
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