7. 雑木林を抜けて

「もちろんいろいろ説明できないこともあるけどね。たとえば末広さんが言ったように、飛行機には別の客室乗務員が乗っていたとかね。ホテルの方はルームサービスの担当者に訊けば、本当に香澄さんがいたかどうか教えてくれると思う。まだそれほど日も経っていないし。お寿司屋さんも写真でも見せれば、わかるんじゃないかな」

 玲奈ちゃんはハッと何かに気づいた顔をすると、小さなショルダーバッグから小型ファイルのようなものを取り出した。

「これ、写真。香澄さんの。いくつか選んで持って来ました。わたしが一緒に写っているのもあります」

 渡されたミニアルバムを開くと、クローズアップされたナチュラルメイクの香澄さんが僕に笑いかけていた。

「香澄さん……」

「それ、わたしが一番好きな香澄さんの写真です」

 その次は空港で撮影された客室乗務員の制服を着た全身写真や上半身アップの写真。その中の一枚には末広さんも入っている。あとは玲奈ちゃんとプライベートで食事に行ったり、遊びに行ったりした時の写真のようだ。

「わたし、太郎さんが香澄さんと会っていたことを疑っているわけじゃないんです。むしろ、香澄さんがわたしと太郎さんを結びつける、少なくとも、出逢わせてくれようとしたんじゃないかと思っているんです」

「だから、僕と付き合うべきだと思ったの?」

「そうではありません。太郎さんが太郎さんだったから。それじゃ、意味がわかんないか。つまり、わたしのことをよく理解してくれている香澄さんが、太郎さんのことをよく知った上で紹介してくれたというのが近いかもしれません」

「もしそうなら、僕にも玲奈ちゃんが合うと思ったのかな? 僕は、玲奈ちゃんは僕にはもったいない女性だと感じるから」

「でも太郎さんはわたしのことをまだよく知らないですよね?」

「まあ、確かに表面的なことしか知らない。でもそれは玲奈ちゃんも一緒でしょ?」

「わたし、中学一年の時まで器械体操をやっていたんです」

「そうなんだ。それでほそくて華奢きゃしゃに見えるのに体の芯がしっかりした感じなんだ」

「太郎さんって、観察力が鋭いですよね。記者だからですか?」

「いや、多分逆で、観察力があるからなんとか記者として通用しているんじゃないかな」

「じゃあ、わたしのことをどう思います? 何事もなく、普通に幸せに生きて来たように見えます?」

「そういう質問のされ方をすると、そうではなく思えてしまうけど」

「実際、そうなんです。まあ、それがほかの人と較べて、どの程度ひどいことなのかはわかりませんけど」

「それは、何があったか、訊いてもいいことなのかな?」

「もちろんあまり話したい内容ではないです。でも太郎さんには知ってもらいたい。この話を知っているのは、母親と香澄さんと、もうひとり、体操のコーチだけです」

「コーチって、もしかして男の人?」

 玲奈ちゃんはしっかりとした目で僕を見て、はっきりと頷いた。

「つまり、その……」

「そうです。性的なをされていました。もちろん、いたずらなんて、そんな生易しいものではなかったですけど」

「そうなんだ……。こういうときになんって言ったらいいのか、言葉を持ち合わせていないけど」

「でも、幸いと言うべきかわかりませんけど、最後まではにすみました。その前に母親が気付いてくれて、わたしに何かあったのかと訊いてくれて、それでわたしもようやく母に話せて、母が対処してくれましたから。でも、それ以来、男の人が怖くて」

 黄金色のイヤリングを見ていた玲奈ちゃんは、真剣な目を僕に向けた。

「短大を出て、今の仕事に就いたんですけど、大学時代にひとり、会社に入ってひとり、お付き合いしたんです。大学の頃には嫌な感覚はだいぶ薄らいでいて、周りからの圧力みたいなのもあって、男性と付き合うということもそろそろ挑戦した方がいいのかなという思いもあって。たぶん普通に素敵な人だったんだと思います。半年ほどお付き合いして、それなりに好きになって、でもいざとなったら身体からだ強張こわばってしまって。それでも最後までしてみたんですけど、全然駄目で。なんか、彼にも悪いことをしてしまった感じでした。ふたりめは同期のパイロット候補生からみんなの前で告白されて、断れる雰囲気ではなくて、もちろん人間的には好きだったのでお付き合いさせていただきました。一人目の人と違って、経験豊富だったみたいなんですけど、やっぱり駄目で」

 そこまで話すと玲奈ちゃんは空を見て、小さなため息をついた。

 もし玲奈ちゃんの言うように香澄さんが僕に玲奈ちゃんを紹介したのだとすると、それはどういう意味なのだろう。妹のような玲奈ちゃんと弟にしたかった僕をくっつけたかったという単純なことではないのだろう。確かに僕はそういう経験をした女性だからといって拒否したり、特別な目で見るタイプではないけれど、でもだからといって、そういう女性をちゃんと幸せにできるかどうかというと、それはまったく自信がない。というか、どういう女性でも幸せにする自信はない。少なくとも今のところは。

「仮定の話で悪いけど、もし玲奈ちゃんが香澄さん抜きで僕と会っていたら、恋人にしたいと思ったかな? 例えば、客として空港で対応したとか、そうだ、松田さんの先輩として紹介されたとか」

 玲奈ちゃんは冷静な瞳で僕を見た。

「どうだろう? 少なくとも悪い印象は持たなかったと思います。でも好きになったかというと、たぶんすぐには好きにはならなかったと思います」

「正直な意見をありがとう。そうだよね。普通に僕もそう思うよ。でも現実は香澄さんを通してこうして出会ったんだから、そんな話をしても無意味かもしれないけど、つまり僕は玲奈ちゃんが魅力を感じるような男ではないんだ」

「それは違うと思います。あの、わたし、こうして太郎さんと話せば話すほど、どんどん好きになってる。わたし、あれ以来、自分から男の人を好きになったことってないんです。自分でも信じられないくらい、向かって行っているんです。だからかえって引かれてしまっているのかもしれませんけど」

「引く、とか、そんなんじゃないんだ。ただ、玲奈ちゃんの恋人になれる自信がない。それだけなんだ」

「そんなのなってみないとわからないじゃないですか」

「まあ、そうだけど」

「じゃあ、わたしと一度、セックスしてください」

「ちょっと駄目だよ、そんな。香澄さんの妹のような人とそんな簡単にセックスなんてできない」

「わたし、嫌なんです。このまま一生を終わるの。ずっと男の人が怖いまま」

「だけど僕としたからって……それに僕は経験が多い方ではないし」

「でも香澄さんは満足したんですよね? 違うんですか? わたしのあの夢が太郎さんと香澄さんの現実とシンクロしていたとするなら、香澄さんは絶対にそうだったはずです」

「まあ確かにあの時はうまく行ったと思う。でも特に一度目は香澄さんの要望のままにしていただけだし」

「二度目は?」

「二度目は僕のしたいようにして欲しいと言われて、そうした。だけど、それだって、香澄さんの反応を見ながらの手探りだったし、一度目で香澄さんがどうされるのが好きかなんとなくわかっていたから」

 玲奈ちゃんは冷ややかな声で「ふぅーん」とだけ言った。それからその声にはそぐわない柔らかな微笑みを浮かべた。

「わたし、一時、パイロットになりたかったんですよ」

「え、なに、突然」

「映画で『トップガン』ってあったじゃないですか? トム・クルーズ主演の」

「ああ、うん」

「高校三年生の時だったかな。あれであんな風に空を飛べたらなって思って。だからまあただの一時的な憧れみたいなものだったんです。あと、あの映画でトム・クルーズが赤いバイクに乗ってたじゃないですか」

「ああ、カワサキのニンジャってやつ。そう言ってもわからないか」

「あ、バカにしてます?」

「いや、そんなことないけど、普通、女性は車名まではあまり知らないかなって思って」

「知っているもなにも、わたし、カワサキに乗ってますから」

「え、ニンジャに? GPz900Rってこと?」

「あ、太郎さん、バイク乗るんですか? よくご存知ですね」

「大学時代に乗ってたから。うそ、ほんとにニンジャに乗ってるの?」

「少しは、わたしに興味を持てました?」

「そんな、玲奈ちゃんに興味がないなんて言ってないよ。ほんと、もしただの友達だったとしても、嬉しいくらいなんだから」

「そうなんだ。なんか、太郎さんて、ちょっと複雑」

「え、どこが?」

「だって、友達でさえ嬉しいのに、恋人になるのは拒否するんですから」

「つまり、それだけ玲奈ちゃんを恋人にするのは僕にとってハードルが高いことなんだよ」

「なんかよくわかんない。まあそのことは置いておいて、カワサキはカワサキですけど、900じゃなくて、GPX250Rというヤツです」

「あ、知ってる。そうなんだ。それにしても意外だな」

「250だけど、カウルの下の方に、Ninjaって入ってるんですよ」

「いつから乗ってるの?」

「三年くらいです。香澄さんの結婚のタイミングとほぼ同じですから。別に失恋のショックじゃないですよ。そもそもあの夢まではそんな感情があるなんて少しも思ってませんでしたから。ただ、香澄さんと遊びに行ける機会は減るだろうし、いつか挑戦してみたいと思っていたから、いいチャンスだと思って」

「そうなんだ」

「太郎さんって、もしかして男子校? なんか、バイクの話になったら、急に親近感を持ってくれたみたい」

「うん、男子校。だからまあ女性との距離感はうまく測れないかも。確かに玲奈ちゃんがさっきまでと違って見えてきた。それにずいぶん前向きな性格なんだなとも思った」

「この雑木林って、どのくらい続いているんですかね?」

「どうだろう。まあ少なくとも出口は見えてないけど」

「あの、お願いがあります」

「なに?」

「この雑木林が終わるまで、わたしと手を繋いで、歩いてもらえませんか? もし、雑木林から出るまでに太郎さんの気持ちが変わらないのならば、恋人にしてもらうことは諦めます。もちろん、それでも友達ではいてくださいね」

「もちろん友達でいることは僕だって歓迎だけど……」

「だけど?」

「わかった。でもすぐに出口かもしれないし、もしかすると永遠に出られないかもしれないよ」

「永遠に出られないなら、それでもいいです。どうせ今のままなら、永遠に出られそうにないから」

 まるでこれから冒険にでも出かけるみたいな真剣な面持ちで僕を見て、そして、すっと僕の左手を握った。

 僕は玲奈ちゃんの右手をそっと握り返した。

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