其之二 危難の臭い
雪を頂いた
乾いた大地に
万里の長城の起源は戦国時代に勃興した
長城は延長されるとともに、要所には
その防壁が
長城の外に発する北の大河・
つまり、盧龍塞は異民族の侵入を防ぐ防衛施設であるとともに、遼西の城邑を守る最後の砦であった。
近くまで鮮卑軍が押し寄せてきていることは官軍の兵士たちが次々と北へ向かっていくのを見て察することができた。それを見送りながら、馬上の人、
「
鮮卑の侵攻により、燕の人々が悲しみに暮れる。さらにあの人狼もやってくる。
予言はさらに真実味を帯びてきている。劉備の独り言は馬が駆ける中でも隣の男の耳に届いたらしい。
「その言葉、どういう意味だ?」
もう一人の馬上の人、
どちらも国を憂い、党人を護ろうとする正義感に
「人狼だと?」
孫堅はその言葉に妖術の臭いを感じ取った。
それらは妖術が為したものであり、神器のもたらす不可思議な力とも関係がある。
また官軍がやってきた。今度は騎馬隊だ。劉備はその先頭に立つ男を見て、叫んだ。
「
「あん、
全くの偶然ではあったが、運良く兄弟子と対面できた劉備はあいさつの言葉も抜きに、
「公孫兄、あの人狼が来ます! あのお方を護らないと!」
「何だって? そいつは本当か?」
「本当です。
劉備が切迫した表情で緊急事態を告げる。公孫瓉の表情が
ただでさえ状況は緊迫している。鮮卑の侵攻に加えて、あんな化け物が現れては難儀だ。公孫瓚は一瞬顔を
「……悪いが、こっちもそれどころじゃねぇんだ。鮮卑の奴らが侵入してきた。それを撃退しねぇと、郡内にとんでもない被害が出る」
公孫瓉は自身の夢を形にして、郡の国境警備隊を率いていた。騎馬隊の機動力を生かして、普段監視が行き届かない
「公孫兄一人くらい参陣しなくても何とかなるでしょう」
「馬鹿野郎。立場ってものがある。隊長の俺だけ参陣しねぇなんてあり得るか」
「何だか変わってしまいましたね。いつから立場なんて気にするようになったんですか?」
らしくない兄弟子の態度に劉備が不機嫌になって言った。これまで破天荒な行いで散々迷惑をかけてきたというのに、今は上質な鎧を着飾り、白馬に乗って、偉そうな態度を取っている。
「義侠の心を忘れてしまったんですか、狩りが好きだったんじゃないんですか、化け物相手に
「おい、玄徳、落ち着け。お前らしくないぞ」
公孫瓉はいつも沈着従順だった弟分の感情的な一面に驚いて、なだめるしかなかった。
「言っとくが、あんな狼野郎ごときに怖気づく俺様じゃねぇ。できるなら、この手で仕留めてやりてぇ。……だけどな、今はいつ現れるかもわからねぇ狼野郎を待っていられねぇんだ。分かるだろ? 鮮卑の奴らは今そこまで来ている。奴らを追い払わねぇと、郷里の人間が大勢死ぬんだ。それを放り出して一人の命を救えってのか?」
そして、そんな公孫瓉の言い分を認めたのは、他ならぬ孫堅だった。
「その男の言う通りだ。賊の討伐は大衆を救う大義」
孫堅も会稽で賊の討伐に活躍した人物である。その一方で、袁忠という清流派名士を助けた。二人の会話がそんな自分の過去と重なった。孫堅は劉備に近付くと、
「大事な
「誰だ、お前は?」
公孫瓚が
「このお方は元の
「いや、何も……。ところで、お前。腕は立つんだろうな?
「試してみるか?」
公孫瓚は孫堅の不遜な態度に槍で応じた。抱えていた槍を力強く振って、孫堅を横
「あんたも文句ないだろう?」
「合格だ」
公孫瓚が槍を戻す。武人の公孫瓚はその挙動で孫堅の並外れた強さを瞬時に理解した。孫堅も古錠刀を
「こちらも交換条件を提示させてもらう。鮮卑から何かしら臧君の情報を聞き出して教えてもらいたい」
「いいだろう」
公孫瓚は孫堅にそれを約すと、
「……濡水の下流に
劉備にそう言い残して、馬の腹を
遥か昔、遼西一帯に孤竹国があり、儒教の聖人である
だが、現在の孤竹城に古代王国の
孤竹城は県城から離れているが、
時の遼西太守は
そんなある日、
その男が持参してきたのは洛陽
にもかかわらず、その要請を無条件で引き受けたのが趙苞という人物の人柄であった。それは曹操の
朱震の
その後、趙苞は間もなくして
趙苞は武威や遼西に赴任することになっても、朱震を帯同した。
だが、その思いも
嗅ぎつけたのは、
「間違いねェ、このニオイだぜェ……。逃したエモノが近くに隠れていやがる……」
あの夜と同じ満月の光。あの夜と同じ獲物の臭い。風が運ぶ
朱震はまた命が狙われていると知っても、全く動じることはなかった。
「また君に助けられるとしよう」
「ご安心ください。必ずお守りします」
あれから二年余りの歳月が経ち、その分、劉備の身体も力強く成長した。そして、義心は以前にも増して堅い。
孫堅は劉備の心地よい決意と朱震という守るべき清流人の顔を確認しただけで、小屋の外に出た。月を見上げる。以前満月の夜に人狼に襲われたと劉備は言っていた。
月明りのもと、城門へ足を運ぶ。城門には公孫瓚の部下たちが常駐しているが、夜間警備の兵は少ない。ほとんどの兵がもう休んでいる。人狼のことなど知らないのだから、仕方がない。
「ここは墓地なのか?」
孫堅が門衛の若年兵に聞いた。日が暮れる前に周囲を見回ってみたが、山林には花が
「ええ。この辺りの民衆は皆、ここを墓地としています。中に住んでいる者たちもほとんど葬儀関係者ですよ」
古代王城の遺跡。いわば、城の墓である。国の歴史が埋まっているようなものだ。
聖地でもあるので、いつしか令支の民衆はここに
「つまり、陰気が満ちる場所だな」
陰気。妖術のエネルギー源。深夜になって、兵士も民衆も寝静まり、静寂が辺りを覆っている。嫌な予感がした。
「……何か聞こえなかったか?」
「いえ」
孫堅は耳を澄ました。
……いや、確かに、夜の澄んだ冷気に乗って聞こえた。
……ーーーゥウウウ!
「……獣の
何かが暗闇を駆け抜ける音がする。孫堅が目を
見えた。体毛が月明かりを受けて、黄金に輝いている。それは、まさに人狼。
「なにっ!」
孫堅が剣を振り下ろす直前、それは大きく飛翔して、孫堅の真上を、塀を飛び越えていった。塀といっても、高さは一丈(約二メートル)、豪族の屋敷を囲むものと変わらない。しかし、それを
「今のは?」
「でかい狼だ。付いてこい!」
孫堅が猛然と城内に走り出した。つられて門衛の兵士たちが孫堅に続く。
「この中だ。間違いねェ。臭うぜェ……」
人狼は獲物が放つ臭いをトレースして、迷うことなく一軒の
「どこへ逃げたァ……」
再び壁を打ち壊して外に出た。人狼の
「恐れるな。取り囲め!」
孫堅の声も虚しく、その場に踏み留まったのは門前で会話を交わした若年兵・
韓当、
「このニオイ……アイツもいっしょか……」
人狼はまるで孫堅たちを無視するように鼻をくんくんさせて、夜の都から獲物を背負って逃げた小僧の臭いを感じ取った。それを追って一歩二歩と足を踏み出した人狼が腕を振って、飛んできた矢を弾き落とした。ギロリと光る単眼がそれを放った韓当を
「
言うや否や人狼は
「こっちだ、化け物」
孫堅が人狼を挑発した。その挑発に乗った人狼が猛然と駆け寄って、孫堅に凶悪な爪を振るう。が、妖術を目の当たりにし、それを打ち破ってきた孫堅に恐怖心はない。人狼の攻撃をかわした代わりに古錠刀の強力な一撃を与える。剛毛をものともせず、肉を切った。
「グオゥ……、何だてめェは?」
腕に入った切り傷を
「お前の狩猟を頼まれた」
孫堅は月明かりの差す中、人狼をまじまじと見た。身を
「お前のその妖術、力のもとになっている物はどこにある?」
「オマエ……」
思わず口をつぐむ。人狼は傷口を舐める動作を止めて、眼を怒らせた。月夜にぎらつく眼光。
「余計な
「やれるものなら、やってみろ」
孫堅が不敵な文句でさらに人狼を挑発した。
孫堅は生まれながらの武人である。筋肉質のがっちりとした
若くして心技体を備えた孫堅を倒すのは容易ではない。孫堅は人狼の猛烈な攻撃をかわし、受け流しながら、人狼に傷を負わせていた。
「グルルル……!」
人狼は孫堅に致命傷を与えるどころか、さらに傷を増やして、
ここの衛兵は数十人。自分はそんな数などものともしない。人を恐怖に陥れる異形の姿と人間離れした能力を持っているのだ。今まではこの姿を
寝込んでいた兵士たちが異変を知って集まってくる。闇夜に乗じての暗殺を得意とする人狼は、仕留めるべき獲物を見失い、思わず時間を取られて、
「グウウ……! オマエは後回しだぜェ!」
負け惜しみの唸り声を吐き捨て、塀を越えて逃げて行った。
「追うぞ、付いてこい!」
孫堅が人狼を追って駆け出した。
劉備は狼の声を聞いて、朱震を連れ、反対側の城門から外へ逃れ出た。あの人狼の俊敏さを考えたら、そう遠くまでは逃げられない。
虎や狼に出くわしたら川に逃げろ。幽州民が共有する教えである。劉備がすぐ近くを流れる濡水のほとりに向かったのは、川から朱震を逃がすためだった。
船はない。まだ日が暮れる前、劉備は川のほとりに立つ木の下に
「ひとまずこれに乗ってお逃げください。後で探しに参ります」
「わかった。良い風が吹くことを祈るのみだ」
朱震は素直にそれに従い、棺に入ると、劉備がそれを沖へと押し出した。
月光が水面を照らす中、朱震の棺が静かに流れていく。劉備が岸を離れ、街道に戻る。
突如闇の中から人狼が現れ出た。劉備は身構える余裕もなく、胸元をがっちりと
「捕まえたぜェ。エモノをどこに隠しやがった?」
「うぐ……何のことだ?」
「素直に吐かねェなら、それでもいいぜェ。オレの鼻はどこに逃げようが、どこに隠れようが嗅ぎつけられるからなァ……」
人狼の爪が首元を
「無駄なあがきだぜェ……ギャウ!」
一瞬、人狼の握力が弱まった。劉備は両足で人狼を蹴り飛ばすようにして、何とかその拘束から逃れた。人狼が背中に刺さった矢を引き抜いて、グルルルと唸った。
孫堅と数人の兵士が馬を駆って追跡してきたのだ。韓当が馬上からもう一射する。
それは素早くかわされた。
「追え、逃がすな!」
孫堅が猛然とそれを追いかける。その勇ましさは本物だ。膝をついた劉備が首元を押さえながら、それを目で追った。
「漂流しているのを、彼らに引き上げてもらった」
朱震は劉備にそう経緯を語った。そこに人狼追跡に出ていた孫堅が
「逃げられた」
「仕方ありません。
今回は孫堅という勇者のお陰でぎりぎり守れたに過ぎない。そして、あの人狼を相手に一般兵士五十名の護衛では不足ということがはっきりした。
「そうだな。あの兵力では、次は守り切れまい。どこか他に身柄を移したほうがいいだろう」
自分たちに下された厳しい評価。しかし、孫堅がいなかったら、守り通せたとは思えない。人狼と直接
「あの人狼はどこに隠しても臭いで嗅ぎつけられるようなことを言っていました。それが本当なら、十分な護衛が常時期待できるところに預けるのが最良だと思います」
「つまり、兵力が多いところだな。だとすると、やはり太守のもとだろう。そこまで連れて行って、今後のことは太守に決めてもらえばいい」
それには劉備も韓当も判断はできかねるようで、戸惑った様子を見せる。
「それがよい。風も東へ吹いておる」
決めたのは朱震だった。ただ、遼西の風は肌を切り裂くように冷たく、清風というには程遠かった。ただ、
「私も共に行こう。遼西の太守なら何か臧公の情報を知っているかもしれない。それに、道中あの人狼が襲ってくることも考えられるだろう」
成り行きではあるが、孫堅がそう言って同行してくれることになったのが不幸中の
遼西郡は郡土こそ広大であるが、人口が少ない過疎地である。
不穏な未来を暗示するかのように天候は少しずつ崩れ始め、雪がちらちらと舞い出し、風も強くなり始めた。やがて、
そんな中、一行は凶悪な現場に
「鮮卑の仕業でしょう。近くでこの矢を拾いました。羽飾りが鮮卑のものに似ています」
鮮卑軍の強さの
「こんなところにまで鮮卑が?」
「鮮卑の奴らなら、この私が叩き
驚きを隠せない劉備に対して、臧旻の
幽州は幷州、涼州と並んで馬の生産が盛んな土地で、人より馬の数の方が多いといったところだった。当然ながら、集落もまばらなこの地域にあえて侵攻する鮮卑の主な目的は馬の獲得であった。鮮卑族も北の大草原で馬を養っているが、軍備の増強のためにさらなる軍馬を必要としていた。それには略奪による獲得が一番手っ取り早いのである。
「生存者を見つけました」
偵察に出ていた兵士が今度は吉報を持ち帰ってきた。雪原と化した平原にある
「我らは州府から派遣された部隊です。趙府君のご家族を護送中、鮮卑に襲われました」
状況を説明したのは、一番軽症の若き兵士であった。その兵士は
程普が口にした趙府君とは、遼西太守・趙苞のことに他ならない。五百人の兵と安車(婦人用馬車)が二台。ほかに数台の
この度の襲撃で隊長も副隊長も戦死し、後続部隊の一人だった程普が敗残兵をまとめて何とか場を
趙苞にとっての不幸。それは趙苞に恩ある朱震の不幸でもある。朱震が初めて感情を表にして尋ねた。
「それで、趙府君のご家族は?」
「何人かの兵士たちとともに捕虜として連れて行かれたようです。鮮卑兵はこちらの数倍はおり、我々の力ではどうすることもできず……」
程普が口惜しそうに答える。それを一蹴するように孫堅が語気を強めて言った。
「荷車ごと持って行ったなら、足は遅いはずだ。まだそれほど遠くには行っていまい。追跡して取り返すぞ。動ける者は続け」
劉備が孫堅の決断に唖然とする中、
「府君のご家族を連れ去られたとあっては、遼西の恥。我らは従います」
「我らも。任務を
韓当と程普、彼らの兵士たちが孫堅に賛同して立ち上がった。幽州人の意地である。
「さすがは幽州兵。いい覚悟だ」
義を見て為さざるは勇なきなり。捕虜を助け出すという大義を示されては、それを無視できないのが幽州人の気質だ。それは劉備も同じだ。鮮卑という脅威を取り払わなければ、どのみち無事に陽楽へは辿り着けない。
「動けない者はここで待機しろ。玄徳もここに残って風侯を守れ」
その気持ちを見計らってか、孫堅が言った。
「鮮卑は勝って油断しているはずだ。まさか反撃してくるとは思ってもいまい。急襲すれば十分に勝ち目はある。行くぞ!」
孫堅の力強い一言に導かれるように、韓当と程普たちの混成部隊が一団となって
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