其之五 黒気の龍

 盧植ろしょくらが東観とうかん讖緯しんいについて議論を交わしていた時、曹操そうそうも東観の入口にいて、張馴ちょうじゅんと話し込んでいた。

 張馴はあざな子儁ししゅんという。済陰せいいん定陶ていとうの人で蔡邕さいようとともに石経せきけい建立こんりゅうに携わっていた学者で、今は侍中じちゅうという秘書官の職に就いている。同時に東観管理責任者でもある。

「ないのですか?」

「うむ。確かに目録にはあるのだが、どこにも見当たらん。誰かが持ち出したのかもしれん。こちらで調べてみる」

 曹操は五仙珠のことが記された資料を求め、議郎になってから、何度か東観に足を運んだ。膨大な蔵書の中に未だ五仙珠に直結する資料を見つけることはできずにいたが、蔵書の目録に易学者の襄楷じょうかいが献上したという『太平清領書たいへいせいりょうしょ』という書簡を見つけた。曹操はそれに興味を持って、張馴に取り置きを頼んでいたのである。

「そうですか。仕方ありません」

「申し訳ない、何度もご足労いただいたのに」

「いえ、構いません」

 曹操は廊下を引き返した。

『太平道について研究しようと思ったが、時期ではないようだ……』

 曹操が御殿ごてんを下り、宮門をくぐった時、門前で騒ぎが起こっていた。

 門衛の兵士たちが一人の老人を囲んでいる。その老人は全身白衣をまとっていた。

 全身白衣は通常、喪服を表す。宮中で死者が出たわけでもないのに縁起えんぎが悪い。

「何事ですか?」

「おお、孟徳もうとくか。いやな、何とも気味の悪い老人が宮中に入ろうとするのだ」

「何かの抗議行動ですか?」

「そうかもしれないが、これ以上騒ぎが大きくなると、老人とはいえ拘束せねばならんな」

 言うのは執金吾しつきんご宋酆そうほうだ。あざな伯遇はくぐう右扶風ゆうふふう平陵へいりょうの人で、現皇后の宋氏の父でもある。つまりは外戚がいせきだ。宋酆の子で宋皇后の兄が宋奇そうきといって、六年前に曹氏から妻を迎えている。この縁で宋氏と曹氏は姻戚関係にある。

 曹褒そうほうあざな仲興ちゅうこうは曹操の祖父・曹騰そうとうの兄にあたり、その末娘が宋奇の妻である。

 執金吾は主に洛陽の宮門外・宮城周囲の警備をになう。南宮の北門・玄武門げんぶもんに屯所があった。なので、宮中に参内さんだいする機会の多い議郎の曹操とは公的にもよく顔を合わせる。南宮玄武門と北宮朱雀門すざくもんは屋根で覆われた上下二層の道で連結されている。〝復道ふくどう〟という。朱雀門前ではデモや抗議活動がよく行われた。彼らは清流人が捕われたり、処罰されたりする度に彼らはこの朱雀門に至ってその冤罪えんざいを訴え、政治の腐敗を非難した。

 かつて大将軍・竇武とうぶが宦官打倒を図って、陣を構えたのもこの朱雀門の前であった。竇武は敗死し、その娘の竇太后が幽閉されたまま死去した熹平きへい元(一七二)年には、何者かが朱雀門の壁に、〝天下大いに乱る。曹節そうせつ王甫おうほは太后を幽殺し、清流多数を殺害せり。公卿こうけいろくをぬすみ、忠諫ちゅうかんする者なし〟と落書きをする事件があった。

 この時の司隷校尉しれいこういは皇族の劉猛りゅうもうであった。劉猛は清流的人物で、これを深く追求しなかったために左遷され、後任の段熲だんけいによって、疑いをかけられた太学生千人以上が拘束された。このようにいろいろと事件が起こる朱雀門であるが、この老人が何を目的でこのような行動をとっているのか誰にも分からなかった。

「お主、死相が出とるぞ」

 白衣の老人は宋酆に向かって、不吉な言葉を浴びせた。

「無礼な。おい、こやつを……」

 宋酆がいよいよ拘束を指示しようとした時、それをさえぎるように曹操が割って入った。

「爺さん、酒でも飲みながら話さないか」

「おお、酒か」

 曹操は老人の肩を抱きながら、路地を歩き始めた。

「おい、孟徳……」

 宋酆はそれをぽかんとなって見送った。


 白衣を纏った正体不明の奇妙な老人。曹操はその老人に興味をかれ、酒を御馳走ごちそうするために銅駝街どうだがいの酒家に入った。馬頭琴ばとうきんかなでる異国情緒にあふれる音色ねいろと西域異民族の女性ダンサーの妖艶ようえんな踊りが評判になっている人気の店である。

 だが、今日はその音楽と踊りを楽しむより、老人の話をじっくり聞くのが目的だ。

 曹操は一番奥の席へ老人をいざなった。老人は于吉うきつと名乗った。徐州の瑯琊ろうや国の出身だという。自ら正体を告げた于吉老人が続けた。

「信じる信じないは勝手じゃが、わしは仙術を心得ておってな、気の流れを見ることができる」

「方士ですか。その仙術は何か特別な修業で身につけられたのですか?」

 方士は道士ともいう。自然のことわりを極め、医術や占卜せんぼく術などの方術、道術に通じた者をいう。中には不老不死の術や自然現象を自在にあやつる術を心得る者もいるといい、そのような術は特に仙術と言われる。

「当たり前じゃ。泰山にこもり、天地の気を集めこねること三十年。今では気を操って少々の病なら治すこともできるようになった」

 于吉は杯の酒を一気に胃に流し込んだ。

「ぷは~。やはり、酒は気を高ぶらせるのぉ」

 すっかり気分を高揚させた于吉は曹操の質問に機嫌良く答えていく。自分のような者に酒をおごる曹操の目的など気にも留めない。

「方士のあなたがなぜ宮殿に?」

「おお、それじゃ。梁伯夏りょうはくかに都に悪しき気が満ちると聞いてな。気の発するところを確かめに来たんじゃ」

「梁伯夏……方士仲間ですか?」

「いやいや、かつての大将軍、梁商りょうしょう公よ」

 曹操がその名にピンとこなかったのも無理はなかった。とうの昔に亡くなった人物なのだ。

 涼州安定郡烏氏うしの人、梁商はあざなを伯夏という。桓帝のさらに前の時代、順帝の時の大将軍であり、外戚であった。しかし、梁商自身は権威を振りかざすことなく、清流派の賢人を推挙したり、飢饉ききんが起こる度に自分の俸禄ほうろくを貧民にほどこすなど清流的行為に尽くした。

 しかし、常に身をつつしみ穏和であった反面、威厳風格に欠けるところがあり、宦官にも妥協的姿勢を示した。とはいえ、梁商が政界に影響力があった時代は中央政界に大きな混乱はなかった時代でもある。ところが、梁商の死後、極悪非道なドラ息子の梁冀りょうきが大将軍の位を世襲せしゅうして、父の功績を無にするが如く世を乱すことになるのだ。

「死者と話せるのですか?」

 これはまた面白そうな話だ。曹操はその表情に若干じゃっかん喜色きしょくにじませて于吉の答えを待った。

「そう言えば早いがの。この世では死者でも、あの世では生者よ。この世は陰陽の移り変わりで形作られておる太陽の世界じゃ。そして、その陰には太陰の世界があってな……」

「なるほど。この世の死者が太陰界で生きるのですね」

「物分かりが良いの。方士に興味があるのか?」

「いえ……この世には常識では考えられぬような不可思議な力が存在するようですね。それをの当たりにしました。その力がどこからやって来るのか、日頃考えていたのです」

「目に見えぬ陰陽の対流は、時には信じられぬような現象をもたらすのよ」

 曹操はうなずきながら、また尋ねた。

「……ところで、亡くなった祖父に聞きたいことがあるのですが、祖父と話すことはできませんか?」

「誰とでも話せるわけではない。これでもまだ修行中の身でな……」

「そうですか……」

 于吉はくぼんだ目で曹操の顔をまじまじと見ながら、また酒をあおった。

「お主は随分な変わり者じゃな。仙人を目指して自分で話してみたらどうか? わしがきたえてやってもよいぞ」

「ははは、世捨て人になるにはまだ早過ぎます。修行に費やしている時間もありません」

 曹操は笑って于吉のスカウトを拒否した。

「それに、世の中には修行なしで仙術を身につけることができる宝物があるそうです」

「確かに古の仙人たちが作りし霊宝は存在するが、そんな物を使っても、本当の仙術とは言わん。素人がまがいものの術なぞろうしても、不幸な結果を招くだけじゃ」

 于吉のその言葉は仙珠の存在を裏付けるものだった。その于吉が思い出したように言った。

「……ところで、あの執金吾、お主の知り合いか?」

「ええ、そうです。死相が出ているというのは本当ですか?」

「宮中から出た陰気がまとわりついておる。この世のものではない、太陰界から染み出たような深く汚れた陰気じゃった」

「ふ~」

 曹操は深い溜め息をついた。その口から陰気を吐き出すように。

 権力闘争の中心に外戚がいることは珍しくない。本人が望まなくとも巻き込まれてしまうこともよくある。身内に不幸が起きてほしくはない。だが、非常の力が働いて、事態を良からぬ方向へ押し流しているようだ。

「陰気は太陰界で生じ、この太陽界に巡り来るものじゃが、本来それは普通のことじゃ。昼夜の循環、四季の移り変わりのようにな。じゃが、梁伯夏は異常な陰気の流れがあるという。それと関係あるかも知れんの」

「霊宝を使った紛いものの術のせいかもしれませんね」

 不思議なことに、見知らぬ老人との会話が曹操が目をらす方向へと自然に流れていく。これも非常の力が作用しているのだろうか……曹操は会話の中で、そう思った。

「お主、何か知っとるようじゃの。別に聞きはせんが……」

 于吉はこの変わった男に託してみることにした。

「まだはっきり様子が分からんが、宮中に陰気が集まっておる。その集まりようが尋常ではない。近く不吉なことが起こるじゃろう。梁伯夏にそれを誰かに伝えるよう頼まれておった。お主が代わりにそれを見極めよ」

 于吉は最後の酒を豪快にのどに流し込むと、

「旨い酒じゃった。いつか時が来たら、また会おうぞ」

 ふらりと席を立ち、ほろ酔い気分で店を出て行った。


 その話を聞いてすぐ、曹操はその足で梁鵠りょうこくを見舞った。

 梁氏の屋敷は洛陽城外の西区にあった。関西(函谷関かんこくかん以西)出身の高級官僚の屋敷群が立ち並んでいるエリアである。質素でこぢんまりとした蔡邕邸とはおもむきが違い、西方の名門らしく、その邸宅は装飾の施された門構えからして、随分と豪奢ごうしゃな印象を受ける。蔡邕邸が質素すぎるからそう見えるのかもしれないが。

 曹操は名刺を差し出し、門番に取次ぎを願った。

 梁鵠が病であるという情報は聞き知っていた。梁鵠はこの数日あらゆる面会を拒んでいたが、今日訪ねてきたのが曹操だと知ると、これをすんなり迎え入れた。確かに体調が優れないのだろう。身なりを整え、客間に曹操を迎えた梁鵠の顔は少し青ざめていた。曹操が拱手して、

「お久しゅうございます。お加減はいかがですか?」

「そなたの顔を見て、いくらか良くなった」

 梁鵠は冗談を言う余裕があるのか、そんなことを言って拱手を返した。

 梁鵠はあざな孟黄もうこうといい、安定郡烏氏の出身である。そこは故の大将軍・梁商、梁冀親子の本籍地でもあり、梁鵠はその遠縁にあたる。

 梁冀の政権聾断ろうだんの後、それに深く関わった梁氏は一族誅滅され、他は南方へ流刑に処された。しかし、梁氏は後漢の名族であったことと、梁鵠は梁冀の血筋から遠かったこと、当時在野にあったことなどがさいわいして、連座をまぬがれた。そして、書道に優れていたので、書芸好きの現皇帝に任用されて選部尚書せんぶしょうしょとなった。選部尚書とは官吏の登用と異動をつかさどる。

 この時、無官の曹操を洛陽北部尉ほくぶい抜擢ばってきしたのが梁鵠であった。梁鵠は実質的に曹操を官吏としてのスタート地点に立たせた人物だと言ってよい。そういった縁もあって、曹操は梁鵠の屋敷を訪ねたのだ。もちろん、于吉の語った言葉が大いに関係している。

「そなたには会いにいかねばと思っていた」

 梁鵠が挨拶もそこそこに、曹操を迎え入れた理由を語った。

「何か御用があったのですか?」

「伝えておきたいことがあったのだ。いささか妙な話ではあるが……」

 梁鵠は顔をしかめながら、額に手をやった。

「先の大将軍、忠侯ちゅうこう・梁商の名は知っていよう。我が祖先だ。その忠侯が我が夢に出て来て言ったのだ。そなたに都を守らせるようにと……。それで私はそなたを北部尉に就けた。だが、最近また忠侯が現れて、同じことを言ったのだ。どういうことなのか真意を測りかねているが、どうしてもそなたに伝えておきたかった。単なる夢の話だと笑うかもしれないが……」

 梁鵠は自分の病が死病ではないかと疑って、その必要性に駆られたのだ。‶忠侯〟とは、梁商の諡号しごうである。

「笑ったりはしません。お陰で私は官吏として採用されたのですから。それにしても、さすがは梁商公、死しても国を案じておいでなのですね。私の祖父は全く夢に現れてくれませんが」

 死者が生きる太陰界。曹操は于吉との会話を思い出して、真顔で言った。

 曹操の祖父・曹騰は梁商の時代には、政治浄化のために梁商に協力を惜しまなかった。

「案じるのはよいが、忠侯が夢に現れると、決まって体調が悪くなる。陰気が頭を覆い尽くしてしまう感じで、おかしくなってしまいそうだ。ここの病かもしれん……」

 梁鵠はつらそうな表情で、自分の頭を指さした。曹操はそれに同情するより、気になったことがあった。かたわらの卓上に置いてあった額縁がくぶちである。

「それは?」

 曹操がそれに書かれている文字を見て、尋ねた。

「陛下から新たに扁額へんがく揮毫きごうするようにおおせつかっているものの、この通り、病のせいで良いものが書けずにいる」

 梁鵠は選部尚書を務めた後、鴻都門学こうともんがくに在籍していた。それは絵画、書道、詩賦しふなどを学ぶ一種の芸術学校で、皇帝の肝煎きもいりで宮中の鴻都門そばに設置された。

「いえ、とても良いではありませんか。なるほど。梁商公が言うこと、せました」

「解せたと?」

「はい。すぐにでも私がこれを持参し、掛け替えましょう。そうすれば、梁商公が夢に出てくることがなくなるかもしれません。貴殿は気を休めてご養生ください。病は気からと言いますから」

 曹操が去った後、梁鵠は曹操が言ったことがどうしても解せずに、さらに頭を惑わせて病床に伏せった。


 それから曹操は連日上殿した。そして、宮門の一つにはべって、そこでじっと時を待った。

 宋酆にはすでに注意を促してある。宋酆も外戚の歴史を知っている。常に慎重に身をしょし、栄華も誇らない。十分に用心しているのは知っていたが、方士の言葉などをすんなり信用するような人物でもない。曹操自身、于吉の言葉を信じるにしても、それがいつ何時、どのように起こるのか何も分からない。しかも、気を見ることができないのだから、日々宮中を感覚をませて歩き、人の言動、場の雰囲気から何かを察するしかない。

 宮中という場所からあやしいのはやはり宦官である。第二の予言もそれをほのめかしている。

「孟徳。毎日上殿しているようだが、いったい何をしているのだ?」

 曹操の奇妙な行動の報告を受けたのか、ある日、宋酆がやってきて理由を尋ねた。

狼藉者ろうぜきものが現れるという情報を耳にしましてね。宮中は舅父きゅうふの持ち場ではないでしょう。ですから、こうして私が守っているのですよ。これでも、元部尉ですからね。捨て置けません」

 曹操が侍る門には〝徳陽門とくようもん〟の扁額が掛けられてある。梁鵠の書である。梁鵠の屋敷で見た三文字。徳陽門。徳陽殿への入口だ。

 徳陽殿は北宮の正殿であり、皇帝が座す。巨大かつ豪華絢爛ごうかけんらんな作りで、一万人を収容できる。まさに天下の中心と言える場所なのである。

 予言にあった〝陽徳〟の二文字を逆さにした名前。逆。逆賊が通過するのはここだ。

「宮中に狼藉者だと? 百鬼か?」

「それはまだわかりません。正体は不明です」

 曹操は当てにもならない憶測をわざわざ口にしたりしない。宋酆も信じはしまい。

 ただ、曹操には自身で見つけ出したその答えに自信があった。直感。

 誰が通る? 何が起こる? 怪しげな予言に身をゆだねてみるのも面白い。

 すると、日が陰り、辺りが暗くなった。雲が天を覆って陰気が満ちた時――――。

 それは、突如とつじょ地の底からやってきた。目の前の地面から何かが物凄ものすごい勢いで天に飛び上がった。はっとして、曹操はそれを目で追った。人ではないそれは、再び物凄い勢いで落下してきて、それを目視した時、曹操の心が揺れた。

「そう来るとはな……」

 しかし、予想もしていなかった敵ものの不意打ちに対しても、その動揺を一瞬のうちに抑え込み、減らず口を叩いてしまうのが曹操孟徳という男のうつわだ。

 陰気のかたまりとでも表現するべきか。ひと数人分の体積を持ち、定形を持たぬ黒い物体はもぞもぞとうごめきながら、様々に形を変え、まるで落ち着く様子はなかった。

 常識の存在ではないそれに、宮門外警備主任の宋酆は言葉も出せずに腰を抜かし、兵士たちは務めも果たさず、悲鳴を上げて逃げ去って行った。

「な、な、何じゃ、これは?」

「剣をお借りします」

 宮中にあるため帯剣していなかった曹操は動けなくなった宋酆の剣を取り、一人、立ちはだかる。敵意を察したのか、蠢く黒い陰気はまたもや形を変化させた。今度はある姿に定まる。それは、まるで数丈すうじょう(数メートル)もある龍のように見えた。

 地龍ちりゅう――――陰気の龍の首、煤煙すすけむりのような黒く淀んだ物体の先端が曹操の目の前で激しく広がり、威嚇いかくするようだった。数丈にも伸びた体は敵をひるませるかの如く伸縮を繰り返す。曹操は意志的に、自在に蠢く黒気の龍を凝視ぎょうしした。

「まさに予言の通りだな」

 きもを落ちつけた曹操は一人、予言の精度に感嘆した。ここに辿り着いた自分に敗北はない。闇をまとう龍に対して、曹操は揺るぎない自信をその身に纏う。

奸知かんちは英知に及ばず、不吉は吉祥に勝らず……狙いはこのオレか』

 曹操は無官だった青少年時代、「吉利きつり」と名乗っていた。吉祥の意味である。

 曹操は剣を構え、宋酆をかばうように立ちはだかる。しかし、黒気の龍は空中でとぐろを巻くように体をぐるぐると回転させた後で、その尻尾を頭へと、曹操を威嚇したその頭部を尾に変え、曹操と宋酆をうっちゃって、徳陽門を抜けて何かを探すように宮中を彷徨さまよった。曹操は逃げる龍の尾を剣で斬り払ったが、それはまさしく煙を斬ったように手ごたえがなく、黒気の龍も何事もなかったかのように宙を泳いだ。

「待て!」

 それにも怯むことなく、曹操は黒気の龍を追った。後に続く者はいない。宮中は執金吾の管轄外となる上、宋酆は腰を抜かし、門衛も逃げてしまったのだから当然だ。

 この化け物の姿は誰にでも目視できるらしかった。黒気の龍を目撃した官僚たちは驚愕の声を発して身を隠し、あるいは、狼狽ろうばいしてへたれ込み、宦官は婦女子のような悲鳴を上げて逃げ惑った。

『狙いはオレでもないのか?』

 黒気の龍はそのどれもを標的にすることなく通り過ぎて、しかし、何かを探すように宮殿内を駆け巡った。部屋を見つけては入っては出、入っては出を繰り返す。

 その動きは曹操をまるで無視している。

『いったい何を探しているのだ?』

 この龍の標的が宋酆でもなく自分でもないとしたら、何が目的だ? 

 曹操の体は全力で龍を追いながら、頭は冷静にこの龍の、いや、この陰気の術を操る者の真意を測ろうとしていた。そうするうちにも、黒気の龍は外廊をすり抜け、宮殿の屋根を飛び越え、温徳殿おんとくでんの広い前庭に舞い下りた。

 その時、皇帝は温徳殿に座していて、外の騒ぎを聞きつけ、宮殿から顔をのぞかせた。幅広の階段の下で、巨大かつ得体の知れない黒い物体がたけり狂っているのを見た途端、気の小さい皇帝は目を回して卒倒してしまった。

 曹操が悲鳴のする方を辿って、温徳殿の前庭に辿り着く。

「そうか、温徳殿のことだったか」

 曹操は黒き龍が温徳殿に降り立ったのを見て、〝ふるきをたずぬ〟という予言の文句が温徳殿に向かうことを意味していたのだと知った。

 卒倒した皇帝の体を抱えながら、宮殿の中へと逃げ込む王甫・曹節の両名の姿を目にしたが、突然の化け物の襲来にどちらも酷く慌てた様子で、何か術を弄している素振りはなかった。

「あのどちらでもないのか?」

 皇帝の一大事に際し、選び抜かれた勇敢な近衛兵たちが詰めかけて黒き龍の周りを固めたが、さすがにその化け物を前にしては、皇帝が逃げる時間を稼ぐために何とか牽制けんせいするのが精一杯のようだった。

『こいつの標的は天子なのか?』

 そうなると、王甫でもない曹節でもない何者かがこの背後にいることになる。

 いったい誰が……その曹操の疑問をき消す声がした。

「孟徳!」

 蔡質さいしつあざな子文しぶん衛尉えいいという宮中警備を担当する官職に就いている蔡邕の叔父である。

 老骨ながら、果敢に兵士たちを指揮して黒き龍を防がせている。

「これは何だ?」

 蔡質が聞いた。蔡質も蔡邕邸に同居しているので、曹操とは面識があった。

 甥の口から清濁抗争の裏事情に通じている若き英雄だと聞かされている。

 何か不測の事態が起これば、曹操に尋ねるのが一番良いとも聞かされていた。

「濁流派の妖術ですよ」

「妖術……ど、どうすればよいのだ?」

 蔡質はその対策を尋ねた。宮中の警備をするのが任務だといっても、こんな化け物を相手にすることになるとは蔡質も兵士たちも考えていなかった。まさに予想だにしない事態である。黒気の龍がその形を変えて威嚇する度に兵士たちが怯む。

 その問いには、さすがの曹操も答えにきゅうした。その間にも黒き龍はその口から兵士たちに向け、陰気の塊を吐き出した。それは群れ固まる兵士たちの中心に落ちて、ぐにぐにと気味悪く脈動した。兵士たちがそれに驚いて、さらに後ずさる。今にも逃げ出しそうだ。それを見た曹操がすかさず剣を振るって、何かに姿を変える前のその物体を斬り刻んだ。だが、斬撃ざんげきが巻き起こした旋風が黒い陰気を空中にき散らしたものの、それらがまた集まって一つにまとまって形を成す。それは手持ちの武器でこの化け物に対抗しても無駄なことを兵士たちに悟らせて、益々彼らの戦意を失わせた。改めてそれを確認した曹操が言う。

「ここは草を打って蛇を驚かせるのです。どこか近くにこの妖術を弄している者がいるはず。衛尉殿は兵士を分け、一部を陛下の護衛に、一部を術者の捜索に当ててください。その際、声を上げて宮中を探索させることです。その者を捕えられなくとも、その者が驚いて逃げ出せば、この術もむでしょう」

 戦っても無駄ならば、術者本人を見つけ出し、術を止めさせるしかない。

 その曹操の的確な判断に、

「わ、分かった」

 蔡質は言われた通り兵士を分け、宮殿内へ向かった。

『しかし、どうする……?』

 明確な答えをひねり出せないまま、剣を握り、曹操は陰気を纏った龍を見上げた。


 徳陽門前では宋酆が茫然ぼうぜんと立ちつくしたまま、黒気の龍が去っていった宮中を見つめていた。そして、未だ頭が整理できないうちに今度は白い煙が地面から湧き立つのを見た。

「……こ、今度は何だ?」

 その煙は宋酆の視線の高さに漂って、ゆっくりと人の姿を形作った。白衣白髪の、以前に見た怪しい老人。宋酆にはそう見えた。その老人は宙を滑るように移動し、そのまま門をくぐって行こうとした。

「待て!」

 宋酆が老人の肩をつかんで強引に呼び止めようとしたが、できなかった。

 まさしく煙を掴むかの如く何の感触もなかったのだ。さらに、その老人は宋酆の目前で風に流される煙と化して宮中へ入っていった。

「……な、何が起こっているのだ?」

 黒気の龍も白衣の老人も、それが何であるのか理解できなかったが、とにかく宮中に一大事が巻き起こっているのを知って、宋酆は持ち場の警備へ戻るべく走った。


 曹操は龍が吐き出す陰気を剣で斬り払うのを繰り返して、時間を稼いだ。しかし、自分が指示したことではあるが、蔡質らが術者を拘束できるとは思えなかった。

 術者が蔡質の捜索隊を避けて逃げ出すかと期待したが、それを待てそうにない。

「……まともに食らえばヤバいな」

 言って、曹操は片膝かたひざをつき、自分の体力が一瞬で大きく失われたのを自覚した。

 黒気の龍が吐いた陰気が曹操をかすめ、その途端に強い脱力感に襲われたのだ。注意を引きつけたのがあだとなったか。黒気の龍は陰気の巨体を次々に変化させ、執拗しつように曹操に攻撃を仕掛けてきた。尾を極太ごくぶとむちのようにして曹操を打ちつけようとし、腕は宮殿の屋根さえ粉砕しそうな鉄槌てっついに変えて、曹操をつぶそうとした。それらを転がりながら、かろうじてかわす。

「……オレとしたことがすべなしか?」

 曹操は無様ぶざまな自分を叱咤しったした。立ち上がる力が湧く間もなく、無防備に仰向あおむけになった曹操は龍がまた陰気の塊を吐き出そうと大口を開いたのを見た。それと同時に見たのは、その向こうに透けて見える白い輝き。それは黒気の龍の頭部を貫通して、曹操の脇の地面に突き刺さった。おぼろげに白い気を纏った剣。

 一方、その貫通を食らった黒気の龍は頭が潰れるように変形して、様子がおかしくなった。また形を変えようと、龍を形作る陰気が激しく脈動したが、貫通したところから入った白い気が黒気の龍の中に浸透して、陰気にからみつくように白か黒かとせめぎ合った。まるで澄んだ水と濁った水が混ざり合うような光景だ。

 陰気が広がろうとしてはせばまり、伸びようとしては縮む。その様子は変形しようと蠢く黒い気を白い気が抑えつけているように見えた。曹操はその隙に天から降ってきたその剣を取った。手に取った瞬間、不思議と力が湧いてくるような感覚を覚え、曹操は立ち上がることができた。

 その白く発光する剣でもだえる龍を斬り払う。その斬撃は確かなダメージを与えたらしく、陰気がどっと流れ出て、浄化するように消えていった。曹操はその剣を今一度見やった。

『何だ、この剣は?』

 ともかく、為す術を手に入れたのである。曹操はその剣で何度も黒気の龍に切りつけた。その度に陰気が薄れ、消えてゆく。その間にも、白い気が陰気を中和するように混じり合って、それらは確実に黒気の龍の力をいでいった。

 力を失った黒気の龍は形を失い、どんどん小さくなっていく。そして、それは最終的に人の姿のようになった。白い気もまた人の姿のようになって、それでもまだ黒い気に絡みついた。人型の白い気が同じく人型の黒い気の頭を抑え込むようにした。

「……闇を切り裂く倚天いてんの剣、そなたに託したぞ」

 どこからともなく声が聞こえた。

「クソ親父め、余計なことヲ……!」

 それに続いて深い濁声だみごえが聞こえ、白と黒、二つの気は大地に呑み込まれるように消えていった。




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