2-3. 異邦の人
旅は好きだ。――いや、好きだと思う。
好きだったはずだ――たぶん、間違いなく。おそらくそのはずだが、それにつけても……まったく、なんで俺はこんな場所に来ているのやら――。
水上なら多少は川風が涼しいかと思いきや、そうでもなかった。
上流へ船を走らせ数時間。太陽は最盛期より傾いたものの、相変わらず大気はサウナだ。大河の幅が狭まり、両脇の深紅色の熱帯雨林が迫ってきたぶん、森と大地の溜めこんだ熱い息吹に当てられているのかもしれない。
瀬にぶつかるたび、波頭に足をとられる小舟の上で絶えずさまよう重心を探りつつ、フィンレイはなかば呆然とした面持ちで進行方向を見つめていた。蛇行して先行き不明な上流、もしくは己の深い物思いの彼方を。
「――ほお、そうかい。都会じゃあ、あんたみたいな黒い色が普通かい……」
「――まあな。だから、あいつみたいに白っぽいのは、あと数十年で絶滅さ……」
背後では珍しく、ソードオフがフィンレイ以外の他人と異文化交流している。
黒いやつが真顔で喋っている内容はむちゃくちゃな大嘘だが、いちいち訂正する気力がフィンレイには枯れていた。船頭の漁師は純朴そのものといった感じの中年男。ソードオフが、おもに幸運という能力で見つけてきた、ゴンドワナ入植者のなかでも最古参の血をひく河の民である。
二日前に通過してきた集落にニ十三人の子供と十八人の妻、それに彼と立場が同じ、かつ正当な配偶者でもある十四人の男たちと暮らしているらしい。それだけ複雑な家族構成なら生活の愉しみに手いっぱいで、フィンレイが嘘を正したところで結局は伝言ゲームだろう。この森には星内ラジオ天気予報以上の情報媒体もないし――相棒の暴虐を放置する俺を、どうか許してくれ。
「世の中も変わったものだなあ。わたしらの先祖も、星々の海を船で遭難していたところを、最初のアルテラ人に救われた地球人だ。だけどこの森で、あんたのように青黒い人には会ったことがない」
「へえ。じゃあこの星の人間は、もとはアルテラからの移住者か」
ソードオフが視線を寄こし、フィンレイはかすかに頷いてやった。あの野郎、この星の衛星軌道宇宙港で一応説明してやったのに。やはり聞いていなかったようだ。
ゴンドワナは、アルテラ新暦が定められたのち――つまり唯一の超光速航宙技術を持つ地球人の子孫が、アルテラを第二の故郷として根付いてから――発見された、もとは無人の環境型惑星だ。呼吸可能な大気組成以外には特にめぼしい資源――設備投資に見合う量の重元素や、価値ある特殊な生物資源に乏しかったため放置されていたのだが、いつの頃からか、ある主義を持った人々が住みつき、人口を少しずつ増やしていった。
今では全体で数万人と推測される、彼らの風変わりな信条とは――多くの先端科学技術を放棄して、地球崩壊前の
といって、彼らは完全に産業技術を否定しているようでもない。たとえば川面から少し浮いて、滑るように行き来できる小型船舶。今レンジャーたちが乗せてもらっているような船外エンジン付き(なんと、フジのOGAWA製)の
利用が許される技術と許されない技術、どこに線引きがなされているかを理解するのは、星外の人間には難しい。最初の入植から三百年も世代を重ねた現在、体系的に文化を伝える教育も失せているのだ。
「――飛び魚は大した魚だよ。川下にはめったに落ちてこない。この先の村が最上流の集落、〈門の村〉でな。そこなら、今日も一匹二匹は取れているかもしれないね」
「俺たちは、生きてるやつが欲しい」
「生きたままか。うーむ、それは難しい。落ちてくるあいだに、たいがい死んでしまうから。――見ろ、あれがわたしらの聖なる山々の入り口。あの麓に〈門の村〉がある。峡谷の切れ込みがわかるかい? 飛び魚はあそこから流れてくる」
「谷の奥に生息してるのか」
「いやいや、だから、もう死んだ魚がね。飛び魚がどこに棲んでいるかは、わたしらも知らないんだよ。しかし、もっと上までのぼれば、わかるかもしれないね」
――なんだって俺は、こんな場所にいるんだか……。
ついに船縁に背をもたせかけ、フィンレイは我知らず長い息を吐いた。そうすると、全身のすみずみまで疲労が浸透していくのを感じた。
けっこうな速度で走っているので、ブヨと蚊と刺し蠅の波状攻撃がないのは救いだが、すでに赤く腫れた複数箇所は薬を塗っても痒みがある。物陰に潜んだ陰険な密航者が時々湧いてくるのもいただけない。船底を這っていた縞模様の毒ヒルを踏みつぶし、漁具の中に潜んでいた噛みつきヤスデを弾きとばす。ハーフパンツのむきだしの膝に内蔵の透けたトカゲがよじ登ってきて、片目でこちらを睨みながら首を振り振り威嚇するのは放っておいた。
今、川の流れは緩やかだった。滲んだような青空には、スコールの雨粒を内に抱えた積雲がめいめい小さく孤立して、爆撃すべき次の標的を吟味しながら流れている。
両脇の朱い樹林は熱もなく燃えているようだ。反対に陽光を遮って暗い梢には、小鳥や獣の無数の気配が揺れ動いている。影しか見せない彼らはしかし、そのくせ自己主張が凄まじいのだった。
息継ぎも定かでないさえずり、身の毛もよだつ警戒の叫喚。仲間を呼ぶ遠吠えや喧嘩らしき怒号もあれば、人声に似た謎の哄笑、樹木を打楽器に見立てたパーカッションまでさまざまだ。調子を変え、音階を変え、狂ったような騒音である。
喧噪の水上市から五日は遡上してきたが、大河の支流の一つに入り、森が両脇から迫るにつれ騒ぎは激しくなっている。違法音楽バースト局のラディカルロックだって、ここまでやかましくはない。そうしてフィンレイがうんざりしながら流れゆく景色を眺めていると、ごくまれに野生動物が姿を現すこともあるのだが、これがまたとんでもない色をしているのだった。
流木の上で幸せそうに日光浴していたのは、蛍光グリーンにショッキングオレンジの豹紋が浮いた襟巻きワニだった。どぎつい紫の毛皮をまとい、互いの尾を噛んで連なった数珠ネズミの家族が大わらわで水に飛びこんでいく。五目インコはラメ入りブルーの風切り羽根を打ち鳴らし、けたたましく鳴きながら鬱蒼と茂る岸から岸へ飛翔していった。小舟の真上を通りしな、ネオンイエローの五つの目玉で人間どもをギョロリと見下しながら。
疑いようもなく、この星の創造主は色彩調整をしくじった――。
眩暈を感じ、フィンレイは視線を無理やり樹海から引き剥がした。しかしそうすると、今度は長座した自分の靴の先、白塗装のはげかけた船首のむこうに巨大な黄土色の壁が遙か空まで立ち上がってくるのだった。
偉大なるテーブルマウンテン。この樹海には、緩傾斜の山麓から突然五千メートルも垂直にせりあがった奇怪な台地群が存在する。神の冗談めいたそれら岩塊が、遠い海からの湿気に富んだ西風を集め、森を養う巨大な
多少距離のあるここから見ても、壁は頭上から覆い被さるように視界を圧している。目を眇めて観察すると、岩壁のそこかしこから大小の滝が噴出し、なかには地上に達する前に霧となってたなびく水もあるようだ。現地民の話では、台地上部はいつも厚い雲霧に覆われており、頂上が晴れるのは年に十日もないということだった。
実際に壁は途中から灰色の霧に煙って、気難しい老人のように下界を拒絶している。そんなテーブルマウンテンの密集地に分け入っていくのは、大陸規模の立体パズルの底を這うような不安感がある。
落石の危険はもちろん、鉄砲水も怖いなと思いながらフィンレイは目を閉じた。
「――ははあ、そうかい。えらい学者先生のお遣いで、あんたらは来たのかい。そいつはぜひ〈門の村〉の村人に言っておくべきだな。彼らは喜んで協力してくれるだろうよ。なにせ飛び魚を地球から持ってきたのは〈門の村〉のご先祖さまで、地球のえらい学者神だったのだからな」
「学者……、なに?」
「上流の部族には、ちゃあんと言い伝わっているよ。星渡りの最初の人がこの森で暮らすと決めたときのことだ。わたしら地球人の口に合う食料が獲れるようにと、地球の海から持ってきた飛び魚を学者神さまが与えてくだすった」
「海からか? 川じゃなく」
「おや、そうだな……。いや、しかし長老の昔話は繰り返し聞いたぞ。海の魚だと」
「じゃあ、この川で獲れるトビウオは違う魚だ」
「いいや、飛び魚さ。あんたらアルテラ人はなんでも知っているもんだと思っていたけど、そうでもないね。ご先祖さまの学者神さまには魚を創る術があったというから、そうした
「翼?」
翻訳機を兼ねる通信機が壊れていたので、フィンレイは後ろにいる漁師の話がほぼ理解できなかった。
男が話す言葉の基本は、記録によれば銀河系共通語と同じはずだった。目を閉じて音韻だけに集中すれば単語の一片でもわかるかと思ったのだが、期待はずれだった。三百年のきつい訛りで、もはや別言語と化している――そうした思索のすきまにも、容赦なく割り込んでくる森の騒音。
奇妙な音韻、読めない文字。裸の人々と珍奇な建築、目の回る装飾に不気味な食べ物、正体不明の刺激臭……。この、悪夢のカーニバルのような自然の配色、奇天烈きわまる動植物たち!
――ここでは俺は異邦人だ……。
そんな想いが、ふいに意識の表層に浮かび上がった。
故郷から遠く離れた異国に来ると、表には出さないまでも、フィンレイには常に感じる底流がある。不安と怖れと興奮のないまぜ。同時に自分が異質であり、特別であることへの緊張した妙な優越感。
補助端末なしでは理解しえない周囲の会話、奇妙な習慣。移動手段の船は祖国では化石級の前時代遺物で、いつエンジンの鼓動が止まってもおかしくないほどガタがきている。だが、下流の航路に渋滞する船もなべて似たようなものだった。激しい虫除け用の噴煙、その中を信じがたいほどの乗客が、船内では押し合いへしあい、船外ではわずかな出っ張りに爪先をかけ、扉や窓にすがりつきぶらさがってまで乗船していた。何か間違いがあって死人が出ても、船主を罪に問う司法は存在しない。嗅ぎ慣れない体臭と汗と、誰かの足を踏んだ誰かの小さな罵り。
――うんざりだ、もううんざりだ。
こんな僻地にやってくるたび、事がうまく運ばないたび、フィンレイはそう思うのだ。手違いがあって荷物を失ったり、汚臭のする宿に泊まったり、倫理も良識もない、いい加減な現地人に騙されたりするたびに。自宅の清潔なリビングで、淹れたてのコーヒー片手に映像で体験するならさぞ興味深く美しいだろう風景も、トラブルの只中にあっては憎むべき
安宿の枕の裏に潜む毒虫を払いながら、変な細菌を含む果実を食べて腹を下しながら、行く先々で好奇心まるだしの視線にじろじろ観察され、押し売りにまとわりつかれ、旅のあいだに念じ続けることはただひとつ――早く家に帰りたい!
「フィンレイ、どうも今回は当たりらしい――フィン? どうした、顔色が面白いぜ。さっきから死んだみたいに静かだし、鬱陶しくないお前は妙だな。まだ下痢が治ってないのか? どんなゲテモノを喰った」
「トビウオ食ったのはお前だろうが……。うう、いや、たぶん防虫剤のせいだ。拭いても拭いても効果が切れん……。ちくしょう、なんでお前は平然としてやがる」
「虫除けは使ってない。この星の虫は俺が嫌いらしい」
「なんだと。お前、虫に生物だと認識されてないんじゃないのか。大丈夫かソード、ちゃんと生きてるか。心臓が動いてるか確認しろ。やっぱり、実は冷血動物だったんだ」
「…………」
ソードオフは、これはまずそうだという沈黙をした。
おもむろにフィンレイの左腕を掴みあげ、腕輪の生体モニタ表示を確認。強い脱水症状のサインを見てとるや、
「自分の世話は自分でみろよ、退役軍人」
器用に片足で引き寄せた荷物から飲料水のボトルを取って、フィンレイに押し付ける。サックの中身をかき回して見つけた薬を放りつけ、また左腕をとってためつすがめつし、とりあえず掌で皮膚をこすってみた。
「よくわからないな。水で洗えば落ちるんじゃないか。汲んできてやろうか」
「頼む。面目ない……」
「貸しひとつ」
楽しい暇潰しを見つけた顔で、ソードオフはフィンレイを斜めから見下ろした。嫌気がさすほど優美な仕草で立ち上がり、わざとらしく余裕をみせつける。どこまでも癪に障る男だ。しかし彼は、そこでハタと動きを止めた。
バケツを探すつもりはなさそうだった。ソードオフはじっと足元を見つめる。船底の溝に溜まっていた水の動きが、急に偏ったのを目で追っていた。なんとなく船が右に傾き、ボトルを仰向けていたフィンレイも異変を察する。口元をぬぐいながらこう呟いた。
「さっき、ヒル踏み潰す勢いが強すぎたかな……。俺のせい?」
「ああっ、いかん! 冷却ポンプがまたいかれた!」
ボカンとくぐもった爆音が床下から伝わってきて、漁師の悲鳴を裏付けた。
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