其之五 黒気の龍
張馴は
「ないのですか?」
「うむ。確かに目録にはあるのだが、どこにも見当たらん。誰かが持ち出したのかもしれん。こちらで調べてみる」
曹操は五仙珠のことが記された資料を求め、議郎になってから、何度か東観に足を運んだ。膨大な蔵書の中に未だ五仙珠に直結する資料を見つけることはできずにいたが、蔵書の目録に易学者の
「そうですか。仕方ありません」
「申し訳ない、何度もご足労いただいたのに」
「いえ、構いません」
曹操は廊下を引き返した。
『太平道について研究しようと思ったが、時期ではないようだ……』
曹操が
門衛の兵士たちが一人の老人を囲んでいる。その老人は全身白衣を
全身白衣は通常、喪服を表す。宮中で死者が出たわけでもないのに
「何事ですか?」
「おお、
「何かの抗議行動ですか?」
「そうかもしれないが、これ以上騒ぎが大きくなると、老人とはいえ拘束せねばならんな」
言うのは
執金吾は主に洛陽の宮門外・宮城周囲の警備を
かつて大将軍・
この時の
「お主、死相が出とるぞ」
白衣の老人は宋酆に向かって、不吉な言葉を浴びせた。
「無礼な。おい、こやつを……」
宋酆がいよいよ拘束を指示しようとした時、それを
「爺さん、酒でも飲みながら話さないか」
「おお、酒か」
曹操は老人の肩を抱きながら、路地を歩き始めた。
「おい、孟徳……」
宋酆はそれをぽかんとなって見送った。
白衣を纏った正体不明の奇妙な老人。曹操はその老人に興味を
だが、今日はその音楽と踊りを楽しむより、老人の話をじっくり聞くのが目的だ。
曹操は一番奥の席へ老人を
「信じる信じないは勝手じゃが、わしは仙術を心得ておってな、気の流れを見ることができる」
「方士ですか。その仙術は何か特別な修業で身につけられたのですか?」
方士は道士ともいう。自然の
「当たり前じゃ。泰山に
于吉は杯の酒を一気に胃に流し込んだ。
「ぷは~。やはり、酒は気を高ぶらせるのぉ」
すっかり気分を高揚させた于吉は曹操の質問に機嫌良く答えていく。自分のような者に酒をおごる曹操の目的など気にも留めない。
「方士のあなたがなぜ宮殿に?」
「おお、それじゃ。
「梁伯夏……方士仲間ですか?」
「いやいや、かつての大将軍、
曹操がその名にピンとこなかったのも無理はなかった。とうの昔に亡くなった人物なのだ。
涼州安定郡
しかし、常に身を
「死者と話せるのですか?」
これはまた面白そうな話だ。曹操はその表情に
「そう言えば早いがの。この世では死者でも、あの世では生者よ。この世は陰陽の移り変わりで形作られておる太陽の世界じゃ。そして、その陰には太陰の世界があってな……」
「なるほど。この世の死者が太陰界で生きるのですね」
「物分かりが良いの。方士に興味があるのか?」
「いえ……この世には常識では考えられぬような不可思議な力が存在するようですね。それを
「目に見えぬ陰陽の対流は、時には信じられぬような現象をもたらすのよ」
曹操は
「……ところで、亡くなった祖父に聞きたいことがあるのですが、祖父と話すことはできませんか?」
「誰とでも話せるわけではない。これでもまだ修行中の身でな……」
「そうですか……」
于吉は
「お主は随分な変わり者じゃな。仙人を目指して自分で話してみたらどうか? わしが
「ははは、世捨て人になるにはまだ早過ぎます。修行に費やしている時間もありません」
曹操は笑って于吉のスカウトを拒否した。
「それに、世の中には修行なしで仙術を身につけることができる宝物があるそうです」
「確かに古の仙人たちが作りし霊宝は存在するが、そんな物を使っても、本当の仙術とは言わん。素人が
于吉のその言葉は仙珠の存在を裏付けるものだった。その于吉が思い出したように言った。
「……ところで、あの執金吾、お主の知り合いか?」
「ええ、そうです。死相が出ているというのは本当ですか?」
「宮中から出た陰気がまとわりついておる。この世のものではない、太陰界から染み出たような深く汚れた陰気じゃった」
「ふ~」
曹操は深い溜め息をついた。その口から陰気を吐き出すように。
権力闘争の中心に外戚がいることは珍しくない。本人が望まなくとも巻き込まれてしまうこともよくある。身内に不幸が起きてほしくはない。だが、非常の力が働いて、事態を良からぬ方向へ押し流しているようだ。
「陰気は太陰界で生じ、この太陽界に巡り来るものじゃが、本来それは普通のことじゃ。昼夜の循環、四季の移り変わりのようにな。じゃが、梁伯夏は異常な陰気の流れがあるという。それと関係あるかも知れんの」
「霊宝を使った紛いものの術のせいかもしれませんね」
不思議なことに、見知らぬ老人との会話が曹操が目を
「お主、何か知っとるようじゃの。別に聞きはせんが……」
于吉はこの変わった男に託してみることにした。
「まだはっきり様子が分からんが、宮中に陰気が集まっておる。その集まりようが尋常ではない。近く不吉なことが起こるじゃろう。梁伯夏にそれを誰かに伝えるよう頼まれておった。お主が代わりにそれを見極めよ」
于吉は最後の酒を豪快に
「旨い酒じゃった。いつか時が来たら、また会おうぞ」
ふらりと席を立ち、ほろ酔い気分で店を出て行った。
その話を聞いてすぐ、曹操はその足で
梁氏の屋敷は洛陽城外の西区にあった。関西(
曹操は名刺を差し出し、門番に取次ぎを願った。
梁鵠が病であるという情報は聞き知っていた。梁鵠はこの数日あらゆる面会を拒んでいたが、今日訪ねてきたのが曹操だと知ると、これをすんなり迎え入れた。確かに体調が優れないのだろう。身なりを整え、客間に曹操を迎えた梁鵠の顔は少し青ざめていた。曹操が拱手して、
「お久しゅうございます。お加減はいかがですか?」
「そなたの顔を見て、いくらか良くなった」
梁鵠は冗談を言う余裕があるのか、そんなことを言って拱手を返した。
梁鵠は
梁冀の政権
この時、無官の曹操を洛陽
「そなたには会いにいかねばと思っていた」
梁鵠が挨拶もそこそこに、曹操を迎え入れた理由を語った。
「何か御用があったのですか?」
「伝えておきたいことがあったのだ。
梁鵠は顔をしかめながら、額に手をやった。
「先の大将軍、
梁鵠は自分の病が死病ではないかと疑って、その必要性に駆られたのだ。‶忠侯〟とは、梁商の
「笑ったりはしません。お陰で私は官吏として採用されたのですから。それにしても、さすがは梁商公、死しても国を案じておいでなのですね。私の祖父は全く夢に現れてくれませんが」
死者が生きる太陰界。曹操は于吉との会話を思い出して、真顔で言った。
曹操の祖父・曹騰は梁商の時代には、政治浄化のために梁商に協力を惜しまなかった。
「案じるのはよいが、忠侯が夢に現れると、決まって体調が悪くなる。陰気が頭を覆い尽くしてしまう感じで、おかしくなってしまいそうだ。ここの病かもしれん……」
梁鵠は
「それは?」
曹操がそれに書かれている文字を見て、尋ねた。
「陛下から新たに
梁鵠は選部尚書を務めた後、
「いえ、とても良いではありませんか。なるほど。梁商公が言うこと、
「解せたと?」
「はい。すぐにでも私がこれを持参し、掛け替えましょう。そうすれば、梁商公が夢に出てくることがなくなるかもしれません。貴殿は気を休めてご養生ください。病は気からと言いますから」
曹操が去った後、梁鵠は曹操が言ったことがどうしても解せずに、さらに頭を惑わせて病床に伏せった。
それから曹操は連日上殿した。そして、宮門の一つに
宋酆にはすでに注意を促してある。宋酆も外戚の歴史を知っている。常に慎重に身を
宮中という場所から
「孟徳。毎日上殿しているようだが、いったい何をしているのだ?」
曹操の奇妙な行動の報告を受けたのか、ある日、宋酆がやってきて理由を尋ねた。
「
曹操が侍る門には〝
徳陽殿は北宮の正殿であり、皇帝が座す。巨大かつ
予言にあった〝陽徳〟の二文字を逆さにした名前。逆。逆賊が通過するのはここだ。
「宮中に狼藉者だと? 百鬼か?」
「それはまだわかりません。正体は不明です」
曹操は当てにもならない憶測をわざわざ口にしたりしない。宋酆も信じはしまい。
ただ、曹操には自身で見つけ出したその答えに自信があった。直感。
誰が通る? 何が起こる? 怪しげな予言に身を
すると、日が陰り、辺りが暗くなった。雲が天を覆って陰気が満ちた時――――。
それは、
「そう来るとはな……」
しかし、予想もしていなかった敵ものの不意打ちに対しても、その動揺を一瞬のうちに抑え込み、減らず口を叩いてしまうのが曹操孟徳という男の
陰気の
常識の存在ではないそれに、宮門外警備主任の宋酆は言葉も出せずに腰を抜かし、兵士たちは務めも果たさず、悲鳴を上げて逃げ去って行った。
「な、な、何じゃ、これは?」
「剣をお借りします」
宮中にあるため帯剣していなかった曹操は動けなくなった宋酆の剣を取り、一人、立ちはだかる。敵意を察したのか、蠢く黒い陰気はまたもや形を変化させた。今度はある姿に定まる。それは、まるで
「まさに予言の通りだな」
『
曹操は無官だった青少年時代、「
曹操は剣を構え、宋酆を
「待て!」
それにも怯むことなく、曹操は黒気の龍を追った。後に続く者はいない。宮中は執金吾の管轄外となる上、宋酆は腰を抜かし、門衛も逃げてしまったのだから当然だ。
この化け物の姿は誰にでも目視できるらしかった。黒気の龍を目撃した官僚たちは驚愕の声を発して身を隠し、あるいは、
『狙いはオレでもないのか?』
黒気の龍はそのどれもを標的にすることなく通り過ぎて、しかし、何かを探すように宮殿内を駆け巡った。部屋を見つけては入っては出、入っては出を繰り返す。
その動きは曹操をまるで無視している。
『いったい何を探しているのだ?』
この龍の標的が宋酆でもなく自分でもないとしたら、何が目的だ?
曹操の体は全力で龍を追いながら、頭は冷静にこの龍の、いや、この陰気の術を操る者の真意を測ろうとしていた。そうするうちにも、黒気の龍は外廊をすり抜け、宮殿の屋根を飛び越え、
その時、皇帝は温徳殿に座していて、外の騒ぎを聞きつけ、宮殿から顔を
曹操が悲鳴のする方を辿って、温徳殿の前庭に辿り着く。
「そうか、温徳殿のことだったか」
曹操は黒き龍が温徳殿に降り立ったのを見て、〝
卒倒した皇帝の体を抱えながら、宮殿の中へと逃げ込む王甫・曹節の両名の姿を目にしたが、突然の化け物の襲来にどちらも酷く慌てた様子で、何か術を弄している素振りはなかった。
「あのどちらでもないのか?」
皇帝の一大事に際し、選び抜かれた勇敢な近衛兵たちが詰めかけて黒き龍の周りを固めたが、さすがにその化け物を前にしては、皇帝が逃げる時間を稼ぐために何とか
『こいつの標的は天子なのか?』
そうなると、王甫でもない曹節でもない何者かがこの背後にいることになる。
いったい誰が……その曹操の疑問を
「孟徳!」
老骨ながら、果敢に兵士たちを指揮して黒き龍を防がせている。
「これは何だ?」
蔡質が聞いた。蔡質も蔡邕邸に同居しているので、曹操とは面識があった。
甥の口から清濁抗争の裏事情に通じている若き英雄だと聞かされている。
何か不測の事態が起これば、曹操に尋ねるのが一番良いとも聞かされていた。
「濁流派の妖術ですよ」
「妖術……ど、どうすればよいのだ?」
蔡質はその対策を尋ねた。宮中の警備をするのが任務だといっても、こんな化け物を相手にすることになるとは蔡質も兵士たちも考えていなかった。まさに予想だにしない事態である。黒気の龍がその形を変えて威嚇する度に兵士たちが怯む。
その問いには、さすがの曹操も答えに
「ここは草を打って蛇を驚かせるのです。どこか近くにこの妖術を弄している者がいるはず。衛尉殿は兵士を分け、一部を陛下の護衛に、一部を術者の捜索に当ててください。その際、声を上げて宮中を探索させることです。その者を捕えられなくとも、その者が驚いて逃げ出せば、この術も
戦っても無駄ならば、術者本人を見つけ出し、術を止めさせるしかない。
その曹操の的確な判断に、
「わ、分かった」
蔡質は言われた通り兵士を分け、宮殿内へ向かった。
『しかし、どうする……?』
明確な答えを
徳陽門前では宋酆が
「……こ、今度は何だ?」
その煙は宋酆の視線の高さに漂って、ゆっくりと人の姿を形作った。白衣白髪の、以前に見た怪しい老人。宋酆にはそう見えた。その老人は宙を滑るように移動し、そのまま門をくぐって行こうとした。
「待て!」
宋酆が老人の肩を
まさしく煙を掴むかの如く何の感触もなかったのだ。さらに、その老人は宋酆の目前で風に流される煙と化して宮中へ入っていった。
「……な、何が起こっているのだ?」
黒気の龍も白衣の老人も、それが何であるのか理解できなかったが、とにかく宮中に一大事が巻き起こっているのを知って、宋酆は持ち場の警備へ戻るべく走った。
曹操は龍が吐き出す陰気を剣で斬り払うのを繰り返して、時間を稼いだ。しかし、自分が指示したことではあるが、蔡質らが術者を拘束できるとは思えなかった。
術者が蔡質の捜索隊を避けて逃げ出すかと期待したが、それを待てそうにない。
「……まともに食らえばヤバいな」
言って、曹操は
黒気の龍が吐いた陰気が曹操を
「……オレとしたことが
曹操は
一方、その貫通を食らった黒気の龍は頭が潰れるように変形して、様子がおかしくなった。また形を変えようと、龍を形作る陰気が激しく脈動したが、貫通したところから入った白い気が黒気の龍の中に浸透して、陰気に
陰気が広がろうとしては
その白く発光する剣で
『何だ、この剣は?』
ともかく、為す術を手に入れたのである。曹操はその剣で何度も黒気の龍に切りつけた。その度に陰気が薄れ、消えてゆく。その間にも、白い気が陰気を中和するように混じり合って、それらは確実に黒気の龍の力を
力を失った黒気の龍は形を失い、どんどん小さくなっていく。そして、それは最終的に人の姿のようになった。白い気もまた人の姿のようになって、それでもまだ黒い気に絡みついた。人型の白い気が同じく人型の黒い気の頭を抑え込むようにした。
「……闇を切り裂く
どこからともなく声が聞こえた。
「クソ親父め、余計なことヲ……!」
それに続いて深い
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます