其之四 讖緯推考
北方、幽州の
二月には日食が確認され、三月には地震があった。どちらも災異と解釈された。
郎顗の日食についての解釈は、
「――――日食が頻繁に起こるのは陰気が陽気を覆っているからで、その真意は奸臣(陰)が君主(陽)を覆い
というもので、皇帝の近くに邪悪な人間が
また、天文陰陽の術に優れ、
「――――天子の天に仕えること不孝なれば、日食し、星闘う」
と述べている。そして、天刑(去勢)の者、つまり、宦官を皇帝が非常識なほど
地動くものは陰盛んにして陽を侵し、臣下の制を越えるの致すところ――――
三月になって天下に
「あちこちで不吉なことばかり起こっているというのに、まるでそれを喜んでいるようですね。こんな時に大赦令を乱発するようでは、国の乱れが収まるはずがありません」
皮肉のように言ったのは、曹操である。法律を厳格に用いて風紀を正すのが曹操という男の方針である。ところが、真の悪党もこの大赦のせいで放免されてしまう。
「天子様が好んでおられる」
「党人の方々も許されたのでしょう? どうしてそんなに暗い顔をされるのですか?」
無知な弟子が師に尋ねた。それには曹操が答えた。
「党人は別なのだ、
「あれこれ虚偽不実のことを耳打ちする連中を追求できればよいのだがな」
蔡邕が言った対象は、もちろん宦官のことである。
濁流派は清流派人士の暗殺を裏でやっていた。大赦が頻繁に発令されることを念頭にしての行動である。清流派官僚は濁流派の連中を
かくして、現皇帝が即位してからは毎年のように大赦があったが、毎度党人だけは許されなかった。もちろん、そこには濁流派の意向がある。大赦令は完全に濁流派に悪用されていた。蔡邕が続けた。
「先日、災異の件に付けて小人の
「たとえ届いたとしても、宦者どもの言いなりになっている今の
「随分はっきりと言うのじゃな」
盧植が苦笑いした。曹操は
「おもねったところで民の苦しみは救えませんよ。そもそもそこが諸悪の根源ですから。前の帝より悪いですね」
曹操は
そのために全国の情報を集積して、濃縮・加工する必要があった。
曹操が生まれた当時の皇帝は
その桓帝の擁立には曹操の祖父・
皇帝
‶桓〟の字意には‶敵に勝ち、遠方まで服す〟という意味が含まれている。しかし、桓帝の時代には内乱こそあったが、外征はなかった。字意に当てはまらない。
昔、帝が
「――――陛下は漢の
爰延はぽつりと答えた。皇帝を前にして、あなたは中等、まあまあですと言ったのだ。その理由を皇帝が聞くと、
「――――
やはり、淡々と答えた。
尚書令は各文書の発行をつかさどるポストである。閣議で決まったことがここから全国へと広がっていく。まさに実務の中心と言える部署だった。そこに清流派の陳蕃を任命した時は政治が正しく行われ、宦官たちが政治に口を出すようになって政治は乱れた。だから、あなたは善行が何かを分かっているし、非行が何かを知っている。
昔、春秋時代に
ところが、
前漢の歴史書である『漢書』はこの故事を取り上げて、共に善を為すべく、共に悪を為すべく、之を中人という――――と記している。
清流派の面々は、‶桓〟の字が選ばれたのには爰延が評した中人という評価が大いに含まれていると感じていた。桓帝の時代は宦官一族が大いに力を振るった時代でもあったのだ。
その桓帝であったが、子がなかった。崩御の後、新たな皇帝を誰にするか議論が行われた。桓帝の皇后の
そのままであれば、良い皇帝に育ったかもしれない。しかし、間もなく竇武と陳蕃が死に、桓帝時代と同じように取り巻きが
結果、中人と言われた桓帝以下の皇帝に育ってしまった。そして、後に「霊帝」という諡号を与えられることになる。‶霊〟には‶すぐれる〟という意味があるが、宦官たちの傀儡として、いるのかいないのか分からない亡霊のような存在でもあったわけだ。
「そっくり
「
「まさか」
曹操が言って笑った。蔡邕ともあろう賢人が自分を誤解している。それがおかしかった。
伊霍とは、
商の元老であった伊尹は王の
もう一人の霍光は、
彼は後継ぎのなかった昭帝の後に
その両名の名を持ち出すとは、自分が何を仕出かすか分からない大胆不敵な男だという人物評が出回っているのだろう。伊尹のように今の皇帝を放逐したとして、後の名君になるとは考えられないし、さすがの曹操にも天子廃立の考えはない。
曹操は蔡邕の発言を一笑に
「挿げ変えるのは取り巻きの連中ですよ」
漢という国が抱える内憂を
一掃は現実的ではない。自分たちの官職は議郎で、進言することしかできないのだ。が、曹操は一味違う。表向きにできることは進言だけだが、裏でできることは多々ある。
「まずは
「王甫を
盧植が尋ねた。
「
かつて曹操は陳蕃の息子、
今も蔡邕と盧植という二人の大物清流人が同じように曹操の口から起死回生の救国の策が出てくるのを期待する。
「密かに曹節に接触して王甫を陥れるのを手伝わせるのです。王甫が仙珠の一つを所持しているのは確実ですから、うまく誘いをかければ曹節も乗ってくるでしょう」
「薄々は分かっていたことではあるが、王甫が持っているのは確かなのだな?」
「はい。かつて
「渤海王事件じゃと?」
盧植が
渤海王事件――――
冀州渤海国に王として
実はそれは王甫の方から持ちかけた話だった。王甫は劉悝が野心を募らせる原因を突き止めていたのだ。
党錮事件の後で世には失望感が満ち、時は
彼が今後のためにと養っていた無頼の集団は称して‶百鬼〟といった。
劉悝は渤海王への復帰が成った
しかし、密約はそれだけにとどまらず、王甫は協力の担保に青木珠も要求した。
皇帝に口添えするにも自分に天運がもたらされなければ成功は望めない。一時手放すだけでいい。劉悝は渋々だが、その条件を
ところが、桓帝は間もなく崩御する。その時の
劉悝は復位できたのは自分の天運がもたらしたことで、王甫の力ではないと思った。何も王甫にへつらう必要はない。成功報酬も支払う必要はない。王甫の方は自分の尽力があったから、あの遺言が出たのだと言い張る。劉悝の態度に立腹して青木珠を返還しようとしない。仙珠を巡る陰湿な争いは決して
そして、王甫はついに
「――――
王甫はお決まりのあら探しと虚偽の報告で劉悝を陥れた。反逆を疑われた劉悝は即座に逮捕されて自殺した。その後、王甫は
「……そうであったか。
「言ったではありませんか。百鬼を追っていたら、偶然繋がっただけですよ」
蔡邕の驚きに曹操は謙遜して見せた。
「それにしても、曹節なんぞと手を組むのはどうも虫が好かん」
敵である曹節の手を借りるということに難儀を示す。この辺が清流派の弱いところなのだ。常に正々堂々とやろうとしすぎる。それでは
「手を組むのではなく、曹節の欲望を利用するのです。その後に曹節も消します。大事なのは一刻も早く害毒を取り除くことではありませんか。方法を選んでいる場合ではありません」
曹操は純然な清流派ではないし、冷徹に世を見つめる現実主義者だ。その上、方便と方策を使い分ける機知に富む。その曹操が言う。
「王甫を消すといっても、渤海王事件単一ではだめでしょう。いくつか悪事の証拠を集めて、悪辣な印象をもっと大きくする必要があります。
廷尉とは全国の高級官僚の裁判と処罰を行う官職で、‶
「
蔡邕が曹操の意図に従うかのように一人の有力宦官の名を口にした。
その宦官は、
「それらが
今度は曹操が蔡邕に釘を刺した。そして、
「ところで、玄徳が聞いた
その後、話題は劉備が持ち帰ってきた例の予言に移った。
熹平七(一七八)年。五月も中旬を迎え、季節は初夏の色合いを濃くしていた。
蔡邕邸の
ところが、頭は勝手に昨日の謀議の記憶にすり替えてしまって、劉備は大きな嘆息としてそれを吐き出すと、頭を振った。
曹操と盧植、蔡邕が口にする天下の謀議に加わることができず、彼らの知識と大それた話に
『しっかりと先生の講義を聞いておくべきだったな……』
後悔、先に立たず。劉備は過ぎ去った
「どうされたのですか? 大きな溜息をおつきになって……」
現れたのは、劉備が心に思い描いた女性。蔡邕の娘の
「あ、いえ……。学問をしっかりして来なかった自分を恥じていたのです」
「ふふふ、確かに玄徳様は学問がお好きではなかったようでしたものね。今もお変わりないのですか?」
それを聞いた蔡蓮が笑った。三年前、盧植の課した宿題として、蔡邕が記した
「お恥ずかしい。盧先生や
「そんなことはございません。父も玄徳様のことをお褒めでしたよ。軽やかで、義に厚く、良い情報を伝えてくれると……」
蔡蓮が蔡邕が盧植に語った言葉を伝えて、
「そうですか」
「はい。玄徳様、今日何かご用がおありですか?」
「いえ、特に」
「そうですか。よろしかったら、私の用事を手伝ってもらえませんか。父の使いで、
蔡蓮は召使いを連れて行くつもりだったが、それを落ち込む劉備にお願いした。
「
もちろん、劉備はその申し出を
白馬寺への道中、劉備と蔡蓮は
洛陽の宮殿は
東観とは宮中図書館のことである。以前は‶
東観には
名書家の蔡邕は石経の
蔡邕不在の中、東観で校書しているのは盧植の他にも、
盧植は多々ある蔵書を調べていた。弟子の劉備から伝えられた
「これはどういう意味なんじゃろうな。解読に皆の知恵を借りたい」
皆、清流派に属する知識人である。これだけの本と学識豊かな者たちが集まっているのだ。その知恵と知識を集めれば、どこからか的を射た答えを見出せるかもしれない。それぞれ手を動かしながら、意見を交わす。
「そんなものを信じるのか、
まず口を開いたのは馬日磾だ。気難しい顔をして、盧植を見ている。
馬日磾、
名門貴族の出だが、身を
「それがな、ただの讖緯とはわけが違う。これは国の大事に関わる讖緯のようなんじゃ」
自分が目をかけている弟子が自分が気にかけている知人から聞いたという文句なのだ。劉備は一つ目の予言は的中したとも言った。
盧植の胸の内を察して、解読に知恵を注いでくれたのは韓説だ。
「……天周は字義の
韓説は
「……『論語』の一節に‶
「やはり、叔儒もそう採るか」
蛇も
「では、他の文意はどう
「第三の文句は何者かが
清流派人士の暗殺が横行している近年の裏情勢を踏まえての劉洪の解釈は
劉洪、
劉洪最大の功績は
七曜とは、
「ふ~む。そりゃ、わしらの誰かのことかもしれんのぅ。用心せねばのぅ……」
盧植は百鬼に狙われた過去のことを思い出して呟いた。
百鬼の背後には宦官の王甫がいる。
「あるいは、こうも採れる。大鼈は
玄武とは北方を守る神獣で、巨大な亀のような姿をしているという。その玄武をかたどった
韓説は行方不明になっているそれが無事に戻ると言う。
「讖緯は天地国家の大事に関わる事象を示したもの。この予言が
「そりゃ、もっともじゃ。もっと聞かせてくれ」
何かピンときたらしく、盧植の表情が変わった。やはり、吉報の方が耳に良い。
「党錮の
「うむ、うむ。第四の文句か。清濁の争いじゃな」
「西方とは、随分と抽象的ではないか。百万歩とは距離のことであろうが、どこを基準に言っているのかもわからぬ」
黙って聞いていた馬日磾が口を開いて疑義を呈した。
前漢の武帝時代の儒学者、
純粋な学問にオカルトがくっついたわけである。
讖緯思想はまさにこのオカルト儒学の象徴のようなものだが、後漢の開祖・
「確かにな。この洛陽から百万歩西となると、だいたいどの辺りになる?」
盧植は劉洪に聞いた。
「ふむ。一里が三百歩、主要街道を通ったとして……」
劉洪が卓上に置いていたそろばんを弾いて計算を始めた。実は劉洪は
「
馬日磾がぽつりと聞いた。馬日磾は図讖を純粋な学問だとは思っていない。それに長々と時間を費やすのは無益だと思っている。が、何か引っかかったようだ。
「いや、そのもっと向こうだ。地図はあるか?」
馬日磾のその問いに劉洪は首を振った。盧植が棚に収められていた各州の地図から涼州を選んで持ってくると、卓上に広げた。劉洪が
「計算上ではこの辺りになるが、多少誤差はあろう。きっかり百万歩を言っているわけでもなかろうからな」
「
「金と聞けば、
武帝時代の名臣・金日磾、
言ってはみたものの、馬日磾は根拠の薄い自説に首を振った。
「よいよい。この東観は全国の図書が集まる場所じゃ。皆の知恵を集めて成り立っておる。翁叔が申すのも一理ある。金日磾は
武威
「金行……華山から百万歩を計算してみてくれ」
韓説が劉洪に再計算を求めた。五つの仙珠は五岳と対応しているといい、白金珠の
「そうなると、洛陽から華山までがおよそ四百八十里、これがおよそ十四万と四千歩。そして、この分が西にずれて……
「敦煌の‶煌〟は‶盛〟に通じる」
また馬日磾がぽつりと
「おお、敦煌には
盧植が間違いないといった表情で
「残るは第五の讖緯じゃが」
「第五は王族を素直に劉氏と採るか、それとも、他の大姓と採るか。王甫の一族が滅ぶという吉兆に採りたいところではあるが……」
「そりゃ間違いない。さすがは
盧植は韓説の説に大満足だった。曹操が王甫を消すと断言したことが予言されているとしたら、これは信じるに値する。
「では、第五の故事とは何をいうのか。今のが第五の文句であろう?」
馬日磾が聞いた。その後ろで
高彪、
高彪は以前から馬融を尊敬し、融の屋敷を訪ねたことがあった。その時、ちょうど馬融は病気で門を閉ざしていて面会は叶わなかった。高彪は嘆息し、故事を引き合いに出して、病気だからといって、客に会おうともしないのは
そう書簡を残して去った。馬融はそれを読んで恥じ入ると、会わずして高彪の才能を認めたという。
また、前年、幽州が鮮卑の侵攻を受けた時、朝廷が
蔡邕はその行為と文面の美麗さを褒め称えた。そんな張本人だったから、あるいは気付いたのかもしれない。
「第五永殿も第五である」
高彪が一言、そう発した。極めて珍しいが、‶第五〟という姓がある。
「おお、なるほど。第五は第五氏のことか。じゃが、故事とは何を指すのじゃろうな?」
「それが本当にそうだとすれば、第五永に尋ねるのが一番の早道であろう」
盧植があまりにもこの讖緯に
「今、ここで口にしたことは憶測にすぎぬ。時期も当事者も定かにならぬのでは
「確かにそうじゃ。じゃが、用心して損はない。何が実かは、これからの事情を注意深く見ながら判断するしかあるまい」
盧植が最後にそう言って、愛弟子がもたらした讖緯の
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