其之一 暗合
涼やかな秋風は北へ向かうにつれて
風の冷たさと心から消え去ることのない不吉な予感に顔が
それでも、徐州を過ぎ、青州を抜け、
渡し舟の船頭は波風が収まるのを待ってから舟を出すと言う。理由も目的はそれぞれ異なるだろうが、北の大地に急ぐのは自分だけではない。風が少し弱まったのを機に、客の数人が早く舟を出せと言い始めた。
煙る霧のせいで対岸が見えない。河面を吹き抜ける風と水かさを増した濁流が舟を上下させ、まるで全てを押し返すようだった。一瞬だけ故郷での出来事を思い出した。
向かう先にどんな困難が待ち構えていようとも、北の大地へ急がなければならなかった。
その男の名は、
長年国境を侵し続けてきた北の異民族〝
幽州代郡からは
〝匈奴〟というのは鮮卑以前に北方に一大勢力を築いて漢と争った北方異民族で、この時の討伐軍に敗れて衰退した。その匈奴に代わるように大草原を支配したのが鮮卑族である。
鮮卑は匈奴と同じく騎馬の扱いに長けた遊牧民族で、約二十年前に
そんな背景の中、夏育・田晏が上書して、鮮卑討伐の軍を起こすことを願い出た。
連年の鮮卑の侵犯に対して防衛に専念していた漢であったが、ここにおいて攻勢に出ることを閣議決定した。将軍には異民族討伐や反乱の鎮圧に功績があった夏育・田晏・臧旻の三人が選ばれた。それぞれ護烏桓校尉、破鮮卑中郎将・使匈奴中郎将という軍職に任命され、討伐の準備に取り掛かった。
護烏桓校尉は東北部の異民族である〝烏桓〟を鮮卑の攻撃から守ることを任務とした。烏桓は漢に内属しており、この討伐には烏桓の軍勢も加えられることになっていたのである。破鮮卑中郎将はその名称の通り、鮮卑を破るために設けられた臨時の官職で、使匈奴中郎将は匈奴の軍勢を統率する官職である。一部の匈奴衆は武帝の討伐軍に敗れた時、漢に投降した。それ以来、幷州の北部地域に住まわされ、有事の際には漢の命令で出兵した。臧旻はかつて揚州刺史として孫堅を起用し、会稽の反乱を鎮圧した人物である。
しかし、この国策に強く反対した人物がいた。
蔡邕はこの作戦に潜むいくつもの不合理を指摘した。
「――――今、鮮卑は強盛、その兵は十万。漢人は之が
匈奴が漢軍によって駆逐されてから、鮮卑はその領地を支配し、強大になって久しい。今や国力は最盛に達していると言う。寝返った漢人が彼らのためにいろいろとアドバイスを与えており、こちらの情勢をよく分かっている。鮮卑兵の強さも馬の質も、かつて漢軍を苦しめた匈奴よりも上であると述べた。
騎馬戦が主となる戦いにおいて、馬の善し悪しは特に重要な要素だ。
「――――昔、
さらに、将軍の人選も良くない。一大事を任せるには役不足だと言う。
段熲は各地の戦で活躍した名将である。老齢のため現在は一線を退いているが、用兵に習熟し、羌族という西方異民族討伐で名を
「――――
それなのに、根拠もなく二年で討伐できると豪語している。もし、計画がうまくいかずに出兵が長引くようになっても、一端始まった戦争は簡単に打ち切ることはできない。
「――――
鮮卑の国境侵犯は手足の皮膚病みたいなもので、
蔡邕は最後に鮮卑討伐よりも中央に
結果は惨敗であった。三将からの定時報告は途切れ、その行方すら分からない。
孫堅はその敗報を聞いて居ても立ってもいられずに、
気持ちだけが
「お前、あの狂人の知り合いか?」
「狂人?」
「面会するのに知らねぇのか?」
こいつも同類だ。看守の男はそれだけで名も知らぬ青年を変人だと決めつけた。
「好きなだけ話していいぞ。話が通じれば、だがな……」
看守は囚人が収監されている小さな監房まで青年を案内すると、そう妙なことを言い残して、その場を去って行った。
洛陽の
自暴自棄に
「闇は
問題の囚人は木製の
「あの……」
こちらの問いかけには反応を示さず、ひたすら一人の世界を
「陰に浸ること
「あの……!」
囚人の男は突然
「……暗黒の
男は見知らぬ訪問者を認め、そう問いかけるやいなや勢いよく
「死人が
あの看守が狂人と口にしたのも分かる気がする。その囚人、
酈炎、
「涿県の
一応、そう名乗ってみたが、
「陽反じて陰となり、正転じて邪となる。故に、我、闇の奔流を見るに至る……」
やはり、狂気をまとった酈炎にはその言葉は聞こえていないようだった。
盧植は現在遠方の任地にあって、帰郷することができない。師の頼みとあらば、嫌とは言えない。しかし、盧植は発病前の正常な酈炎しか知らない。
会話の応対すらできず、ひたすら奇奇怪怪な言葉を並べ立てるこんな状態の酈炎を想像すらしてもいないだろう。話を聞くも何も、まず意志疎通ができない。
「参ったなぁ……」
劉備の困惑をよそに、酈炎はさらにおかしな行動をとった。
「清変じて濁となり、吉移りて凶となる。故に
酈炎はがっくりと
「
「え……?」
劉備はその言葉を聞いて驚いた。游子は旅人のこと、風疾はいわゆるきちがいのことをいう。精神病という意味だ。どこか違う世界に行った者が現実を語るというのだから、今の酈炎そのものである。自覚があるのだろうか。
劉備の驚きを無視して、
「第二に
酈炎のその独り言はなおも続く。
「第四に
「最初に言った虎狼って、どういうことですか?」
劉備が引っ掛かった文句の詳細な解説を求めたが、酈炎はそれに答えることはなく、
「疥癬癒えずして燕雀悲歌し、虎狼の災い迫り来たり……」
また同じ文句をぶつぶつと繰り返すだけだった。もう劉備の声に反応することはなかった。
涿県は涿郡の郡都であり、劉備の故郷である。過疎が当たり前の幽州の都市の中では比較的人口が多い。人通りの多い路地を早足ですり抜けながら、頭の中では周囲の
劉備はその足で盧植の屋敷に向かった。酈炎の状況を伝えるために劉備はその様子に加え、謎の文句を一緒に書簡にしたためて、盧家の人間にそれを託した。
酈炎は確かに狂気を発したかもしれないが、決して意味のない言葉を羅列しているわけではないのではないか。会話にはならなかったが、自分のことを認知していたのかもしれない。
『暗黒の淵……』
なぜなら、劉備は都の近くで大地の裂け目を覗き込んだことがあるし、
『虎狼の災い迫り来たり……』
その文句は夜の洛陽で実際に目撃した事件のことを想起させる。北寺獄に繋がれた時に遭遇した
『もしかして、予言か何かを言っていたんだろうか?』
劉備はすでに郊外の細い
劉備の家は郊外の
「――――俺はいつか皇帝になって、こんな車に乗ってやる」
少年時代の劉備はそう豪語したという。
「お帰り、玄徳」
土壁と
「ただいま戻りました、母上」
帰宅するなり、作り置きしてあった
「玄徳、何をするんだい?」
劉備の母は様子のおかしな息子の行動を目で追いながらも、筵を編む手を止めることはない。間もなく厳しい冬が訪れようとしているのに、母の着物は
「
劉備が母に微笑んで言った。劉備の家系は
劉備の祖父は
父は
「そこまでしなくても」
「いいんですよ。盧先生の用件で、ちょっと遠出をするついでです。売り上げは
劉備はそう言い残して、息つく暇もなく、また家を飛び出して行った。
「気を付けるんだよ、玄徳!」
走り去っていく息子の背中にそう声をかけた。
「よっぽど見込まれたんだねぇ……」
遠くなっていく息子の後ろ姿を見ながら、感慨深く一人呟く母。息子が立派に成長していくことは何よりもうれしいものだ。劉備も盧植など高名な人物に認められる存在となることが劉家を再興させ、母を喜ばせる手段だと分かっているからこそ、義心を胸に危険を顧みず行動するのだ。
劉備は盧植の私塾で儒学を学ぶ過程で、天地と人間の関わり、神秘的な事象を説いた予言である〝
『予言だとしたら、急がないと……』
劉備を突き動かすのは例の酈炎の謎の文句だ。ほとんどが意味不明の言葉の羅列に思えた中、〝疥癬癒えずして燕雀悲歌し、虎狼の災い迫り来たり〟というフレーズだけは理解できたように思う。疥癬は
燕雀は小人物のたとえであるが、悲歌という二字が劉備の記憶を
「――――忠言は届かず、義士は遠ざけられ、
盧植は自身の学生たちに
そして、自らの
燕は春秋戦国時代に後漢の行政区分でいうところの幽州に、趙は幷州あたりに栄えた国家のことで、どちらも北方からの異民族の侵入に頭を悩ませ、防衛手段として長城を建設した。後漢代においても、この時に建設された長城が国境線となっている。
この燕と趙の二国には、かつて世を憂い、悲壮な歌を
鮮卑が長城を越えて幽幷州に侵攻する――――劉備が酈炎の第一の文句をそう解釈して自信を持ったのは、優れた直観力だけでなく幽州人であったことが大きい。
そして、記憶に新しい
薊県城外の青空市場。道を挟んで両側に露店が整然と並び、にぎわいを見せている。劉備もその端に露店を構え、と言っても、ただ売り物の筵を一枚敷いた上に座っただけだが、座り心地の良さと安さをアピールして、筵を売った。
朝から店を出し、売り物が少なかったせいもあるが、人通りの多い薊では昼過ぎまでには全てを売り切ることができた。
「税を支払っても、ほら、だいぶ残っているよ」
城外市の門を出ながら、
「これは徳然の駄賃だ」
「え、いいよ」
「手伝ってもらったのに、そういうわけにはいかないさ。それに、この金と服をしっかり母に届けてもらわなければならないしな」
「じゃ、遠慮なく」
劉徳然はそう言って、劉備の手からアルバイト代と真新しい厚手の着物を受け取った。その着物は劉備が母のために選んで、市で購入したものだ。
「ところで、本当に
劉徳然が劉備の予定を心配したが、それもそのはずである。劉備は酈炎の予言じみた言葉を話していないし、劉徳然は夜の洛陽に人狼を見てもいない。自ら命を
「義勇軍に応募するわけじゃない。ある御方の様子を見に行くだけさ。盧先生の知り合いだそうだから、先生も心配なさっている」
劉備はそう言うに
「そういうことか。じゃ、暗くなる前に僕は戻るよ。無理はしないでよね」
劉備は徳然を見送ると、自身はしばらく城門前の
義勇兵募集の高札には従軍手当てが表示されており、他にも
『やはり、あの予言は正しい。急がないと……あっ……』
劉備は自身の予言解釈に自信を持つと同時に自分のうっかりに気が付いた。
遼西までは遠い。馬を手に入れなければならない。劉備は同じく城外で開催されている馬市に足を運んだ。この二年で馬を一頭調達できる程度の資金は貯めてあったはずが、ちょうどこの時は鮮卑討伐のために軍馬の需要が高まっているとのことで、手持ちの資金では不足だった。
『少しだけ売上金から借りよう。徳然はまだそう遠くに行っていないはずだし……』
劉備はそう思い立つと、走って劉徳然を追いかけた。その間も劉備の頭の中は依然未解読の酈炎の予言がぐるぐると思考回路を巡っていて、横からの気配に気付くのが遅れた。
「危ないぞ!」
その声で
「大丈夫か?」
「はい。すみません、ぼんやりしていて……」
劉備は己の不注意を素直に
「どうした?」
「疲れているんですよ」
近付いてきた劉備が馬の
「馬の気持ちが分かるのか?」
「北の人間は馬に親しんでいますから。少し休ませてあげてください」
相手の男のイントネーションから、北の人間ではないことはすぐに分かった。
しかし、その男、孫堅は劉備の忠告を無視するように聞いた。
「幽州の都に行きたい。どう行けばいい?」
「この道をまっすぐ三里行くだけです」
「三里か」
孫堅は逸る気持ちのまま馬を下りた。馬が動かないのでは仕方がない。馬の方は休憩を知って、
「馬はどうするんですか?」
劉備が孫堅の背中に聞くと、
「お前にやろう」
孫堅は振り返ることもなく言った。言われた劉備はその言葉に驚くとともに、ただで馬を手に入れることができた幸運に手を打った。
劉備が改めて薊城に戻ったのは、間もなく夕闇が辺りを覆い隠そうとする頃だった。
薊県は州都だけあって、幽州内のことはもちろん、中央の情勢など様々な情報が集まってくる。それを求めて集まってくる人もいる。普段は城門前の高札に何人もの人々が目を
いや、それでも一人だけ高札を見つめる人がいる。よく見ると、あの赤頭巾の男だった。
「あの、馬をありがとうございました。遠方に向かわなければならなかったので、助かりました」
「この鮮卑討伐軍はどこへ向かう?」
孫堅はその礼に応えることなく、逆に劉備に問うた。
「義勇軍は州軍に編成されて遼西の援軍に派遣されると聞きました。遼西は今、鮮卑の攻撃を受けているらしいので」
「
「いえ、知りません」
劉備からはそれ以上の情報を得ることはできなかったが、さすがに幽州の州都だけあって、鮮卑についての情報は
討伐軍は緒戦に勝利した勢いを駆って、二千里にも及ぶ長距離を進軍し、敵の本拠地を目指した。だが、結果的にそれが敗因となった。敵に大きな打撃を与えられないまま、補給線だけが伸びてしまったのだ。偽装退却を演じて敵を誘い込む戦法はかつて
正面衝突を避けて漢軍を深く誘い込むことに成功した鮮卑軍は反撃に転じ、騎馬軍団の機動力を生かして伸びきった補給線をあちこちで寸断した。敵地で孤立した漢軍にたちまち動揺が広がって、士気は下がり、もはや討伐どころではなくなった。
こうなると大軍が反って
遊牧民族である鮮卑の支配地にはいわゆる
当時、州軍は常在しなかった。郡はそれぞれ軍隊を持っていたが、郡内での軍事活動が基本となる。郡国をまたぐ大規模な反乱や広範囲にわたる異民族の軍事侵攻があった場合に、州が統括する鎮圧軍や討伐軍が特別編成される。
朝廷はこの危機に
幽州軍は薊県の北西百二十里余り(約五十キロメートル)のところにある
居庸関の始まりは春秋戦国時代に建設された軍事要塞である。秦代に
数日前、そこに
『戦死のはずがない。敵に囚われたというのなら、助け出す。行方が分からなくても、必ず探し出す』
恩ある臧旻の安否をこの目で確かめるまでは、孫堅という男の気持ちが収まらない。
「お前は義勇軍に参加するのか?」
「いえ。でも所用があって遼西に行かなければならないんです」
この混乱に乗じてあの人狼が現れるに違いない。朱震は現在遼西郡に隠れているのだ。
「そうか」
今は無官の身。州軍や義勇軍に従って鮮卑と戦うより、自由に動いて臧旻の行方を捜索した方が良い。遼西に鮮卑。孫堅の腹は決まった。
「よし。では、共に向かおう。私は孫文台だ」
劉備は何やら訳が分からないまま、孫堅に同行を宣言され、ともに今夜の宿を探す羽目になった。これが劉備と孫堅、若き二人の英雄の奇妙な出逢いだった。
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