其之四 讖緯推考

 曹操そうそうが活躍の舞台を再び洛陽に遷した時、国はまた一層傾きを増したようだった。熹平きへい七(一七八)年になって早々、南方で反乱が起きたのだ。

 北方、幽州の鮮卑せんぴ族の侵攻に続き、交州という最南方の州で烏滸うこという異民族が反乱を起こした。州郡はそれを鎮圧できずに、いたずらに時を重ねるだけだった。

 二月には日食が確認され、三月には地震があった。どちらも災異と解釈された。

 北海ほっかい安丘あんきゅうの人で、郎顗ろうぎあざな雅光がこうという易学者はかつて、天が君主の行いを譴責けんせきするために天地に妖異よういれるのだと述べた。国のあるじが道を踏み外し、間違った行いをすると、陰陽の調和が崩れ、それを悟らせるために天が日食や地震などの災異を示して教えるというのだ。天の災異が日食、地の災異が地震である。

 郎顗の日食についての解釈は、

「――――日食が頻繁に起こるのは陰気が陽気を覆っているからで、その真意は奸臣(陰)が君主(陽)を覆いかくそうとはかっていることに起因します」

 というもので、皇帝の近くに邪悪な人間が蔓延はびこっていることに言及した。

 また、天文陰陽の術に優れ、大傅たいふ陳蕃ちんばんに推薦された平原へいげん隰陰しゅういんの人、襄楷じょうかいあざな公矩こうくという者は、

「――――天子の天に仕えること不孝なれば、日食し、星闘う」

 と述べている。そして、天刑(去勢)の者、つまり、宦官を皇帝が非常識なほど寵愛ちょうあいし過ぎていると指摘した。これは皇帝の機嫌を損ねて、宦官の陰謀もあり、襄楷は投獄された。忠言したところで、役に立たない。それどころか、身に危険が及ぶ。襄楷は釈放されてからは口を閉ざした。現在は故郷で隠居している。準党人のようなものだ。

 地動くものは陰盛んにして陽を侵し、臣下の制を越えるの致すところ――――奸臣かんしんの専横が地震の原因である。蔡邕さいようは地震についての解釈も加え、災異の原因について上奏してみたが、反応はなかった。

 三月になって天下に大赦たいしゃを行い、光和こうわと改元した。光和元年である。大赦とは、国の慶事の際に発布される恩赦である。投獄中の罪人も許されて放免される。

「あちこちで不吉なことばかり起こっているというのに、まるでそれを喜んでいるようですね。こんな時に大赦令を乱発するようでは、国の乱れが収まるはずがありません」

 皮肉のように言ったのは、曹操である。法律を厳格に用いて風紀を正すのが曹操という男の方針である。ところが、真の悪党もこの大赦のせいで放免されてしまう。

「天子様が好んでおられる」

 盧植ろしょくが溜め息混じりに言った。盧植も議郎に任命されて、再び洛陽に戻っていた。曹操や蔡邕と同じ建議官の職である。今は蔡邕邸の一室を借り受け、弟子の劉備りゅうびとともに居候いそうろうの身である。議郎の三人は上奏文の内容を議論していた。劉備も後学のために同席している。

「党人の方々も許されたのでしょう? どうしてそんなに暗い顔をされるのですか?」

 無知な弟子が師に尋ねた。それには曹操が答えた。

「党人は別なのだ、玄徳げんとく

 夏侯惇かこうとんが‶沈惇ちんとん〟という偽名を未だに使っているのも、師が党人関係者だったからなのだ。

「あれこれ虚偽不実のことを耳打ちする連中を追求できればよいのだがな」

 蔡邕が言った対象は、もちろん宦官のことである。

 濁流派は清流派人士の暗殺を裏でやっていた。大赦が頻繁に発令されることを念頭にしての行動である。清流派官僚は濁流派の連中を弾劾だんがいして牢獄に送ることもしばしばだったが、宦官は折を見ては皇帝に、こんなめでたいがありましたから大赦を行ってみてはどうでしょうか、と言葉巧みにそそのかす。罪を許すというのは陛下へいかの寛容さを天下に示すことになる、と皇帝にささやく。皇帝にはそれがいいことをしているように思える。自分がいかにも聖人君子であるような気分になるのだ。

 かくして、現皇帝が即位してからは毎年のように大赦があったが、毎度党人だけは許されなかった。もちろん、そこには濁流派の意向がある。大赦令は完全に濁流派に悪用されていた。蔡邕が続けた。

「先日、災異の件に付けて小人の排斥はいせきを訴えてみたのだがな、途中で握りつぶされたかな」

「たとえ届いたとしても、宦者どもの言いなりになっている今のみかどに英断を求めるのは、夜中に陽光を求めるようなものです。現実的ではありません」

「随分はっきりと言うのじゃな」

 盧植が苦笑いした。曹操は婉曲えんきょく的に皇帝が暗愚あんぐだと言っている。はっきり口には出さないが、国民のほとんどが思っていることだった。

「おもねったところで民の苦しみは救えませんよ。そもそもそこが諸悪の根源ですから。前の帝より悪いですね」

 曹操は貴賓きひんにおもねることはしない。権力者を畏怖いふしたりもしない。どんな相手であろうと言いたいことは言う性分しょうぶんだ。いずれ皇帝にも自分なりに上奏を行って物申すつもりだった。暗愚な皇帝に事の重大さを悟らせるには、余程強烈なインパクトのものを用意しなければならない。淡白なものではなく、スパイスが効かせた刺激的なものを与える。

 そのために全国の情報を集積して、濃縮・加工する必要があった。


 曹操が生まれた当時の皇帝は桓帝かんていだった。本名は劉志りゅうしといった。

 その桓帝の擁立には曹操の祖父・曹騰そうとうが大きく関与し、お陰で曹騰は栄達を遂げた。

 皇帝崩御ほうぎょの後、その治世を象徴する諡号しごうが贈られるのだが、‶桓〟という文字が選ばれた。ゆえに、「桓帝」と呼ばれる。

‶桓〟の字意には‶敵に勝ち、遠方まで服す〟という意味が含まれている。しかし、桓帝の時代には内乱こそあったが、外征はなかった。字意に当てはまらない。

 爰延えんえんあざな季平きへいという人物がいた。陳留ちんりゅう外黄がいこうの人で、儒学に通じていて多くの弟子を養った清流派に属する人物で、その性質は誠実朴訥ぼくとつ、反宦官の姿勢をとっていた。

 昔、帝が上林苑じょうりんえんという郊外の狩猟場に出かけた時、爰延はその供をしたことがあった。さりげなく帝が自分はどんな人物だと思うか聞いた。

「――――陛下は漢の中主ちゅうしゅり」

 爰延はぽつりと答えた。皇帝を前にして、あなたは中等、まあまあですと言ったのだ。その理由を皇帝が聞くと、

「――――尚書しょうしょ令・陳蕃を事に任ずるやすなわち化し、中常侍ちゅうじょうじ黄門こうもんまつりごとくみするやすなわち乱る。是を以って、陛下の共に善を為すべく、共に非を為すべくを知る」

 やはり、淡々と答えた。

 尚書令は各文書の発行をつかさどるポストである。閣議で決まったことがここから全国へと広がっていく。まさに実務の中心と言える部署だった。そこに清流派の陳蕃を任命した時は政治が正しく行われ、宦官たちが政治に口を出すようになって政治は乱れた。だから、あなたは善行が何かを分かっているし、非行が何かを知っている。

 昔、春秋時代にせい国の桓公かんこう管仲かんちゅうという信義をたっとぶ賢人を宰相にえ信任したところ、民政は安定し、国は富み、ついに桓公は天下の覇者となることができた。

 ところが、豎貂じゅちょうという宦官を信任してからは国が乱れてしまった。

 前漢の歴史書である『漢書』はこの故事を取り上げて、共に善を為すべく、共に悪を為すべく、之を中人という――――と記している。

 清流派の面々は、‶桓〟の字が選ばれたのには爰延が評した中人という評価が大いに含まれていると感じていた。桓帝の時代は宦官一族が大いに力を振るった時代でもあったのだ。

 その桓帝であったが、子がなかった。崩御の後、新たな皇帝を誰にするか議論が行われた。桓帝の皇后の竇太后とうたいごうが臨朝していたので、父の竇武とうぶが大将軍となり、清流派官僚の筆頭となった。竇武は河間かかん国出身の皇族の劉脩りゅうしゅうに桓帝の血筋に近く、かつ賢そうな者を尋ねた。桓帝の祖父の劉開りゅうかいの代から河間王に封じられていたので、その国から次期皇帝を選ぼうと考えたのである。劉脩は劉宏りゅうこうを勧め、桓帝のいとこの子の当たる十二歳の劉宏が擁立された。皇帝の教育係の太傅の役職に陳蕃が付けられた。

 そのままであれば、良い皇帝に育ったかもしれない。しかし、間もなく竇武と陳蕃が死に、桓帝時代と同じように取り巻きが悪辣あくらつな宦官たちに代わった。少年皇帝は事の善し悪しを分からぬままに、宦官たちの言葉を鵜呑うのみにするだけの傀儡かいらいと化してしまったのだ。

 結果、中人と言われた桓帝以下の皇帝に育ってしまった。そして、後に「霊帝」という諡号を与えられることになる。‶霊〟には‶すぐれる〟という意味があるが、宦官たちの傀儡として、いるのかいないのか分からない亡霊のような存在でもあったわけだ。

「そっくりげ変えることができたら、手っ取り早いですが……」

 あやしげな曹操の言葉に不穏なものを感じた蔡邕が釘を刺す。

伊霍いかくならいたいとは思わんよ。我等はそこまで胆が据わってはおらんでな……」

「まさか」

 曹操が言って笑った。蔡邕ともあろう賢人が自分を誤解している。それがおかしかった。

 伊霍とは、しょう伊尹いいんと前漢の霍光かくこうの名をあわせたもので、強権を発動してトップを追放する政治クーデターを比喩ひゆした言葉でもある。

 商の元老であった伊尹は王の太甲たいこうを輔政したが、太甲が自分勝手にやり始めて民を苦しるのを見ると、これを放逐ほうちくした。そして、放逐された太甲が反省しているのを知り、再び彼を王として迎えて補佐したところ、太甲は名君となった。

 もう一人の霍光は、あざな子孟しもうという。前漢の武帝の時代に匈奴の討伐に軍功を立てた驃騎ひょうき将軍・霍去病かくきょへいの異母弟で、昭帝の時代に大司馬だいしば大将軍になって人身くらいを極めた外戚がいせきである。しかし、霍光は常におごることなく謙虚に努め、かつ忠清であったので、皇帝にも信任され、広く天下の尊敬を集めた。

 彼は後継ぎのなかった昭帝の後に昌邑しょうゆう王の劉賀りゅうがを迎えたが、道楽にふけってばかりいる劉賀を見、皇帝の器ではないとすぐにこれを廃立してしまった。無論、外戚の身分と大将軍の官位と天下にとどろく名声とその人柄があったからこそできた荒技である。

 その両名の名を持ち出すとは、自分が何を仕出かすか分からない大胆不敵な男だという人物評が出回っているのだろう。伊尹のように今の皇帝を放逐したとして、後の名君になるとは考えられないし、さすがの曹操にも天子廃立の考えはない。

 曹操は蔡邕の発言を一笑にして言った。

「挿げ変えるのは取り巻きの連中ですよ」

 漢という国が抱える内憂をはらう方法――――悪徳宦官の一掃。それはほとんどの清流派官僚が考えていることではあるが、言うはやすし行うはかたしで、それが簡単でないことも皆分かっている。それを試みた竇武・陳蕃のクーデターも失敗に終わった。

 一掃は現実的ではない。自分たちの官職は議郎で、進言することしかできないのだ。が、曹操は一味違う。表向きにできることは進言だけだが、裏でできることは多々ある。

「まずは王甫おうほ曹節そうせつどちらかに狙いを絞るのがいいと思います。昨年、王旻おうびんのことがあったばかりですから、王甫の方が印象が良くないでしょう」

「王甫を弾劾だんがいするのか。じゃが、何か良い策はあるのか?」

 盧植が尋ねた。

貪欲どんよくな王甫と曹節ですから、二人がいつまでも並び立つことはありません。どちらも相手を出し抜いて仙珠の独占を考えていることでしょう。そこに付け入るすきがあります」

 かつて曹操は陳蕃の息子、陳逸ちんいつを救い出す作戦を考えた際、宦官・張譲ちょうじょうの欲に付け込んで、それを利用した。限りない欲望が自分自身をおとしめ、墓穴へとおとしいれるのだ。その時は、名立たる清流人が若き曹操の言葉に聞き入ったものだ。

 今も蔡邕と盧植という二人の大物清流人が同じように曹操の口から起死回生の救国の策が出てくるのを期待する。

「密かに曹節に接触して王甫を陥れるのを手伝わせるのです。王甫が仙珠の一つを所持しているのは確実ですから、うまく誘いをかければ曹節も乗ってくるでしょう」

「薄々は分かっていたことではあるが、王甫が持っているのは確かなのだな?」

「はい。かつて百鬼ひゃっきの一味を捕縛した時、尋問で聞き出しました。渤海王ぼっかいおう事件を通して手に入れたようです」

「渤海王事件じゃと?」

 盧植がうなった。それは党錮とうこ災禍さいかの真っ只中ただなかに起こった事件だ。記憶が過去をさかのぼる。

 渤海王事件――――延熹えんき八(一六五)年に起きた皇族の反乱未遂に起因し、七年後の熹平元(一七二)年に誅殺ちゅうさつされる事件をいう。

 冀州渤海国に王として封国ふうこくされていた劉悝りゅうかいは桓帝の弟であったが、桓帝の時代に無頼ぶらいやからを多数集めて、法を侵すことがしばしばあった。実の弟であったので、桓帝も常々大目に見ていたのだが、劉悝の態度は改まらず、謀反の疑いありとして、延熹八(一六五)年、癭陶王えいとうおうに貶された。癭陶は県名であるので、一国の主から一県の主に降格させられたことになる。収入も激減した。これでは生活に困る上に子分たちの面倒も見られない。何とか渤海王に復帰したいと願って、劉悝が頼み込んだ相手が王甫であった。

 実はそれは王甫の方から持ちかけた話だった。王甫は劉悝が野心を募らせる原因を突き止めていたのだ。

 党錮事件の後で世には失望感が満ち、時はんでいた。そして、そんな時に五仙珠の一つである青木珠せいぼくじゅを所持していたのが劉悝である。劉悝は天運をもたらすという仙珠を手に入れ、皇帝になれるのではないかと気が大きくなった。

 彼が今後のためにと養っていた無頼の集団は称して‶百鬼〟といった。

 劉悝は渤海王への復帰が成ったあかつきには五千万銭を支払うと王甫に約束した。

 しかし、密約はそれだけにとどまらず、王甫は協力の担保に青木珠も要求した。

 皇帝に口添えするにも自分に天運がもたらされなければ成功は望めない。一時手放すだけでいい。劉悝は渋々だが、その条件をんだ。

 ところが、桓帝は間もなく崩御する。その時の遺言ゆいごんで劉悝を渤海王に復帰させるようにとあり、劉悝は晴れて渤海王に復帰した。

 劉悝は復位できたのは自分の天運がもたらしたことで、王甫の力ではないと思った。何も王甫にへつらう必要はない。成功報酬も支払う必要はない。王甫の方は自分の尽力があったから、あの遺言が出たのだと言い張る。劉悝の態度に立腹して青木珠を返還しようとしない。仙珠を巡る陰湿な争いは決して表沙汰おもてざたになることなく、二人の確執は続いた。

 そして、王甫はついに小癪こしゃくな劉悝をほうむり去ろうと考えるに至った。今や自分の手元に仙珠はあるのだ。劉悝は天運に見放された。

「――――先帝せんていが崩じてから後、渤海王は弟である自分が帝位に就くべきだと言い張っているとか。また無頼のを多く集めており、これはまさしく逆謀ぎゃくぼうはかっている証拠です」

 王甫はお決まりのあら探しと虚偽の報告で劉悝を陥れた。反逆を疑われた劉悝は即座に逮捕されて自殺した。その後、王甫はあるじの死で行き場を失った百鬼を密かに自分の私兵として雇い入れたのだった。

「……そうであったか。我等われらがずっとつかめなかった仙珠の行方ゆくえをこうもあっさりと掴んでしまうとは頼りになるというか、驚いてしまうな」

「言ったではありませんか。百鬼を追っていたら、偶然繋がっただけですよ」

 蔡邕の驚きに曹操は謙遜して見せた。堅物かたぶつの盧植の方は、

「それにしても、曹節なんぞと手を組むのはどうも虫が好かん」

 敵である曹節の手を借りるということに難儀を示す。この辺が清流派の弱いところなのだ。常に正々堂々とやろうとしすぎる。それでは狡猾こうかつな濁流派には勝てない。

「手を組むのではなく、曹節の欲望を利用するのです。その後に曹節も消します。大事なのは一刻も早く害毒を取り除くことではありませんか。方法を選んでいる場合ではありません」

 曹操は純然な清流派ではないし、冷徹に世を見つめる現実主義者だ。その上、方便と方策を使い分ける機知に富む。その曹操が言う。

「王甫を消すといっても、渤海王事件単一ではだめでしょう。いくつか悪事の証拠を集めて、悪辣な印象をもっと大きくする必要があります。廷尉ていいが公平で法を厳正に適用する人物の時にそれを連名で上奏するのです。周到に根回しをして、王甫にくみさない宦者かんじゃにも協力を求めなければなりません」

 廷尉とは全国の高級官僚の裁判と処罰を行う官職で、‶九卿きゅうけい〟という九つの高級ポストのうちの一つである。

漢盛かんせいがよかろうな」

 蔡邕が曹操の意図に従うかのように一人の有力宦官の名を口にした。

 その宦官は、呂強りょきょうあざなを漢盛という。河南かなん成皐せいこうの人で、性は清忠謙虚、何かにつけ清流派の擁護をしてくれる、宦官の中では稀有けうな存在であった。

「それらがそろった時に上奏するのが最も効果的でしょう。軽々しく上奏を行っていたずらに宦官どもを刺激していては、いずれ連中に陥れられますよ」

 今度は曹操が蔡邕に釘を刺した。そして、

「ところで、玄徳が聞いた讖緯しんい文言もんごんはお聞きになりましたか? 私には、今後の情勢を左右する重大な秘密が含まれている気がするのですが……」

 その後、話題は劉備が持ち帰ってきた例の予言に移った。


 熹平七(一七八)年。五月も中旬を迎え、季節は初夏の色合いを濃くしていた。

 蔡邕邸の外廊がいろうが池にかる橋となっているところに欄干らんかんに両手を置いた劉備が立っていた。視線の先に早咲きのはすの花が一輪浮かんでいる。劉備は朝の冷えて新鮮な空気を肺に吸い込みながら、心にその名をかんしたひとうるわしい顔を思い浮かべた。

 ところが、頭は勝手に昨日の謀議の記憶にすり替えてしまって、劉備は大きな嘆息としてそれを吐き出すと、頭を振った。

 曹操と盧植、蔡邕が口にする天下の謀議に加わることができず、彼らの知識と大それた話に若輩じゃくはいの劉備はついては行けなかった。と同時に、その謀議の中心を行く曹操のすごさを改めて感じた。曹操は六つ年上だが、議郎という官職に就き、大学者の蔡邕や盧植と対等に渡り合えるその力量は自分よりも数倍上のような気がする。

『しっかりと先生の講義を聞いておくべきだったな……』

 後悔、先に立たず。劉備は過ぎ去った昔日せきじつにまで記憶をさかのぼらせて、また嘆息した。

「どうされたのですか? 大きな溜息をおつきになって……」

 現れたのは、劉備が心に思い描いた女性。蔡邕の娘の蔡蓮さいれんである。

「あ、いえ……。学問をしっかりして来なかった自分を恥じていたのです」

「ふふふ、確かに玄徳様は学問がお好きではなかったようでしたものね。今もお変わりないのですか?」

 それを聞いた蔡蓮が笑った。三年前、盧植の課した宿題として、蔡邕が記した石経せきけいの文章を暗記するよう言われたが、劉備は冒頭の一文ぐらいしか暗唱することができず、盧植の雷が落ちた。罰として、石経の写経を命じられ、蔡蓮はそれに付き合わされたのだ。

「お恥ずかしい。盧先生や智侯ちこう先生のお話を聞いていると、学のない私は役立たずのような気がしてしまいます」

「そんなことはございません。父も玄徳様のことをお褒めでしたよ。軽やかで、義に厚く、良い情報を伝えてくれると……」

 蔡蓮が蔡邕が盧植に語った言葉を伝えて、うつむき加減の劉備をなぐさめた。

「そうですか」

「はい。玄徳様、今日何かご用がおありですか?」

「いえ、特に」

「そうですか。よろしかったら、私の用事を手伝ってもらえませんか。父の使いで、白馬寺はくばじ浮図ふとの写経を取りに行くのですが、どうやら一巻二巻ではないようなのです」

 蔡蓮は召使いを連れて行くつもりだったが、それを落ち込む劉備にお願いした。

芙蓉ふよう殿のためなら、よろこんでお手伝いしましょう」

 もちろん、劉備はその申し出をこころよく引き受けた。

 白馬寺への道中、劉備と蔡蓮は南宮なんきゅう前の道で白衣の老人とすれ違った。劉備が思わず振り返る。蓮を見ていたら、蔡蓮が現れた。白馬を思い浮かべていたら、白い老人が現れた。その偶然に劉備は目をぱちぱちしばたかせた。


 洛陽の宮殿は北宮ほくきゅうと南宮に分かれている。北宮は皇帝や皇后たちの居住空間を兼ねている。皇帝は以前は北宮で政務をっていたが、現在は南宮にそれをうつしている。その南宮の一角に‶東観とうかん〟が存在する。

 東観とは宮中図書館のことである。以前は‶蘭台らんたい〟といい、後漢初期の歴史家で、『漢書かんじょ』をあらわした班固はんこは蘭台令史を務めていた。

 東観には数多あまたの蔵書が収められており、蔡邕や盧植は議郎の職務のかたわら、校書こうしょに従事していた。古い経書や伝記を校訂こうていする作業である。

 名書家の蔡邕は石経の建立こんりゅうが認められて以来、この東観ではなく城外の太学たいがくに出向いて作業に当たることが多く、この日も太学に出向いていた。太学構内に運び込まれた石材に経文を書すのである。それも一種の校書だった。

 蔡邕不在の中、東観で校書しているのは盧植の他にも、馬日磾ばじつてい韓説かんえつ高彪こうひょう劉洪りゅうこうといった著名な学者や一流の儒者たちだ。

 盧植は多々ある蔵書を調べていた。弟子の劉備から伝えられた酈炎れきえんの言葉。劉備はそれは讖緯しんい(予言)だと言う。盧植は校書仲間にその話をして、予言の文句を伝えた。

「これはどういう意味なんじゃろうな。解読に皆の知恵を借りたい」

 皆、清流派に属する知識人である。これだけの本と学識豊かな者たちが集まっているのだ。その知恵と知識を集めれば、どこからか的を射た答えを見出せるかもしれない。それぞれ手を動かしながら、意見を交わす。

「そんなものを信じるのか、子幹しかん?」

 まず口を開いたのは馬日磾だ。気難しい顔をして、盧植を見ている。

 馬日磾、あざな翁叔おうしゅく右扶風ゆうふふう茂陵ぼうりょうの人で、盧植の師である馬融ばゆうの甥に当たる。

 名門貴族の出だが、身をつつしんで勉学に励み、一族の中では最も馬融に近いと言われていた。盧植とは同門で互いを認め合う仲でもあるが、馬融が図讖としんに否定的であったのを受け継いで、馬日磾も讖緯や図讖には関心がない。

「それがな、ただの讖緯とはわけが違う。これは国の大事に関わる讖緯のようなんじゃ」

 自分が目をかけている弟子が自分が気にかけている知人から聞いたという文句なのだ。劉備は一つ目の予言は的中したとも言った。

 盧植の胸の内を察して、解読に知恵を注いでくれたのは韓説だ。

「……天周は字義のごとく天子の周り、蛇蠍だかつとは宦者かんじゃたちのことであろう。地龍というのは天子のような権力を持った臣下、つまり、宦者が天下をかげらせていることを言及しているのだ」

 韓説はあざな叔儒しゅくじゅ会稽かいけい山陰さんいんの人である。五経に通じ、図讖の学にも明らかな賢人で、蔡邕との付き合いが深い。図讖は予言書のことなので、このような文句の分析には最適な人物だった。韓説が続ける。

「……『論語』の一節に‶ふるきをたずね新しきを知る〟とある。昔の事象から対策を学べということではなかろうか」

「やはり、叔儒もそう採るか」

 蛇もさそりみ嫌われる存在、天と龍は帝の象徴だ。地は臣下、陽徳とは帝の威光だと盧植も考えた。‶温故知新おんこちしん〟は、以前学んだことを復習して新たな知識を得ることをいう。

「では、他の文意はどうる?」

「第三の文句は何者かが姦計かんけいろうして誰か賢者の命を狙う……と採れなくもない。及ばす、勝らずと言うからには、姦計が失敗して大事には至らぬのかもしれんが……。大鼈たいべつは名のある大物賢者、穴に帰るというのは、罠におちいると解釈できる」

 清流派人士の暗殺が横行している近年の裏情勢を踏まえての劉洪の解釈は至極しごくもっともらしく聞こえる。

 劉洪、あざな元卓げんたく泰山たいざん蒙陰もういんの人で、前漢の魯王の子孫でもある。

 劉洪最大の功績は七曜術しちようじゅつ編纂へんさんしたことだ。

 七曜とは、五行ごぎょう(木・火・土・金・水)に陰陽(月と日)を合わせたもので、現在使用されている一週の元となった思想である。

「ふ~む。そりゃ、わしらの誰かのことかもしれんのぅ。用心せねばのぅ……」

 盧植は百鬼に狙われた過去のことを思い出して呟いた。

 百鬼の背後には宦官の王甫がいる。誹謗ひぼう中傷ちゅうしょう冤罪えんざい投獄から暗殺に至るまで、濁流派が弄する無法の手口は周知の事実だ。

「あるいは、こうも採れる。大鼈は玄武げんぶのこと。それが巣穴に帰るのだから、神器の一つが戻るということを言っているのかもしれない。素直に考えれば、全体的に吉祥の予言に聞こえるな」

 玄武とは北方を守る神獣で、巨大な亀のような姿をしているという。その玄武をかたどったすずりがあると伝わっていて、それが四神器の一つとされる。

 韓説は行方不明になっているそれが無事に戻ると言う。

「讖緯は天地国家の大事に関わる事象を示したもの。この予言がまことだとすると、全て五仙珠と四神器に関わるものと見た方がよいのではないか」

「そりゃ、もっともじゃ。もっと聞かせてくれ」

 何かピンときたらしく、盧植の表情が変わった。やはり、吉報の方が耳に良い。

「党錮のから十年がつ。十歳の禍根とは恐らく党錮事件のことを指すのであろう。竇将軍と陳太傅は仙珠を手にして行動を起こしたと言われている。金は陰陽五行では西を指す。その仙珠を巡り、西方で争いがある……」

「うむ、うむ。第四の文句か。清濁の争いじゃな」

「西方とは、随分と抽象的ではないか。百万歩とは距離のことであろうが、どこを基準に言っているのかもわからぬ」

 黙って聞いていた馬日磾が口を開いて疑義を呈した。

 陰陽五行いんようごぎょう説と儒学は密接に結びついている。

 前漢の武帝時代の儒学者、董仲舒とうちゅうじょは陰陽五行説と儒学を結び付け、人と天は共に影響し合っているという‶天人相関説てんじんそうかんせつ〟をとなえた。そして、彼の進言で漢の国学が儒学になった時、天人相応説もそのまま受け入れられ、儒学は神秘性を帯び始めた。

 純粋な学問にオカルトがくっついたわけである。

 讖緯思想はまさにこのオカルト儒学の象徴のようなものだが、後漢の開祖・光武帝こうぶていが信奉したことから、後漢の儒学界では讖緯や図讖も重要視された。

「確かにな。この洛陽から百万歩西となると、だいたいどの辺りになる?」

 盧植は劉洪に聞いた。

「ふむ。一里が三百歩、主要街道を通ったとして……」

 劉洪が卓上に置いていたそろばんを弾いて計算を始めた。実は劉洪は珠算しゅざんの名手でもあり、後世‶算聖さんせい〟と称される。

武威ぶいの辺りか?」

 馬日磾がぽつりと聞いた。馬日磾は図讖を純粋な学問だとは思っていない。それに長々と時間を費やすのは無益だと思っている。が、何か引っかかったようだ。

「いや、そのもっと向こうだ。地図はあるか?」

 馬日磾のその問いに劉洪は首を振った。盧植が棚に収められていた各州の地図から涼州を選んで持ってくると、卓上に広げた。劉洪が張掖ちょうえき郡と酒泉しゅせん郡の郡境界隈かいわいを指して、

「計算上ではこの辺りになるが、多少誤差はあろう。きっかり百万歩を言っているわけでもなかろうからな」

翁叔おうしゅくよ。何か気になったことがあるのじゃろう?」

「金と聞けば、金日磾きんじつていを思い浮かべる。金一族の隆盛があったのは、金日磾の功績ゆえだ。その金日磾の生まれが武威休屠きゅうと。……ふとそう思っただけだ。気にせんでくれ」

 武帝時代の名臣・金日磾、あざな翁叔。馬日磾の名も字も彼にちなんだものだ。

 言ってはみたものの、馬日磾は根拠の薄い自説に首を振った。

「よいよい。この東観は全国の図書が集まる場所じゃ。皆の知恵を集めて成り立っておる。翁叔が申すのも一理ある。金日磾は匈奴きょうど人じゃった。『金行きんぎょう盛ん』を胡族こぞく(異民族)の勢いが盛んだと解釈すれば、自ずと『明将』は段将軍を指すと採れまいか」

 武威姑藏こぞうの人、段熲だんけいあざな紀明きめい。つい数年前まで長年異民族の討伐に従事していた名将である。つまり、盧植が想像したのは、異民族対段熲率いる官軍の再現である。

「金行……華山から百万歩を計算してみてくれ」

 韓説が劉洪に再計算を求めた。五つの仙珠は五岳と対応しているといい、白金珠の封乾ほうかん地は西岳・華山とされている。また劉洪が見事な手際てぎわでそろばんを弾く。

「そうなると、洛陽から華山までがおよそ四百八十里、これがおよそ十四万と四千歩。そして、この分が西にずれて……敦煌とんこう酒泉の界隈だな」

「敦煌の‶煌〟は‶盛〟に通じる」

 また馬日磾がぽつりとつぶやいた。

「おお、敦煌には張然明ちょうぜんめいが党人となって帰っておる。陳太傅を討った当人じゃし、こりゃ、名答じゃな」

 盧植が間違いないといった表情でしきりにうなずく。

「残るは第五の讖緯じゃが」

「第五は王族を素直に劉氏と採るか、それとも、他の大姓と採るか。王甫の一族が滅ぶという吉兆に採りたいところではあるが……」

「そりゃ間違いない。さすがは叔儒しゅくじゅ、まるで雲霞うんかが晴れるようじゃ」

 盧植は韓説の説に大満足だった。曹操が王甫を消すと断言したことが予言されているとしたら、これは信じるに値する。

「では、第五の故事とは何をいうのか。今のが第五の文句であろう?」

 馬日磾が聞いた。その後ろで生真面目きまじめな高彪が一人黙々と作業を続けていた。

 高彪、あざな義方ぎほう呉郡ごぐん無錫むしゃくの出身で、馬日磾とは反対に社会的地位がないところからスタートした。だが、ひたすら学問に打ち込む姿が認められて太学に入学することができた。

 高彪は以前から馬融を尊敬し、融の屋敷を訪ねたことがあった。その時、ちょうど馬融は病気で門を閉ざしていて面会は叶わなかった。高彪は嘆息し、故事を引き合いに出して、病気だからといって、客に会おうともしないのはおごっている――――。

 そう書簡を残して去った。馬融はそれを読んで恥じ入ると、会わずして高彪の才能を認めたという。

 また、前年、幽州が鮮卑の侵攻を受けた時、朝廷が第五永だいごえいという人物を幽州に派遣して軍を監督させようとした。百官が集まってそれを見送る式典が執り行われ、蔡邕らが戦勝を願い、武運を祈る詩を読んだのに対して、一人高彪だけがいましめの文を披露ひろうした。

 蔡邕はその行為と文面の美麗さを褒め称えた。そんな張本人だったから、あるいは気付いたのかもしれない。

「第五永殿も第五である」

 高彪が一言、そう発した。極めて珍しいが、‶第五〟という姓がある。

「おお、なるほど。第五は第五氏のことか。じゃが、故事とは何を指すのじゃろうな?」

「それが本当にそうだとすれば、第五永に尋ねるのが一番の早道であろう」

 盧植があまりにもこの讖緯に躍起やっきになっているように見えたものだから、馬日磾が冷静な言葉で学友を戒める。

「今、ここで口にしたことは憶測にすぎぬ。時期も当事者も定かにならぬのでは曖昧あいまいすぎて役に立たぬ。それに振り回されては虚を実と見てしまうぞ」

「確かにそうじゃ。じゃが、用心して損はない。何が実かは、これからの事情を注意深く見ながら判断するしかあるまい」

 盧植が最後にそう言って、愛弟子がもたらした讖緯の推考すいこうは一応の決着を見た。

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