永久連理のネオバビロン

鹿島さくら

ネオバビロン・ザ・イモータル

 倫理退廃都市ネオバビロンの噂。 

 人類はついに死を克服し、不老不死を手に入れた!……らしい。

 真偽のほどは不明。


 なぜなら、誰にも知られず不老不死の理論にたどり着いたたった一人の天才科学者本人がその研究資料のすべてを破棄して自殺してしまい、たった一人の被験体は研究所から脱走してしまったから。


 被験体の男は、ネオンサインに彩られた違法建築の立ち並ぶいびつな大都市ネオバビロンを自由気ままに渡り歩いた。

 ネオバビロンは毎日がお祭り騒ぎ。金銭と流血に飾られて、倫理はとうに化石になって、司法も警察も形無しの街。男はあちこちで起こる暴力沙汰に出没した。首を落とされても内臓を破壊されても翌日には別の場所で目撃されるその男の噂は人々の間に密やかに広まった。


 だが、所詮は噂だ。騒がしく忙しないネオバビロンでそんな胡乱な話を真に受ける者は少ない。皆、自分のことで精いっぱいなのだから。けれど、あれは正真正銘本物の不老不死だと確信したごく一部の人々は躍起になった。あの被験体を捕まえて調べ尽くせば富も名声も思うがまま。万が一不老不死にいたる理論そのものを解明できなくても副産物が得られるだろう。それすらできなくても、被験体を生き神にでも仕立てあげて長寿健康を授ける新興宗教を起こせば一財産稼げるだろう。


 生き神はそこに座っている。

 きらびやかに飾られた台に乗った分厚いクッションの上、不老不死を得たその男が。


 年恰好は二十代半ば。ストロベリーブロンドの癖毛、長いまつ毛に縁どられギラギラと滾る目、その輝く琥珀色の瞳、ふっくらとして妙に艶っぽい唇。この街では珍しく、入れ墨も機械化もしていない身体。オーバーサイズ気味のタンクトップの上に白いファーコートをだらしなく羽織り、色白の肩を晒して、黒いスキニーパンツにヒールのついたショートブーツ。おまけに神聖さのアピールなのか首や手にアクセサリーを着け、頭には冠のようなものを被っているが、装飾過剰でかえって猥雑な感じがする。


「いや……崇拝の対象にしては俗っぽすぎるだろ」

 思わず正直なところを声に出してしまった沢巳(さわみ)ジョウウンは鋼の手で口元を抑えて咳払いをし、薄い唇を固く閉じた。

 参拝者のふりをした記者であることがばれたら、壁に張り付いている信者兼警備員にこの場からつまみ出されて、新興宗教潜入レポが書けなくなる。本業である探偵業(という名の何でも屋)への依頼など乏しい今日この頃、ゴシップ紙の新興宗教儀式潜入レポの原稿料が出なければ沢巳は今度こそ飢え死にしてしまう。


 警備員たちが、四肢を機械化し戦闘技術を身に着けた沢巳に敵うはずもないのだが、トラブルがあれば生き神の安全確保のためにも儀式が中断するのは明らかだ。冷やかし厳禁のこの場に入るための抽選会を突破すべく行った数々の努力を水泡に帰すわけにもいかない。


 しかしそんな沢巳ジョウウンの不敬な言葉を咎める者はいない。周囲の参拝者たちは生き神の顔にぽうっと見入っている。

「生き神さま」

「ご神体さま」

 口々に呟き、彼が目を細めて微笑すればため息をつく者すらいる始末。


「なんて美しい男だ、心が洗われるようだなぁ」

「まったく、寿命が延びるような思いとはこのことだろうねぇ」

 参拝者たちは涙を流しながら囁き合い、手を合わせて拝み始めた。なるほど確かに、人間の顔に対する美醜の感覚が疎い沢巳から見ても惚れ惚れするような美貌だ。


 事前に入手した情報によると、これからあの生き神による「御開帳の儀式」が行われ、それが終了すると参拝者には”ご神体の毛髪”や聖水、薬草が与えられる。信者たちはそれを大切に持ち帰り、決められた量ずつ調合して日に一度服用する。これで永遠の具現であるあの生き神の恩恵にあやかり長寿健康、ついでに開運間違いなしというわけだ。実際、病が治っただとか体調が良くなったとかでこの教団はここ数か月で信者の数を一気に増やしている。その勢いたるや、ろくに機能しなくなった警察でさえ調査と摘発の準備を行っているという噂が立つほどである。


(信者の長寿健康は薬草の効果だろうが、イワシの頭も信心からと言うし……)

 逆に言えば信心が無ければ何もかもだめ、という話なのだが。


 沢巳の見立てではこの新興宗教は警察の介入が無くともあと数か月で崩壊する。

 この巨大都市ネオバビロンはとうの昔に敬虔さを捨て、かつて確かにあったはずの神仏の威光は影も形もない。けれど人間というものはふとした瞬間、どうしようもない瞬間、つぶやくのだ。「助けて神様」と。信仰を忘れたはずのこの街は存外律儀で、その場しのぎの祈りには急ごしらえの神を用意してくれる。これまでに現れた安上がりな神々の寿命は良くて一年そこら。だからあの美しい神もせいぜいあと数か月の命だろう。


 沢巳がそんなことをぼんやりと考えていると、不意に周囲に甘い香りが漂い始めた。果実が熟れて腐り落ちる寸前に放つような、むせかえるような香り。詳細は不明だが酩酊状態をもたらす薬品だろう。古来より、宗教儀式と薬物は切り離せない関係にある。この退廃都市ネオバビロンなら尚更だ。


 周囲のざわめきが止んだ。奥から盆を持った女と老爺がしずしずと現れたからだ。神官らしき老爺が生き神のそばに立つと鈴の音が響き、それを合図に美貌の神はファーコートとタンクトップを脱ぎ、裸の上体を惜しげもなく衆目に晒した。

 見事な身体だった。参拝者たちは言葉もなく息をのむ。程よく鍛えられ筋肉の付いた身体は古代の彫刻のように均整がとれている。生き神が慈悲深く微笑めば人々の視線は彼にくぎ付けになる。   


 張り詰めたような静寂の中、神官の老爺はナイフを手に取ってかざした。天井から吊るされた照明を受けて刃が鋭く光る。その閃光はまっすぐに生き神の胸をめがけて落ちた。


 瞬間、赤が散った。


 生き神の胸にナイフが刺さっている。

 永遠の具現は眉をしかめることも無く、呻き声ひとつあげなかった。強いて言うなら、恍惚とした表情で喘ぐようにかすかに溜め息を漏らして仰向けに倒れる。とめどなく血が滴って、白いファーコートが赤く染まっていく。


 参拝者たちはその一連の流れを言葉もなく食い入るように見つめている。人々の熱気で果実のような香りはいっそう甘く、血の香りを孕んで大衆を酔わせる。

 倒れたご神体の胸に突き立てられたナイフが赤く染まった胸を深くえぐる。誰も彼もが厳粛な顔をする中、ご神体の男だけが笑っていた。色白の頬を薔薇色に染め上げて陶然と微笑み、時折悩ましげに眉間にしわを寄せて長い睫毛を伏せ、吐息の合間でこらえきれないとばかりに声を漏らす。


 沢巳は苦く笑う。何が「長寿健康を授ける」だ。「永遠の具現」だ。快楽の化身の間違いだろう。


 周囲の空気が波立った。ご神体の裂かれた胸に神官が皺だらけの手を侵入させたのだ。そうして神官は厳かな手つきで取り出したものを高く掲げた。


 生き神の心臓。


 それは照明を受けて赤く輝き、脈打ち、血を滴らせながら女の捧げ持つ盆の上にうやうやしく安置された。


 なるほど確かに御開帳の儀式だ。だが、それどころじゃない。

(何なんだ、心臓をまるごと抜かれてずっと笑っているあの男は……)

 沢巳は思わず台座に寝そべる男をにらみつける。すると、生き神の生気に満ちた目が彼をとらえて細められた。ニタリと吊り上がったくちびるがかすかに動く。何を伝えたいのかは分からない。


 静寂を破るように鈴の音がした。それを合図に生き神は物憂げな顔にささやかな笑みを浮かべて起き上がる。

 信者にどよめきが広がった。


 生き神の割り開かれた胸の奥、その空洞でちぎれた血管が編みなおされ新たな心臓が生まれ、裂けた傷がふさがっていく。技術が発達したこの時代、身体を機械化した者が日常に溶け込んだこの街においてもそんな技術は存在しない。


 奇跡だ……。

 呟いたのは誰だったか。声のした方にちらと視線を向ければ少年がいる。他の参拝者ほど香りに浮かされている様子はない。奇跡、その小さなつぶやきはさざ波のように人々の合間に広がって次第に場内を埋め尽くす。

 奇跡だ! 奇跡だ! 奇跡だ! 奇跡だ! 


 合唱を浴びて永遠の具現が優しく微笑むと、あの少年にならって人々はその場で一斉に膝をついて深く頭を垂れた。沢巳も一拍遅れて頭を下げつつ台座に座った彼を盗み見ると、こちらに気が付いてウインクを送られた。それが酷く様になる。こんな宗教団体の椅子に大人しく座るよりもホストクラブのソファの方がよほど似合っている、そんな雰囲気の男だ。


 天井から布が垂れて参拝者の視界から生き神を隠すと、ようやくその場の興奮は収まってあとはお待ちかねの健康グッズ配布タイムとなった。だがその列に並んだ沢巳は目を見張った。参拝者に配られる”ご神体の毛髪”と薬草はともかく、聖水はあの時盆の上に溜まったご神体の血を水で薄めたものである。こういう時は聖水と称して水道水を配布するのがセオリーだ。それを考えるとこの教団は随分真面目と言える。戸惑いながらそれらを受け取った沢巳は施設の中庭に出た。


 昼時の中庭は信者たちや参拝帰りの者たちが憩う場であり、儀式終わりの今は入会手続きの会場にもなっている。手続きの列に並んでみるか信者からここの詳しい話を聞くべきか、沢巳があたりを見回していると背後から手を引かれた。

「そこの男前のおにーさん」


 振り帰ると、ローブ姿の男が立っていた。教団のロゴが刺繍されたフードを目深にかぶっていて顔はよく見えないが、声から若い男だと察せられる。腰のベルトに大振りのナイフが下がっているのが見える。護身用武器の携行はこのネオバビロンに生きる者の嗜みだ。


 沢巳は黙り込んで首をかしげる。少しの間があってから、真顔でポンと手を打って「俺のことか」と目を丸くした。

「そういう風に言われたのは初めてだ」

 沢巳の本心だった。そのとぼけたような反応に、ローブ姿は肩をすくめる。

「冗談きついぜ、世の男共の立つ瀬が無くなっちまう」


 それももっともな反応で、沢巳ジョウウンの容姿は整っていると言って差し支えない。ただ、沢巳の人間の顔に対する美醜感覚の疎さは彼自身にも適応されている。

 鋭く理知的な光をたたえた銀灰色の瞳、凛々しい眉に引き締まった頬、すっと通った鼻筋。黒い髪は襟足を刈り上げて清潔感があり、浅黒い肌は健康そのもの。モッズコートを着た体は鍛え上げられて厚みがある。美丈夫と呼んで差支えないが一九○センチ近い巨体と表情のとぼしさ故に彼の周囲には張り詰めたような空気が漂う。そのうえ四肢は機械化されており、戦闘にも十分に対応できる銀色の手がコートの袖から覗いている。そこらのチンピラなら思わず彼に道を開けるだろう、そんな威圧感がある。


「話がしたいんだろ? こっち来いよ」

 しかしローブの男はそんなことに構いもしない。沢巳の返事も聞かずに彼の鋼の手を引いて教団の建物内部へと導いていく。ひび割れたコンクリートの階段を上るあいだローブの男は始終無言で、それにつられて沢巳も口を閉ざす。最上階にたどり着くと案内人は最上階の廊下の最奥の扉に手をかけて中に入った。


 安いモーテルのような簡素な部屋だった。窓際をベッドが占領しているせいか、いやに狭く感じる。沢巳が巨体であることや、全体的に散らかっているのもその印象に拍車をかけているのだろう。床には服が脱ぎ捨てられ、家電のコードや新聞が落ちている。そばの小さな机の上にはアイライナーやリップスティック、香水や最新のファッション誌に古ぼけた文庫本などこまごまとしたものが乱雑に置かれている。沢巳が唖然としていると、案内人は厚い木製の扉を閉めてローブを脱いだ。


 現れたのは輝くばかりのストロベリーブロンドの髪。長いまつ毛に縁取られて生気に満ちた目。

 間違いない、あの台座で心の臓を抜かれてなお微笑んでいた男である。そう、この教団の生き神本人。永遠の具現体。


 こうして並び立ってみると沢巳に比べて、彼の方が十センチほど背が低い。けれどそれを補ってなお余りある存在感を放っている。

「何を呆けた顔してんだ、さっきは俺のこと熱心に見てたくせに。何か知りたいことでもあるんだろ?」


 なあ、ゴシップ屋さん。

 生き神は笑いを含ませて囁いた。


「本業は探偵だ」

「似たようなもんだろ」

 ケタケタと笑った生き神は窓辺に置かれたベッドに腰かける。しわくちゃのシーツの上に放置されていたタバコの箱を掴むと自分の分を抜いて火を点け、沢巳にも寄越しながら己の横を叩いた。座れ、ということらしい。


「生き神のくせにずいぶん庶民的なタバコだな」

 沢巳が指定されたところに腰を下ろして皮肉を言ってみるが、当の本人は気にした様子すらない。

「好きなんだよ。信者連中から貰いやすくて」

「カツアゲだろう、それは」

「良いだろこれくらい。幹部の金儲けに付き合ってやった上に参拝者への土産は文字通りの出血大サービスなんだぜ?」


 言われて、紫煙を吐き出した沢巳はポケットに突っ込んでいたお土産セットを取り出した。生き神はベッドの近くに掛けてあったシミひとつない白いファーコートを引っ張ってきて鼻歌まじりに自身の肩に羽織る。彼のお気に入りらしい。あの台座の上では真っ赤になっていたことを考えると、最近新たに開発された撥水性や防汚性に富んだフェイクファーでできているのだろう。


「聖水はともかく、この生き神の毛髪とやらは本物か?」

 沢巳が配布されたブロンドカラーの毛をつまみ上げて問えば、生き神は灰皿を引き寄せながら笑う。

「ンなことしてたらハゲになっちまう」

「薬草は?」

「それはたぶん本物。あの神官の爺さん、若い頃は漢方屋に勤めてたらしいから」

「あの時最初に奇跡だって言った子供はサクラだろう?」

「正解、何で分かった?」


「儀式の最後、周囲の参拝者がアンタにかしずくように誘導しているように見えた。それに、あの場に充満していた甘い香りは薬物の類だ。しかも新興宗教団体御用達のダウナー系。あの子供はほかの参拝者ほどあれに酔ったような雰囲気が無かった。そうなると、教団内部の人間だと考えるのが自然だろう」


「……お前は平気そうだったね」

 目を細めたご神体はささやくと、いたずらな指先で隣に座る男の顎をくすぐってみせる。沢巳は咥えていたタバコを口から離し、己の機械の手でちょっかいを出す指を丁寧に引き剥がした。そしてきわめて平坦な声で言う。

「幼い頃からの訓練で薬物への耐性がある。あの程度問題ない」

「その腕もの賜物か?」

「今となっては重宝している。痛みも感じないし、内蔵エネルギーパックの位置を入れ替えることでこの身体から外して超スピードで噴出させたりできる。あれだ、いわゆるロケットパンチだ」


 とつとつと語る沢巳にそうか、とただ一言。ご神体の男は目を伏せて微笑みながら静かにつぶやき、それ以上何かを言う様子もない。髪と同じ色素の薄い、長いまつ毛が目元に薄く影を編んでいる。


「……こんなにペラペラ教団のことを話すとお立場が危うくなるんじゃないか、生き神さま」

 沢巳は何気ないような声色で言いながら少し短くなった煙草を灰皿に押し付ける。


 今回の新興宗教潜入レポは御開帳の儀式の一部始終と、生き神についてのレポートだった。信者から生き神にまつわる詳しい話が聞ければよいと思っていたが、その本人に接触できたのは幸運だった。だが都合よく事が運び過ぎていることは警戒の対象だ。調子に乗っては足元をすくわれるのが世の常、このネオバビロンではなおさらである。


 生き神はハ、と短く声を上げてわらい、言い捨てた。

「どうでもいいね、何もかも」

 酷薄な笑みがその美しい顔を彩っている。

「俺のこともお前のことも教団のことも、面白くて気持ち良けりゃ全部どうでもいいよ」

 言いながら生き神はベッドに倒れこむ。それに合わせてグイと沢巳の武骨な機械の腕を引いた。沢巳は彼に覆いかぶさるような形になって、腕をついた白いシーツの上にストロベリーブロンドの髪が散っているのが目に入る。ついでに服がめくれあがっているのも。


「それで、他に聞きたいことは?」

 燃えさしの煙草をくわえて生き神はかすかに笑い囁く。

 服の下、傷ひとつない裸の胸を覗かせながら。


「……心臓を引き抜かれたんだ。死ななくても痛みはあるだろう」

 不老不死の男は沢巳の言わんとしたことを理解して声を上げて笑った。

「あの変態科学者のおっさん、人情ってものをよく理解しててな。俺を不老不死にする実験の過程で、度を越した痛みは快楽になるように神経を弄ってくれたんだよ」

 臓器バイヤーとか拷問が趣味の奴につかまってもとりあえず大丈夫なようにさ、と彼はケロリと言ってのける。


「痛いのはかわいそうだからって気ィ利かせてくれたんだ。あのおっさん、親切だけどそういうところが気持ち悪かったんだよな」

 不老不死は天才科学者を罵りながらもどこか懐かしむように喉を震わせて笑う。

 そんな男を組み敷きながら、沢巳は自身の耳の後ろ側がカッと熱くなるのを感じている。


「……怖い顔してるぜ、おにーさん」

「まさか最近噂の新興宗教団体の生き神さまの好みが公開羞恥プレイとは思わなくて」

「お前が必死に見つめるからだろ、昂った」

「責任転嫁もいいところだな」

 美しい偶像は腕を伸ばして灰皿に短くなった煙草を押し付けた。それから長い脚を持ち上げ沢巳の腰に絡ませる。布越しに伝わる互いの生身の体温がじんわりと温い。


「なあ、お前、名前は?」

「沢巳ジョウウン」

「どうだ、いくか? 袖振り合うも他生の縁というだろう」

縁の結び方は全部初めてだ」

 沢巳は顔色一つ変えずに言ってのける。


 誰も彼もが欲望に身を任せて享楽をむさぼるこの街において、己の身体を相手に預けることは敵対の意思がないこと、気に入っていることを証明するための最も簡便な行為であり、このネオバビロンでは重要なコミュニケーションのひとつである。だが、沢巳はその手段を使ったことがないという。

「……泥中の蓮とはお前のためにあるような言葉だな」


 沢巳の下に収まった体温が呆れたように、けれど優しく笑った。そのまま生身の白い手を伸ばして沢巳の褐色の頬に触れようとしたその瞬間、扉の向こうから銃声が聞こえた。


 二人が態勢を変えるよりも早く、バタンと大きな音で部屋の扉が開かれた。

 武装した男が立っていた。

「ここにいたか、三鷹」

 闖入者が低い声で言う。それを合図に、その後ろから同じく武装をした者たちが十人ほど部屋に流れ込んでくる。


 このネオバビロンの街の例に漏れず、身体の一部を機械化することで強化した武力集団。サメをモチーフにした青いロゴマークの腕章が彼らの身分を証明している。少数精鋭で知られる傭兵のアオサメ団。口の堅さとその確実な仕事ぶりで有名で、総員四十名。この部屋にいない団員は廊下や階段の警戒にあたっているようだった。


「三鷹?」

 沢巳が首をひねると、組み敷かれたままの生き神はにっこり笑って自身を指さした。

「俺のことだよ。ハーライ・三鷹・ユリアン。俺の名前」


 そんな会話を無視して、アオサメ団は三鷹と沢巳をすばやく包囲し銃を向けた。

 このネオバビロンという無法の街では『稀によくある』ことだ。

 狭い室内、退路は背後の窓のみ。沢巳はチラと窓の外に目を向けるが、そもそもこの部屋は建物の五階。絶体絶命というやつだ。


「で、アオサメ団なんかが俺に何の用だ? 出歯亀にしちゃあ堂々とし過ぎだぜ」

 しかし三鷹は焦る様子もない。沢巳を押しのけて起き上がり、銃口に囲まれながら己のくちびるを舐めていやらしく笑った。

「それとも何だ、混ざりたいのか?」


「ふざけるなよ」

 ガシャン、と銃の安全装置を外す音。このアオサメ団のリーダー、ホージョという男は舌打ちして苛立ったように言った。

「我々の目的はお前をハートリングに届けることだ。痛い思いしたくなけりゃ付いて来てもらおうか、不老不死の生き神サマ」


 ハートリング、この倫理退廃都市ネオバビロンの臓器売買市場を取り仕切っている巨大企業グループだ。その末端は賭博、風俗、金融、保険と様々な形でこの堕落した都市に根を下ろしている。敵に回せば厄介な相手であることに間違いはない。

 この状態で一体どうするのだろうか、と沢巳が隣の男を見ると彼はファーコートから晒した肩をかすかに揺らしていた。


「痛い思い?」

 かつて被験体だった男は聞き返した。その声にわずかな笑いが滲んでいる。

「ああそうだ、銃弾の数発は覚悟しておけ。残念だったな、俺たちが少し脅したら腰抜けの信者連中はあっさり道を開けたよ」

 アオサメ団頭領ホージョはこれで脅しているつもりなのだろう。だがそんなものはこの三鷹になんの効果ももたらさない。沢巳は内心でアオサメ団と言うよりむしろ三鷹に呆れている。


「ハートリングの奴らも俺のこと全然分かってねえのな」

 不老不死は小馬鹿にしたように短く笑ってベルトに挿していたナイフを取り出す。その反抗的な動きを傭兵たちが許すはずもない。


 ホージョの撃て、の掛け声。


 沢巳は、思わず。

 何か考えるよりも早く。

「伏せろ!」

 不老不死と噂される男を突き飛ばす。


 突き飛ばされた方は目を見開いて唖然とした。もちろん、この予想外の展開においてもハートリングの遣いが発砲を止める由はない。容赦もない。手加減もない。


 沢巳は胸や腹を中心に銃弾に貫かれ、血しぶきを上げながらベッドに倒れこむ。

(……我ながら愚かなことだ、不老不死をかばうなど。おれには何の関係もないのに)

 ぼんやりした意識で沢巳はそんなことを考える。

(だめだ、瞼が重い。体が熱いのに寒い……)


 彼の体からは鮮血があふれて留まることを知らない。このまま放置すれば出血多量で死を迎えることは誰の目にも明らかだ。だがアオサメ団はそんなことに構いはしない。照準をすぐさま美しい生き神に合わせて発砲した。


 三鷹の不老不死の身体は銃弾に削げ、ちぎれ、再生する。それを数度繰り返すうちに彼は身体をのけぞらせて吐息を漏らし、頬を紅潮させる。突き飛ばされて唖然としていたはずの顔には笑みが浮かび始めている。そうして銃弾の雨が止むと勿体ぶったような仕草で、けれど迷いなく自身の胸をナイフで開き己の心臓を引っ張り出した。本日二度目の御開帳である。


 それにぎょっとしたのはアオサメ団の傭兵たちである。

「イカれてるぜ、この男……」

「ハチの巣になっても笑ってやがる」

「気味が悪いな、何なんだよ不老不死ってのは」

 もはやアオサメ団はあっけに取られて事態を見守るしかない。余計な口出しをする者はただのひとりもいなかった。


 当の不老不死本人は周囲の声に構いやしない。脈打つ自身の心臓を手に、冷え始めた沢巳の身体に馬乗りになって彼にくちづけした。

 沢巳の口内に三鷹の柔く温い舌が入り込み、唾液が流し込まれて沢巳はそれをわずかに嚥下した。


 瞬間、弱っていた沢巳の脈拍が力強いリズムを刻み始める。

 それを確認した三鷹はわずかに微笑み、涼やかな声で囁いた。 

「お人よしだな、不老不死をかばうなんて。面白いやつ」

 そうして、三鷹は悠々とした仕草で、今度は沢巳の胸をナイフで割り開いた。


 沢巳の口から絶叫がほとばしった。いや、絶叫というより咆哮に近い。死の淵に立つ者とは思えない声である。機械化した四肢がギクンギクンと暴れだし、さすがの傭兵たちも顔をしかめた。あたりに充満した血の匂いと相まって、とうてい直視できたものではない。

 けれど構わず、三鷹は沢巳の血を流す裂け目に手を突っ込み、彼の心臓を引きずり出した。


 沢巳は自分の中で血管がちぎれる音をかすかに聞いている。だがもう何が起きたのかを理解していない。熱いのか寒いのか、生きているのか死んでいるのか、それすら分からない。ついに意識が途切れそうになった瞬間、心底楽しそうに笑う声がいやにはっきり彼の耳に届いた。

「お前に俺の心臓をくれてやるよ」


 何か無遠慮に彼の体内に侵入した。

 三鷹の、不老不死の心臓だ。


 異物であるはずのそれは不思議と沢巳の体に馴染み、痛みが遠のき、次第に意識がはっきりし始める。

 クリアになっていく彼の視界に飛び込んでくるのは舌なめずりして満足そうに笑うストロベリーブロンドの美貌。思わず沢巳は苦笑する。こんな男が生き神だなんてよく言ったものだ。淫魔と名乗った方がまだ納得がいく。

「めちゃくちゃだ」


 口の中で呟いて、沢巳はゆっくりと体を起こして起き上がった。服は破れ血にまみれているが、傷はすべてふさがっていた。機械化した四肢はいくら最低限の防弾加工がされているとはいえ、あれだけの銃撃を食らって一部外装が剥げる程度で済んでいるあたり、幸運といえよう。


「あいつ……死んだはずじゃ」

「あれだけ血が流れたんだぞ」

「まさか三鷹だけでなくあいつも不老不死に」

 アオサメ団が戸惑いの声を上げるが、それに構ってやる義理はない。

「行くぞ」

 一言楽しげにつぶやき、三鷹は沢巳の手首を掴むと窓を蹴破って外に飛び出した。地上約十五メートル。下は例の中庭である。


「今度こそ死ぬ!」

「暴れんな!」

 𠮟りつけた三鷹はこの施設のことを知り尽くしている。窓辺から垂れ下がる長いロープを掴んでそれを頼りに下へ降りていく。だが沢巳はそうもいかなかった。

「あ……」


 ロープを掴むことができず地上へ真っ逆さま。中庭は闖入者たちの攻撃で怪我をした人々がうずくまり、倒れ伏し、うめき声をあげ、あるいはものも言えぬ身になっている。落下の間、沢巳は彼らの仲間入りをする覚悟で自身の人生を懐古してみたが思い出すのはろくでもないことばかりだった。


 少年兵を育てる特殊訓練施設での地獄のようなの日々。実戦訓練で四肢を吹っ飛ばされて目が覚めた時には武器と一体化した義肢が取り付けられていたこと。薬物への耐性をつけることができずボロ布のようになって死んだ少年たちのこと。初陣の日に所属していた部隊が山間で全滅したこと。ただ独り生き残ってしまった末に山を下り、その先にあったこの欲望あふれるネオバビロンの街に住み着いたこと。 


 賭けの喧嘩試合に参加して初めて得た収入を帰り道に全額スられたことを思い出したところでゴキ、と首のあたりで変な音がした。

 沢巳の意識は途切れ、屈強な体はぐったりと地面に横たわった。生憎、首は強化していなかった。即死である。

 だが次の瞬間にはぱちりと目を開いて体を起こした。

「死んだかと思った……」


「うんうん、移植大成功だな」

 ロープを手離して着地した三鷹は先に地面に自由落下で到着していた沢巳を見て、いたずらを仕掛けた子供のように笑っている。


「何が起きた、さっき死ぬつもりだったのに」

 ついでにしょうもない走馬灯も走った。

「死んださ。一回死んで生き返った。面白いな、俺は死ぬことも無いけどお前は1回死ぬシークエンスがあってそこから生き返るらしい。不老不死っつっても微妙に違うんだな」

 沢巳の顔が青くなる。


「……本当に不老不死になった?」

「俺の心臓を移植したからな」

 ストロベリーブロンドを陽光に輝かせながら、永遠の具現体は胸を張った。堂々とした立ち居振る舞いが様になる男だな、と不老不死になってしまった沢巳の頭にどうでもいい感想が流れる。

「そんな単純なシステムなのか」

「分の悪い賭けだったさ、普通なら俺の心臓に拒否反応を起こしてお前は死んでた。けど、唾液程度で瀕死状態から復活するレベルで相性が良かった。だから俺の心臓が受け入れられた」


 沢巳は三鷹にのしかかられくちづけされたときのことを思い出して、得心がいったとばかりにうなずく。

「俺も詳しいことは知らんが、相性が良ければ俺の血や唾液は身体治癒を促進させ、心臓は移植相手を不老不死にするらしい。例の変態のおっさんが言ってた」

「もう科学者ですらない」


 もっと詳しい話を聞こうとした沢巳だったが、それは中断になった。例の傭兵アオサメ団が5階のあの部屋から自前のロープを垂らし、それを伝って追いかけてきたのだ。三鷹はニヤニヤ笑いを浮かべてつぶやく。

「しつこいな、あいつら」

「懸垂下降訓練まできちんとこなしてる傭兵とはそういうものだ。依頼を完遂することは自らの商品としての品質の証明であるがゆえに」


「……ま、それに、もう俺たち二人そろって金の生る木だからなあ」

 歌うように言って、噂の不老不死は傭兵たちが銃を構えるより早く沢巳の手首をひっつかんで駆け出した。

「おい、どこに行くんだ!」

「俺の行きたいところならどこへでも!」


 三鷹は振り返って無邪気に笑った。沢巳が初めて見る彼の笑い方。子供のような、何のしがらみもないまぶしいほどの表情に一瞬見惚れた沢巳はついぞ掴まれた手首を振りほどくことができないまま、中庭を抜けて往来の人ごみにまぎれた。


***


 二人組は人波をかき分け、ビジネス街に出た。常時クラクションが鳴り響く高層ビルの立ち並ぶ通りは、夜間であれば一種幻想的かつ人工的な美しさをたたえている。3Dホログラム広告やネオンサインに飾られた大企業の看板、高層ビルの明かりが闇を照らし、改造を施した車両が鮮やかな色のヘッドライトで駆け抜け、そこかしこで起きる血みどろの喧騒を華やかに飾り立てる。しかし昼間の今は人工のまばゆさも鳴りを潜めている。


 が、トラブルは二十四時間年中無休で発生するものだ。

「うわっ、なんかそっち行ったぞ!」

 誰かが叫んだ。文字通り目にもとまらぬ速さ。人々の行きかう歩道を何かが猛烈なスピードで駆け抜けている。その素早さたるや、何かしっぽのある動物であることが分かる程度である。


「痛ってぇ、脚噛まれた! 誰か止めろ!」

「撃て撃て!」

「流れ弾に気を付けろ!」

「うわ、俺の昼飯取られた!」

合成獣キメラか? 誰のペットだよ!」

 後ろから聞こえる声に沢巳が振り向くと、すさまじい速さでソレが駆けてくる。跳ね上がって彼に嚙みつこうとした生き物は、しかし次の瞬間には宙を舞った。


 沢巳がはじかれたように横を見れば三鷹の蹴り上げた右足が地面に戻るところだった。

 周囲から歓声と拍手が上がる。

「……大丈夫か、三鷹」

 大型犬サイズの合成獣をやすやすと蹴り飛ばした男に唖然としながら沢巳は声をかけるが、当の本人は涼しい顔をしている。その体のどこにそんな力が、と言いたいのを沢巳はぐっとこらえた。隣にいるこの男が不老不死として色々な事情を抱えているのは明らかで、野暮は言いたくなかった。


 車道に転がった合成獣は混乱しているうちに後ろから来た大型タンクローリーにひかれてしまったらしい。ガードレールのあたりで「実験体8番は駄目だなぁ」「あれじゃ番犬には向きませんねぇ」と言っていた者たちが周囲の通行人に管理不行き届きを責められている間も、向こう側の車道では高級車を襲ったチンピラが逆に車に乗っていた上品な老貴婦人に撃たれているようだった。そんな日常風景を尻目に三鷹はグイと沢巳の腕を引いた。

「さっさと行くぞ」


 ビルとビルの合間を縫い、違法建築ゆえにめちゃくちゃな造形をしている建物の屋根をつたい、ビルの屋上から屋上へと渡り、崩れ落ちそうな階段を下って地上に戻る。そのまま地下道を経由して風俗街に出た。まだ昼時のため往来は落ち着いているが、日が暮れればこの辺りも赤やピンク、紫や青の派手なネオンサインがきらめいて、口の上手い客引きと好色な客たちが通りをにぎわせるのだ。


 三鷹はあたりをきょろきょろと見回すと、目星をつけていたらしい店の裏口の扉を押し開いた。『美少年クラブ ホワイトアマリリス』の看板がかかっている。

「おい、まずいだろう!」

 屈強で戦いなれているはずの沢巳が大人しく手を引かれたまま三鷹を咎める。しかし三鷹は勝手知ったるとばかりに中に入り、「よう」と声をかけた。途端にその場にいた18歳にも満たない少年たちがわっと2人に駆け寄った。その誰もが赤い瞳をしている。


「三鷹だ!」

「三鷹もそっちの人も服ボロボロだね。着替え持ってくる」

「三鷹、そっちの人は?」

「わ、すごい腕! 足も機械にしてるんですか?」

「三鷹、遊びに来てくれるの来週じゃなかった? どうかしたの?」

「いまオーナー呼んできますよ!」

 最年長らしい少年が言うと、三鷹はうんと優しく微笑んで「今日は良いよ」とその頭を撫でてやる。


「ちょっとみんなの顔見に来ただけだから」

 言いながら、手渡された着替えに袖を通した。どうやらこの店のオーナーの服らしく、気が咎める沢巳の隣で三鷹は慣れた様子である。

「また遊びに来てくれる?」

 最年少らしい子供が赤い瞳を不安そうに揺らして三鷹の羽織るファーコートの裾をつかんだ。病的に青白いその子の肌が妙に沢巳の胸をざわつかせる。


「当たり前だろ、みんなは俺の弟みたいなもんなんだからな」

 三鷹は優しく言い聞かせると膝をついて屈み、子供の丸い額にくちづけしてやる。細めた琥珀色の瞳が慈悲深い色を湛えていて、それが沢巳に幼い頃にどこかで見た傷だらけの「聖母子の絵」を思い出させた。


「また今度ゆっくり遊びに来るからオーナーによろしく言っといてくれ」

 じゃあな、とさわやかに笑った三鷹は立ち上がると沢巳の手を引いて店の廊下を通って店の正面玄関を出た。


 あの子供らは何だったんだ、「美少年クラブ」ってなんだ、と問いたい沢巳の気持ちは三鷹の堂々とした歩みに霧散してしまう。いや、そもそもこんなに堂々と外を歩いていて良いのか。傭兵として育てられた沢巳にはわかる。アオサメ団は今でも三鷹を探し回っている。だが、追われている本人はそれを気にする様子もない。風俗街の大通りでプラカードを掲げてデモ行進する揃いの青い服の一団を見てハ!とあざ笑う余裕すらある。


「見ろよ、沢巳」

「ネオバビロン浄化会か。最近流行っているな」

「この街の貞操観念復活とか治安回復とか、無理な話だと思わねぇか?」

「同意見だ。とはいえ、浄化会の思想に賛同する者が増えているのも事実だ」

「浄化会の一部メンバーがここいらの店で威力営業妨害してるって話もある。気に食わねぇ連中だぜ」

 三鷹は鼻で笑い、沢巳もそれを否定せず、人気ひとけのない雑居ビルの階段を上っていく。最上階からエレベーターに乗り込むと、狭苦しい箱は静かに音を立ててやたらと長く下降する。その間といえば、沢巳は新興宗教潜入レポのことを考えていた。


(話題の中心だった生き神は逃げ出してしまったし、本部は襲撃を受けた。あれはそのまま壊滅するだろうが……。記事はどうしたものか)

 落ち着いたら編集長に連絡を取らなくては、と思ったところでガクン、と足元に衝撃があって、エレベーターの扉が開いた。目の前の重厚な木製の扉に『食前方嬢しょくぜんほうじょう』の赤い看板がかかっている。看板の両端から垂れ下がる赤い紐の吊るし飾りや店名の「食」の字から察するに、中華料理店であることが何となく察せられた。


「よう、トラゴステーン、いるか?」

 三鷹が声を上げながらゴンゴンと木製の扉を叩く。無遠慮な態度に一瞬目を丸くした沢巳だったが、開いたドアから現れた人物は別段気にした様子もなく重々しい声で言った。

「久しぶりだな、三鷹」


 巨体だった。沢巳も十分に恵まれた体格をしているが、それよりさらに巨大である。禿頭の乗った体はゆうに2メートルを超しているだろう。エプロン姿の腰に包丁やらバーナーやらを吊り下げ、眼光は鋭い。しかし片方は義眼で、モノクルを装着している。義眼と言ってもその目的は外見の改善ではなく、液晶画面とレンズが一体となったモノクルと合わせてむしろ視覚を「強化」しているらしい。


「沢巳、こいつがこの『食前方嬢』のシェフ、トラゴステーン。人呼んで“殺人料理人”」

「……物騒な二つ名だな」

 剣吞な通り名のシェフは沢巳を見下ろすと目を見開いた。同時にモノクルのレンズと義眼の虹彩の色が変化した。

「連れがいるのか? 三鷹、お前にしては珍しい」

「なりゆきでちょっとな」

「まだ仕込みを始めたところだ。食わせるものはないぞ」

「気ィ使わせて悪い、そっちは大丈夫だ。俺たちいまちょっと追っかけられてて。奥を通らせてもらえるか? エミリーに挨拶したいし」

「もちろんだ。お嬢が心配していたぞ」


 三鷹は沢巳の手を引いたまま店の中に入った。

 高級感がありつつもこぢんまりとした場所だった。開店前だからかわずかに明かりの灯る部屋の中央には立派な机がひとつと、高い背もたれの椅子が6脚だけ。レストランホールと思しきこの空間にあるのはそれだけだった。


(会員制の超高級店か? さっきの子供らと言い、三鷹とどういう関係が?)

 この、出自も来歴も不明の、都市伝説扱いの不老不死の男と。


 戸惑いながらもそれを顔には表さず、旧知の仲らしいトラゴステーンと三鷹のやり取りを見ていた沢巳だったが、奥の扉の開く音がしてそちらに目を向けた。


 チャイナドレス姿に丸い眼鏡をかけた女性が立っている。お嬢、というのは彼女らしい。褐色の肌にオレンジ色のチャイナドレスが良く映えて、はつらつとした印象だ。

「沢巳、彼女がここのオーナーのエミリーだ」


 三鷹が連れに教えてやりながら、エミリーにひらひらと手を振った。パッと笑顔になった彼女はハイヒールを鳴らしながら駆け寄って、三鷹にハグをする。彼も拒むことなく相手の背に腕を回して再会の喜びを表現した。

「久しぶりね!」

「……全くだ、食人姫しょくじんき殿」

「もう、私の目がなのは人間を食べたからじゃないわよ?」

「からかってごめんって。……顔見せられなくて悪かったな」

「でも元気そう」

「ちょっと遊んでたから」

 三鷹がウィンクするとエミリーはあらま、と楽しそうに笑い、それから沢巳に目を向けた。


「ええと、おれは……」

 視線がぶつかり、沢巳は口を閉ざした。眼鏡越しの、物騒なあだ名の女の目、その黄緑色の瞳が何か異様な気配に気圧されて、修羅場など慣れているはずの沢巳の全身が緊張する。すべてを見透かされているような視線に居心地の悪さを感じ、思わず後ずさる。


「まあ、まあまあ、なんてこと……!」

 しかしエミリーは目を丸くして嬉しそうに声を上げると、ズイと歩み出て沢巳の手を握った。

「三鷹と一緒にいるのね、そうなのね! それってとっても素敵なことだわ」

 チェン・ンジャナ・エミリーと名乗った彼女はニコニコして沢巳と三鷹を自分のいた部屋に通した。執務室と思しき部屋の暖炉の隠し扉を開き、そこを通るように促す。いざという時の緊急避難通路らしい。


「今度は食事をしていけ」

 通路の扉を閉める間際、トラゴステーンがわずかに目を細めて言った。思いのほか柔らかいその声にホッとしていると、エミリーがにこりと笑う。

「ふたりでいればきっと大丈夫よ」

 どこか確信めいたその響きに三鷹も沢巳とあっけにとられていると、扉が閉められ、隠し通路の狭苦しい道に明かりがついた。ゆっくりと足を動かしながら、沢巳は重い口を開いた。


「彼らは……友人か?」

 声は、思いのほかよく響いた。

「それもあるが……何よりも、俺が不老不死であることを知ってる奴らだ」

 少し前を歩く三鷹の顔は、沢巳には見えなかった。


***


「美味かった! こういうのが食いたかったんだよなぁ」

 小型のモーターボートが行きかう運河を眺めながら三鷹みたかは350ミリのビール瓶を傾けてご機嫌だ。二人の目の前には空になった皿が高く積まれている。彼が注文したのはスパイスの利いた串焼き肉やソースやタレで味付けされた丼もの、海鮮を使った焼きそば、肉と野菜を巻いたタコスなど、ネオバビロンでは定番のジャンクフード類である。


「……よく食うな」

 手持ちの現金で足りたのが救いだった、と沢巳がため息をつくと正面に座っている無一文の美男は目を細めていたずらっぽく笑う。おかげで沢巳もほぼ一文無しだ。ビールだってこれが二本目、陽光を受けながら瓶の中でライムがちゃぷちゃぷ音を立てて泳いでいる。


 地下の中華料理店「食前方嬢」の隠し通路から地上に出た三鷹と沢巳は大通りを経由して、この川沿いの区画に出た。にぎやかな人の声、調理の音、食欲をそそる香りに満ちるネオバビロンの食事スポットのひとつ、テンプルゴールド。今日のように晴れた日には時間を問わず食事の屋台が並び、安価でそれなりの味と量の食事にありつけるため、多くの人でごった返している。運河を挟んで対岸には区画名の由来にもなっている黄金に輝く寺院が立ち並び、目にもにぎやかだ。今では宗教施設としての意義をほとんど失っており、むしろ教育機関や医療施設、孤児院などの総合福祉施設と地域の治安維持組織としての要素を強く持ち、ネオバビロンでその存在感を強めている。


「教団の飯ってのが普段から薄味で質素なのばっかりでさぁ。もうやってられるかって感じだったんだよ」

 もちろん酒なんて言語道断で、といいながら巷で噂の新興宗教団体の生き神はそばを通りがかった飲み物売りから三本目のビールを受け取る。飲み口に挿さったライムはそのままに沢巳の方へずいと押しやった。

「お前も飲めよ」

「おれの金なんだが」

「しょうがないだろ、俺は着の身着のままで出てきたんだから」

 三鷹はいけしゃあしゃあと言ってのけて二本目の瓶をグイと傾け空にした。豪快な飲みっぷりだ。


「そんなに好きか、そのビール」

「美味いしネオバビロンのどこでも買える」

 鼻歌でも歌いだしそうな三鷹のストロベリーブロンドの髪が太陽を浴びてきらきらと光っているのがまぶしくて、沢巳は目を細める。彼はさっきからウーロン茶ばかり飲んでいた。

「しかし、一般信者ならともかく上級幹部もそんな食生活をしていたとは驚きだな。聖水の件といい、真面目にも程があるだろう」

「幹部がみんな真面目なんだよ」

 生き神は仕方なさそうに笑ってポケットを探った。あのどさくさに紛れて持ち出せたのはライターだけらしい。


 話を聞けば、そもそもあの新興宗教団体を立ち上げたのが神官役の老爺だという。

「数か月前にあの爺さんと幹部数人が俺のとこに来てさ、生き神役をやってくれって言ってきたんだよ。随分長いこと俺を探してたらしいから、多分どこかで俺の不老不死の噂を聞いたんだろうな」

 噂ではなく、真実なのだが。


「で、あんまり必死に拝み倒してくるもんだからオーケーしたんだ」

「……それだけで乗ったのか? そんなうさんくさい話に? 教団を作った動機も知らずに?」

「面白そうだと思って」

 生き神は子供のようなあどけない声で言ってのける。この欲望にまみれたネオバビロンらしい生き方といえばそれまでだが、無計画の極みである。沢巳は文字通り開いた口が塞がらない。


「三食昼寝付きであとはそれっぽく椅子に座って微笑んでりゃあ良いだなんてこんな楽なことは無ぇさ。生き神の役なんて生まれて初めてだったしな」

 それに、と快楽の化身は沢巳に視線を合わせて目を細める。

「さっきも言っただろ。俺は面白くて気持ち良ければ何だっていい」

 酷薄ささえ滲む微笑を乗せて、どこか自堕落な美しさを纏うその顔貌。存外に男っぽい彼の指が気まぐれな仕草で三本目のビールにライムを落とし込む。こんな何気ない所作ですらひどく様になる。おれのビールだろう、と文句を言おうとしていた沢巳の口すらつぐませる。 


 二人の間に沈黙が漂う。それを破ったのは沢巳の溜め息だった。 

「それにしても、のんきに食事なんてして大丈夫なのか? あのハートリングの雇った傭兵、しかもアオサメ団だ。そう簡単に諦めてくれるとは思わないが」

 そこらを行きかう人々の笑い声や肉の焼ける音の中、沢巳は周囲に聞こえないように三鷹に顔を寄せて囁き問いかける。他人に聞かれたい話でもなかった。


「分からん」

 返答は簡潔かつ堂々たるものだった。だがそれにとどまらず、三鷹は悠然とあたりを見回しながら喋る。そばの運河では日用品や食料を乗せた小型の舟が行きかっている。


「分からんが腹が減っては何とやら。それに木を隠すなら森って言うだろ。いずれは見つかるだろうが、あちこち通ったから時間稼ぎはできたはずだ。食前方嬢の隠し通路も通らせてもらったしな」

 三鷹の言葉で沢巳はエプロン姿の巨漢とチャイナドレスの眼鏡娘を思い出す。

「アンタが不老不死であることを知るのは彼らだけか?」

「ああ。アマリリスの子らとそのオーナー、食前方嬢の2人。それだけだ」

「アマリリスの子供ら、ずいぶんと血色が悪かった。あれは大丈夫なのか?」

「体質だ。そう長く生きられない体でな。俺にも一抹の責任がある」

「……そうか」


 ある意味で三鷹とは真逆の身体だ。

「エミリーは……そうだな、死ぬほど腕のい占い師だ。あの目はなんでも見抜くのさ」

 その言葉で沢巳はあの翡翠のような黄緑色の目を思い出す。眼をそむけたくなるような、けれどじっと見入ってしまいたくなる、そんなまなざしだった。


「俺も……お前も訳アリになっちまったが、アマリリスの子らも食前方嬢の二人も訳アリの身分でな」

 にぎやかなこのテンプルゴールドで誰にも聞こえていないのは分かっているが、それでも三鷹はこんなところで詳細を語る気はないようだった。

「このネオバビロンでは訳アリでない人間のほうが少ない」

 沢巳が淡々というと、三鷹は少しだけ笑う。そしてビールを一口飲むと「アオサメ団の追跡だが」とさっぱりした声で言った。


「あいつらは教団の中庭に停めてた大型車を使って俺らを探すだろうから、人ごみの中を探すには手間取るはずだ。テンプルゴールドは人が多いし歩行者優先区画だから、物騒な連中が出れば間違いなく騒ぎになって俺たちだってすぐに気付ける。運河から来る可能性もあるがどこかで舟を調達せにゃならん。どこぞで舟を略奪するとして、船主がそれなりに武装してることを考えりゃあ騒ぎが起きるのは必至だからこれはこれですぐにわかる。あとは水陸からの挟み撃ちの可能性もあるが、なんにせよ騒ぎが聞こえたらあいつらに見つかる前に人ごみにまぎれて逃げるか、それが駄目ならあいつらと戦って勝つか。……ま、次はネオバビロン一の大通り“天下往来”を経由して北の区画に行くのが良いだろうな」

 よどみなくそこまで言ってのけた三鷹を見つめて沢巳はこの街の噂とその正体を思う。


 沢巳がこの町に住んで約十年になるが、不老不死の噂がこの街に出回りだしたのはそれよりさらに十年前、つまり20年近く前のことだという。そこから今日にいたるまで、いまだに不老不死の男の存在は都市伝説や噂にとどまっている。

(北の区画はハートリングがなぜか寄り付かないので有名だからな。噂によると、どこぞの大物がハートリングと協定を結んで北区画には手出しさせないようにしたとか。……この男、さすがに勢いだけで生きているわけでもないということか)


 それなりに自分の消息をコントロールし、自分の居場所を定期的に変え、ごまかしながら生きてきたのだろう。それは小さいながらに自分の部屋を持ちそこを生活拠点兼仕事場として生きる沢巳とは真逆の在り方だ。


 双方がしばし黙り込んだが、何の前触れもなく三鷹が立ち上がった。

「悪かったな、ここまで付き合わせちまって。お前はあの傭兵連中が来る前に家に帰れ。これは餞別にもらってくぜ」

 そうしてまだ中身の残っている三本目のビール瓶を揺らしながらとびきり優しく微笑んだ。


 瞬間、沢巳は椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がって三鷹のビール瓶を持っている方の手首をひっつかんだ。向けられた険しい表情と遠慮のない機械化した手の力に、笑ってばかりだった男が初めて不快感に顔をしかめた。

「なにキレてんだ。面倒事とおさらばできるんだから喜べよ」

 沢巳がなにか言い返そうとする。しかしそれは向こうの方から聞こえてくる善良な一般人たちの悲鳴におしのけられた。


「逃げろ、テロリストだ!」

「警察に通報を」

「あのボンクラ連中じゃ無理だ!」

「プラケオ寺院に通報しろ! 僧兵を派遣……うわああ!」

「テンプルゴールドに大型車両で乗り込む馬鹿がいるかよ、めちゃくちゃだ!」

「ぎゃあ発砲するな、こっちはまだ飯も食ってねぇんだぞ!」

「子供と妊婦を先に逃がせ!」

「ああああ、せっかく作った焼きそばが、熱っつ!」


 ハートリングの雇われ傭兵アオサメ団がここまでたどり着いたらしい。しかしこの手の乱痴気騒ぎに慣れたネオバビロンの人々は護身用の武器を構え、それぞれ文句を言いながら周囲への警告を叫び退避行動をとる。アオサメ団はまだ三鷹の存在には気づいていない。彼の予想した通り、このまま人ごみに身を隠せばきちんとこの事態から逃げおおせるだろう。そうして平穏な自宅に帰ることができる。


 それを沢巳は分かっている。

 分かっているが、手を離せばするりとどこかへまぎれてしまいそうな三鷹の手首を離せないでいる。


「おい、今度は黙り込んで何なんだよ」

 三鷹は戸惑いながらも苛立った声を上げた。

 しかし沢巳自身、自分が何に怒りを覚えているのか、何を焦っているのか分からないでいる。戦闘用に調整された義手の力加減ができないでいる。このネオバビロンで禁欲的に生きてきた彼にとっては何もかもが未知の出来事だったのだ。


 泥中の蓮が声を振り絞る。

「……散々振り回しておいてあとは好きにしろだと?」 

 遠くで爆発音がした。向こうの方から大型バイクが吹っ飛んできて沢巳の頭にクリーンヒットし、首がおかしな方向に曲がってアスファルトに倒れこむ。しかし、不老不死となった彼の身体は己の姿を正しい形に復元し、見開いた眼が生気を取り戻す。もう一度頭部に何かが直撃したが、今度は致命傷には至らなかった。

 血が流れるのも構わず沢巳はゆっくりと立ち上がり言い放った。

「おれをこんなにした責任を取れ!」


 三鷹の手に握られたままのビール瓶に、沢巳の血まみれの顔が映りこむ。彼の浅黒い顔の中、銀灰色の瞳は雷光の如き輝きで燃え立っている。新しくできた傷がひどく痛んでいるはずだが呻き声のひとつも上げない。今の沢巳はそんなことすっかり忘れているのだ。

 三鷹は呆けた顔で目の前の男を黙って見つめた。


 周囲にいた一般人も屋台の持ち主たちもすっかり全員逃げてしまい、あたりは妙な静けさに包まれている。

「お前ってやつは、本当に……!」


 沈黙を破り、三鷹はその顔いっぱいに獰猛な笑みを浮かべた。歯を剥きだしにしてギラギラと輝く目を見開いて、そのまま自由な方の手で沢巳の胸ぐらを掴み引き寄せて彼のくちびるに強く歯を立てた。くちづけ、などと呼べるものではない。瞬間的な衝動や感情の昂りをただめちゃくちゃにぶつけるだけの暴力的な行い。だがそれは、いかにも享楽的で快楽主義で刹那主義なこの街にふさわしい。興奮した獣のしぐさに沢巳もまた歯を立てて応えた。


 向こうの方からハートリングの雇った傭兵たちが武器を構えて駆けて来ている。

「お前は本当に面白い奴だよ、ジョウウン」

 くちびるを離した三鷹が歌うように言ってビール瓶に口を付ける。それから妙に悠々とした動きでそばにあった「ガソリン」のラベルが付いた巨大な缶の中身を地面にぶちまけた。アオサメ団は異臭に顔をしかめながらも濡れたその上を駆ける。


「……とんだ獣だな、三鷹」

 沢巳が血の滲んだくちびるを己の舌で舐めながら、机の上に放置されていたライターに火を灯して撒かれたガソリンに放り投げた。火は燃え広がって、武装した者たちを包み込む。


「お前のせいさ、ジョウウン。こんなに昂ったのは初めてでな」


 あたりにガソリンの匂いと肉の焼けるにおいが充満する。炎にからめとられ、前に進むことができなくなった傭兵たちは悲鳴を上げながら後退していく。


「誰にでも言っているんだろう?」 


 さしものサメたちもこれで撤退するかと思いきや、炎の中から脱出した者のうち数人がなお諦めもせず二人に殴りかかった。持っていた銃は火の中に落としてしまったか、トリガーを引く手がただれてしまったようだ。


「さて、どうだったか。俺はその時言いたいことを言って、やりたいことをやるだけだ」


 口角を上げたまま言いながら、三鷹は脚を振り上げて鋭いヒールで先頭の1人を蹴り倒す。ハートリングほどの大企業に雇われる傭兵だけあって、アオサメ団たちは機械を体に埋め込み身体能力を向上させているが、先ほどの炎でその機能を大きく低下させているらしい。思うように動けないのは火傷を負った生身の皮膚の痛みもあるだろう。


「これだからネオバビロンの神とやらは信用ならん。欲深いのも大概にせねばいつか刺されるぞ」


 沢巳は鼻で笑いながら向かってきた相手の足を払い、そのまま投げ飛ばした。彼の機械化した四肢は最新式とは言い難く、今だって外装が傷つき内部構造が露出しているが、手入れを怠ったことはない。何より、幼少期から体に叩き込まれた動きが過不足なく繰り出されている。間髪入れず殴りかかる者の腕をとらえて引き倒す。倒れた者から銃を奪い自身のベルトに装備しておくのも忘れない。一方の三鷹は起き上がってきた傭兵を黒いヒールで蹴り飛ばし踏みしだく。そこでようやく左手に持ったままだったビールを一気に煽って空にした。そのままきょろきょろと周囲を見渡し、向こうの方で銃を構えている傭兵の頭に空き瓶を投げつけて沢巳の方を振り返った。


「この街で己の欲望以上に確かなものがあるとでも?」

 勝ち誇ったようなその笑みに、沢巳は微笑みながらため息をついた。


 この巨大都市は金銭と流血に飾られて、倫理はとうに化石になって、敬虔さは遥か昔に捨てられた。そんなこの街を最初にかの富と悪徳の古代都市になぞらえたのは誰だったのか。もしもこのネオバビロンの街にまがい物でも神がいるのだとすれば、それはただ己の欲を貫き生きることを是とするだろう。その意味で、このハーライ・三鷹・ユリアンほどこのネオバビロンの神にふさわしい者はいない。


「それにしても三鷹、アンタ相当戦い慣れているな。機械での強化は無しか」

「不老不死実験の副産物で異様に身体能力が上がっててな」

「必要ないのか」

「それを言うならお前も相当だぜ、ジョウウン」

「昔取った杵柄というやつだ。まあ、この義肢も近接戦闘技術も今となっては護身程度だが。で、ここからどうする、北区画に向かうか?」

「いや……もう一戦らしい」

 三鷹が眉間にしわを刻みながらも面白がるように言った。


 ただひとり、赤黒く焦げた生身の顔をものともせず歩み出る者がいる。アオサメ団頭領ホージョである。彼自身、マシンガンは火の中に置いてきたようだが、代わりに部下の一部は彼の献身によって炎の中から救出されたようだった。頭領は、焼け焦げて中途半端に体に引っかかっている上半身の布を脱ぎ去る。現れたのは鋼の肉体。

 比喩ではない。ホージョの首から下は生身の皮膚ではなく耐熱性の高い金属でおおわれている。腕は武器を仕込んだ義腕で、ピカピカと光る肌には焦げ跡ひとつない。肉体に機械を埋め込んだサイボーグたちが日常に溶け込んだ今の時代。身体の治療の際にただそこを治すのではなく、傷病部位を機械に置き換えることでむしろ肉体を強化するという選択肢もあるくらいだ。


「さすがにボス鮫は格が違うってか? しかし、お前らを雇うなんてハートリングも必死だな、そんなに俺が欲しいかね」

「依頼主の意図など知らん。我らアオサメ団、受けた依頼は必ず完遂する。それだけだ」

「ご苦労なことだ。ま、俺には関係ないが、な!」

 言いながら、ニヤニヤ笑いを浮かべたままの三鷹は脚を上げて相手の股座を躊躇なく膝で蹴りつけた。およそほとんどの男性にとっては弱点である、が。


「んん!?」

 効果はほとんどないらしい。傭兵稼業であれば身体の一部を失うことなどままあることだ。

 三鷹が戸惑いながらパッと身をひるがえして後退する。それをナイフを抜き追撃するホージョだったが、発砲音が響いて気がそれる。銃弾は胸部に命中したが鋼鉄の皮膚に弾かれアスファルトに落ちた。


「防火の上に防弾仕様か。狙うなら首から上だな」

 言いながら沢巳は構えていた銃を下ろす。傭兵から奪った分だ。アオサメ団頭領ホージョは仏頂面のまま傷のついた鋼鉄の胸を手で何度か払った。生身の皮膚なら即死だっただろう。

「射撃も護身の心得か?」

「一応な」

「護身のレベルじゃねぇだろ、さっきのエイムは」


 大真面目に答える共闘相手を茶化してから三鷹はパッと駆け出すと独特の構えで踏み込み、飛び上がって回し蹴りで相手の手からナイフを叩き落とし、それをキャッチする。ひら、とひるがえる白いファーコートが場違いに優雅だ。しかし少数精鋭傭兵団の長に油断はない。もう一度蹴りを繰り出した三鷹の脚を掴んで阻み、彼の右頬に強烈な拳をめり込ませた。ストロベリーブロンドの髪が揺れて、うつむいたその顔を隠す。


 顔こそ見えないものの、低く声を漏らした三鷹にアオサメ団頭領ホージョは任務完了を確信する。ナイフを握った手はだらりと垂れ下がっている。だがその直後に銃声が2発して頭領は大きくのけぞった。

「ぐあッ、ああ、ぅあ……目が……!」

 三鷹の脚を掴んでいた大きな手が離れる。沢巳の放った銃弾が正確にホージョの両目に命中したのだ。だがホージョはひるまず、闇雲に手を伸ばし三鷹を探し出すと彼の胸ぐらを掴んで互いの額を勢い良くぶつける。そのまま三鷹の身体はぐわんと大きく体が揺れるが、すぐに態勢を整えて大きく跳ね上がった。


 驚異的な跳躍である。三鷹はそのまま落ちる勢いに任せて逆光を受けながらホージョの脳天にナイフを振り落とした。

 しかし反応は薄い。そもそも、ナイフがほとんど刺さっていない。一応血は流れているが、ダメージにはなっていない。

「どうなってるんだ」

「脳天の内側に金属装甲を入れてるんだよ」

「めちゃくちゃだなぁ!」

「脳みそは大事だからな」

 ホージョは唸るように言って両腕を持ち上げ水平に構えた。ガシャンガシャンと音を立てながら形状が変化する。


 マシンガンだ。ホージョの腰には銃弾の帯がベルトの様に巻き付いている。

 盲目のサメは四方八方に発砲した。

「下がれ三鷹!」

 後方の沢巳が警告するが、聞き入れられる様子はない。三鷹は銃弾を受けるのも構わず、崩壊と再生を繰り返す身体でナイフを振るい、アオサメ団頭領ホージョの顎に勢いよく傷をつけた。そこから血が勢いよく噴き出ると、不老不死の男は喘ぎながらも沢巳を振り返って笑いかけた挙句、ウィンクをひとつ。


 形のよい三鷹のくちびるが音もなくうごめく。

 だが、聴こえた。沢巳には。


 ろけっと、と。


「くそっ」

 三鷹の声なき声を聴き届けた沢巳は一言毒づいて、意を決したような顔をした。

 ボス鮫の正面に回りながら銃弾に撃たれるのも構わずできるだけ間合いを詰め、左腕のパーツ接合部をいじり、内側のコードをより分けて内蔵エネルギーパックの位置を入れ替える。


 腕を持ち上げ手を拳に握り、三鷹が作ったアオサメ団頭領ホージョの血まみれの目印に照準を合わせた。

 ――ロケットパンチ。


 沢巳の鋼の腕が勢いよく飛び出し、狙った場所に的確にぶつかった。

 顎、そこは人体の急所である。

 ホージョの巨体が大きくよろめいたのを三鷹は見逃さない。脚を振り上げ得意の蹴りで顎にもう一撃見舞わせる。


 だがボス鮫もただでは転ばない。目は見えずともロケットパンチの方向から沢巳の場所を特定し、ふらつきながらも猛然と駆け寄った。マシンガンだった鮫の腕が再び変化する。

 今度は刃。

 標的は大掛かりな攻撃の反動で動けずにいる。

 

 三鷹は、思わず。

 何か考えるよりも早く。

「避けろ、ジョウ!」

 沢巳を呼び、駆け寄った。


 そのまま突き飛ばし後退させようとするが、あと少しのところで間に合わない。

 歴戦の傭兵は光を失おうとも耳や肌で戦場の様子を理解している。凶刃は三鷹に合流しようとした沢巳を背中から抉るように貫き、そのまま飛び込んできた三鷹の胸を貫通した。


 アオサメ団頭領ホージョは刃でふたりまとめて串刺しにしたまま軽々と振り回した。


「っ、ぐ、ぁ、ぁ……まったく、とんだ神、だ」


 三鷹の耳元で沢巳のかすれた声がする。激痛に顔を歪ませてなお、かすかに笑いを浮かべた沢巳は悪態をつきながら目の前の男を見つめた。


 目の前の生き神は眉間に皺を寄せながら、ただ熱く吐息を漏らしている。向かい合わせ、至近距離に迫ったその美しい顔の中、艶っぽい口元に血があふれてめまいがするほどに香る。胸元で触れ合った互いの血の温みに傷の痛みと胸を貫く刃の冷たさがまじりあって、熱いのか寒いのか分からなくなってくる。


 三鷹は向かい合った沢巳の肩越し、快感に気をやりそうになるのをこらえながら近づいたアオサメ頭領を見やりながら、吐息交じりの声で囁く。


「俺のような不徳の神に入れ込んだ報いさ」

 そうしてネオバビロンの神は陶然と笑った。傲慢だ。しかしだからこそ神を名乗るにふさわしい。


 沢巳はほんの短く苦笑するがすぐに眼光を鋭くして三鷹の手に触れた。

「……外すなよ」

 沢巳はつぶやき、痛みをごまかすように少し笑う。

 通常ならもうとっくに痛みで気絶しているはずだが幼いころから叩き込まれた戦場を生き抜く術が彼にそれを許さず、さらに普通ではなくなった身体がそれに拍車をかけている。


「分かってる」

 誘われるように三鷹の手が沢巳の握っていた銃を受け取った。残弾はただ1発。


「お前たち、何を」

 彼らの交わす囁きを聞いていたのだろう。アオサメ団頭領ホージョが戸惑い、口を開く。


 その瞬間。


 三鷹は自分よりも高いところにある沢巳の肩で銃を持つ手を支えながらサメの口に素早く銃を突っ込んだ。


 ホージョはふたりを貫く腕を引っ込めようとするが、それよりも早く。

 パァン、と銃声が響いた。


 銃弾は口内を貫通し、そこから正確にアオサメ団頭領の脳幹を打ち抜いた。どうやら口内は装甲で強化していなかったらしい。頑健な身体がずるずるとアスファルトに倒れこんだ。


 即死だ。


 串刺しになっていたふたりは拘束から解放され大きく息を吐いた。三鷹の傷はさっそく塞がり始めているが、沢巳はおびただしい出血に倒れこみついに意識を失った。


***


 次に覚醒した時、沢巳は耳元を風が通り抜けるのを感じていた。体の痛みはすっかりなくなっている。ぼんやりとした視界にきらきらしいストロベリーブロンドが映り、彼は途端に姿勢を正してあたりを見回した。片側産車線の道路のただ中である。乗っているのは大型バイク、見間違いでなければあの時テンプルゴールドで彼の頭部にクリーンヒットしたアレだ。他人のものなので当然これは窃盗行為なのだが、このネオバビロンでは鍵をかけていなかった方に責任がある。


「……えっと」

 恐る恐る声をかけると運転席に座っている三鷹が少し振り返って笑う。

「生き返ったならシャンとしてくれ、お前が落っこちないかヒヤヒヤもんだったんだから」

 よく見れば沢巳の体は三鷹とひとまとめにロープで縛られている。身長一九〇センチの成人男性の身体をバイクに乗せるための苦肉の策だったのだろう。


「悪、いッ?」

 急に車体が傾き、周囲を走る車の間を縫って走行し始めた。

 左腕が無くなった分バランスが悪く、思わず落ちそうになるがそうならなかったのはひとえに沢巳の身体能力の高さゆえだ。あちこちから鳴らされるクラクションに同調して運転手に文句を言おうとする彼だったが、首だけで後ろを振り返るとその荒い運転にも納得せざるを得なかった。 


 アオサメ団の大型車両が迫っている。頭領や一部メンバーが死んだにもかかわらずハートリングからの依頼を果たそうとするあたり仕事熱心なのだな、と沢巳は妙に感心する。しかしそれとこれとは別、素直に捕まる理由はない。


「メーターの横のつまみを引いてくれ」

 沢巳は少し身を乗り出し、運転手に声をかける。三鷹は片手で言われたようにして、目当てのものを後部座席右側に手渡してやる。

「発煙弾か。ほかにも何か入ってるな、折り畳みのナイフか?」

「バイクの持ち主が用心深い奴だったんだろ」

「そのくせバイクの管理がずさんとは、おかしな話だ」 


 護身必須のこの街では、ある程度の大きさの車両にはスピードメーター付近に閃光弾や発煙弾、予備の銃弾、その他小物などを格納するスペースが設けられている。いざというときにはこれらを使用して逃走せよ、ということだ。

「三鷹、追いつかれるぞ!」

 後ろに迫るアオサメ団の車両が速度を上げた。彼らの間が普通車一台分にまで縮まっている。ただ、傭兵団が使用する特別仕様の車体相手に適当に拾った大型バイクがここまで善戦している現状はこの上ない幸運としか言いようがない。


「そこを左に曲がる」

 三鷹が言うと、沢巳は右手に持った発煙弾のピンを歯で咥えた。

 車体が再び傾く寸前、ピンを引き抜き後方に投げると勢いよくショッキングピンクの煙が噴き出してあたりを覆った。


 バイクが左折して脇道に入ったところで大通りからドン!という大きな音に続きクラクションの大合唱が聞こえてきたので、きっとあの大型車両を中心にクラッシュが起きたのだろう。だが、こんなことだってこの退廃都市ネオバビロンのありふれた日常でしかない。


 しばらく無言でいた三鷹と沢巳だったが、細い裏道に入ったところでバイクを止めるとどちらからともなく肩を震わせて、ついには声を上げて笑いだした。

「ッ、はは、こんなに無茶したのは初めてだ!」

「ざまあみろハートリング! お前ほんとにやるな、ジョウウン」

「あー、ロープ外してくれ」

「笑いすぎて自分の指切り落としそうだ!」

「ああ、もう、あんたのせいでめちゃくちゃだ、三鷹」

「俺が責任を取るとこうなるって話だ」


 三鷹の言葉に笑っていた沢巳はフと黙り込んだ。三鷹自身がそうと望むのなら、気絶していた沢巳を置いていくこともできた。けれど、腕一本分軽いとはいえ足手まといにしかならない大柄な男を背負ってバイクに乗せてここまで逃走した。今しがた切り離したばかりのロープがその苦労と気遣いを語っている。

「やることなすことめちゃくちゃなくせに義理堅いな、アンタは」

「嫌か? ジョウ」

 傍若無人のはずの男が振り返る。長いまつ毛に飾られた眼の中で琥珀色の瞳が沢巳を見つめている。それが時折、迷子の子供のような気配をまとう。


「……いや」

 手にしていたロープはとうに手から滑り落ちた。もう二人にそんなものは必要ないのだ。

「ただ、意外で」

 言いながら、沢巳は考え直している。ネオバビロンを体現したようなこのハーライ・三鷹・ユリアンという男はその実ただの、ごく当たり前の感性を持った人間でもあるのではないか? 


 黙り込んだ沢巳の態度をどう解釈したのか、三鷹は己の胸に手を当てて静かな声でしゃべる。

「俺のこの永い命と最期まで共に在れるのはお前だけで、お前の永い生に添えるのも俺だけだからな。責任くらい取るさ」

 三鷹がバイクに座りなおしたので沢巳もそれに倣う。


 不思議と、もう二人の中には互いから離れるという選択肢はなかった。いや、思えば最初からそんな選択肢はなかったのかもしれない。あの儀式の間、目が合った時点で。血を流しながら陶然と嗤う顔に、熱狂する群衆の中で独り理性を手放さなかった目に、つまり互いのもつ異質さに。強烈に引き寄せられた。


 バイクが走り始める。いやに真剣な顔でハンドルを握るその横顔をまじまじとみつめて沢巳がつぶやく。

「……思いのほか寂しがりなんだな、アンタは」


 走行音の中でもその言葉が届いたらしい。振り返った顔は泣き笑いにも似ていて一瞬黙ってしまった沢巳だったが、はっとしてハンドルに手を伸ばした。

「いや、前見てくれ、前! というかどこに向かっているんだ三鷹!」

「お前ん家ち」

「は?」

「行き方わからんから道教えてくれ。俺、実は宿無しなんだよね」


 先ほどの表情から打って変わってにっこり笑った三鷹の顔に沢巳は大きくため息をついた。

「ああ、もう、分かったから前を向け!」


***


 一週間後、三鷹は朝のトップニュースを確認するなり声を上げて笑った。ネオバビロンの西、沢巳探偵事務所の札のかかった小さなアパートの一室である。

「見ろよジョウ、俺のいた宗教団体が殺人やら詐欺やらで警察に摘発されて解散だってよ!」

 手元の原稿を確認していた家主が顔を上げた。その左肩からは行きつけの機械義肢工房から借りた仮の腕が下がっている。


「詐欺はともかく殺人だと?」

「俺が消えた後も代役を立てて御開帳の儀式をやってたらしい」

「……それは」

「お前の想像通りだよ。幹部連中、代役の死体が積みあがるのを隠しきれなかったんだろうな」

 壊滅した宗教団体の生き神だった男は淡々と言ってベッドに寝転がった。


 記事によると、儀式の様子がおかしいことに不信感を抱いた新参の信者が警察にタレこんだことが一斉捜査の決定打となったようだ。それ以外にもご神体の毛髪と称して配布していたものが規制対象の薬物だったらしい。記事の最後には本名、年齢、住所共に不詳の生き神が行方不明であることも報じられている。


 その記事の下はアオサメ団壊滅の話題だ。頭領のホージョ以下、全員が何者かによって殺されたらしい。あのクラッシュですべての残党が死んだとも思えない。ただ、紙面のどこを見ても三鷹と沢巳の名前どころかハートリングのことすら取り上げられていなかった。

「あちこちに金を握らせて報道に制限をかけた可能性がある。ハートリングほどの大企業が不死性を利用して無限に臓器を生み出せる金の生る木が実在してる、なんて公言したらネオバビロン中が血眼になって俺らを探す。ライバルが増えるのはハートリングとしては嫌なんだろう。アオサメ団の生き残りもハートリングが口封じに殺したはずだ」


「なるほど。それはそうと三鷹、アンタはいつまでおれの部屋にいる気だ? お陰でベッドが狭くて寝つきが悪い」

「つれないこと言うなよ。なんでか分からんけど長らく不眠ぎみだったのが嘘みたいなんだ」

「長らく?」

「……20年くらい?」

 沢巳は深くため息をついた。三鷹の言が確かなら、彼は不老不死になってからずっと不眠傾向にあったことになる。しかしそれを本人はあまり自覚していないらしい。


「でも確かに寝つきは良くなったが、俺も背中やら腰やらめちゃくちゃ痛いな」

 床で寝るよりマシかと思ったんだがなぁ、と子供の顔でつぶやく三鷹をチラと見た沢巳は紙束を収めた鞄をひっつかんで靴を履いた。

「出かけるぞ、三鷹」

「編集部へのレポ原稿提出は?」

「提出したら不動産屋に行く。事務所機能も含めて引っ越しだ。それからホワイトアマリリスに行くぞ、そういう約束だっただろう」

「……おう!」


 喜色満面、三鷹はぱっとベッドから飛び降りるとコートラックに引っ掛けていた白いファーコートを羽織り、黒いヒールブーツを履いて沢巳の横をするりと抜けて外に出た。

「早く行こうぜ! そうだ、ついでに食前方嬢に顔を出したい」

「分かったから左腕を引っ張るな」

「引っ越すなら断然、北のビバーヒルトップか南のシーサイドセントーサだな」

「あんな高級住宅地に越すには金がいくらあっても足りんぞ」

「引っ越しちまえばこっちのモンだ。万年客無しのこの探偵事務所にも金の余った連中が依頼に来るはずだぜ」

「……まあおれは事務所が閑古鳥だったお陰で潜入レポの締め切りに間に合ったんだが」

「本末転倒だなぁ。てか今時なんで手書き原稿なんだよ」

「先月、どこぞの愉快犯がネット上に設けている原稿提出用ファイルにハッキングして原稿を荒らしていってな、大騒ぎだったんだ。上層部からお達しがあるまで紙原稿で提出だ」

「なんだそりゃ。ゴシップ誌の原稿ファイルにハッキングするなんてよっぽど暇なんだろうな」

 三鷹が声を上げて笑い、アパートの階段を駆け足で降りる。彼につられて、沢巳も少し笑って歩調を早め、並び立って往来に出る。そのままふたりは人ごみにまぎれていった。


 倫理退廃都市ネオバビロンの噂。 

 実はネオバビロンには不老不死が2人いる。二人は行動を共にし、街のあちこちに出没する……らしい。

 真偽のほどは不明。




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永久連理のネオバビロン 鹿島さくら @kashi390

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