其之三 悲劇を越えて

 柳城りゅうじょう遼西りょうせい郡治ぐんち陽楽ようがくの東百里(約四十キロメートル)にある小城である。

 漢に内属する烏桓うかん族が多く住んでおり、烏桓は鮮卑せんぴと敵対関係にあるので、遼西太守・趙苞ちょうほうが大軍を率いてきたのを歓迎した。趙苞は柳城の城外に兵をとどめた。小城の柳城では窮屈きゅうくつなのだ。

 趙苞は柳城に逃れてきた朱震しゅしんにあいさつを済ませると、軍中に戻った。

 鮮卑討伐を前にして趙苞は気丈に振る舞っていた。遼西太守として赴任してからは家族と離れていたのだが、環境を調ととのえて妻子と母を呼び寄せたその最中、タイミング悪く鮮卑の侵攻が始まって、それに巻き込まれてしまった。その凶報を聞いたばかりである。

 孫堅そんけんらは鮮卑軍を追跡して打撃を加え、捕虜の一部を解放することに成功したものの、太守家族の救出はならなかった。

「この失態、申し開きもできません。いかなる処分も甘んじてお受けいたします」

 しかし、趙苞は程普ていふたちではなく、自らを責めた。

「我が妻子のため護衛を付けてくれた州府には感謝している。私の判断がいけなかった」

「害されたわけではありません。まだご家族を取り戻す機会は残っています。どうか我らを討伐軍の一角にお加えください。この孫文台、太守のために武を振るって敵を討ち、ご家族を救助してみせます」

「それは頼もしい」

 趙苞は孫堅の力強い言葉を唯一の希望として、精一杯の一言で応えた。

 孫堅の噂は聞き知っている。孫堅が呉越の反乱討伐に活躍していた頃、趙苞は江水こうすい(長江)の対岸にある広陵こうりょうの県令を務めていたのだ。その勇者がこうして討伐軍に加わってくれるというのだから、天祐てんゆうと言ってもいいのかもしれない。

 しかし、趙苞の表情は言葉とは裏腹に暗く沈んだままだ。孫堅も趙苞の心痛を察して、臧旻ぞうびんのことを尋ねるのは勝利の後にしようと思い至った。

 趙苞からはまさに気高けだかき清流人の気風を感じた。私情を抑え、あくまでも公務を優先している。それは山野の渓流の如く、よどみない。運命に導かれるまま、こんな北の果てまで来てしまったが、趙苞のために加勢するのも悪くない。

 孫堅は程普を連れて趙苞の幕舎を出、軍中の様子を見て回った。

「これだけの大軍ならば、必ず勝利できよう。必要なのは勝利だ。勝利して、太守のご家族を取り戻せば、お前の心も晴れるだろう」

「はい。私も力の限り戦います」

 任務も完遂できず、仲間を失った程普は孫堅の言葉に救われる思いだった。

 太守家族が鮮卑に拉致らちされた――――この噂は間もなく軍中に広がった。

「太守の家族が鮮卑にとらわれたというのは本当かい?」

「ああ、そのようじゃ。おいたわしい」

 城からの物資を運搬してきたその老兵士は見ず知らずの人間と会話をかわしていた。

「それは災難だったな。だが、殺されなかった分だけマシってもんだろう」

「いやいや、捕虜ほりょなんて生きた心地もせんよ」

「それにしても鮮卑は何だって捕虜なんか取るんだ? エモノの臭いをぐためでもねェだろうに」

「獲物?」

「いや、何でもねェ……」

 朱震を追ってきた人狼の男もまた柳城に辿り着いていた。義勇兵をよそおって軍中に紛れ込んで、こうして老兵と話し込んでいる。狼の姿に変身し、野獣の力を発揮できる能力はあるが、普段は屠牙とがという名で生きる壮年の男、普通の人間なのだ。劉備や孫堅たちが見つけ出すことができなかったのは無理もなかった。

 屠牙は異能の盗賊集団・百鬼ひゃっきに属し、暗殺を得意とする。腕に自信はあるが、圧倒的パワーを有する人狼の時と違い、さすがに一人で訓練された兵士たちを相手に立ち回ることはできない。鼻もかない。屠牙は城内外を歩き回り、残った右目と耳を使ってターゲットを探し、ようやくそれを捕捉した。しかし、朱震は軍中にあり、相変わらず厄介やっかいな奴らが護衛に付いている。自分の異形いぎょうの力を引き出してくれる月光の差す夜を待って襲撃を敢行しても、また失敗するだろう。本命の臭いも近くなっている。そちらを優先するか?

 屠牙の真のターゲットは陳蕃ちんばんの遺児・陳逸ちんいつだ。洛陽の牢獄・北寺獄ほくじごくに屠牙がいた理由――――それは、その獣の嗅覚で行方をくらませた陳逸の追跡を行う準備だった。

 陳逸は張譲ちょうじょう邸で曹操そうそうに救出された後、朱震の助けで州の甘陵かんりょう国に隠れ住んだ。しかし、それは間もなく露見して、朱震は捕らわれたものの、陳逸は何とか逃げのびた。屠牙は宦官・王甫おうほの密命を受けて、北寺獄で朱震の体に残る陳逸の臭いを嗅ぎ取り、記憶したその臭いを辿って陳逸の捜索に出た。

 生きている限り獲物の臭いは天地の間を漂っている。極々ごくごく微量の獲物の臭い。

 それは獲物が隠れている場所が遠いことを示していた。かすかな臭いは北の幽州へと続いていて、遼西まで辿ってきたところで、偶然、別の臭い――――逃した獲物の臭いを嗅ぎつけたのだ。

 逃した獲物――――北寺獄に繋がれた朱震は宦官の執拗しつような尋問を受けたが何もしゃべらず、屠牙が陳逸の臭いを記憶した後は用済みと見なされて、始末される手筈てはずだった。ところが、その直前、曹操が立案した救出作戦に身を投じた劉備によって助け出されて、都の夜の騒乱に乗じて行方ゆくえをくらませたのである。

「捕虜一人と荷車にぐるま一台の食料を交換するっちゅう話じゃが、太守のご家族となると、こんなもんでは済むまい」

 老兵士が運搬してきた荷車を見ながら呟いた。

「対価を払わせるってやつか。考えることはいっしょだな……」

 濁流派が生け捕りを目指しているのは、張倹ちょうけん袁忠えんちゅうなどの大物清流人と陳蕃など党錮とうこ事件で粛正された清流派官僚の子息である。もちろん、それは五仙珠や四神器の情報を得るためだ。その情報と引き換えに釈放を約束するが、密かに釈放後の暗殺が奨励しょうれいされた。

 大物清流人の一人、難を逃れた陳逸は今、遼東りょうとう郡に隠れ住んでいた。

 遼東半島の先端の、のどかな漁村。中原ちゅうげんの騒乱、鮮卑の侵攻とは縁がない平穏な地だ。幽州東部はその地理的特性から、ほとんど中央から隔離された北の辺境である。遼西郡の東側に隣接するのが遼東郡である。ちょうど遼水りょうすいが二つの郡の境界となって流れている。遼水は鮮卑の侵入を防ぐ自然の防壁の役目をした。それに加え、遼東へ至る道は冬は豪雪でふさがる。近年は鮮卑の侵攻により、街道が隔絶されることも多く、中原から逃れてきた人々にとってはかえって好都合であった。

 遼東郡が逃亡者にとって住み易い理由は他にもある。海路の存在だ。

 遼東半島は海路で青州の山東さんとう半島とつながっている。両半島の間に広がる渤海ぼっかい海峡には小さな島々が点在していて、それらを結ぶルートを航行すれば、陸路を使うより何倍も速く物資を運ぶことができるのである。たいへん便利なので、運漕うんそう(運送業者)の船や商船が定期的に往来した。行きう運漕船の中には訳ありの人物を運ぶ裏稼業のものもあって、両地には逃避行を幇助ほうじょする地下組織が存在した。

 陳逸が遼東半島に隠れ住んでいるのも、まさにそこに大きな理由があった。危険を感じたら、彼らの船を利用して青州や徐州に逃れることができる。現地の人間しか知らない海の抜け道だった。

「もし、あんたの家族が捕虜にされちまったら、あんたは何を差し出す?」

「そうじゃなぁ……わしには嫁入り前の娘がおるが、娘のためなら、この命差し出しても構わんよ」

「正気かい?」

「正気も正気よ。愛する家族を助けるためには何でもするのが、人っちゅうもんよ。お前さんだって同じじゃろう?」

「あいにく家族はいないんでね……」

 予期せぬ答えに驚いたが、お陰でいいアイデアが浮かんで、屠牙はほくそ笑んだ。


 柳城の北、白狼山はくろうざんの麓に鮮卑の本隊が屯留していた。それを率いる男は闕機けっきといった。東部鮮卑の大人たいじんだ。大人とは鮮卑の王号で、幾人か存在した。闕機はその一人である。

 首領・檀石槐だんせきかいのもとで最盛を迎えた鮮卑は各大人に漢への略奪侵攻を奨励した。

 強大になったのはいいが、人口が急激に増加し、今までのような狩猟と牧畜だけでは満足な食糧をまかなえなくなった。冬には牧草も枯れてしまう。農耕民族でない彼らが生きる道は他国のものを奪うことにある。だが、大規模な略奪を行うには戦力増強が必須で、そのために武器も軍馬も必要になってくる。それも他国から奪えばいい。

 闕機は略奪に成功した馬群を一部の兵に運ばせ、分隊を派遣してさらに食糧や財宝などの略奪を企んで近隣の諸県を襲った。趙苞の母妻子はその過程で捕えられたのだった。老婆ろうばと女と子供。それが拘束した馬車の中にいた。身なりが粗末であったので、鮮卑族はそれがよもや太守の家族だとは思いもしなかった。単なる捕虜として連れ帰り、奴隷どれいとして働かせるつもりだった。

 このまま気付かれなければ、少なくとも、悲劇の代償になることはなかっただろう。しかし、運命を暗転させる男は一歩一歩近付いてくる。

 鮮卑軍の偵察隊がぶらりと近付いてきた屠牙を捕えたのは、まだ夜が明けきらぬ暁闇ぎょうあんの頃であった。


 一夜が明けて趙苞は急いで軍を進めた。国をおかす鮮卑軍は殲滅せんめつしなければならない。母のこともそうだが、捕虜となった民を一人でも多く救出しなければならない。

 私情が心を乱してしまっては、軍の統率に悪影響が出る。それはいらぬ犠牲ぎせい者を増やす。今は私情は捨て置かねばならない。趙苞は表情も変えず、ただの公人となって軍を率いた。

 劉備たちは朱震を守りながら、趙苞の軍に従軍した。今は軍中にいる方が安全なのは間違いない。人狼がこのまま引き下がるとは思えなかったし、またいつ何時襲ってくるか分からない。官軍は二日後の夕刻に長城付近で鮮卑軍と出くわした。大軍であった。捕虜を合わせると地を埋めるような数である。郡内の各地に分かれて略奪に入った鮮卑軍が次々と集結していたのだ。

 それを追って、郡内の官軍も太守の軍に合流してきた。公孫瓉こうそんさんの小隊も引き揚げる鮮卑軍を追って合流を果たし、漢軍の兵力も一万余にふくれ上がった。鮮卑側も臨戦態勢を整え、自慢の騎馬隊が原野にずらりと並ぶ。決戦の機運が高まる。

「派手に暴れてやる」

 臧旻を敗退させ、侵略を繰り返す敵。目の前にその鮮卑がいるのなら、意趣いしゅ返しだ。その上で趙苞の家族を救い出し、鮮卑の大将を捕らえて、直接情報を聞き出す。

 臧旻が囚われているという噂が本当なら、鮮卑の大将と身柄を交換させる――――無謀に等しいような難題も、孫堅はお構いなしだ。今の孫堅は人狼のことなど忘れて、この大戦に勝利することしか頭にない。

 だが、いざ決戦の火ぶたが切って落とされるその前になって、妙なことが起こった。敵の騎馬隊の間から牛車ぎっしゃが押し出されてきたのである。何やら荷台を引いているようだ。それはゆっくりと鮮卑軍の前に進み、止まった。そして、牛車を引いていた男が凶悪な一言を叫ぶ。

「よく聞け、これには遼西太守・趙苞の母と妻子が乗っている!」

「何?」

 趙苞の、漢軍の将兵たちの視線が一斉に牛車に繋がれた荷台へと注がれる。

威豪いごう、威豪!」

 荷台から老いた老婆が顔を覗かせて、息子の名を叫んだ。妻子の姿もあった。

「母上!」

 趙苞は家族の無事を確認して安堵あんどしたのも束の間、身内が人質と化してしまった状況に激しく動揺した。

「趙苞よ。母妻子を殺されたくなかったら、朱震を引き渡し、兵を退け!」

 趙苞に要求を突き付ける男。人間の姿だったが、その男こそ人狼の正体、屠牙だった。屠牙は人間の悪知恵を働かせ、柳城の軍中で耳にした鮮卑の捕虜となった趙苞の家族を利用しようと考えた。軍中を抜け出した屠牙はわざと鮮卑に接近して拘束された。そして、有用な情報を持ってきたと闕機大人と交渉を行った。

 捕虜の中に遼西太守の家族がいる。それを利用すれば、追撃してくる漢軍を戦わずして退かせることができる。そうならなくても、太守と漢軍に大きな動揺を与えられる。戦って破るのは容易たやすい。鮮卑側は漢軍からの勝利を得、屠牙は抵抗を受けずに獲物を受け取れる――――。 

 両者の利害が一致した。

「母上!」

 私情を捨てるはずではなかったのか。公人となったのではなかったのか。実際に母と妻子を目の前にして、固かったはずの決意がいとも容易く揺れ始める。

 狼狽ろうばいする趙苞は身も心も身動きが取れず、ただ無情の天に対して、雄叫おたけびを上げるほかなかった。怒りと恨み、嘆きと悲しみが入り混じった悲痛な声。それはその場にいた全員の心に伝染した。

「人の心を持たぬ卑怯者ひきょうものめ、人の母をしちとするのか!」

 普段おとなしい劉備が卑劣極まりない敵の行為に憤慨ふんがいして、歯を食いしばった。

「おのれ、外道げどうめ。この私が真っ先に斬り捨ててやる!」

 孫堅も同様にいきどおる。当然だが、二人はあの男が百鬼の人狼だとは知らない。

「……うっ、く」

 大きな葛藤かっとうが胸をき乱し、罪悪感が胸を刺す。胸の痛みが言葉とならずにれ出る。自分の家族の身の安全のために朱震を引き渡すなどできない。私情を殺して討伐を強行すべきであろうが、その決心は家族を殺すことになる。原野に寒風が吹きすさぶ。

 騒然とする場。静かに趙苞に歩み寄り、解決策を提案したのは朱震自身だった。

「迷わず、孝の道を行きなされ。遠慮せず、私を差し出しせばよい」

 趙苞の心の叫びを聞いて、爽やかに言った。

「それはできません。忠義の道にそむきます」

 しかし、趙苞は悲痛な声で、温かな朱震の申し出を断った。朱震を渡したとしても、家族が無事に解放されるかどうかも分からない。

 孝か忠か、不孝か不忠か――――。究極の選択が趙苞の胸に突き付けられた。


 一時いっときの時間すら永遠に感じられた。永遠の時の中で、趙苞は気持ちを整理し、心を落ちつけ、気を強く保ち、そして、叫んだ。

「母上、母上、お許しください! これからも母上に孝行を尽くそうと考えていましたのに、このようなことになり、無念の極みです!」

 その言葉は人質となった趙苞の母と妻子だけでなく、捕虜となった人々、そして、漢軍の兵士たちにも響いた。それは万民に示す忠孝の道だ。

「昔は母の子でありましたが、今は王の臣、私恩のために忠節をこぼつことはできません! しかしながら、忠節のために母を殺せば、不孝の大罪をつぐないようがなく、その苦しみに生きてはいけないでしょう! こうなれば、ただひたすら死あるのみです!」 

 趙苞が出した答えは討伐強行、だった。母と妻子を助けられないのなら、自分も死を選べばよい。忠義を示し、孝にじゅんじる――――。

 太守の壮絶な決意を聞いた兵士たちが一様に涙を流していた。それぞれに家族があるのだ。人である彼らはみな、太守の苦しみは痛いほど理解できる。

 分からないのは、獣心の屠牙であって、およそしがたい趙苞の言葉に動揺した。

「ふざけるな、本当に殺すぞ!」

 屠牙が趙苞の母の喉元のどもとに剣を突き付けた。だが、それにもかかわらず、息子が自分たちを見殺しにすると宣言したにもかかわらず、

「威豪よ、それでよい。人には各々命運があります。我等を顧みて忠義を欠くことなどあってはなりません。昔、王陵おうりょうの母は漢使に対して剣に伏し、ってそのこころざしを固くしました。お前もそれに努めなさい。生きて、それに努めなさい」

 息子の志操を励ますと、母は自ら突き付けられた剣先に喉元を押し当てて、果てた。趙苞、劉備、孫堅、公孫瓚、それを目撃した全ての将兵の心に衝撃が走る。

「な、に……?」

 屠牙は人質の行為に茫然ぼうぜんとした。

 昔、項羽こうう劉邦りゅうほうの戦いで、劉邦陣営あった王陵の母が項羽の人質となったことがあった。

 王陵の母は劉邦側から送られてきた使者に対して、

「――――つつしんで漢王(劉邦)に仕えよ。漢王は長者なり。老いたる私のことを以って、二心を抱くことなかれ」

 息子にてたそんな遺言ゆいごんを遺して、自殺したという。人質に取られた自分のことで息子の決意が揺らがないように、自ら命を断ったのである。趙苞の母もそれをしたのだ。所詮しょせん、野獣には理解できない人倫の道。屠牙は手段を失って混乱した。

 母の最期を目撃した趙苞は心を切り裂かれながらも、態度はなおも毅然として、掲げた剣を振り下ろした。突撃の合図。太鼓が激しく鳴り響き、悲劇をかてにした漢軍が怒りの突撃を敢行した。将兵全員が自分の家族を失った思いで心に復讐ふくしゅうの炎を燃やす。その勢いは鮮卑軍を怒涛どとうの如く呑み込んだ。

「腐れ外道め!」

 茫然と立ち尽くす屠牙に真っ先に斬り付けたのは、有言実行、孫堅の古錠刀こていとうだった。

「ぐあっ!」

 その怒りの一閃を浴びて倒れた男の顔が一瞬、けもののようになった。口が突き出し、野獣のような牙を見せる。

「キサマら……!」

「お前は!」

 孫堅も劉備もようやくそれが人狼だと気が付いた。屠牙は何か言おうとしたが、母のあだを討つべく猛進してきた趙苞のやいばが有無を言わせなかった。

 すでに屠牙には野獣の能力を発揮できる力は残っていなかった。屠牙の胸をつらぬく剣を趙苞は無言で引き抜いた。その目は血走り、嗚咽おえつこらえるかのように固く口元を結び、全身はかすかに震えていた。

 天命というには余りにも酷い。最愛の母の死により絶望と憤怒ふんぬまとった趙苞は、死を求めるように敵中に突貫して、斬って斬って斬りまくった。

 真っ赤な返り血を全身に浴びて、その血が涙のように頬を伝っていった。


「そうか。あの狼、死んだか」

 曹操が幽州での出来事を聞いたのは兗州えんしゅう東郡に属する頓丘とんきゅう県の屋敷でのことだった。県令用に用意された立派な屋敷であるが、洛陽の曹家の屋敷よりは一回り小さい。まだ日中であるのに、曹操は政務もらずに、その屋敷でのんびりとくつろいでいた。

 北部尉時代の苛烈かれつな風評もあり、曹操は戦々恐々、うやうやしく部下に迎えられた。

 汚職に熱心な県令や職務怠慢たいまんな官吏など珍しくない。峻厳しゅんげんな上司を敬遠して、部下がわざわざ屋敷を訪ねてくることもない。

 曹操は誰にも邪魔されることなく物思いにふけっていたが、そういう日々が続いて、少々暇を持て余していた。

 黄河の対岸、ここからそう遠くないところにある濮陽ぼくようの県長にはかつて友人の袁紹えんしょうが就いていた。まだ在任なら、一駆ひとかけして冷やかしに行くところだが、母が亡くなったそうで、に服すためにすでに官を去っていた。

 地方官僚としての日々は中央の監視の目がない分、気ままではあったが、刺激もなく退屈でもあった。都の時のように気軽に話せる相手にも困っていた曹操は、また面白そうな話のネタを持ってやってきた劉備を歓待した。不思議なことだが、劉備はなぜかそういう時に現れてくれる。

「それで、風侯ふうこうはどうした?」

 朱震のことである。

「自ら東へたれました」

「それがいいだろう。できるだけ遠くに行った方がいい。それこそ、漢の果てまでな……。世が乱れ切っている。漢が重い内憂を抱えているのを知っているから、鮮卑が付け込んでくるし、冀州きしゅうでは変な宗教が流行っている……」

鉅鹿きょろく郡を通ってきましたが、人がどんどん集まっているようでした」

「今年の夏は日照り続きで、いなごの被害もあった。『易経えききょう』に陽、徳なければすなわちひでりし、陰、陽におごればすなわちまた旱す――――とある」

 熹平きへい六(一七七)年、雨が降らない日々が数十日も続いたことを憂慮した朝廷は五官中郎将の堂谿典どうけいてん嵩山すうざんに派遣して、雨乞あまごいの儀式をさせた。

 堂谿典、あざな伯并はくへい潁川えいせん鄢陵えんりょうの人で、曹操の祖父・曹騰そうとうによって推薦された人物の一人である。学問に通じた大学者で、曹操が洛陽北部尉であった熹平四(一七五)年には、蔡邕さいようらと石経せきけい建立こんりゅうの作業に従事している。

「盧先生は『易経』を教えてくれなかったのか?」

 どこかで聞いたような台詞せりふ。曹操の質問に劉備は渋い顔をして、記憶にないことを無理に思い起こそうとする。盧植ろしょくの講義にあったかもしれないが、大抵上の空だった劉備の頭にそんな知識は残っていない。

 そんな劉備を笑って、曹操が要約してやった。

「簡単に言えば、政治の腐敗が日照りの原因ということだな」

『易経』は五経の一つで、万物の変化と人間世界との関係を説いた経典きょうてんである。

 皇帝のことを天子というように、帝は天の象徴だ。天は陽である。それに対し、民草という言葉があるように、民は大地のようなものである。地は陰である。

 天である皇帝の仁恩が慈雨じうとなって民草に降り注がなければ、大地は干上がって、草木は枯れてしまう。

「くだらないやからが政治を聾断ろうだんするのは人災だ。その人災に加え、天災が民をさらに疲弊させている。もはや宗教しか救いを求めるものがないのだ」

 それは政治に期待しても無駄だという民衆のあきらめムードが世に広がっている証拠だった。

 政治が乱れた時に宗教がスポットを浴びる。その宗教が本当に人々を苦しみから解き放とうとするだけならよい。心の救済を目的とした教えならば何ら問題はない。

 しかし、時々それを武力蜂起へと導く者が現れる。そうでなくても、規模が大きくなれば、自分たちが強大な力を持ったと勘違いし、何も恐れるものはないという集団心理が働く。それは更なるエスカレーションを招き、やがて、政府打倒を目標に掲げて、そのためには暴力も人殺しも容認されるという非平和的手法さえしとするようになる。その狂気が暴発したなら、もう誰にも止められない。暴力の津波となって、国中に波及していく。

 政治が乱れる。民の生活が苦しくなる。各地で反乱が起きる。異民族の侵攻にさらされる――――。

 これが国が倒れる前に起きる負のプロセスであり、鮮卑族の連年の侵攻や新興宗教の広がりは滅びの前兆現象ととらえる者もいた。

「――――妖言ようげん、衆を惑わす」

 司徒の楊賜ようしがいち早くその危険性を訴えた。

太平道たいへいどう〟という宗教集団があやしい言葉で大衆を惑わせているので、その一党を解体するよう上奏したのだが、大袈裟おおげさすぎるとして却下された。

 楊賜、あざな伯献はくけん弘農こうのう華陰かいんの出身で、‶関西かんせいの孔子〟と称えられた名儒・楊震ようしんの孫である。楊氏は祖父の楊震、父の楊秉ようへい、楊賜と三公を務め、賜の子のひょうも後に三公に昇るので、実に四代に渡って三公を輩出した西の名門として、東の袁氏と並ぶ名声を誇っていた。

「……太平道というらしい。流行はやり出したのは、ちょうど党錮事件の後からだ。どうやらこの兗州でも人気なようだ」

 曹操は頓丘令になってからも、情報収集には余念がなかった。県内の状況を把握するために自ら巡察して回り、その耳目で確かな情報を得ていた。

頓丘でも、法令に従わない不埒ふらちな豪族たちがのさばっていたが、権勢ある豪族に対しても容赦しない態度に県民たちは曹操の県令就任を熱烈歓迎した。

 しかし、朝廷という中央組織に対しては、すでに失望の色を強めているらしいことは肌で感じることができた。恐らくそれは全国的にも同様だろう。

「清流派官僚に対する民衆の期待は大きかった。党錮事件は民心が急速に離れていく決定的な要因となったと言って間違いないだろう」

「いつか党人の方々が復帰して、民心が戻る日が来るでしょうか?」

「来なければ、国が倒れる。国というものは民が土台となって作られている。土台がばらばらになってしまったら、その上にあるものが崩れるのは当然のことだ」

 劉備は曹操との会話から現在の世の流れやその流れの行く末を学ぶことができた。

「……玄徳、特に急いでいないなら、数日この屋敷に留まるといい。オレも休暇を満喫中でな、その狂人の予言とやらをもっと聞きたい」

 曹操は頓丘県に赴任してまだ一年も経たないうちに議郎ぎろうへの転属が決まった。

 議郎は皇帝からの下問げもんに答えたり、諸問題について議論し、様々な建言を行ったりする文官職である。中央政府の官職なので、また都に戻らなければならない。任命を受けた時点で、もう県令の職務を果たす必要はなくなる。ただちに出立しゅったつするべきなのだが、そんなことはお構いなく、後任の県令の着任が遅れているのをいいことに屋敷に留まり続けている。

 せっかくまともな県令が就任したのに、それが奪われる形になってしまって、頓丘の県民たちはまたも朝廷の恣意しいに失望するのである。

 それにしても、議郎とはその職業柄、儒学のほか様々な知識をようする者が就く官職であり、当然ながら、知見豊富な年配者が多く登用される。曹操のような若輩者じゃくはいものが用いられるのは異例だ。蔡邕か誰かが推薦したのであろうが、こうも早く中央に戻ることになろうとは曹操自身も思ってもいなかった。

 あの濁々とした政争の中にまた戻るのかと思うと、すぐには出立する気が起きないのも無理はない。

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