grigio
「ネッラ修練生、貴様に追討作戦への参加が命ぜられた」
アカデミアに入り、半年ほどが過ぎたある日のことだった。
先輩であり、上官でもあるヴィオラ二期生にそう言い渡され、朝の支度の途中だったわたしは眼を白黒させた。
「……は、自分が、でありますか?」
「そうだ」
かろうじてそう尋ねると、打ち返すように短い応答が来る。
「しかし、その、何故……でありましょう?」
「……貴様も自分の立場というものはよく理解していよう」
すこし緊張を緩めるような具合に声音を和らげて、ヴィオラ二期生はわたしの問いに答える。
「貴様にはいずれ、我が魔女国の中核を担う存在になってもらわなければならない」
“黒髪の君”。
その言葉を、ここでもわたしは意識させられる。
「そのためには、早く経験を積むのに越したことはない」
アカデミアは徹底的な序列構造だ。一期生は二期生に、二期生は三期生に、三期生は卒業生である魔女軍士官の命令に絶対服従を求められる。本分は学生でありながらも、全員が軍の予備役を兼ねるしきたりである。
その中でも、やはり自分に付き纏う特別な存在としての扱いに、わたしはすこし歯痒いものを感じる。
「なに、簡単な任務だ。貴様はわたしたちに着いてくるだけでいい。実戦の空気を体験する良い機会だと思え」
「は、はいっ」
気を取り直して敬礼を返すと、ヴィオラ二期生は重々しく頷く。そして、言う。
「“森”の
「か、間諜、ですか」
「そうだ。それもよりにもよってアカデミアの修練生の中にな」
その言葉に、どきりと心臓が跳ねる。
“森”は、現体制に不満を持つ魔女たちの集団だ。ここ、魔女国首都アルカジアの西方およそ五十里の位置に広がる大森林地帯を根城とすることから、“森の魔女”と呼ばれる。広大な森林の中に潜み、常に拠点を移しながら頑強な抵抗活動を続ける彼女らに、パラティウムも手を焼いているのだ。
その構成員の多くは、魔力至上主義とも言える現在の魔女国の在り方から弾き出された、薄い色素の髪を持つ者たちだと言う。銀色、薄灰色、
その活動に、アカデミアの学徒という、同胞であり、謂わば選良と呼べる魔女が手を貸している。
そのことに、わたしは戸惑う。
「あの、ヴィオラ修練生」
「なんだ」
「なんと言うのですか? その、アカデミア生の名は……?」
「知ってどうする?」
厳めしい声音で、ヴィオラ二期生はわたしの問いを斬って捨てる。
「学友だなどという考えは捨てろ。密通が発覚した時点で、その者はただの下衆な“森”の間者だ」
「……はい」
わたしは、ただそう言って頷くしかなかった。
ただちに身支度を整えたわたしは、ヴィオラ二期生の先導でアカデミア学舎屋上の離発着上に参集する。
一期生で参加しているのはわたしだけだ。
すでに到着して居並ぶ三期生や二期生たちが、数えて六人。その列の端に加わり、わたしとヴィオラ二期生も直立不動の姿勢を取る。
その列を
「いまから行うことは、一種の訓練だと思ってもらっていい」
ヴェルデ上級魔導士は開口一番そう切り出す。
「問題の魔女については諜報部が以前より調査を行っていたが、容疑が固まり、本日早朝身柄を確保するためわれわれが動いた。しかし、一足遅れた」
神経質そうな身振りで、つかつかとわたしたちの列の前を往復しながら説明を行う。
「部屋はすでにもぬけの殻。対象はアカデミア守衛三名を催眠魔法で昏倒させ、屋上離発着場――つまりはここ」
かつり、と靴音を鳴らす。
「――から箒を奪い、西方に向かって逃走中だ」
一旦、修練生たちの反応を確かめるように、ヴェルデ上級魔導士は
「そこで、だ」
ぱちり、と指を鳴らし、短い呪文を呟くと、その隣の空間がぐにゃりと歪んだ。
「高速機動型の箒だ。人数分用意してある」
次の瞬間、そこには集合した修練生の数とおなじだけの箒を収めた架台が現れていて、わたしは舌を巻く。
あれだけの圧縮詠唱ひとつでこれほどの転移魔法を行使できることに、パラティウム
「いいか、これは狩りだ」
感情の読めない冷徹な声音で、上級魔導士は説明を続ける。
「獲物が使用しているのはここで奪った汎用型の箒……高速機動型なら追いつくのは容易い。包囲して確実に仕留める――ただし一点」
ヴェルデ上級魔導士が片手の人差し指を、ぴん、と立てる。
「殺傷は禁ずる。後程諜報部が尋問を行う」
尋問――我が事ではないながらも、その言葉に背筋がひやりとする。その魔女はきっと、その場で殺されていたほうが良かった、と思えるほどの責苦を受けることになるのだろう。
「申し述べることは以上だ。なにか質問はないか」
臨時の上官の問いに、居並ぶアカデミア生たちは沈黙で答える。
「よろしい。準備にかかれ」
はっ、と一斉に気勢を上げて、短杖を胸元に掲げる礼を執ると、わたしたちは架台に掛けられた箒の元に一散に向かい、各々それを手にする。
「ネッラ修練生、高速機動型を使うのは初めてか?」
一番端の箒に取りついたわたしの隣で、ヴィオラ二期生がそう声をかけてくれる。
「は、はい。講義で説明は受けましたが……」
「そうか。まあ、そこまで硬くなることはない。基本的な使い方は通常の箒と同じだ」
「はい」
見た目からすぐにわかる高速機動型の、汎用型との違いというと、姿勢を安定させるための
「把手をしっかり握って、姿勢はなるべく低く。足置きにもちゃんと力を込めろ」
「はい」
「よし。あとは飛んでいるうちに段々わかってくる。緊張しすぎない程度に緊張していけ」
「はいっ!」
ヴィオラ二期生の励ましをありがたく感じながら、わたしも箒を手に取り、再びヴェルデ上級魔導士の前に整列する。
「よろしい。隊列は
はっ、とわたしたちは唱和し、ヴェルデ上級魔導士を先頭にした楔型のかたちに隊列を組む。
『浮上』
ヴェルデ上級魔導士を中心とした魔力の
浮上、と皆が唱和を返す声を感じ、わたしもあわててそう念じる。
箒に魔力を注ぐと、ゆっくりと発着場の床面から足が離れる。こういうところはふつうの箒と同じ感覚だ。
『発進』
その号令に応えて、さらにすこし箒に魔力を注いだ瞬間――
『ネッラ修練生!』
わたしは上体を大きくのけぞらせ、危うく箒の上から放り出されるところだった。
ヴェルデ上級魔導士の叱責が脳内に響く。
『気張り過ぎだ! 無闇に魔力を注ぎ込めばいいというものではないぞ!』
『も、申し訳ありません!!』
予想以上の加速に、陣の右端からひとり飛び出す格好になってしまったわたしは、あわてて箒への魔力の供給を抑えると、姿勢を前屈みに戻し、把手をしっかりと握り直す。
顔から火を吹くような思いをしながら他の隊員が追いついてくるのを待つと、陣の右端最後尾に並び直し、今度こそ周囲の速度に合わせて、慎重に箒を進ませる。
『早速“黒髪の君”の面目躍如だな、ネッラ修練生』
左前方に位置するヴィオラ二期生が飛ばしてくる親しげな軽口の念話に、わたしは再度顔が
『私語は慎め、ヴィオラ修練生』
『はっ、申し訳ありません!』
『目標が奪った箒の標識は照準してある。総員、遅れずに着いて来い』
ヴィオラ二期生を軽くたしなめて、ヴェルデ上級魔導士が指示を飛ばす。
念話の応用で、脳裏に直接地形の情報と、その中を移動する輝点の印象が流れ込んでくる。
ヴェルデ上級魔導士の指示に皆で、はっ、と短く答礼すると、隊は改めて追撃を開始する。
それにしても、なるほど、汎用型の箒とは段違いの性能だ。ほんのすこし魔力を注いでやるだけでも相当な速度が出せる。
脳内に映る地図情報の中でも、標的となる輝点にむけて、その距離がぐいぐいと縮んでいくのがわかる。
だが、そのときだった。
不意に視界が白く霞む。
『なに……?』
困惑げなだれかの念話が届く。
隊はいつのまにか、前触れもなく、突如湧き起こった、としか言えない濃霧の中に突っ込んでいた。
わたしの視界では、厚い靄を通して、すぐ左前方にいるはずのヴィオラ二期生の姿が、ぼんやりと影絵のように見えるのみだ。
『ヴェルデ師、これはいったい!?』
『狼狽えるな! 状況を分析する!』
困惑げな三期生の念話にそう返して、ヴェルデ上級魔導士が分析魔法を展開する気配がする。
だが、そうする間にも、視界にはちらちらと白い薄片が舞い始め、じきに濃霧は猛烈な雪嵐と化して隊を襲い始めた。
『なんだ……? この術式は……!?』
本心戸惑っているような、ヴェルデ上級魔導士の呟きの感覚が伝わってくる。
「ええい!!」
“火精よ、その光と熱を以って、嵐を散らせ!”
略式の発熱魔法を詠唱し、わたしは自分の周りの雪嵐だけはなんとか散らし、陣形から外れて隊を
異常な光景だった。
からりと晴れた日差しの下、隊の周囲にだけ――もはや靄や濃霧といったものではない――黒々とした暗雲が纏わりついている。
高速で飛行する隊列を精確に捕捉し、その周囲にだけ氷嵐を発生させる――異様なまでの精度の魔術だった。
こんなことができるアカデミア生なんて――ふいに脳裏を過ぎる最悪の可能性を、わたしはぶんぶんと首を振って頭から追い出す。
そんなこと、あるはずがない。だって、彼女は――
『具申しますっ!!』
気を取り直して、わたしは混乱の声が飛び交う念話網に割り込む。
『言え! ネッラ修練生!』
ヴェルデ上級魔導士の、必死に恐慌に抗う声音の印象が伝わってくる。
『強力な魔術による妨害です!! このまま飛行を続けるのは危険です!!』
『自分からも一時着陸することを具申します!!』
ヴィオラ二期生が切羽詰まった様子で、わたしの意見を後押ししてくれる。
『このままでは墜落することも……!!』
『……已むを得ん、一時着陸する!』
一瞬の
『各員、どうにかして雪雲を突破しろ!! 着陸して再集合する!!』
指示に応えて、はっ、と各々が気勢を上げ、雪嵐から逃れようする様子を、わたしは固唾を飲んで見守る。
そうすることしかできない。
わたしの大雑把な魔法では、黒雲ごと仲間まで吹き飛ばしてしまいかねない。
熱線が黒雲を切り裂き、ヴェルデ上級魔導士が脱出する姿が見えた。火球を放って、氷嵐からからくも逃れるヴィオラ二期生の姿。
その他の三期生や二期生たちも、なんとか嵐の中から脱出してくる。
『だ、駄目です!! 箒の制御が……!! ひっ』
だが、そこに悲痛な念話が響く。
二期生のひとりが黒雲から弾き出され、出鱈目に回転しながら墜落していくのが見えた。
『ローザ修練生!!』
『わたしが行きます!!』
気づけばわたしは即座にそう宣言し、箒に魔力を注ぎ込んでいた。
「ぃっ――!!」
急激に視野が
地面に叩きつけられる寸前のローザ二期生にぎりぎりで肉迫し、重力制御魔法と念動魔法を併用して無理矢理その姿勢を立て直させる。
助けられた! そう思うのも束の間、猛烈な速度で地面に突っ込んでいくかたちになった自分の体に、わたしはあわてて念動魔法を再度発動して急制動をかける。
間に合わない!
次の瞬間、わたしの体は箒ごと草むらの茂る地面に叩きつけられていた。
視界がぐるぐると回転し、白と赤にちかちかと明滅する。口の中に鉄錆と青草と土の味が広がる。
「大丈夫か!? ネッラ修練生!?」
わたしを抱え起こして顔を覗き込んでくるローザ二期生の顔が、二重にぶれて見える。
「……ローザ修練……生……ご無事、でしたか……?」
「わたしのことよりおまえのほうだ!! まったくなんて無茶をする……!!」
「すみ……ません……」
「謝るな……! ……おまえのおかげで助かった。借りができたな、ネッラ修練生……」
『無事か! ローザ修練生! ネッラ修練生!』
ローザ二期生に肩を借りて立ち上がったところに、ヴェルデ上級魔導士からの念話が届く。
『ローザ修練生、無事であります! ですが、ネッラ修練生が負傷を……』
『いえ、わたしも、大丈夫、です』
ローザ二期生に肩を借りたまま、わたしは体の各部に意識を向けてみる。あちこち打撲の痛みは感じるが、骨折したような感触はない。
『ですが、箒が……』
地面に目を遣ると、わたしの乗っていた箒は柄が真っ二つにへし折れた無残な姿で草原に転がっていた。
『そんなものはどうでも構わんっ!! ……いま、他の隊員はその先の林の前に集合している。来れるか?』
『了解しました。移動します』
『了解、しました』
念話を終えると、ローザ二期生が改めて気づかわしげにわたしの顔を覗き込んでくる。
「本当に大丈夫か? ネッラ修練生……」
「正直、あっちこっち痛いですけど、骨は大丈夫みたいです。行けます」
「わかった、わたしの箒を使おう。後ろに乗れるか」
「はい……」
「よし、しっかり掴まっていろよ」
ローザ二期生の箒の後ろに乗せてもらい、林のほうに向かうと、ヴェルデ上級魔導士を中心にして集合している他の隊員たちの姿が見えた。さいわい、全員無事な様子だ。
「ローザ修練生、ネッラ修練生、参集しました!」
「よろしい。よく無事だった」
そう答えて、ヴェルデ上級魔導士は思案気な様子で顎先を指でなぞる。
「……すまぬ。わたしの判断が誤っていた」
上官のあけすけな謝罪の言葉に、わたしたちは呆気に取られる。
「間者はまだ経験の浅いアカデミア一期生。それも銀髪だ」
銀髪、という言葉に、心臓がどくんと脈打つ。
「貴様らの教練に適当だと思って隊を編成したが、
「あ、あのっ!」
「――なんだ? ネッラ修練生」
唐突に声を上げたわたしに、ヴェルデ上級魔導士は訝しげな顔をする。
「いえ、その……申し訳ありません、なんでも、ありません……」
だが、わたしは結局決定的な問いを発することができなかった。
そんなはずはない。そんなこと、あるわけがない――
再び頭をもたげる最悪な懸念を、わたしは必死に打ち消そうとする。
「……まあいい。――貴様ら、ここから先はわたしひとりで行く」
ヴェルデ上級魔導士の宣言に、面々が戸惑いの表情を浮かべる。
「標的はこの林を抜けた先の地点で静止している」
言われてみれば、脳内に浮かぶ目標の輝点はじっと動きを止めている。
「……あきらかに先程と同等か、それ以上の罠を仕込んでこちらを迎え撃つ
皆が息を呑む気配がする。
たしかに、先程のような苛烈な設置魔術が仕掛けられていたら、今度こそ無事に切り抜けられるかどうか、わからない。
「貴様らはアカデミアに帰投し、事の次第を報告しろ」
ヴェルデ上級魔導士が、決定事項を言い渡す調子で続ける。
「援軍が到着するまで、わたしが足止めする」
ヴェルデ上級魔導士は、仕留める、という言葉を使わなかった。
パラティウムの正規兵でも、ひとりでは足止めするのが精一杯の相手だと認めたということだ。
そのことに、首筋がひやりとする感触を覚える。
「で、ですが、それでは――」
それでも、ひとりの三期生が異議を唱えようとした、そのときだった。
ふいに辺りが暗くなる。
「なんだ?」
見上げれば、燦々と陽光を降り注がせていた空がにわかにかき曇り、わたしたちの頭上に黒々とした雲が渦を巻き始めていた。
「総員、散開しろ!!」
切迫した声音のヴェルデ上級魔導士の指示が飛び、わたしたちは反射的に集合を解いて跳び退る。ヴェルデ上級魔導士だけが不動のまま、天を睨み据えていた。
渦巻く黒雲の一点に氷雪が集まり絡み合って、あっと言う間に巨大な氷塊が生み出されていく。
それが次の瞬間、ヴェルデ上級魔導士を目掛け、おそろしい速度で落下してくる。
「――ッ!!」
もはや音声として認識できない高速詠唱をヴェルデ上級魔導士が発するのが聞こえた。振り上げた短杖の先から眩い閃光の帯が放射され、真っ向から氷塊にぶち当たる。
じゅうッ、という激しい音と、大量の白い蒸気が氷塊から放たれる。
だが、ヴェルデ上級魔導士の放った熱線が途切れると、そこにあったのは依然として十分な質量を保った氷の塊の姿だった。
「なんだと」
心底不思議そうなその呟きが、ヴェルデ上級魔導士の最後の言葉になった。
巨大な氷塊が、ヴェルデ上級魔導士の体を、無慈悲に、完膚なきまでに圧し潰す。
その非情な光景を、わたしたちは呆然と眺めることしかできなかった。
「……う、うわぁあぁッ!!」
ひとりの三期生が、恐慌に陥り踵を返して草原へとがむしゃらに駆け出し始める。
「ま、待て!!」
別の三期生があわてて呼び止めようとするが、逃走する三期生の背中を、次の瞬間、黒雲から降り注いだ鋭い氷の槍が串刺しにしていた。
三期生の体が膝をつき、奇妙にゆっくりと草むらの中に
「狙い撃ちにされるぞッ!! 林に逃げ込め!!」
もはやだれが飛ばしたのかもわからないその指示に衝き動かされるように、わたしたちは林の中へと駆け込んでゆく。
だが、わたしの前方を走る二期生の体が、突如樹間から飛来した無数の氷の刃でずたずたに切り裂かれた。
悲鳴すら上げる間もなく
周囲から、ひっ、ぐっ、と仲間の短い断末魔が響くのを、夢の中のような心持ちで曖昧に感じ取る。
敵は最初から、こうするつもりだったのだ。
この林は、まさにその
微弱な魔力の線に触れた感触がして、わたしは咄嗟に発火魔法を唱える。八方から襲い掛かってきた何本もの氷の矢が、宙空で蒸発する。
それに息を吐く間もなく、走るわたしに次から次へと殺意に満ちた氷の設置魔術が浴びせかけられ続ける。
それをわたしは、自身の恵まれた魔力に任せたその場しのぎの炎熱魔法でかろうじて突破していく。
そうしてどれだけ走っただろう。
目の前に、樹木の切れ目が見える。
安堵する、ということはなかった。
むしろこの先に待ち構えているだろう最悪な現実の予感が、わたしの心臓を疾走する体の負担にも増して早鐘のように打ち鳴らした。
わたしに襲い掛かってきた氷の罠の術式の、なんと精巧で、美麗だったことだろう。
あなたが――どうして、あなたが――
林を抜ける。
たまらずへたり込んで、周囲を見回しても、他の隊員の姿はひとりもない。
きっと皆、林の中で殺された。
彼女に殺されたのだ。
荒い息を吐きながら立ち上がるわたしの前方に、草原の中立ち尽くすひとりの魔女の後姿があった。
「どうして……!!」
三つ編みにした銀色の髪を背中に垂らした魔女。
「どうしてなのッ!? グリシャっ!!」
わたしの叫びに応えて、その魔女がゆっくりとこちらへ振り向く。
「……わたしの仕掛けをすべて突破してくるだなんて、パラティウムの魔女もなかなかどうして、と思ったのだけれど――」
銀縁の眼鏡の奥の碧い瞳から放たれる鋭い視線が、わたしを射抜く。
「まさかあなただったとはね、ネッラ」
そこに佇んでいるのは間違いなく、わたしが心奪われた美しい魔法を操る魔女だった。
間違いなく、グリシャだった。
「ご無沙汰しておりました。ごきげんよう“黒髪の君”」
「ふざけないで答えてッ!!」
いつか見た冷たい微笑を浮かべて、芝居がかった仕草で礼を執るグリシャに、わたしは絶叫する。
「……ねえ? 嘘でしょ……? だって……あなたがこんなこと……こんなことするはずない……っ!!」
抑えきれず、溢れる涙が頬を濡らすのを感じながら、わたしはグリシャに問いかける。
一瞬で皮肉げな微笑みを消し去ったグリシャが、無表情にわたしを見つめ返す。
そして、ぴしゃりと言った。
「あなたにわたしのなにがわかると言うの」
「え……」
「生まれつき強大な魔力を備えた黒髪の子。“魔の女皇”にだれよりも愛された存在――」
不気味なほど平板な声音でグリシャは続ける。そして――
「そんなあなたに!! いったいわたしのなにがわかるッ!!」
それは心の底からの怒号だった。
初めて聞く、グリシャの激情に満ちた声だった。
わたしは、なにも言葉を返すことができなかった。
奇妙な沈黙がわたしたちの間に落ちたあと――
「……わたしが生まれたのは、北辺の小さな村でね」
ふいにわたしから視線をそらすと、グリシャはぽつりぽつりと語り始めた。
「わたしたち銀髪の母子は蔑まれて生きていたわ。母は元々魔力が乏しい上に、無学で、
ふたたび、わたしに鋭い視線を向け、言葉を継ぐ。
「あなたに想像できる? 物乞いや、だれもやりたがらない雑役で手間賃をせしめて、糊口をしのぐ暮らしが? 冬の川で洗濯物を洗うときの、指を切り刻まれるような水の冷たさを」
グリシャの言うとおり、そんな生活はわたしには想像ができなかった。
わたしの傍には常にわたしを溺愛する母がいて、いずれ成長して高い地位を得るであろうわたしに、早くから取り入ろうとお追従の言葉を連ねる魔女たちに囲まれた、安穏とした生活だけがそこにはあった。
「わたしは母のことが嫌いだった……小銭や食べ物を恵まれて、卑屈な笑みを浮かべてそれを受け取る母の顔を見ることがなにより嫌だったわ」
グリシャが奥歯を喰いしばる、ぎりぎりという音が聞こえてくる気がした。
「こんな風には絶対になりたくないと思った。いつかこんな生活から抜け出してやるんだと胸に誓った……わたしは村に一箇所だけあった、お金に余裕のある家の子たちが通う学習所の窓に齧りついて、漏れ聞こえる魔法の知識を頭に刻みつけるようになったわ」
ふっと皮肉げな笑み。
「ふつうに通学している子たちに見つかると、よく嬲り者にされたわ。皆でわたしを練習台にして、魔法で生み出した雪球や氷礫をぶつけるの……でも、そのとき聞こえる詠唱も、わたしは糧にした! 一言一句聴き漏らさず、必死に覚え込んだ!」
グリシャがにやりと不敵に笑う。
「そして、ついにその日が来たわ。いつものようにわたしを取り囲んで、次々に氷の礫を投げつけてくる子どもたちの魔法に、その対抗術式をぶつけてすべて無効化し、お返しにまったく同じ魔法を見舞ってやった……! そのときの彼女たちの顔といったら……いま思い出しても胸がすく――!」
過去を思い返す遠い瞳で、グリシャは語り続ける。
「しまいには学習所の所長もわたしのことを認めざるを得なくなって、わたしは離れた街の魔法学園に寄宿生として入ることを許されたわ。そこにはもちろん、わたしよりもずっと魔力の強い、濃い色の髪の学生たちがたくさんいた。でも、そのだれにもわたしは負けまいとした。だれよりも熱心に講義に耳を傾け、だれよりも仔細に魔導書を読み込み、だれよりも厳しく魔法の鍛錬を積んだ!」
グリシャの口調が熱を帯びる。
「そしてついに、わたしはアカデミア附属魔法学園への編入生の席を勝ち取った!! 銀髪のわたしが、居並ぶわたしよりも濃い色の髪をした生徒たちを抑えて、その権利を獲得した!! 天にも昇る気持ちだったわ……!! ――そして、きっとそこでも主席に昇り詰めてみせる!! わたしはそう決意を新たにした!! 努力すればこの手で掴めないものなどなにもない!! ……わたしは、愚かにそう信じていたのよ――」
碧い瞳に、さっと昏い影が過ぎる。
「……でも、学園に入学して、あなたの魔法を初めて眼の当たりにしたとき、わたしのそんなちっぽけな自尊心は粉々に打ち砕かれたわ」
「え……」
「どんなに努力しても覆すことのできない才能の差というものを、思い知らされた……!! あなたの術式の、明快でいて大胆な構成、そこから生み出される魔法の、なんて壮麗なこと……!!」
「グリシャ……!」
「その夜、わたしは初めて口惜しさで枕を濡らしたわ……身の程知らずに思い上がっていた自分のことが、みじめでみじめでたまらなかった……」
いつのまにか、グリシャの双眸から流れた涙が二筋、その頬を滑り落ちていた。
「どうしてもう百年――いえ、十年でも遅く生まれてきてくれなかったの?」
涙を流しながら、なにか眩いものを見るような眼差しで、グリシャは静かにわたしを見つめる。
「そうしたらわたしもきっと、あなたを“黒髪の君”として、心から祝福することができたのに」
きっと目つきを鋭くして、言う。
「あなたのことが憎いわ、ネッラ」
「グリシャ……」
わたしはいやいやをする幼児のように
「違う……違うのよ、グリシャ……!」
「なにが違うと言うの!」
「わたしのほうこそ、あなたのことをずっと恐れていた……とても敵わないって……」
はん、とグリシャが鼻を鳴らす。
「よくもそんなくだらない戯言が吐けたものね……!!」
「本当よ!!」
吐き捨てるグリシャに、わたしは叫んでいた。
「わたしなんて、ただ持ってる魔力が大きいだけ……! 術式だって、教科書どおりの基礎のかたちを、それらしく組み合わせてるだけよ……」
それは、真実わたしの本心だった。
「グリシャ……あなたの術式の緻密さや美しさ――わたしはそれに本当に憧れていたのよ……!! 一切の無駄がなくて、繊細で、綺麗で、どんな芸術よりも尊いと思った……!!」
「そんなもの、所詮小手先の細工よ……っ!!」
自らの素晴らしい技巧を、唾棄すべきもののように断じるグリシャの言葉に、わたしは胸を締めつけられるほどの悲しみを感じる。
「いいえ!! あなたの魔法こそが本当の魔法よ!!」
厚い氷で鎧われたかのような彼女の心に、どうか届いてと祈りながら、わたしはグリシャに言葉をぶつける。
「どんなに微量な魔力でも、それを何倍にも増幅させて、最大限の効果を発揮させる……!! その仕組みの、なんて……なんて精巧で、なんて優美な……!!」
思わず天を仰ぎ、喉を震わせる。
「わたしこそ、あなたの魔法を見て、初めて敗北感を味わったわ……この世界には、こんなにも美しい魔法を使える人がいるのか、って……」
わたしはグリシャの顔をまっすぐに見つめる。
「グリシャ、わたし、あなたのことが好き」
ようやく、わたしはそのことに気づけた。
わたしはずっと、ただ、グリシャと親友になりたかっただけなのだ。
「ネッラ……」
わたしの言葉を受けて、グリシャは哀しく笑った。
「わたしは、あなたのことが、大っ嫌い」
「グリシャ……!」
「――さあ、おしゃべりはこれぐらいで終わりにしましょう」
「待って、グリシャ!!」
ほろ苦い笑みの残滓をその
朗々と紡がれる、彼女のどこまでも怜悧で、精緻な術式に従い、その背後に無数の雪嵐が渦巻き始める。
「お願い……もうやめて、グリシャ……!!」
その詠唱が完了したとき、雪嵐は容赦なくわたしに襲いかかり、この身を凍りつかせるまでもなく、その
「お願い……お願いよ……っ」
わたしの哀願にも、彼女が呪文を唱える調子が緩められることはなかった。
グリシャは本気でわたしを殺すつもりなのだ。
その魔法が――どこまでも冷酷な、美しい殺意を乗せた魔法が――完成する。
雪嵐が唸りを上げて、わたし目掛けて殺到する。
「いやあああああああああああああっ!!」
瞬間、眩い閃光が視界を真っ白に染めた。
瞳を
――生きている。
わたしはまだ、生きている。
痛みをこらえて、眼を開く。
眼前の景色は、一変していた。
「あ、ああ……」
膝が崩れる。
地平線まで続く緑の草原は跡形もなく、そこには一面の焦土が広がっていた。
「あああ……あああああ……」
死に面した刹那、反射的にわたしが放ったのは、ごく単純な発火の魔法。
それをわたしの膨大な魔力が暴走させ、数万度の熱線へと変えて、周囲のあらゆるものをことごとく焼き払った。
「あああああああぁ……!」
瞬時に溶融し、硝子質に冷え固まりつつある地面が複雑な縞模様を描いて、じじ、とその極熱の名残を宙に放っていた。
「あぁあぁああああぁあああぁあぁあああああぁあぁああああああぁ――ッ!!」
グリシャの体は、骨の欠片ひとつ残らなかった。
「あぁああぁあぁ……ッ!! ああぁあぁあぁああああぁああぁあぁッ!!」
わたしが、殺した。
「ああぁッ!! あぁあああああぁああぁッ!!」
わたしが、あの子を、殺した。
「うああああぁああぁああああああぁあぁあぁ……ッ!!」
喉はとめどなく慟哭を迸らせ、振り乱された髪がばさばさと
「っ!! ……こんな……ッ!!」
わたしは両の手でその束を掴むと、力任せに引き毟る。
「こんなものおぉおォッ!!」
ぶちぶちと厭わしい黒い髪が引きちぎれていく音を、わたしは頭蓋をとおして直接感じる。
「こんなァッ!! こんなあぁあぁッ……!!」
こんなもの。
「こんなあああぁあぁあああああぁああぁッ!!」
こんなもの、いったいいつわたしが欲しいと望んだというのか。
「うあアァっ!! うあぁあアアァアァアァッ――!!」
こんなものさえなければ、あの子の命は奪われることはなかった。
こんなものさえ――
こんなものさえなければ――
獣のような吼え声を上げながら、わたしは手当たり次第に忌まわしいものを頭から毟り取っていく。
いらない。
こんなもの、わたしはいらない――
そして、声も涸れ果て、引きちぎるものもなくなったころ、わたしの手のひらに白いものが落ちた。
見上げれば、空から雪のように、灰が舞い降りてきていた。
わたしの魔法に焼かれ、舞い上げられたものの名残りが、細かな灰となって降り落ちてきたのだ。
「ああ……! あああ……!!」
その中にはきっと、あの子の存在を構成していたものも含まれている。
わたしは両手を差し伸べてそれを集め、
――灰よ、灰よ、どうかこの忌まわしい黒い色を塗り潰しておくれ。
そうして、もう十分に醜悪な烏の羽根のような色を覆い隠せるまでになったと思うと、わたしは地面に散らばり、降り積もる灰に覆われつつある、さっきまで自分の一部であったものを搔き集めた。
黒い塊を両手で捧げ持ち、そっと発火の呪文を唱える。
厭わしいものが赤く焼け、そこから白い煙が立ち昇る。
火に炙られる手のひらの痛みは、不思議と感じなかった。
――煙よ、煙よ、どうかこの黒い色を、天に還ったあの子の元に届けておくれ。
ああ、“魔の女皇”よ。“魔女の神”よ。
どうしてわたしたちは、互いの髪の色を分かち合うことができないのですか。
どうしてそのように、わたしたちをお造りにならなかったのですか。
もしも――もしも、そのようにできたなら――わたしの黒い髪の色と、あの子の銀の髪の色を、はんぶんこに分け合って、そして、お揃いの鼠色の髪で、ふたり手を繋いで、笑い合うことができたなら――
それだけで、わたしはこの上なく幸せであれたのに――
煙の最後の一筋が、空に吸い込まれてゆく。
灰は、まだ降り止まない。
* * *
その日、ひとりの学徒がアカデミアを出奔した。
やがて“灰の魔女”と名乗る魔女に率いられた“森”の軍勢にパラティウムが敗北を喫し、魔女国が滅亡を迎えるのは、それからおよそ十年の後のことであった。
黒の髪、銀の髪 myz @myz
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