5.5-9 神獣の裁き


 ――と、悩んだところで、どうにもならないことは分かっていた。


 次の朝は大騒ぎだった。ロジーたちが突然いなくなったことを知った子供たちは、とたんにパニックに陥った。

 一座に入ってから一番日が浅いのはシェンだが、ロジーたちがいなくなった今、一番年上なのもシェンだった。

 シェン以外は、物心つかないうちから一座で育ってきた子供たちばかり。一座のリーダー格だったロジーたちは、彼らにとって親代わりなのだ。

 親を失った子供たちは、不安がって泣き、寂しがって叫び、探しに行こうと家を飛び出すのもいれば、ちょっとしたことで他の子に当たり散らし、掴みかかるのもいる。

 ハオじいと二人で散り散りになろうとする子供たちを必死で集めてなだめすかし、話を聞けそうなのから順番に、昨晩シャーサについた嘘をいやと言うまで教え込む。


 一方で、蜘蛛女や片足双子をはじめ、一座お抱えの「見世物」たちは、絶望的な顔をしていた。シェンの子供騙しを、彼らが信じるわけはない。彼らはシェンと同じように「ロジーたちは逃げたのではないか」と思っているようだった。

 ロジーたちと同じくらい、もしかしたらもっと古株なはずの彼らの顔を見れば、ロジーたち三人が一斉にいなくなることがどれほどこの一座の存続を脅かすことなのかは、火を見るより明らかだった。



 気がついたら、夜になっていた。

 親の肌の温かさに飢えた子供たちが、シェンに少しでも触れようと、シェンを押し潰さんばかりに周囲に群がって眠っている。

 崩れかけた砂山の頂上に立てられた木の枝よろしく、円形に折り重なる子供たちの真ん中で、シェンは途方に暮れていた。横にもなれずにいるうちに、やっぱり気がついたら窓の向こうがうっすら白み始めていた。


 山の端から登ってきた太陽が、だんだんと部屋の中を明るく照らす。

 朝日を浴びた子供たちは、一人また一人と目を覚ました。

 みんな同じように泣き腫らして真っ赤になった目をこすりながら、体を起こし、こちらを見てシェンの言葉を待っている。

「……えー、と」

 眠気でぼうっとする頭をなんとか動かして、ロジーの声を思い出す。どうして私は、こんなことをしているんだろう?

「みんな、朝ごはん食べたら、えーっと、」

 えーっと。

 今日は、いつも通り稽古する予定だったっけ?

 誰が大人たちの屋敷の雑用に行くんだっけ?

「昨日――じゃない。一昨日、稽古していた人は手をあげテ」

 誰も、そんなことを覚えていない。ぼーっと、子供たちはシェンの顔を眺めてばかりいた。

「ま、まあいいでス。とりあえず、朝ごはんを食べましょうカ」

 シェンがそう言ってくるりと後ろを向き、寝室を出ると、子供たちはぞろぞろ後ろについてきた。


 食堂に入ったら、朝ごはんはすでにテーブルへ並んでいた。いつもより一品お皿が多い。子供たちのご機嫌とりにか、ハオじいが昨晩一人で多めの仕込みをしてくれたようだった。

 子供たちと一緒に朝食を掻き込みながら、頭の中で誰が稽古に行くのか適当に振り分け、この先の予定を考える。

 シェンは一番乗りで食べ終わると、今日稽古に行く者と、雑用に行く者を呼び、十日後にショーを開くことを全員に聞かせた。

 すると、子供たちの目に少し光が戻ったように見えた。



「さあ、行きましょうカ」

 いつもロジーがしていたように、シェンは身支度を済ませた子供たちを庭に集めて言った。

 これから、みんなで劇場小屋裏の稽古場に向かう。大人たちの屋敷へ雑用に行く子供たちは、一旦みんなと稽古場に行って、そこから屋敷へ向かうのだ。

 子供たちはシェンの号令に従って、次々と門から走って出ていく。ちらほら笑っている顔もあって、シェンはにわかにホッとした。

 空は薄曇りで、雲の切れ間からところどころ淡い青空が見えていた。夏も終わりごろの、暑くも寒くもない、心地いい気温だ。風は少し冷たいくらい。


 最後の子供が門から出て行ったのを見て、シェンもその後を追おうとした――その時。

「おい。ロジーのやつはいねぇか」

 門のすぐ外から、野太い男の声がした。

 シェンは足を止めて振り返る。

 そこには赤ら顔に黒い髭をもじゃもじゃ生やし、毛羽立ちだらけの茶色い背広を着たまん丸い男が、焦点の合わない目でこちらを見ていた。

 一座の大人の一番えらい人――親方だった。

「ろ、ロジーですカ」

 シェンが小さく言うと、小さな目玉が顔の真ん中に集まった。

「おめぇは、なんだ、パルマか。ロジーのやつはいねぇのか」

「ロジーは王都へ用足しに出かけてまス」

「あんだと? あんのクソ坊主、俺に黙って出かけやがって」

 ペッ、と親方はシェンの足元へつばを吐いた。

「いつ帰ってくる?」

「……聞かされてませン」

 シェンは正直に答えた。同時に、八つ当たりの拳が飛んでくるかと思って身構える。

 しかし、親方は数秒黙ったあと、ふう、とため息をついただけだった。

「ふん。じゃあおめぇでいい、パルマ。毛皮商売の話だ」

「毛皮商売?」

「んだ。おめぇら猛獣使いが見せもんで殺す獣がもったいねえだろ。あれの皮を剥いで売って、儲けようってんだ。ちょうどロジーのほかに、おめぇみたいな上手い猛獣使いが入ってきたってんで」

「は、はあ」

「おめぇの初舞台はすげぇもんだったぞ。見物料があんなに弾んだこともなかったもんだ……はっ、ろくすっぽ金のねぇ石工らぁが、寂しい財布をみんなそろって引っくり返してよ、笑っちまった」

 親方が鼻で笑った。口の端から、黄色い歯がのぞく。

 シェンはなんとなく、じんわり首筋に嫌な汗が出てくるのを感じた。親方はものすごく機嫌がよかった。

「そうなんですカ」

「そぉとも。それで、その儲けで新しい商売を始めようってんで、たった一昨日、毛皮としてよく売れる珍獣をオレがここに仕入れてきたところだったってわけだ。ロジーの野郎、ずっと前から毛皮はやめろって聞きやがらなくってよ……質が悪くなるだか、仕入れが高すぎるだか何だか知らねえが、普段ナマばっか言って偉ぶるくせに、こんな時ぁ逃げ腰でやがる。腹が立つったらねえ」

 がっはっは、と親方が笑った。

「しかし、まとまった金が一度に入ったんじゃあ、やるなら今だろうが。え? オレの見世物小屋なんだ、いつもいつもあの小坊主の言いなりってわけにゃいかんだろ。なあパルマ。え? おめぇの次の舞台に、オレの商売の命運がかかってる。頼んだぜ」

「そ、その」

 シェンは親方が話を切るなり食いついた。

「その珍獣ってのは、どこニ?」

「あぁ、猛獣小屋に運ばせといたはずだ。すげえぞ、海の向こうから入ってきた獣だからな。売人の方も仕入れたはいいが扱いに困っててよ、手に負えねえってんで随分安く売ってきたんだ。ツイてんだろ。これが当たりゃあすんげえぞ」

 親方は鼻息も荒く興奮している。

 シェンがびっしょりかいた冷や汗を、秋めいた風が乱暴にさらっていった。

「そうですカ。どんな獣でス」

「トラだよ、トラ」

「と、とら?」


 とら……って、なんだ?


 シェンが黙っていると、親方はにこにこ嬉しそうに踵を返した。

「ま、見りゃわかる。ロジーの野郎が戻ってきたら、今の話を言っとけ。あと屋敷に来るようにってな。じゃあ」

 どしどしと去っていく。

 少し離れた森のそばに、ガタガタの一頭立て馬車が停めてあって、親方はそこへ乗り込んだ。

 親方の姿が見えなくなるやいなや、シェンは振り返って駆け出した。



 あっという間に劇場小屋に着いた。

「あ、パルマ」「パルマ遅かったね」「雑用の子たちもう行っちゃったよ」と、稽古を始めた子供たちが口々に話しかけてくる。

 シェンはそれを全部無視し、ウサギのように子供たちの間を飛び越して、猛獣小屋の前に立った。子供たちの家を出る時に持ってきた鍵を懐から出し、閉ざされた扉の、仰々しい錠前をガチャン……と開ける。

 体当たりして木の扉を押し開けると、いつものむせ返るような獣の糞の臭いが鼻をついた。シェンは小走りで、狭い突き当たりまで進む。初舞台で戦った、あの若いオオカミのいた檻と同じ場所だ。


 そこには、オオカミの二回りも大きな金色の獣が、オオカミのよりも小さな檻に入れられて、不思議そうにこちらを見ていた。

 晴天のように青い瞳。黒い毛に縁取られた丸い耳。顔の周りは綿毛みたいな白いたてがみに覆われ、体はこんがりとした金の毛皮、そして達人が筆で書き入れたように立派な黒い縞模様。


 本物は初めて見た。

 本当に小さい頃、村で父が持っていた道場を少しだけ見せてもらった時に、壁の絵に描いてあったのを見たことがある。

 たしかそれは、都にいる皇帝陛下の眷属で、剡の国に住むもののけたちを束ねる四神獣の一柱……それがたしかこの「トラ」だった、そんな話を風兄様に聞いたのだ。

 なんでそんな細かいこと思い出せるんだろ。

 と、ばかみたいに思った。

 ロジーが逃げた理由がわかった。

 シェンだって、こんなのと戦いたくない。

 初舞台の時の若いオオカミと違って、こいつは傷一つついていなければ、縄を打たれた形跡すらない。

 運ばれてくる間それなりに大事に餌付けされていたのだろう、他の見世物用の獣みたいに、みすぼらしく痩せているわけでもない。しかしここ数日はさすがに何も食べていないのか、よだれをダラダラ垂らしながら鉄格子をかじって、無邪気な目でこっちをじっと見ている。

 ごはんは? とでも言わんばかりに。


 シェンは、さっき自分で「次の見世物は十日後だ」と言ったのを思い出した。

 あと十日で? ここからショー向けにこの獣を仕立てるのか? 

 毛皮として売り出すということは、できるだけ皮膚は傷つけちゃいけない。じゃあショー前に傷つけて、弱らせておくのはダメだ。

 餌に毒を盛るやり方だってないではないが、体の大きい獣が確実に弱るまで食わせられるような量も、時間もない。そもそも、犬猫に似たたぐいに毒餌を食わせるのは相当骨が折れるのだ。

 無傷のこいつと檻の中で戦うのか。まだ元気のある手負いと、どちらが厄介なんだろう。ぐるぐる考えたまま、ふらりと猛獣小屋を出た。


 稽古をしている子供たちを見て回って、

 雑用から戻ってきた子供たちを稽古場で迎えて、

 もう一度猛獣小屋に入って獣たちの世話をして、

 あっという間に日が暮れた。


 あと十回で、これも終わりだ。ロジーが逃げ出すような状況で、なんで自分が真面目にここへ縛られているのかわからない。初舞台の時なんか生ぬるい絶望で、頭と体が切り離されたみたいだった。

 ハオじいにトラの話をしたら、案の定彼はよく知っていた。

 今度それを倒さなきゃいけないんですけド、とはなぜか言えなかった。



 **********



 十回目の朝は、すぐに来た。

 空は雲一つない晴天だった。いつも、いつもそうだ。

 子供たちを連れて、劇場小屋へ行った。みんなに指示して、見世物の準備を始めさせる。

 猛獣小屋に行ってみると、すでに鍵が開いていた。

 屋敷で小間使いをしている男たちが数人、頑張ってトラの檻をロープにくくりつけ、小屋の外に引っ張り出している。

 周りを見回すと、入り口から少し離れたところに親方が立って、ニコニコと檻を見ていた。

「おおっ、来たかパルマ。舞台用の檻を用意してこい」

 大手を振って、親方がシェンに呼びかける。

ドゥイ……对!」

 シェンはなんとか返事をして、子供たちを数人呼ぶと、一緒に劇場小屋から舞台用の檻を運んでくる。

 舞台用の檻は、猛獣使いが入るための入り口が上に、あともう一つ、側面の檻が横の蝶番で手前へ開くようになっていて、そこから獣を入れる。

 シェンはそこの錠を外して開け放つと、トラの檻を運んでいる若い男たちに言った。

「もう少し近づけてくださイ……もう少し……あとちょっと……はい、そこでいいでス。あとはパルマがやりまス」

 男たちはそれを聞くと、へっぴり腰で慌てて後ろに下がった。

 子供たちが、トラを見て「うわーぉ!」「すげーっ!」と純粋に感動している。

 トラの檻と舞台用の檻が、一辺を接してななめに向かい合った。舞台用の檻の開いた格子をトラの檻にくっつけて、檻同士の間を三角形に囲い、おざなりだけども獣が逃げられないようにする。

 シェンは親方から檻の鍵を受け取ると、檻の正面についた閂と錠前に近づいた。

 がちゃんっ!

 小気味いい、新しい錠前の音がして、鍵が開く。閂を抜いて、扉をそうっ……と手前へ引き開けると、シェンは開いた格子といっしょに下がって、二枚の格子戸の間にはさまったまま、トラが出てくるのを待った。

 よほど狭かったのだろう、トラはすぐにぬう……と出てきた。

 大きな体で、ウロウロと自分の入っていた檻の出口あたりをうろつく。そしてそのまま舞台用の檻には入らずに、開いた格子戸のうしろにいたシェンを、ぎろりと振り返った。

 シェンは慌てて舞台用のほうの格子戸を掴むと、端に少しだけ隙間を作って外に出た。


 トラはそれを見逃さなかった。シェンが開けた隙間に鼻を突っ込んで、いとも簡単に檻を開け放った。

 シェンは、とっさにトラの足元をくぐり、そいつが元々入っていた檻に飛び込むと、中から格子戸を閉めて閂をかけた。

 トラの檻にシェンが、檻の外にトラが、それぞれ突っ立っている。


 沈黙。


「……え?」

 誰かが、小さくつぶやいた。

 トラの耳がピクリと動いて、それを捉えた。

 次の瞬間、流れるように、トラは飛び出していた。


 そばにいた若い男の一人を押し倒すように、トラの巨体が覆いかぶさる。ぶち、みたいな音を立てて、首元がちぎれて、頭だけがぶらぁんと垂れ下がった。金色の毛皮に赤が飛び散った。

 まるで泥遊びでもするかのように、トラはその横にいた男も、大きな爪で踏み倒し、牙を突き立てて体を引きちぎる。


「う、ウワァァァァぁああぁあぁ!」


 誰かが叫んだ。

 それを引き金に、その場の全員がギャアギャア叫んで走り出す。もつれる人間の足なんか、獣の大きな体に敵うはずがない。

 食べるわけでもないだろうに、トラは次から次へと噛んでは砕き、倒してはちぎる。ただ興奮しているらしかった。

 子供の泣き顔の上半分が地面に転がっているのを見てシェンは、あ、これはシャーサの目だな、と思った。

「逃げたァァあぁあ‼ け、獣が! 獣が逃げたぁぁあ‼」



 騒ぎは思ったより長いこと続いた。

 シェンがそう感じただけなのかもしれない。でもみんなやがて腰が抜けて逃げられなくなって、叫んでいるばっかりだった。

 バカみたいに見に来て、食われた人もいた。

 どこから聞きつけたのか、ハオじいが何か叫びながら走ってきて、食われそうになっていた子供を一人、森の方へ投げ飛ばした。次の瞬間、肩口から半分になって、あっという間に獣の足の下に敷かれていた。


 絞れそうなほど真っ黒に血を含んだハオじいのエプロンが、赤くぬれた地面に落ちているのを遠目に見ていたら、シェンは、なんだか全部どうでもよくなってきた。

 獣はシェンが入った檻の方なんか振り返りもしない。

 本当になんだかどうでもよくなって、シェンはその場にうずくまった。

 顔を伏せて真っ暗な世界に浸ると、シェンは目をつむり、そのまま眠ってしまった。



 **********



「だからやってられるかっ! あのボンクラのせいでこんなっ……」

 女の金切り声。

「こんなもん置いてきゃいいじゃないか! もう終わりなんだからっ、早く出て行きたいんだよあたしは! 死にたいのか、ねえっ‼」

 キィキィまくしたてる声が、耳に響く。

 その瞬間、両腕と両足にズキッと痛みが走って、シェンは目を開けた。


 見たことのない部屋だった。

 薄暗い、木造りの床と壁の部屋。天井から質素なシャンデリアが下がっていて、ちびた蝋燭がいくつも燃えていた。

 広くはない。シェンたちがいつも寝ていた寝室と同じくらいの大きさだった。そこに、ソファや机や燭台、足置きに鏡にドレッサーに、所狭しと置かれて散らかっていた。


 そのど真ん中で、古びた青色のドレスを着た婦人が、栗色の髪の若い男に食ってかかっている。

 大人たちの屋敷の雑用をしている時に、見たことのある二人だった。たぶん、親方の妻と、その息子だと思う。

「だからあんな見世物小屋なんかに入れ込んでさあ、バカみたいだって言ったんだ! お前が止めなかったからだろうが、どうしてくれるんだい!」

「うるさいなあ、儲かってる時はやってみるもんだとか言ってたくせに!」

 婦人の金切り声に、息子が負けじと言い返す。


 シェンは目が覚めたことを悟られないよう慌ててうつむくと、薄目で自分の体を見回した。

 どうやら、木の椅子に縄で縛りつけられているようだ。トラの檻の中で寝ていたから、事件の元凶ということでまんまと捕まったのだろう。

 シェンのすぐ横にはもう一人若い男がいて、床に腰を下ろしたまま二人のケンカを退屈そうに眺めていた。

 二人のケンカは、同じような問答の繰り返しで延々続いた。

 二人の言うことから察するに、あの場で嬉しそうにトラの檻を見ていた親方は、まんまと食い殺されたらしかった。逃げたトラは会う人会う人あの調子で襲って回り、ついには暗い森の中に逃げたようだ。



 一時間たったか、二時間経ったか――シェンの隣の男が百回くらいあくびを繰り返し、ついにはうつらうつらと船を漕ぎ始めた頃。

 婦人と息子の二人は、ようやく疲れたみたいだった。つかみ合いになっていた大ゲンカは、嵐が去ったようにふっと収まった。


 ――この町で生活していたら、いつ獣に食われるかわからない。でも、とにかくここから避難するにしたって、朝にならなければどうしようもない。朝になったら、そこにくくってあるチビの猛獣使いを獣に遭遇した時用のおとりに連れて、町から逃げよう――という結論になった。

 息子はシェンの横にいる男に「絶対そいつは逃すなよ」と釘を刺すと、婦人を連れて出て行った。



 部屋が静かになって、しばらく。

「おいガキ、起きてんだろ」

 イライラと無精髭の生えた顎をかきながら、横の男が言った。シェンは目を開けて、男を見た。

 息子の方と同じ茶色い髪。ちゃんと見れば、これも見覚えのある顔だった。さっきのは長男で、こっちは次男だったっけか。

「ざまあねえな、お前。うまくいきゃ明日には獣のエサだってよ。当然の報いだぜ」

 男は苛立ちをぶつけるように言い捨てて、ふんっ、と笑った。

 人を小馬鹿にしたような、次男の昏い目としばらく見つめ合う。するとだんだん彼の顔の輪郭がぼやけてきて、シェンの頬を、つう……と温かい涙が伝った。

 涙は次から次へと溢れてきて、ぼろぼろと顎からしたたり、腿の上に落ちる。

「なに泣いてやがる、このクソガキっ。死にたくねえのか? え? 自分だけ獣に食われるのが嫌だってか⁉」

 次男が勝手に怒り出した。シェンの耳元でツバを飛ばして怒鳴りまくる。

「ざまあねえなガキ。あんなロクでなしだけどな、一応オレらの親父だったんだぞ、ママも兄さんもなんであんなになってるか分かるか? 親父が親父だったからだろうが! わかるか⁉ わかんねえよなあこのクソ野郎、それをてめぇはっ……」

 まくし立てるあまり、言葉が詰まってゲホッと咳き込む。それでさらに苛立ったのか、おもむろに立ち上がると、シェンを縛りつけた椅子を思い切り蹴飛ばした。

 椅子ごと吹っ飛んだシェンは、なんとか体をよじると椅子の後脚を使って衝撃を殺し、うまく転がった。

 床に倒れたシェンを、次男は上からぬう、と見下ろした。シェンはいかにも痛そうに顔をしかめてすすり泣く。次男は満足げにニタリと笑って、

「親父もウチの小間使いどもも、それの何百倍痛かったろうよ、クソガキ。獣に食われて地獄に堕ちろ、ドブネズミめ」

 怒りに震える声で吐き捨てる。

 シェンはその顔を横目で見上げながら、これ見よがしに大粒の涙をぼろぼろっ……とこぼした。

「お……たい」

「あ? なんか言ったか?」

 次男がすごむ。

 シェンは振り絞るように声を張り上げて言った。

「おしっこ行きたい」

「……は、はあ?」

「おトイレ行きたいんでス」

「て、てめぇ」

 次男の目つきが、怒りから狼狽に変わった。

「もれちゃいそうぅ」

 シェンはぼろぼろ、ぼろぼろ泣いて訴える。

「お、おしっこだけ、行かせてくださイぃ、もうがまんできないぃ」

「ふざけんなてめぇ、そんくらい我慢しろ! 状況わかって――」

「うえええぇぇぇん」

 ついには大泣きしてみせる。

「も、もうだめぇぇぇええ」

「ああぁぁぁ」

 次男は慌てて飛び退くと、

「わ、わかったようるせえな、絶対逃げんじゃねえぞこのガキっ」

 慣れない手つきで、シェンの足を縛っていた縄を解き始める。

「ああもう、絶対漏らすなよっ! そのカーペットいくらすると思ってんだっ」

 しゅるり、という音とともに、右足、左足、両手の順で縄が解かれた。


 その瞬間、シェンはぴょんっと立ち上がって椅子を引っつかみ、体を回転させながら後ろにいた次男の頭をぶん殴った。

 ボグッ……と重い音がして、次男は横に倒れた。顔の横が凹んで、口の端と鼻からダラダラ血が流れている。しばらく見ていると、血と一緒に白い泡までぶくぶく出てきた。

 シェンはその顔の上に椅子を捨てると、息子がほどいた縄を一本ずつ結び直し、犬歯で別のところから噛み切ってやった。

 これでこいつがうっかり縄を解いたんじゃなくて、シェンが勝手に縄を引きちぎって逃げたように見えるだろう。

 そしたら、シェンを逃した罪も多少は軽くなるかもしれない。こいつがバカなお陰で助かったのだから、せめてもの礼だ。


 部屋の中を見回す。

 金目のものを持っていく余裕はないから、それはいいとして……シェンが縛られていた椅子の後ろに、大きな窓が一つあった。外は夜らしい。森の暗がりで、窓ガラスは真っ黒に塗りつぶされている。

 窓をそうっ……と開ける。

 冷たく湿った、嫌な空気が入ってきた。土と水のにおい。雨が近い。窓枠に足をかけて、流れるように外の闇へ身を投げ出した。


 この景色、飽きたな。


 ふっとそう思う間に、シェンは窓の前にあった大きな木の枝に着地していた。

 むせ返るほど青臭い木の葉の臭い。周りから畳みかかってくるような無数の黒い枝。闇の中から生えている樹木。

 覗くと寒気がする真っ暗い森の底。姿の見えない群衆の鼻歌みたいな風の音。そして、上下左右前後全ての方向から、こっちを見ている無数の目。

 また一人になった。

 こうならないために、頑張ってあの一座にしがみついていたのに。結局こうなるなら、もっと早くに諦めておけばよかった。トラなんかと戦わされる前に、いいや、猛獣使いなんかになる前に、逃げればよかった。


 考えていたら、ぽつ、ぽつ、と雨が降ってきた。森の木の葉が一斉に、雨に打たれてざわざわ、ぼとぼとと鳴き始める。

 雨の音で足音がかき消されるよう、シェンは慎重に、木の枝を渡って進んだ。

 今のうちに逃げておかないと、昼間に動いて町の人間に見つかったら厄介だ。一座の猛獣使い――パルマがこの事件を起こした張本人であることは、きっともう町中に知れ渡っている。

 ランタナヤの周りの森は獣が多い。でもまあ、このまま枝の上を進んでいく限りは、木の上に登ってこれる大きさの獣としか遭わないだろう。それくらいなら多分どうにかできる。一応、得物も持ってるし――

 と思ったが、なんだか懐が妙に軽い。双節棍をどこかに忘れた。

 シェンは雨の降ってくる天を仰いだ。ため息をついて、どこに置いてきたのか記憶を辿る。

 劇場小屋でショーの準備を始めた時は、持っていなかった。重いから。あとで子供たちの家へ取りに行くつもりだった。

 じゃあ、子供たちの家へ取りに行かなきゃいけない。得物なんかなくたってどうにでもなるんだろうけれど、持って行っても邪魔なだけかもしれないけれど、なんとなく欲しかった。


 シェンは森の端まで戻って木を降りる。ぬかるんだ地面で足音が立たないように、そうっと片足ずつ地面に立った。

 雨が強くなってきた。ざあざあ音を立てて、雨水は採石場の中へ流れ込んでいく。

 これくらい降っていれば、普通に歩いても足音は目立たない。自分の姿も雨がぼかしてくれる。

 シェンは人目に触れないよう、家々の裏手を歩いて、子供たちの家へ向かった。道中は町全部が死んだみたいに静かだった。


 途中、劇場小屋の裏手を通った。雨のおかげで血はだいぶ流されていたが、バラバラの死体はいっぱい散らばっていた。それを避けて歩くのが案外大変で、面倒だったから途中で諦めた。

 人の体を踏んで歩くのは、大雨で生ぬるい泥が浮いた畑を、滑らないように歩く感覚と似ている。


 劇場小屋の裏手を過ぎると、すぐに子供たちの家についた。

 明かりがついている様子はない。シェンは門からまっすぐ入って、庭を突っ切り、まっすぐ玄関戸を開ける。

 中のホールは真っ暗だった。誰もいないのだろうか。シェンが足を踏み入れると、汚い木の床がギシッ……と軋んだ。

「ヒッ誰っ」

 どこからかか細い声が聞こえた。

「誰かきたの……」

 震える女の子の声だった。

 ホールの右手、寝室のドアが閉まっていて、声はその向こうから聞こえる。一座の中で生き残った子供が戻ってきているらしい。

 シェンはドアの前を素通りし、屋根裏の倉庫に上がる梯子へ向かった。足音に怯えて、ドアの向こうからは悲鳴のような啜り泣きも聞こえる。

 やかましい。ハオじいはこいつらを放って何をしているんだろう……そこまで考えて、ハオじいはもういないんだった、と思い出した。

 漏れ出るようなため息をつきながら梯子に手をかけて、登る。天井についた倉庫の跳ね上げ戸を片手で上げ、中も見ないでまさぐると、指にひやりと硬いものが当たった。

 ショーの準備ですぐ取って来れるよう、跳ね上げ戸の淵に用意しておいた双節棍だ。シェンはそれをつかむ。

 手の中にあったのは、双節棍の棒部が一本だけ。梯子を降りながらそれを引っ張ると、ジャラジャラいいながら棒部に繋がる鎖がついてきた。

 シェンが床に降りる直前、もう一本の棒が鎖に引かれて床に落ちた。

 ガシャンッ!

「いやァァァァァァああっ」

 同時に、扉の向こうから子どもの悲鳴が響く。それが引き金になり、いくつもいくつも金切り声が重なる。

 中はパニックしているようだった。いったい何人隠れているんだろう。

「しいっ! し、静かにっ! 静かにっ、静かにしてぇっ!」

 女の子の声が一人ぶん、必死に悲鳴を宥めようとしている。

 シェンはぞくぞくした。

 双節棍を拾い上げると、わざとじゃらじゃら音を立てて懐にしまう。すると、ドアの向こうの声はいっそう盛り上がった。泣き声に悲鳴、それを宥める必死の叫びを聞いていると――湧き上がってくる。初舞台のあの感覚。

 初めて獣の肉をちぎって捨てた時の、あの押し潰すように重くて、胸を抉られるような快感。


 ざまあみろ。生き残るのは私だ。ざまあみろ。お前らが死ね。可哀想で愚かなガキども。生き残るのは私だ。ざまあみろ。


 地獄へ向かって、ずぶずぶと自分の足で踏み入っていくのがたまらなかった。

 自分の命と引き替えに周りが破滅する――その時はじめて、自分が生き残れる可能性が目に見えるのだ。


 シェンはゆっくりと歩いて、子供たちの家を出た。来た時と違い、ちょっと雨が気持ちよく感じる。

 近場の森に入って、するすると木を登る。枝を伝って少し進めば、ランタナヤはあっという間に見えなくなって、全部の方向が森に閉ざされた。


 シェンは、濡れそぼる森の空気を胸いっぱいに吸う。大粒の雨が何滴か口に入った。

 さっき眠っていたから、夜なのに全然眠くならない。シェンは心の中で、劇場小屋の子供たちに聞いたわらべ歌を歌いながら、枝から枝へと進んでいった。

 何日かかってもいい。まっすぐ行ったら、いずれどこかに出るだろう 。

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2024年12月20日 17:00 毎週 金曜日 17:00

ポルとルズアの二重奏・前日譚集 音音寝眠 @nemui_nemui

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