待ち針

机田 未織

待ち針


 三津みつさんが素敵な手芸用品店を見つけた、としおりを誘ったのは木漏れ日の紅い光射す午後だ。

 いつもなら日曜は大抵家にいて明日からの仕事の日々に備えるはずが、今日はなぜか三津さんの方から提案があった。

「いくら家の中でできる仕事だとしても時々外に出てお日様の顔を見ようよ。ぼく、昔おばあちゃんに言われたよ。お日様の顔が自分で見られなくなったらお終いだって」


 栞はなぜか、三津さんのおばあちゃんになったような気持ちで、覚えててくれたのね、とうなずく。


 車で連れられて行ったのは殆ど行くことのない市街地だった。

 しばらく混雑した道路を進んだが、一方通行も多く細道だらけで、駅前の駐車場に車を停めて、ふたりは歩き始める。


「駅の辺りは良く知ってるけど、ここまで来たことはなかった。案外急斜面にコマゴマとお店がひしめいているのね」


 通りはやがて普通の住宅ばかりになり、大きな木がにょっきりとアスファルトから突き出していたり、立派なお屋敷の門の奥に背の高い犬が寝そべっていたりした。

 延々古い煉瓦塀が続いたあと、不意に季節外れの風鈴がぶら下がり看板が顔を出す。


『待ち針』


凝った飾り文字は刺繍を施され重なり合った糸のように見える。


 三津さんはドアをそろりと開けた。小さな間口はドアとその横のショーケースが占めている。けれど、中はがらんどうで、白いレースの縁取りの施された小さな枕が転がっているのみだ。

「こんにちは」


 無人の店内に三津さんの声が響く。返事はない。そこはいつかふたりで行った、外国の、小さなホテルのロビーに似ていた。思い出す記憶には大抵雨が降っている。大雨の中辿り着いたのに受付には誰も現れなくて、延々待ったロビーの床が自分たちの服から滴る雨でどんどん水浸しになっていく。一部タイル敷きの所があって、鉢植えがいくつか並んでいた。その観葉植物の根元はカラカラに乾燥している。栞は鉢の土の上でスカートの裾を広げた。木綿の生地の裾から、ぽつん、ぽつん、と雫が垂れる。スカートが雨そのものになったみたいでちょっと誇らしかった。濡れた部分は暗くくすんで重く石の表面のように頼もしかった。


「あの日、雨だったね」

 栞は思わず呟く。

「あ、ちょっと思い出したの。ほら、似てない?いつか行った小さなホテル。あれ、どこだったかな、ええっと」

 タイルを目で辿りながら思い出を探る。

「ああ、わかるよ、あそこだよね、ええっと」


 二人して思い出す。座り心地のよさそうな二人掛けのソファが窓際にある。生地は真新しいが何となく空間に馴染んでいて、古いソファをリメイクしたのでは、と勝手に考える。

 吸い込まれるようにそこに座りかけたとき、三津さんが言った。

「あ、ねこ」


 素っ頓狂に響く。多分指をさしているのだろうけれど、声によって、その指はきっとこっちを向いているのだろうと目で確認するより先に耳が感じる。案の定、あっち、とさしたままの三津さんの指の先には小窓があってガラス越しに猫が見えた。小窓いっぱい、はりつくように寝そべる猫のおかげで、向こう側がどうなっているのか全く見えない。

「どうやってあっち側へ行くの?」

 店の入り口から入ったはずなのにここはひとつも「お店」らしくなく、延々無人の待合のような場所で待っている。

「夢の中みたいね」


 そういう夢をかつてみたように栞は言った。

「行きたくても行けなくていつまでもぐるぐる回っているような」


 まだ、ぐるぐるさえしていない。ただじっと待っているだけだ、

と、多分三津さんは思っている。そう考えながら小さな小窓をふたりして凝視しているうちに、音もなく別の猫が現れていた。ほっそりした、黒猫だ。猫はずっと前からいたように不覚にもこちらを見ている。さらにまた、別の猫がごろんと転がりながらショーケースから出て来た。そうしてゆったり背伸びをした。


「ああ、枕」


「ああ、はい、枕。ねこちゃんのだったのね」


 枕の持ち主がわかって見知らぬ場所でひとつ、安心する。

「一旦出てみよう。もしかしたらここ、入口じゃなかったかもしれない」

 三津さんの提案でくるりと振り返ると猫に会釈をし、今入ったドアから出る。通りには木陰が被さり揺れる影は時間をも揺さぶるようだ。


「『手芸店 待ち針』、うん。ここで間違いない」

 道路の向こう側にこの辺りの地図を表示した看板が立っていた。

「古い団地かしら。苗字が一軒一軒に書かれてる」

 すごろくのような升目に小さく律儀なペンキの文字が並ぶ。田中、渡辺、中西、岩堂、松永…。

「大きなお屋敷は田中邸だ。すると順番的にいって、」


「まちばり」


「あるよ。なんでひらがなかわからないけど、ある」

手書きだが個性を消し去った明朝体の文字は升目の線に決して触れることなく最大限空間を活用し、「まちばり」と綴る。

「もう一回行ってみる?」



 改めて扉を開ける。


 廃墟だった。

ボロボロのソファが目の前に佇む。


もうずっと前にいなくなった夫と、それよりずっと前にいなくなった猫たちが出てきた夢を、もういちど見たくてわたしは目を閉じる。


                おわり

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待ち針 机田 未織 @mior

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