青の側では朱を帯びる

2121

灰色は青に挟まれた

 視界は蜃気楼のように揺らぎ、飛んでいた蝶も同じようにひらりひらりと揺れていた。名前までは分からないが、確かあれはタテハ蝶。暑さで歪んだこの視界に、幻でも映ればいいのにと浅はかなことを考える。一人の人を脳裏に思い浮かべながら。

 七月に入ったばかりというのに日差しは容赦なく自分の上に降り注ぎ、学校までの影のない道を呪いたくなる。校庭では野球部と陸上部が練習をしていて、テニスコートではテニス部が黄色いボールを追いかけている。一人のクラスメイトがこちらに気付いて手の代わりにラケットを振ったから、こちらも軽く手を上げて挨拶を返した。

 明るい時間帯に外に出ること自体が得意ではなく、どこの部活にも入っていない帰宅部の自分が土曜日に学校に来なければいけなくなったのは、単に忘れ物をしたからだった。

 暑い、暑い、暑い。

 ただでさえ体力が無いのに、日にも暑さにも弱いから夏という季節が本当に苦手だった。

 忘れ物を取る前に一度休んだ方がいいだろうか。

 校舎へ入り一旦保健室へ行くことに決めて、上履きを履き替えた。

 人気の無い廊下は生徒がいないというだけで、温度が数度低い感じがする。保健室が近付くにつれ嫌な予感がした。どうも電気が点いていないらしい。扉を引こうとすれば、やはり鍵がかかっている。土曜日には保険医は来ていないようだ。当然と言えば当然か。

 このまま階段を昇って自分のクラスまで行くのは途中で力尽きそうな気がした。だから近くの適当な空き教室の扉を開ける。扉の上に掲げられたプレートには美術準備室と書かれていた。教室の三分の一くらいの広さで、棚には画材や絵の具、壁際にはキャンバスが立て掛けてある。

 教室に入り後ろ手に扉を閉めて側の壁に寄りかかり、ずるずると背を擦りながら座り込む。足の力も入らないし、目眩がひどかった。少しでもその状況から脱しようと、腕を捲り、左腕の包帯をほどいて━━自らの腕に歯を立てる。二本の牙が皮膚に穴を開けると同時に微かな痛みが走った。穴から血が浮いて流れる前にその血を啜る。血の味が口の中に広がって、飲み込むと少しだけ気分が楽になる。

 自分は絶滅しかかっている吸血鬼だった。血を栄養とし、特に美しい女の血を好み、普段は人間のふりをしながら腹が減れば人を襲う。しかしながら、それは兄弟には当てはまれども自分には当てはまらない。

 他人の血が飲めなかった。人間を傷付けることに嫌悪を覚え、他人の血が自分の血に混ざることが気持ち悪かった。

 こんなにも体力が無いのは、慢性的に腹が減っているからだ。体は常に血を求めているものの、他人の血を受け付けない。代わりに鉄の薬を飲み、自分の血で一時的に飢えを凌いで血を飲みたくなる欲求を誤魔化している。しかし自給自足にも限界があった。こういうときは、ひとまず休むしかない。

 そのまま身体を横たえる。少しだけ仮眠を取ろう。動けるようになったら忘れ物を取って、すぐに帰ろう。

 眠ったのは一時間も経っていなかったように思う。目の前に誰かがいる気配がした。ゆっくりと目を開ける。

「こんにちは、吸血鬼サマ。同じクラスだしはじめましてではないんだけど、まともに話すのは初めてかもね」

 そんなことを軽やかに言う同じクラスの女生徒が、俺の心臓に銃口を突き付けている。

 ああそうか、この部屋は美術室と繋がっている。クラスメイトの碧生あおは美術部だ。見下ろす瞳に宿るのは暗い光で、何か吸血鬼に対して恨みがあるのだろうと瞬時に察せられた。

「お前、バンパイアハンターか。全然気付かなかったな……」

「そう。まさかこんな好機に恵まれるとは」

「さっさと撃たないのか?」

「今すぐにでも撃ちたいんだけど、撃つ前に聞きたいことがいくつかあって、第一に━━これは一体どういうこと?」

 ほどかれて床に無造作に置かれている包帯と傷だらけの腕を指をさしながら聞く。

 すぐに撃たないなら、と起き上がり壁を背もたれにして座って、同じ目線になった。その間も銃口はずっと俺の胸を狙っている。

「俺は他人の血が飲めない」

 碧生は一瞬顔を歪める。

「それは、本当に?」

「飲んだことが無い訳ではないが、長らく飲んではないな」

 少し止まって何か考えた後に、前屈みになり首か耳辺りに鼻を寄せた。不意に近付いたせいで頬に髪が触れて、思わず少し仰け反りつつ目を細める。同じように碧生も俺の匂いを嗅いだのだろう、顔を伏せたままゆっくりと離れていく。

「……本当に飲んでないんだ」

 どこか悲しそうな泣きそうな顔になり、一度わざとらしくため息を吐いた後に銃を下ろして俺と目を合わせた。そのときにはもう、揺れた感情は戻っていたようだった。

「それで動けないからここにいたってこと?」

「夏の日差しと暑さにもやられてね」

「そもそも土曜日に何やってるの? 帰宅部だったよね?」

「忘れ物を取りに来ただけ」

「忘れ物?」

「……鉄剤。あれがないと俺はまともに生きられない」

「鉄剤……? 鉄分の薬?」

「鉄分の薬だよ」

「……吸血鬼、とは」

「俺は半端者で紛い物みたいな吸血鬼だよ。到底本物とは程遠いものだ」

 実際、吸血鬼の自分なんて一度死んだようなものなので、本当に中途半端だった。

「鉄剤って机の中?」

「そう、だけど」

「ちょっと待ってて」

 碧生は美術室側から教室を出て、十分も経たない内に戻って来た。「はい」と手に渡されたのは、見慣れた赤い錠剤の入った小瓶だった。

「瀕死の吸血鬼殺すのもねぇ」

 ザラザラと手に出して、一気に飲む。これでしばらくすれば、動けるようになるだろう。

「吸血鬼じゃないといいなって思ってたのに」

「それはどうして?」

「みんなに慕われているから。そんな人を殺したくは無いじゃん」

「慕われてる……か」

 あまり自覚は無かった。人間に優しくありたいとは思うけれど。

「その左腕、いつも包帯してるのはバレてるんだけど、刺青でも入れてるんじゃないかって言われてるの知ってた?」

「そんないいもんじゃなくて、申し訳無ささえ感じるな」

「そもそもなんで吸血鬼が学校に通ってるわけよ?」

「なんでだろうな。少し人の近くで過ごしてみたかったというのはある。まぁ吸血鬼の世界では些か生きにくかったからというのも大いにある」

 血が飲めないというのは吸血鬼界ではアイデンティティを失っているようなものなので、居場所がない。何度蔑まれ、殺されかけたことか。

「バンパイアハンターということは、お前はダンピールか?」

 バンパイアハンターは吸血鬼と人間のハーフであるダンピールがなることが多い。中途半端であるが故に人間世界にいても軋轢を起こしやすく、吸血鬼を恨むことが多いため狩る側に回ることがよくある。また鼻が良いから効率良く吸血鬼を見付けやすい。

「ダンピールというほどではないけど、血は混ざってるよ。ひいおじいちゃんが吸血鬼だったから血は薄い。ほとんど人間だけど鼻は普通の人よりはいいんだ」

「ダンピールの友達は俺にもいたな」

 碧生はどうしてか泣き出しそうな顔になる。

「友達って呼ぶんだ」

 その顔に似た人を俺は知っている。

「ねぇ、なんでお姉ちゃんを殺したの?」

 どうしてずっと気付かなかったんだろう。そういえば、こいつはあいつと同じ目をしている。

 確かに俺は生涯一人だけ血を飲んだことがあるのだ。タテハと呼んでいた、遠くまで広がる朝焼けを通す瞳が美しい人。

「ずっと殺したかった。お姉ちゃんから名前は聞いてたんだけど、まさか同じクラスになった人がその名前でしかも吸血鬼の疑いが掛けられていると知ったときは絶対に逃せないと思った。けどしばらく過ごしてみたら、人当たりがいいし優しいし気が利いて……言ってしまえば、大変魅力的な優男で私としては困ってしまったんだよ」

 泣かないようにと、奥歯を噛み締めているのが分かる。

「灰里くんからは、お姉ちゃんの匂いがするんだよ。お姉ちゃん以外の人の血は一つも混ざってない。ずっと殺したくて仕方が無かった。なのに、なんでそんなに苦しい生き方をしてるの」

「最初からこうだった訳じゃない。それこそ、お前の姉のタテハのおかげだよ」

 思い出すのは、太陽の下に初めて出た日のことだった。



 血を飲めない俺は吸血鬼の中でも異端として扱われていた。あるとき吸血鬼らしからぬからいっそのこと朽ちてしまえと夜の間に山中の木にくくりつけられていた。それを助けたのがタテハだった。

「吸血鬼が吸血鬼に殺されそうになってるなんて初めて見たんだけど、これは一体どういう状況?」

「見たままの状況だよ。人の血が飲めないから、兄弟に殺されかけているだけ」

 助けてくれとは言わなかった。半端者である自覚はあったし、同族に殺されるなら仕方無いと受け入れてしまっていた。だからもうここで朝を待って死ぬつもりだったのだ。

「あんたこそ何やってるんだ? こんな早朝というか夜中というか、中途半端な時間に」

「吸血鬼を探してたんだよ。ねぇ、助ける代わりに仲良くして」

「仲良く……?」

 タテハは側までやってきて、俺の縄をほどいていく。生き延びてしまったな、と他人事のようにその姿を見ていた。

「私はダンピールなんだよ。半端者同士ならどうにかやれると思わない?」

 縄を解かれ、地面に座り込み、タテハを見上げる。俺とは正反対に生き生きとした瞳をしたその人は、希望を孕んだ声で言う。そしてもうすぐやってくる朝の紫がかった空を背にして、タテハは俺の手を引いた。

 聞けばタテハは匂いを辿って俺の場所を見付けたのだという。おそらく、碧生より吸血鬼の血が濃かったのだと思う。

 タテハは俺の手を掴んだままどこかへ連れていく。生きる気力の既に無い俺は、引かれるがままタテハの後ろを付いていっていた。

 ここで待ってて、と言われて公園の休憩所に座らされた。タテハは近くの薬局に行き、しばらくするとビニール袋を下げて戻ってくる。

「これ、飲める?」

 渡されたのは鉄剤、言われるがままに飲むと少し楽になった。こんなことで誤魔化せたのかと、拍子抜けしてしまう。次にタテハは手に白い乳液を出して、俺の顔に塗っていく。

「これはなんだ……?」

「日焼け止め」

「お前は俺をどうするつもりだ……?」

「人と吸血鬼の間にそんなに隔たりがあるとは思わない」

 肌の出たところ全てに日焼け止めを塗り、タテハはまた俺の手を取る。

「これで多少は太陽の下を歩けるんじゃない?」

 手を引かれ、太陽の下に連れ出される。初めて浴びた日の光は、これまで恐れていた物の筈だったのに暖かさが心地よかった。今、握っている手のような暖かさをしていた。

 その後はコンビニに行っておにぎりとトマトジュースを買って、朝ごはんにした。本屋に行って、ゲームセンターに行って、タテハは俺に人間の過ごし方を教えてくれた。端から見れば他愛もないその過ごし方が、俺にとっては目新しくて何より楽しかった。

「俺はそろそろ家に帰るよ」

 時間は夜になり、俺はそう告げた。

「殺されかけたのに?」

「一応ね」

 そう言って、その日はタテハと別れた。

 俺を殺そうとした兄弟は、生きて家に帰った俺を見てもただ舌打ちをするだけだった。そんなものだよな、と思う。俺のことなんて、なんとも思っていないのだ。

 だからその後、タテハのところへ行くのは自然なことだった。

 タテハは俺を吸血鬼としても人間としても扱う訳ではない。半端者同士、二人で息が吸いやすくなる方法を模索した。

 たまにどうにも衝動を抑えられず、俺は自らの腕を噛む。その姿を何度か見たタテハは、ある日言った。

「私が死ぬときは、灰里が血を飲んでよ」

 ダンピールは短命だ。しかも、吸血鬼の血が濃ければ濃いほど寿命は短くなっていく。タテハは自分の寿命が短いことを感覚で知っていた。

「半端者の血なら、案外飲めるんじゃない?」

「さぁ、どうだろうな」

 自分が死ぬのはいいのに、他人が死ぬのが耐えられないのは身勝手だろうか? 俺はタテハが短命であることを直視したくなくて、話題を避けるように適当な返事をした。

 いつものように人の真似事をしながら遊んでいた日のこと。

「君は人と過ごす方が合っているのかもしれないね」

 タテハは素晴らしい提案のように、言う。

「最初はしんどいかもしれないけれど、きっと人は君のことを受け入れてくれるよ」

 託宣のように告げて、すぐにタテハが倒れた。あまりに突然のことだった。

「絶対に私の血を飲んでね。吸血鬼は長命なんでしょう? 灰里と生き続けるのは楽しそうだから、ずっと一緒にいさせて」

 その言葉を聞いて腹を決めた俺は、タテハの首に牙を立てた。柔らかい皮膚が裂けて、血の味が口内に広がっていく。不思議と気持ち悪くは無かった。

 人の血はなんて美味しいんだろう。けれど美味しいのはタテハだったからなんだと分かる。同時に胸は苦しくなっていった。腕の中の友達が、俺のせいで段々冷たくなっていく。

 血の味が変わっていく。それは自分の流した涙が口に入ったせいだったけれど、全部飲み尽くすまで離しはしない。


「その後に人の世界で生きることに決めたんだ。クラスメイトは好きな人はいないのかとか、恋人がどうとかそんな話をしょっちゅうしているけれど、あれは恋だったのかもしれないなと今なら思う」

 そんな本心を、タテハの妹に言う。本人がいる間には自覚出来なかった自分の気持ちを、懺悔のように伝えた。

 碧生は話の途中から、目を伏せたままだった。俺の言葉に、ゆっくりと首を振る。

「それは恋じゃない」

「そうか、まぁそうだよな。こんなの俺の独りよがりで━━」

「愛じゃん」

「……アイ?」

「純愛じゃん!?」

「は……?」

「ずっと殺して復讐したいと思ってたのに!」

 鼻声で碧生が叫ぶ。顔を上げると、涙でぐちゃぐちゃだった。

「襲われたんだと思ってた。お姉ちゃんが苦しんで死んだ訳じゃないと分かっただけでなんかもういいや」

 涙を制服の袖で拭い、落ち着くように一息吐く。

「ごめん、ちょっとだけいい?」

 碧生が俺に腕を回して抱きしめる。暖かくて、懐かしい匂いがして、どこか落ち着いてしまう。

「お姉ちゃんの匂いがする。私お姉ちゃんのことすごい好きだったんだよね」

「たまにお前の話は聞いたよ。まだ小さいのにずっと追いかけてくるって」

「……何歳なんよ……お姉ちゃんは七つ歳上だったんだけど」

「それは言えないな。俺の見た目は長らく変わってない」

 碧生の肩に顎を置き、返すように強く抱きしめる。懐かしくて思い出が押し寄せて、少し泣きそうになる。

「お前も懐かしい匂いがする。あいつとは少し違うけれど」

 人の血の匂いにクラクラするけれど、なんとか平静を保つ。俺はもう、あいつ以外の血を飲むつもりは無いのだ。

「人が好き?」

「好きだよ。健気で儚いけど一生懸命生きているから」

 そうか、と納得したように碧生は言って、頬を擦り寄せた。きっと今、碧生は俺ではなくてタテハに甘えている。

「今までお姉ちゃんとずっと生きてきてくれてありがとう。これからも一緒に生きてね」

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