其之二 危難の臭い

 雪を頂いた燕山えんざんの山々を遠目に見ながら、そのふもとを二頭の馬がけていた。

 乾いた大地に砂塵さじんが舞う。燕山は海抜千メートル級の山脈で、それに沿うように古代の長城が連綿れんめんと連なっている。後漢代においてもなお、この長城が燕山と二重の防壁として、異民族の侵入を防ぐ役割をになっていた。

 万里の長城の起源は戦国時代に勃興したえんちょうしんなどの国々が他国、特に北方異民族から侵略を防ぐために建設した防壁である。馬が乗り越えられない高さと容易には突き崩せない厚さを備えた土壁、または石壁であるが、漢代の長城は主に土を堅く突き固めて上に積み重ねていく‶版築はんちく〟と呼ばれる工法で作られた。

 長城は延長されるとともに、要所には狼煙のろし台や見張り台が築かれ、とりでには守備兵が配置された。長年の風雨による劣化や人為的な破壊があったが、代々の王朝が修復と新築を繰り返しながら存続し、漢の武帝の時代に至って最長となった。東は遼東りょうとう半島北部から西はシルクロードの出入り口の敦煌とんこう郡の玉門関ぎょくもんかんに至るまで。さらに、西域せいいき楼蘭ろうらん彼方かなたの砂漠地帯にも延々と伸びており、まさに‶万里〟と形容するにふさわしい建造物となった。

 その防壁が遼西りょうせいで破られた。遼西郡の版図は広い。当然、国境守備隊の監視が完全には行き渡らないので、長城をもってしても、侵入を完全に防ぐのが難しかった。

 鮮卑せんぴの大軍はその監視の目をかいくぐって長城を破り、遼西郡内に雪崩なだれ込んだのである。

 長城の外に発する北の大河・濡水じゅすいが南流して燕山に深い谷を作っているが、そこに盧龍塞ろりょうさいがあった。遼西の主な城邑のほとんどは盧龍塞の南側にある。

 つまり、盧龍塞は異民族の侵入を防ぐ防衛施設であるとともに、遼西の城邑を守る最後の砦であった。

 近くまで鮮卑軍が押し寄せてきていることは官軍の兵士たちが次々と北へ向かっていくのを見て察することができた。それを見送りながら、馬上の人、劉備りゅうびが呟く。

疥癬かいせんえずして燕雀えんじゃく悲歌ひかし、虎狼ころうわざわい迫り来たり……。急がないと」

 鮮卑の侵攻により、燕の人々が悲しみに暮れる。さらにあの人狼もやってくる。

 予言はさらに真実味を帯びてきている。劉備の独り言は馬が駆ける中でも隣の男の耳に届いたらしい。

「その言葉、どういう意味だ?」

 もう一人の馬上の人、孫堅そんけんが聞く。道を共にすることになった二人であったが、劉備は朱震しゅしんのことを、孫堅は袁忠えんちゅうと四神器のことを互いに伏せた。

 どちらも国を憂い、党人を護ろうとする正義感にあふれる若者であるのだが、この時点でそれをお互いに知ることはない。劉備は予言の解釈だけを孫堅に告げた。

「人狼だと?」

 孫堅はその言葉に妖術の臭いを感じ取った。会稽かいけいでの火の鳥。巨大ありの化け物。

 それらは妖術が為したものであり、神器のもたらす不可思議な力とも関係がある。

 また官軍がやってきた。今度は騎馬隊だ。劉備はその先頭に立つ男を見て、叫んだ。

公孫兄こうそんけい!」

 漆黒しっこく鎧兜よろいかぶとに身を包み、白馬にまたがる武官が聞き覚えがあるその声に馬を止めた。そして、近付いてくる弟の顔を認めると、兄は久しぶりの再会を喜ぶどころか、怪訝けげんな表情でそれを迎えた。

「あん、玄徳げんとくか? こんなところで何をしている?」

 全くの偶然ではあったが、運良く兄弟子と対面できた劉備はあいさつの言葉も抜きに、公孫瓚こうそんさんに訴えた。

「公孫兄、あの人狼が来ます! あのお方を護らないと!」

「何だって? そいつは本当か?」

「本当です。ぎつけられたんですよ」

 劉備が切迫した表情で緊急事態を告げる。公孫瓉の表情がにわかに引きった。

 ただでさえ状況は緊迫している。鮮卑の侵攻に加えて、あんな化け物が現れては難儀だ。公孫瓚は一瞬顔をくもらせたものの、すぐに劉備の要請を断った。

「……悪いが、こっちもそれどころじゃねぇんだ。鮮卑の奴らが侵入してきた。それを撃退しねぇと、郡内にとんでもない被害が出る」

 公孫瓉は自身の夢を形にして、郡の国境警備隊を率いていた。騎馬隊の機動力を生かして、普段監視が行き届かない箇所かしょをカバーする警邏けいら部隊だ。その小部隊を率いて盧龍塞に急行するところであった。

「公孫兄一人くらい参陣しなくても何とかなるでしょう」

「馬鹿野郎。立場ってものがある。隊長の俺だけ参陣しねぇなんてあり得るか」

「何だか変わってしまいましたね。いつから立場なんて気にするようになったんですか?」

 らしくない兄弟子の態度に劉備が不機嫌になって言った。これまで破天荒な行いで散々迷惑をかけてきたというのに、今は上質な鎧を着飾り、白馬に乗って、偉そうな態度を取っている。

「義侠の心を忘れてしまったんですか、狩りが好きだったんじゃないんですか、化け物相手に怖気おじけづいたんですか?」

「おい、玄徳、落ち着け。お前らしくないぞ」

 公孫瓉はいつも沈着従順だった弟分の感情的な一面に驚いて、なだめるしかなかった。

「言っとくが、あんな狼野郎ごときに怖気づく俺様じゃねぇ。できるなら、この手で仕留めてやりてぇ。……だけどな、今はいつ現れるかもわからねぇ狼野郎を待っていられねぇんだ。分かるだろ? 鮮卑の奴らは今そこまで来ている。奴らを追い払わねぇと、郷里の人間が大勢死ぬんだ。それを放り出して一人の命を救えってのか?」

 さとしながらも、弁明する公孫瓉。公孫瓉にとって、朱震はただの一個人でしかない。立派な人物らしいことは知っていたが、清流派とか名士とか、そんな言葉に価値を見出せないのが公孫瓉という男なのである。

 そして、そんな公孫瓉の言い分を認めたのは、他ならぬ孫堅だった。

「その男の言う通りだ。賊の討伐は大衆を救う大義」

 孫堅も会稽で賊の討伐に活躍した人物である。その一方で、袁忠という清流派名士を助けた。二人の会話がそんな自分の過去と重なった。孫堅は劉備に近付くと、

「大事な御仁ごじんを守るということなら、その男の代わりに俺がやってやる。これも何かの縁だ。お前の言う人狼とやらにも興味があるしな……」

「誰だ、お前は?」

 公孫瓚がいぶかし気に孫堅を見た。少し落ち着きを取り戻した劉備が紹介した。

「このお方は元の呉郡ごぐん司馬しば孫文台そんぶんだい殿です。鮮卑討伐軍を率いた臧旻ぞうびん将軍の情報を求めてこられました。公孫兄、何か知りませんか?」

「いや、何も……。ところで、お前。腕は立つんだろうな? 生半可なまはんかな腕でいきがってると、死ぬぞ」

「試してみるか?」

 公孫瓚は孫堅の不遜な態度に槍で応じた。抱えていた槍を力強く振って、孫堅を横なぐりにしようとした。が、孫堅はそれを左腕でガードすると、右手は古錠刀こていとうを抜いて、馬上の公孫瓚の喉元のどもとに突きつけた。

「あんたも文句ないだろう?」

「合格だ」

 公孫瓚が槍を戻す。武人の公孫瓚はその挙動で孫堅の並外れた強さを瞬時に理解した。孫堅も古錠刀をさやに納めながら告げる。

「こちらも交換条件を提示させてもらう。鮮卑から何かしら臧君の情報を聞き出して教えてもらいたい」

「いいだろう」

 公孫瓚は孫堅にそれを約すと、

「……濡水の下流に孤竹城こちくじょうという古城がある。そこにあの御仁がいる」

 劉備にそう言い残して、馬の腹をった。


 遥か昔、遼西一帯に孤竹国があり、儒教の聖人である伯夷はくい叔斉しゅくせいは孤竹国の王子として生まれた。漢の国教は儒教であるので、孤竹城は聖地のようなものである。

 だが、現在の孤竹城に古代王国の面影おもかげはない。名残なごりらしき建築物は何も残っておらず、周囲に巡らされたへいも城壁というには足りない。長城と同じ版築の技法で造成されたそれは太守の命で新たに築かれたものだ。中には昔からここに住まう十数軒の民家があるだけで、その一軒に朱震が暮らしていた。

 孤竹城は県城から離れているが、令支れいし県の管轄であった。令支は公孫瓚の郷里で、公孫瓚は太守からの命で警邏のかたわら、孤竹城の防備も担当していた。数刻前も公孫瓚は孤竹城に様子を見に立ち寄っていて、自身がいない間も常時五十名の兵士を守りにつかせている。

 時の遼西太守は趙苞ちょうほうあざな威豪いごうといった。甘陵かんりょう東武城とうぶじょうの人で、実は王甫おうほの右腕となっている有力宦官・趙忠ちょうちゅう従弟いとこにあたる。ところが、趙苞は趙忠と交流するのを恥として、一切の関係を絶ち、徐州の広陵こうりょう令となって治績を挙げて、名実ともに備えた清廉の士として知られ始めていた。ちょうど孫堅が会稽かいけい許昭きょしょうの反乱討伐に従事していた頃である。

 そんなある日、隻眼せきがんの男が一通の書簡を持ってやってきた。一昨年のことだ。

 その男が持参してきたのは洛陽北部尉ほくぶい曹操そうそうという全く面識がない人物からの書簡で、内容も党人を一人かくまって欲しいという全く身勝手な請託せいたくだった。

 にもかかわらず、その要請を無条件で引き受けたのが趙苞という人物の人柄であった。それは曹操の目論見もくろみ通りだった。曹操は救出した朱震の隠匿先を探していた時に趙苞という人物の噂を聞き知り、十分な身辺調査をした上で朱震の身柄を託したのである。

 朱震の逮捕たいほ拘留こうりゅうに関わっていた趙忠の身内に隠す。まさに灯台もと暗し的な奇策で、長期的な隠匿を計ったのだ。

 その後、趙苞は間もなくして武威ぶい太守に昇進、昨年遼西太守に異動となった。

 趙苞は武威や遼西に赴任することになっても、朱震を帯同した。中原ちゅうげんから遠く離れた方が隠れ住むには良い。ただし、遼西郡都の陽楽ようがく烏桓うかんや鮮卑が住む地域に近いことから、安全面と人目のつきにくさを考慮して孤竹城に隠居先を用意し、地元出身の公孫瓚に護衛を任せたというわけである。

 だが、その思いもむなしく、ついに嗅ぎつけられてしまった。

 嗅ぎつけたのは、けものの鋭い嗅覚。夜のとばりが下り、天に現れた月が濡水の水面みなもに揺れる。そして、その水面に野獣の姿が映る。人狼。

「間違いねェ、このニオイだぜェ……。逃したエモノが近くに隠れていやがる……」

 あの夜と同じ満月の光。あの夜と同じ獲物の臭い。風が運ぶかすかなその臭いを追って、狼は大地を駆け、そして、ついに混乱の遼西に辿り着いたのだった。


 朱震はまた命が狙われていると知っても、全く動じることはなかった。

「また君に助けられるとしよう」

 火盆かぼん(古代の暖炉)の上にまきをくべて、飄々ひょうひょうと言っただけだ。ただ寒さを凌ぐように危難も凌ぐだけだ。大罪人として処刑された陳蕃ちんばんの遺体を引き取り、その子の陳逸ちんいつを匿っただけあって、もともときもわった人物なのだ。党人粛清という世の風潮もどこ吹く風である。長い間妻子と離れ、粗末な小屋に独り寂しく暮らしていても、清流人は孤高だ。

「ご安心ください。必ずお守りします」

 あれから二年余りの歳月が経ち、その分、劉備の身体も力強く成長した。そして、義心は以前にも増して堅い。

 孫堅は劉備の心地よい決意と朱震という守るべき清流人の顔を確認しただけで、小屋の外に出た。月を見上げる。以前満月の夜に人狼に襲われたと劉備は言っていた。

 月明りのもと、城門へ足を運ぶ。城門には公孫瓚の部下たちが常駐しているが、夜間警備の兵は少ない。ほとんどの兵がもう休んでいる。人狼のことなど知らないのだから、仕方がない。

「ここは墓地なのか?」

 孫堅が門衛の若年兵に聞いた。日が暮れる前に周囲を見回ってみたが、山林には花が手向たむけられていたり、そなえ物が置かれていたりした。

「ええ。この辺りの民衆は皆、ここを墓地としています。中に住んでいる者たちもほとんど葬儀関係者ですよ」

 古代王城の遺跡。いわば、城の墓である。国の歴史が埋まっているようなものだ。

 聖地でもあるので、いつしか令支の民衆はここに埋葬まいそうされるようになった。

「つまり、陰気が満ちる場所だな」

 陰気。妖術のエネルギー源。深夜になって、兵士も民衆も寝静まり、静寂が辺りを覆っている。嫌な予感がした。

「……何か聞こえなかったか?」

「いえ」

 孫堅は耳を澄ました。篝火かがりびが弾ける音以外、何も聞こえない。気のせいか。

 ……いや、確かに、夜の澄んだ冷気に乗って聞こえた。

 ……ーーーゥウウウ!

「……獣のうなり声だ。どこだ、近いぞ!」

 何かが暗闇を駆け抜ける音がする。孫堅が目をらす。闇に溶け込み、黒い影が一直線にこちらに向かってくる。孫堅が古錠刀を構え、城門前に立ちふさがる。

 見えた。体毛が月明かりを受けて、黄金に輝いている。それは、まさに人狼。

「なにっ!」

 孫堅が剣を振り下ろす直前、それは大きく飛翔して、孫堅の真上を、塀を飛び越えていった。塀といっても、高さは一丈(約二メートル)、豪族の屋敷を囲むものと変わらない。しかし、それを一跳躍いっちょうやくで飛び越えるとは、人間わざではない。

「今のは?」

「でかい狼だ。付いてこい!」

 孫堅が猛然と城内に走り出した。つられて門衛の兵士たちが孫堅に続く。

「この中だ。間違いねェ。臭うぜェ……」

 人狼は獲物が放つ臭いをトレースして、迷うことなく一軒のさびれた小屋に行き着いた。野獣の剛腕で軽々と戸を打ち壊し、中に足を踏み入れる。しかし、そこはもぬけの殻だった。漂う臭いの濃度から判断すれば、標的が直前までここにいたのは間違いない。

「どこへ逃げたァ……」

 再び壁を打ち壊して外に出た。人狼の異形いぎょうを間近に見、その凶悪な唸り声を耳にした兵士たちが肝を潰して遁走とんそうする。

「恐れるな。取り囲め!」

 孫堅の声も虚しく、その場に踏み留まったのは門前で会話を交わした若年兵・韓当かんとうのみとなった。

 韓当、あざな義公ぎこう。ここ遼西令支の生まれである。恐れを知らない孫堅の傍にいるだけで豪胆さが伝染して、心の内から勇気が奮い起きてくる。

「このニオイ……アイツもいっしょか……」

 人狼はまるで孫堅たちを無視するように鼻をくんくんさせて、夜の都から獲物を背負って逃げた小僧の臭いを感じ取った。それを追って一歩二歩と足を踏み出した人狼が腕を振って、飛んできた矢を弾き落とした。ギロリと光る単眼がそれを放った韓当をにらむ。

雑魚ざこが。そんなに死にてェのか……」

 言うや否や人狼は強靭きょうじんな足で一瞬のうちに兵士に肉薄し、鋭利な爪で体をぎ払った。バリッという音がして鎧が大きく引き裂かれた。韓当は吹き飛ばされて倒れ込んだが、無事だった。素早く立ち上がって、剣を構える。

「こっちだ、化け物」

 孫堅が人狼を挑発した。その挑発に乗った人狼が猛然と駆け寄って、孫堅に凶悪な爪を振るう。が、妖術を目の当たりにし、それを打ち破ってきた孫堅に恐怖心はない。人狼の攻撃をかわした代わりに古錠刀の強力な一撃を与える。剛毛をものともせず、肉を切った。

「グオゥ……、何だてめェは?」

 腕に入った切り傷をめながら、単眼を光らせて孫堅を睨みつけた。

 おそれる様子もなく、悠然と剣を構える。都での夜といい、今夜といい、ことごとく邪魔が入る。それも手強てごわい。

「お前の狩猟を頼まれた」

 孫堅は月明かりの差す中、人狼をまじまじと見た。身をかがめているが、その巨躯きょくは人の二倍近くある。長い体毛が夜風になびき、足先の鋭利な爪が大地をえぐる。まさに化け物だが、実際は妖術の力をまとっただけの人間だ。

「お前のその妖術、力のもとになっている物はどこにある?」

「オマエ……」

 思わず口をつぐむ。人狼は傷口を舐める動作を止めて、眼を怒らせた。月夜にぎらつく眼光。威嚇いかくの唸り声。……こいつ、あのタマの秘密を知っているのか?

「余計な詮索せんさくをしない方が身のためだぜェ……といっても、もう遅いがなァ。まずはオマエから殺ってやるぜェ」

「やれるものなら、やってみろ」

 孫堅が不敵な文句でさらに人狼を挑発した。

 孫堅は生まれながらの武人である。筋肉質のがっちりとした体躯たいくは熊のようで、鋭い剣さばきは誰に教わるでもなく、自然と身に付いた。そして、その上に敵を恐れぬ勇気と胆力を持つ。

 精悍せいかんな武人は北の大地に生まれた男子のあこがれである。武器を構えたものの異形の怪物を前に動けずにいた韓当が孫堅を憧憬どうけい眼差まなざしで見た。

 若くして心技体を備えた孫堅を倒すのは容易ではない。孫堅は人狼の猛烈な攻撃をかわし、受け流しながら、人狼に傷を負わせていた。

「グルルル……!」

 人狼は孫堅に致命傷を与えるどころか、さらに傷を増やして、鬱憤うっぷんだけを募らせた。

 ここの衛兵は数十人。自分はそんな数などものともしない。人を恐怖に陥れる異形の姿と人間離れした能力を持っているのだ。今まではこの姿をさらしただけで敵は戦意を喪失した。中には立ち向かってきた者もいたが、それを野獣の力で容易たやす蹂躙じゅうりんできた。なのに、都では片目を失い、今は傷を負うばかりで、獲物の一匹も仕留めることができない。

 寝込んでいた兵士たちが異変を知って集まってくる。闇夜に乗じての暗殺を得意とする人狼は、仕留めるべき獲物を見失い、思わず時間を取られて、

「グウウ……! オマエは後回しだぜェ!」

 負け惜しみの唸り声を吐き捨て、塀を越えて逃げて行った。

「追うぞ、付いてこい!」

 孫堅が人狼を追って駆け出した。


 劉備は狼の声を聞いて、朱震を連れ、反対側の城門から外へ逃れ出た。あの人狼の俊敏さを考えたら、そう遠くまでは逃げられない。

 虎や狼に出くわしたら川に逃げろ。幽州民が共有する教えである。劉備がすぐ近くを流れる濡水のほとりに向かったのは、川から朱震を逃がすためだった。

 船はない。まだ日が暮れる前、劉備は川のほとりに立つ木の下にひつぎが立てかけられているのを見ていた。孤竹城の葬儀屋のものだろう。それを一つ拝借はいしゃくして、川面かわもに浮かべた。

「ひとまずこれに乗ってお逃げください。後で探しに参ります」

「わかった。良い風が吹くことを祈るのみだ」

 朱震は素直にそれに従い、棺に入ると、劉備がそれを沖へと押し出した。

 月光が水面を照らす中、朱震の棺が静かに流れていく。劉備が岸を離れ、街道に戻る。喚声かんせいが聞こえた。何かが激しく地面を駆ける音がし、劉備が闇に目を向ける。

 突如闇の中から人狼が現れ出た。劉備は身構える余裕もなく、胸元をがっちりとつかまれ、宙に持ち上げられた。

「捕まえたぜェ。エモノをどこに隠しやがった?」

「うぐ……何のことだ?」

「素直に吐かねェなら、それでもいいぜェ。オレの鼻はどこに逃げようが、どこに隠れようが嗅ぎつけられるからなァ……」

 人狼の爪が首元をえぐる。劉備は痛みに耐えながら必死に抵抗する。

「無駄なあがきだぜェ……ギャウ!」

 一瞬、人狼の握力が弱まった。劉備は両足で人狼を蹴り飛ばすようにして、何とかその拘束から逃れた。人狼が背中に刺さった矢を引き抜いて、グルルルと唸った。

 孫堅と数人の兵士が馬を駆って追跡してきたのだ。韓当が馬上からもう一射する。

 それは素早くかわされた。手負ておいの人狼がまた逃亡を図る。

「追え、逃がすな!」

 孫堅が猛然とそれを追いかける。その勇ましさは本物だ。膝をついた劉備が首元を押さえながら、それを目で追った。


 咄嗟とっさの判断が功を奏したことはしばらく下流に行ったところで分かった。早朝、劉備は街道の近く、橋のすぐそばで地元民と共にいる朱震を探し当てた。

「漂流しているのを、彼らに引き上げてもらった」

 朱震は劉備にそう経緯を語った。そこに人狼追跡に出ていた孫堅が憮然ぶぜんとした表情で戻ってきた。孫堅が下馬して、少々疲れた様子で告げた。

「逃げられた」

「仕方ありません。風侯ふうこうを守り通せただけでも良しとしなければ。ですが、居場所を知られてしまいました。ただ連れ戻すだけというのは……」

 今回は孫堅という勇者のお陰でぎりぎり守れたに過ぎない。そして、あの人狼を相手に一般兵士五十名の護衛では不足ということがはっきりした。

「そうだな。あの兵力では、次は守り切れまい。どこか他に身柄を移したほうがいいだろう」

 自分たちに下された厳しい評価。しかし、孫堅がいなかったら、守り通せたとは思えない。人狼と直接対峙たいじした韓当は孫堅の指摘をとうだと感じて、何も反論しなかった。

「あの人狼はどこに隠しても臭いで嗅ぎつけられるようなことを言っていました。それが本当なら、十分な護衛が常時期待できるところに預けるのが最良だと思います」

「つまり、兵力が多いところだな。だとすると、やはり太守のもとだろう。そこまで連れて行って、今後のことは太守に決めてもらえばいい」

 それには劉備も韓当も判断はできかねるようで、戸惑った様子を見せる。

「それがよい。風も東へ吹いておる」

 決めたのは朱震だった。ただ、遼西の風は肌を切り裂くように冷たく、清風というには程遠かった。ただ、

「私も共に行こう。遼西の太守なら何か臧公の情報を知っているかもしれない。それに、道中あの人狼が襲ってくることも考えられるだろう」

 成り行きではあるが、孫堅がそう言って同行してくれることになったのが不幸中のさいわいであった。


 遼西郡は郡土こそ広大であるが、人口が少ない過疎地である。城邑じょうゆう(都市)は郡土の西部に集中しており、東部にぽつんと郡都の陽楽がある。その間は何もない荒野が延々と続く。その後、曹操が当地の情景を詩にみ留めることになる碣石山けっせきさんの麓を通り抜け、その昔、始皇帝が不老不死の秘薬を探させたという秦皇島しんこうとうという小島の手前を過ぎる。この辺りから街道はしばらく海沿いに伸びて、内陸へと転じる。

 不穏な未来を暗示するかのように天候は少しずつ崩れ始め、雪がちらちらと舞い出し、風も強くなり始めた。やがて、うっすらとした雪のベールによって街道は覆い隠され、一行はまさに道標みちしるべを失ってしまった。

 そんな中、一行は凶悪な現場に遭遇そうぐうしてしまう。道筋を探しながら先頭を進んでいた韓当たちが大地に官軍の兵士たちが倒れているのを見つけたのだ。何者かによる襲撃の後だった。人狼の仕業しわざかと思ったが、韓当が一本の矢を示しながら言った。

「鮮卑の仕業でしょう。近くでこの矢を拾いました。羽飾りが鮮卑のものに似ています」

 鮮卑軍の強さの秘訣ひけつに騎射のたくみさがある。兵士たちの遺体にも矢が突き立っており、遺体の上に微かに降り積もった雪がまだ命を落としてからそれほど時が経っていないことを教えていた。

「こんなところにまで鮮卑が?」

「鮮卑の奴らなら、この私が叩きつぶしてやる」

 驚きを隠せない劉備に対して、臧旻の雪辱せつじょくとばかり孫堅が義憤に燃えて言う。

 幽州は幷州、涼州と並んで馬の生産が盛んな土地で、人より馬の数の方が多いといったところだった。当然ながら、集落もまばらなこの地域にあえて侵攻する鮮卑の主な目的は馬の獲得であった。鮮卑族も北の大草原で馬を養っているが、軍備の増強のためにさらなる軍馬を必要としていた。それには略奪による獲得が一番手っ取り早いのである。

「生存者を見つけました」

 偵察に出ていた兵士が今度は吉報を持ち帰ってきた。雪原と化した平原にある木立こだちに身を隠すようにして数十人の兵士が横たわり、木に背中を預けて座っていた。ほとんどが負傷している。

「我らは州府から派遣された部隊です。趙府君のご家族を護送中、鮮卑に襲われました」

 状況を説明したのは、一番軽症の若き兵士であった。その兵士は右北平うほくへい土垠どぎんの出身、名を程普ていふあざな徳謀とくぼうといった。

 程普が口にした趙府君とは、遼西太守・趙苞のことに他ならない。五百人の兵と安車(婦人用馬車)が二台。ほかに数台の荷車にぐるま。それが彼らの隊列であったらしい。

 この度の襲撃で隊長も副隊長も戦死し、後続部隊の一人だった程普が敗残兵をまとめて何とか場をしのいでいたところだった。

 趙苞にとっての不幸。それは趙苞に恩ある朱震の不幸でもある。朱震が初めて感情を表にして尋ねた。

「それで、趙府君のご家族は?」

「何人かの兵士たちとともに捕虜として連れて行かれたようです。鮮卑兵はこちらの数倍はおり、我々の力ではどうすることもできず……」

 程普が口惜しそうに答える。それを一蹴するように孫堅が語気を強めて言った。

「荷車ごと持って行ったなら、足は遅いはずだ。まだそれほど遠くには行っていまい。追跡して取り返すぞ。動ける者は続け」

 劉備が孫堅の決断に唖然とする中、

「府君のご家族を連れ去られたとあっては、遼西の恥。我らは従います」

「我らも。任務を完遂かんすいできないことは我らにとっても恥辱ちじょく以外の何物でもない。このままむざむざ引き下がれません」

 韓当と程普、彼らの兵士たちが孫堅に賛同して立ち上がった。幽州人の意地である。

「さすがは幽州兵。いい覚悟だ」

 義を見て為さざるは勇なきなり。捕虜を助け出すという大義を示されては、それを無視できないのが幽州人の気質だ。それは劉備も同じだ。鮮卑という脅威を取り払わなければ、どのみち無事に陽楽へは辿り着けない。

「動けない者はここで待機しろ。玄徳もここに残って風侯を守れ」

 その気持ちを見計らってか、孫堅が言った。

「鮮卑は勝って油断しているはずだ。まさか反撃してくるとは思ってもいまい。急襲すれば十分に勝ち目はある。行くぞ!」

 孫堅の力強い一言に導かれるように、韓当と程普たちの混成部隊が一団となって怒涛どとうの追跡を開始した。

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