其之六 窮追
宮中を恐怖と混乱に陥れた
皇帝と
『黒気の龍とは、どういうことか?』
それが恐怖心に勝る関心事だった。まるで自分が所持する
しかし、自分は何も術を
黒気の龍本体は消え去ったが、最初に龍の口から吐き出された陰気の
「……ひっ!」
王甫は思わず声を発してしまった。陰気の塊は王甫の目前で黒い大蛇へと形を変え、口からシュルシュルと気味悪い舌を出した。
「仙珠は誰にも渡さんぞ!」
王甫も蛇に向かって、その背後にいる術者に向かって豪語した。
そして、王甫の深い野心は
だが、その
「お、お前は……!」
百鬼事件を追跡し、自分に冷や汗をかかせた男――――
一度は洛陽から追い出したものの、再び舞い戻ってきて、議郎の官職に復帰した要注意人物。王甫が危険視するその男が絶妙な芝居を打って、王甫をからかった。
「何と、王甫様が妖術使いであったとは! ……これは捨て置けませんな」
曹操お得意の人を食ったような挑発である。
「違う、妖術を使っているのは他の連中だ。わたしはあの黒い龍とは関係ない!」
黒気の龍が自分の
まさか自分の術が青蛇だと実践して見せるわけにもいかない。王甫は必死に弁明した。
「見たであろう。わたしは今、妖術で襲われておったのだぞ!」
最初から王甫を黒と断定している曹操にとって、そんな方便はどうでもよかった。
王甫も
「下手な芝居はやめろ。お前の悪事の証拠は
「……わたしを敵に回して勝てるとでも思っているのか。わたしにかかれば、過去の
「ようやく
曹操は王甫の恫喝にも屈しない。逆にさらに相手を恫喝した。
「言っておくが、オレの祖父は大宦官だった。お前もよく知っているはずだ。祖父に恩恵を受けた者は五万といる。我等を
それは道理だった。大宦官・
「どのみちお前はいつか消さねば、と思っていた。ならば……」
王甫が黒い策謀を口にする。
「ならば、今ここで死んでもらう。あの黒い龍の化け物にやられたことにしてな……!」
王甫が気を放つ。再び青い大蛇が姿を現し、それは一匹ではなく、十数匹もの群れとなって曹操に襲いかかった。しかし、曹操は
王甫にとって誤算だったのは、曹操が持つ白気の剣の存在だった。
「何だ、あの剣は?」
我が術が通用しないことに、自分の妖術を容易く切り裂く曹操に、王甫はたじろぎ、うろたえた。その間にも曹操の剣
そのようにして曹操が全ての蛇を消し去った時、王甫の姿はどこにもなかった。
「くそ、
曹操は王甫を取り逃がしたことを激しく悔しがった。辺りを探してはみたが、広い宮中ではその行方を追うのは難しかった。衛兵たちが回廊を走っていくのが見えて、曹操は舌打ちすると、それ以上の追跡を
舌打ちの本当の理由――――それは目撃者がいなかったそのうちに、黒気の龍のせいにして一気に王甫に
一方、逃げおおせた王甫の方は激しい動揺に駆られていた。
「くそ、こんなはずでは……!」
口を塞ぐこともできず、自ら秘密を暴露し、あろうことか目の前で妖術まで披露してしまった。
早足で宮中の廊下を駆けながら、何度も後ろを振り向いて、自分を追い詰める男が迫っていないかを確かめた。その心は乱れ切っていた。
その夜、目覚めた皇帝に呼ばれ、王甫が皇帝の寝室に入った。
記憶が
「陛下、王甫でございます」
王甫は何事もなかったかのように、穏やかな声で尋ねた。皇帝は怯えた様子で聞き返す。
「おお、王甫か。あの龍はどうなったのじゃ……?」
「ご安心ください。もう消えてしまいました」
「……そうか。……あの黒い龍は
「そうではございません。龍とは皇帝の
余りにも王甫が穏やかに言うので、根拠もなく皇帝はそれを信じてしまった。
「……おお、そうか」
皇帝が布団から顔を
「……しかしながら、色が不吉でございました。これは天が示した
「左道じゃと?」
「はい。黒が示すところは夜の刻にて
「女の
暗愚な皇帝は思考をいとも容易く操られて、顔を険しくした。
〝左道〟とは呪術の一種である。皇帝は今年で二十二歳、
「……そう言えば、先にも大蛇が現れて驚いたことがあった」
「そ、そうでございましたね」
五年前、
「――――『
楊賜が率直に答えたが、当然、自分たちの権力を
「やはり、
「……と、申しますと?」
王甫は皇帝が余計なことを言いださねばよいが……と顔を曇らせた。
「思うに、あの時から女たちに気をつけよという兆候があったのじゃ。
皇帝はもっともらしく推理を働かせてみたが、どうにも
「ほほほ、左様でございますね……」
「密かに御調べになってはいかがでしょうか?」
皇帝が頷いた。王甫の言葉を疑うことは全く知らなかった。
それから一カ月。まだ黒気の龍の話題が冷めやらぬうちにまたもや奇妙な出来事が起こった。明暗二色に分かれた青白い虹が出て、南宮の
度重なる妖異に不安に駆られた皇帝は楊賜、
二つ並び出で、色鮮やかにして明るき方を雄となし、〝
その鄭康成も、蜺は邪気なり。陰にして徳なく、妻党に惑うの
都での出来事はすぐに全国に伝わる。鄭玄も都で起こったその怪奇現象を伝え聞いて、急ぎ盧植に書簡を送って知らせてきたのだ。同門の馬日磾がその鄭玄の説を上奏した。
近年頻発する妖異は全て亡国の凶兆、妖異の生じたところは全て宮城内であり、これは天の
ところが、この密書は宦官に盗み見されて知れ渡ってしまう。名指しされた者は恨みを含み、どうにかして蔡邕を陥れようと陰謀を巡らせた。
ここで利用されたのが尚書令の役職にあった
陽球は
陽球はもともと
劉郃は
かつて蔡質の外家(姻戚の一族)に
羊陟は
また、同じ泰山の人に
二人は第一次党錮の際に
劉郃が蔡邕らを
実は陽球は蔡邕が書状の中で弾劾した程璜の娘を妻にしていた。ありもしないことを蔡邕が言い立て、我等を陥れようとしていると程璜が陽球に訴える。陽球が蔡邕を劾奏する。清流派党人と繋がりがある蔡氏を、濁流派宦官たちが一斉に悪いのは蔡邕だと援護射撃する。暗愚な皇帝はそれを真に受ける――――。
組織的な蔡邕外しである。結局、真実を訴えたはずの蔡邕が有罪となって、叔父の蔡質ともども投獄されてしまった。それから間もなくして、老齢だった蔡質が獄中で亡くなった。
母とともに主のいなくなった屋敷に残され、悲嘆に暮れる
「
「そうだと良いのですが……叔父上のようなことになったら、私……」
「そんなことにはなりません。さぁ、涙を
そのやり取りを横目に見ながら、盧植が呟く。
「口惜しいの。
昔から何度もこのような理不尽が繰り返されている。蔡邕にも忠告して注意を促していたつもりだったが、結局こんな展開になってしまった。
清流派官僚である蔡邕が送られたのは、宦官が支配するあの陰謀の牢獄、
この日の蔡邕邸には曹操もやってきていて、盧植と会話を交わしていた。
起こってしまったものは仕方がない。曹操は盧植の言葉を半分聞き流して、清流派官僚たちが行っている蔡智侯放免運動の経緯を聞いた。
「本日判決が下されるのでしたね。何か進展はありましたか?」
さすがに
「陛下が一番耳を貸すのは
正義派宦官の
曹操を認めたあの橋玄も、かつて蓋升の
「妖異が女関係のものとするのはよいですが、それに付け込み蓋升らを糾弾するのは陛下の寵愛する者を
王甫の言葉巧みな
「言葉が過ぎた面はあるかもしれませんが、蔡邕は
「いえ、陛下を中傷するなど不遜極まりない。
「しかし、あのような
書芸を愛好する皇帝の心に訴えて、それで何とか死刑は
それを知らせに来たのが、同僚の馬日磾だった。
「良い知らせと言うべきか、悪い知らせと言うべきか……」
馬日磾は少し
「何と言う因縁じゃ。我が師・馬融も濁流に
「その時は恩赦で許された。此度もそうなろう」
馬融の甥にあたる馬日磾が言った。今の皇帝は恩赦令を頻発する。
「楽観的になるのはまだ早い。濁流派はその前に刺客を送るかもしれません」
曹操が冷静に忠告した。
「……あり得るな。いや、確かに危険じゃ」
「私の家は外戚の宋氏と姻戚です。幸い今の幷州
「おお、それはよい」
曹操の提案に馬日磾も盧植も喜んだ。
郭泰は太学で学び、三万余りの学生の中でも最良と称えられ、清流派「八俊」の
ルックスが良く、頭脳
同じ八顧の一人である
「――――隠るるも親をさらず、ただしきも俗を絶たず。天子も臣とすることを得ず、諸侯も友とすることを得ず」
そう答えたという。隠者だが親との縁を絶たず、
ずっと在野にあって、千人もの弟子を教え、危うい議論をしなかったので、党錮が起こって多くの清流人が罪に問われる中、郭泰と
郭泰は孤高なる清流の士として在野にありながら、天下が正されるのを強く願っていた。
「――――あのような立派な方々が亡くなられてしまっては、この国は終わりである」
翌年、郭泰も死んだ。竇武・陳蕃に
「――――これまでたくさんの碑文を作ってきたが、皆何かしら徳に恥じるところがあったものだ。ただ唯一、郭林宗には恥じるべきところが全くない」
蔡邕がそう盧植に呟いた。それを聞いて、盧植も涙を浮かべて天を仰いだものだった。
「この難時に幷州の刺史が林宗公に認められた者とは……。この幸運は林宗公からの贈り物じゃの」
盧植がまた天を仰いだ。郭泰が評価した者は全て
「それでも万全とは言えません。時期を待ち、宋幷州と
「それを主導するのに、誰かよい者はおるか?」
曹操が
十月。宋皇后が廃され、外戚の宋一族が
宋皇后が皇帝を呪い殺そうと左道を
皇帝への反逆は一族
世間の人々は真の理由を知るはずもなく、陰謀に散った宋一族を
バリッ!
目の前に飛び出ている邪魔な枝木を
「王甫め……!」
曹操は王甫の陰謀だと確信して、静かな怒りに震えた。
全て嘘っぱちだ。王甫が全てをでっち上げたのだ。宦官以外後宮のことに手出しできないのをいいことに、左道(呪術)の証拠を
王甫の狙いは宋皇后にあった。かつて王甫が葬った渤海王・
王甫は渤海王を殺すにあたって、事前に手を打った。罪名は皇帝に対する謀反であるから、当然一族誅滅である。渤海王には子がいたので、その子も、その母である宋妃も殺さなければならない。現皇帝が元服する時、皇后に宋酆の娘である宋貴人が立てられたが、これには王甫の口添えがあった。
王妃よりは皇后の方がランクが高い。外戚となって更なる栄達も可能だ。
事を起こす前に宋氏に恩を売ったわけだ。渤海王誅殺事件の一年前のことである。
敵への罠を仕掛け、自身への防衛策を講じ、万全を期して渤海王を誅殺したのである。宋妃も一緒に殺されたが、事前に恩を売ったお陰で、仕方がない仕置きだったと宋氏に納得させることができた。宋皇后が立っている間は宋氏からの恨みを消すことができる。
一件落着して一安心した王甫であったが、その前に突然、曹操という新しい敵が現れた。曹氏と宋氏は姻戚関係にある。渤海王事件のことまで
曹操の口から事件の黒幕が王甫だと伝えられたら、宋皇后という盾が失われ、宋一族の恨みの剣が一斉に自分に向けられることになる。この
渤海王の時と同じように、巧妙に罠を仕掛け、皇帝を味方につける自衛策を講じた上で
宋氏と姻戚関係にある曹操は議郎の官職を罷免された。
「だが、オレは生きているぞ……!」
都を離れ、馬上の人となった曹操は天に叫んだ。心の中に抑え込んでいた
『このオレを自由にさせたのはお前の失策だ。命取りになる大失策だ……!』
悪賊王甫、許すまじ――――荒々しく馬を
三国夢幻演義 清濁抗争篇 第四章 内憂外患 光月ユリシ @ulysse
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます