其之三 悲劇を越えて
漢に内属する
趙苞は柳城に逃れてきた
鮮卑討伐を前にして趙苞は気丈に振る舞っていた。遼西太守として赴任してからは家族と離れていたのだが、環境を
「この失態、申し開きもできません。いかなる処分も甘んじてお受けいたします」
しかし、趙苞は
「我が妻子のため護衛を付けてくれた州府には感謝している。私の判断がいけなかった」
「害されたわけではありません。まだご家族を取り戻す機会は残っています。どうか我らを討伐軍の一角にお加えください。この孫文台、太守のために武を振るって敵を討ち、ご家族を救助してみせます」
「それは頼もしい」
趙苞は孫堅の力強い言葉を唯一の希望として、精一杯の一言で応えた。
孫堅の噂は聞き知っている。孫堅が呉越の反乱討伐に活躍していた頃、趙苞は
しかし、趙苞の表情は言葉とは裏腹に暗く沈んだままだ。孫堅も趙苞の心痛を察して、
趙苞からはまさに
孫堅は程普を連れて趙苞の幕舎を出、軍中の様子を見て回った。
「これだけの大軍ならば、必ず勝利できよう。必要なのは勝利だ。勝利して、太守のご家族を取り戻せば、お前の心も晴れるだろう」
「はい。私も力の限り戦います」
任務も完遂できず、仲間を失った程普は孫堅の言葉に救われる思いだった。
太守家族が鮮卑に
「太守の家族が鮮卑に
「ああ、そのようじゃ。おいたわしい」
城からの物資を運搬してきたその老兵士は見ず知らずの人間と会話をかわしていた。
「それは災難だったな。だが、殺されなかった分だけマシってもんだろう」
「いやいや、
「それにしても鮮卑は何だって捕虜なんか取るんだ? エモノの臭いを
「獲物?」
「いや、何でもねェ……」
朱震を追ってきた人狼の男もまた柳城に辿り着いていた。義勇兵を
屠牙は異能の盗賊集団・
屠牙の真のターゲットは
陳逸は
生きている限り獲物の臭いは天地の間を漂っている。
それは獲物が隠れている場所が遠いことを示していた。
逃した獲物――――北寺獄に繋がれた朱震は宦官の
「捕虜一人と
老兵士が運搬してきた荷車を見ながら呟いた。
「対価を払わせるってやつか。考えることはいっしょだな……」
濁流派が生け捕りを目指しているのは、
大物清流人の一人、難を逃れた陳逸は今、
遼東半島の先端の、のどかな漁村。
遼東郡が逃亡者にとって住み易い理由は他にもある。海路の存在だ。
遼東半島は海路で青州の
陳逸が遼東半島に隠れ住んでいるのも、まさにそこに大きな理由があった。危険を感じたら、彼らの船を利用して青州や徐州に逃れることができる。現地の人間しか知らない海の抜け道だった。
「もし、あんたの家族が捕虜にされちまったら、あんたは何を差し出す?」
「そうじゃなぁ……
「正気かい?」
「正気も正気よ。愛する家族を助けるためには何でもするのが、人っちゅうもんよ。お前さんだって同じじゃろう?」
「あいにく家族はいないんでね……」
予期せぬ答えに驚いたが、お陰でいいアイデアが浮かんで、屠牙はほくそ笑んだ。
柳城の北、
首領・
強大になったのはいいが、人口が急激に増加し、今までのような狩猟と牧畜だけでは満足な食糧を
闕機は略奪に成功した馬群を一部の兵に運ばせ、分隊を派遣してさらに食糧や財宝などの略奪を企んで近隣の諸県を襲った。趙苞の母妻子はその過程で捕えられたのだった。
このまま気付かれなければ、少なくとも、悲劇の代償になることはなかっただろう。しかし、運命を暗転させる男は一歩一歩近付いてくる。
鮮卑軍の偵察隊がぶらりと近付いてきた屠牙を捕えたのは、まだ夜が明けきらぬ
一夜が明けて趙苞は急いで軍を進めた。国を
私情が心を乱してしまっては、軍の統率に悪影響が出る。それはいらぬ
劉備たちは朱震を守りながら、趙苞の軍に従軍した。今は軍中にいる方が安全なのは間違いない。人狼がこのまま引き下がるとは思えなかったし、またいつ何時襲ってくるか分からない。官軍は二日後の夕刻に長城付近で鮮卑軍と出くわした。大軍であった。捕虜を合わせると地を埋めるような数である。郡内の各地に分かれて略奪に入った鮮卑軍が次々と集結していたのだ。
それを追って、郡内の官軍も太守の軍に合流してきた。
「派手に暴れてやる」
臧旻を敗退させ、侵略を繰り返す敵。目の前にその鮮卑がいるのなら、
臧旻が囚われているという噂が本当なら、鮮卑の大将と身柄を交換させる――――無謀に等しいような難題も、孫堅はお構いなしだ。今の孫堅は人狼のことなど忘れて、この大戦に勝利することしか頭にない。
だが、いざ決戦の火ぶたが切って落とされるその前になって、妙なことが起こった。敵の騎馬隊の間から
「よく聞け、これには遼西太守・趙苞の母と妻子が乗っている!」
「何?」
趙苞の、漢軍の将兵たちの視線が一斉に牛車に繋がれた荷台へと注がれる。
「
荷台から老いた老婆が顔を覗かせて、息子の名を叫んだ。妻子の姿もあった。
「母上!」
趙苞は家族の無事を確認して
「趙苞よ。母妻子を殺されたくなかったら、朱震を引き渡し、兵を退け!」
趙苞に要求を突き付ける男。人間の姿だったが、その男こそ人狼の正体、屠牙だった。屠牙は人間の悪知恵を働かせ、柳城の軍中で耳にした鮮卑の捕虜となった趙苞の家族を利用しようと考えた。軍中を抜け出した屠牙はわざと鮮卑に接近して拘束された。そして、有用な情報を持ってきたと闕機大人と交渉を行った。
捕虜の中に遼西太守の家族がいる。それを利用すれば、追撃してくる漢軍を戦わずして退かせることができる。そうならなくても、太守と漢軍に大きな動揺を与えられる。戦って破るのは
両者の利害が一致した。
「母上!」
私情を捨てるはずではなかったのか。公人となったのではなかったのか。実際に母と妻子を目の前にして、固かったはずの決意がいとも容易く揺れ始める。
「人の心を持たぬ
普段おとなしい劉備が卑劣極まりない敵の行為に
「おのれ、
孫堅も同様に
「……うっ、く」
大きな
騒然とする場。静かに趙苞に歩み寄り、解決策を提案したのは朱震自身だった。
「迷わず、孝の道を行きなされ。遠慮せず、私を差し出しせばよい」
趙苞の心の叫びを聞いて、爽やかに言った。
「それはできません。忠義の道に
しかし、趙苞は悲痛な声で、温かな朱震の申し出を断った。朱震を渡したとしても、家族が無事に解放されるかどうかも分からない。
孝か忠か、不孝か不忠か――――。究極の選択が趙苞の胸に突き付けられた。
「母上、母上、お許しください! これからも母上に孝行を尽くそうと考えていましたのに、このようなことになり、無念の極みです!」
その言葉は人質となった趙苞の母と妻子だけでなく、捕虜となった人々、そして、漢軍の兵士たちにも響いた。それは万民に示す忠孝の道だ。
「昔は母の子でありましたが、今は王の臣、私恩のために忠節を
趙苞が出した答えは討伐強行、だった。母と妻子を助けられないのなら、自分も死を選べばよい。忠義を示し、孝に
太守の壮絶な決意を聞いた兵士たちが一様に涙を流していた。それぞれに家族があるのだ。人である彼らは
分からないのは、獣心の屠牙であって、およそ
「ふざけるな、本当に殺すぞ!」
屠牙が趙苞の母の
「威豪よ、それでよい。人には各々命運があります。我等を顧みて忠義を欠くことなどあってはなりません。昔、
息子の志操を励ますと、母は自ら突き付けられた剣先に喉元を押し当てて、果てた。趙苞、劉備、孫堅、公孫瓚、それを目撃した全ての将兵の心に衝撃が走る。
「な、に……?」
屠牙は人質の行為に
昔、
王陵の母は劉邦側から送られてきた使者に対して、
「――――
息子に
母の最期を目撃した趙苞は心を切り裂かれながらも、態度はなおも毅然として、掲げた剣を振り下ろした。突撃の合図。太鼓が激しく鳴り響き、悲劇を
「腐れ外道め!」
茫然と立ち尽くす屠牙に真っ先に斬り付けたのは、有言実行、孫堅の
「ぐあっ!」
その怒りの一閃を浴びて倒れた男の顔が一瞬、
「キサマら……!」
「お前は!」
孫堅も劉備もようやくそれが人狼だと気が付いた。屠牙は何か言おうとしたが、母の
すでに屠牙には野獣の能力を発揮できる力は残っていなかった。屠牙の胸を
天命というには余りにも酷い。最愛の母の死により絶望と
真っ赤な返り血を全身に浴びて、その血が涙のように頬を伝っていった。
「そうか。あの狼、死んだか」
曹操が幽州での出来事を聞いたのは
北部尉時代の
汚職に熱心な県令や職務
曹操は誰にも邪魔されることなく物思いにふけっていたが、そういう日々が続いて、少々暇を持て余していた。
黄河の対岸、ここからそう遠くないところにある
地方官僚としての日々は中央の監視の目がない分、気ままではあったが、刺激もなく退屈でもあった。都の時のように気軽に話せる相手にも困っていた曹操は、また面白そうな話のネタを持ってやってきた劉備を歓待した。不思議なことだが、劉備はなぜかそういう時に現れてくれる。
「それで、
朱震のことである。
「自ら東へ
「それがいいだろう。できるだけ遠くに行った方がいい。それこそ、漢の果てまでな……。世が乱れ切っている。漢が重い内憂を抱えているのを知っているから、鮮卑が付け込んでくるし、
「
「今年の夏は日照り続きで、
堂谿典、
「盧先生は『易経』を教えてくれなかったのか?」
どこかで聞いたような
そんな劉備を笑って、曹操が要約してやった。
「簡単に言えば、政治の腐敗が日照りの原因ということだな」
『易経』は五経の一つで、万物の変化と人間世界との関係を説いた
皇帝のことを天子というように、帝は天の象徴だ。天は陽である。それに対し、民草という言葉があるように、民は大地のようなものである。地は陰である。
天である皇帝の仁恩が
「くだらない
それは政治に期待しても無駄だという民衆の
政治が乱れた時に宗教がスポットを浴びる。その宗教が本当に人々を苦しみから解き放とうとするだけならよい。心の救済を目的とした教えならば何ら問題はない。
しかし、時々それを武力蜂起へと導く者が現れる。そうでなくても、規模が大きくなれば、自分たちが強大な力を持ったと勘違いし、何も恐れるものはないという集団心理が働く。それは更なるエスカレーションを招き、やがて、政府打倒を目標に掲げて、そのためには暴力も人殺しも容認されるという非平和的手法さえ
政治が乱れる。民の生活が苦しくなる。各地で反乱が起きる。異民族の侵攻に
これが国が倒れる前に起きる負のプロセスであり、鮮卑族の連年の侵攻や新興宗教の広がりは滅びの前兆現象と
「――――
司徒の
‶
楊賜、
「……太平道というらしい。
曹操は頓丘令になってからも、情報収集には余念がなかった。県内の状況を把握するために自ら巡察して回り、その耳目で確かな情報を得ていた。
頓丘でも、法令に従わない
しかし、朝廷という中央組織に対しては、すでに失望の色を強めているらしいことは肌で感じることができた。恐らくそれは全国的にも同様だろう。
「清流派官僚に対する民衆の期待は大きかった。党錮事件は民心が急速に離れていく決定的な要因となったと言って間違いないだろう」
「いつか党人の方々が復帰して、民心が戻る日が来るでしょうか?」
「来なければ、国が倒れる。国というものは民が土台となって作られている。土台がばらばらになってしまったら、その上にあるものが崩れるのは当然のことだ」
劉備は曹操との会話から現在の世の流れやその流れの行く末を学ぶことができた。
「……玄徳、特に急いでいないなら、数日この屋敷に留まるといい。オレも休暇を満喫中でな、その狂人の予言とやらをもっと聞きたい」
曹操は頓丘県に赴任してまだ一年も経たないうちに
議郎は皇帝からの
せっかくまともな県令が就任したのに、それが奪われる形になってしまって、頓丘の県民たちはまたも朝廷の
それにしても、議郎とはその職業柄、儒学のほか様々な知識を
あの濁々とした政争の中にまた戻るのかと思うと、すぐには出立する気が起きないのも無理はない。
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