異聞・鉢かづき

すきま讚魚

第1話

 それほどには遠くない昔のことでありましたでしょうか。

 河内の国の交野のあたりに備中守びっちゅうのかみさねたかという人がおわしました。数多くの宝をお持ちになり、詩歌管弦や四季の移ろひに心をお寄せになり、のどかに空を眺めお過ごしになる暮らしは、何の不自由もありませんでした。

 北の方(奥方のこと)もまた、古今、万葉、伊勢物語、数の草子を御覧になり、月夜に心を寄せて暮らしておりました。

 夫婦は仲睦まじく暮らしておりましたが、どうしたことかなかなか子宝には恵まれません。

 そこで日々、観音様へお祈りをしたところ、ようやくお子を授かったそうな。

 それはそれは美しい、玉のような若君がお生まれになったのです。夫婦はとても喜び、長谷の観音へと参って我が子のゆく末をお祈りするのでした。


 然し、実は若君を生んだその夜、北の方の夢枕に観音様がお立ちになりこうお告げになったというのです。


「若君が成人となる前に、貴女はこの世を去ってしまうさだめにあります。旦那様はお嘆きになり、あまりにも不憫だと周囲の者の声に耳を傾け新しい妻を娶るでしょう。然し後妻はたいそうこの子をいじめ、やがて家を追い出されてしまうことになります。この子を女児として育てなさい。そしてし、貴女が己の死期を悟ったその時は、この鉢を若君に被せるのですよ」


 目を覚まし、観音様の御言葉が忘れられなかった北の方は、ひとときも若君と離れようとせず、お生まれになった我が子を女児としてたいそう可愛がりお育てになりました。けれども、実の父でさえ、そのあまりの可愛らしさに我が子が姫君であると疑いもしなかったのでした。


 そうして歳月を経て、若君が十三の歳になる頃です。

 北の方は重い病に臥せってしまわれたのでした。己の命の先が長くないことを悟った北の方は、そのお側に若君をお呼びになりました。

 そして夢の中の観音様の御言葉を思い出し、「あゝこの子が男児だと知られれば、跡目争いできっとつらい思いをしてしまうのでしょう」と涙しました。


 北の方は、共に涙する若君の美しい黒髪を撫でると、側にあった大きな鉢を被せ、そっと囁いたのです。


「深くお頼み申し上げます観音様、誓いのままにこの鉢を被せます」


 そう云い残し、ついに儚くなられたのでした。


 お父上は嘆き悲しみ「どうして私と姫を置いて逝ってしまったのか」と、泣くばかり。然し、弔いはせねばならず、いつまでも愛しい北の方の姿を側に置くことは叶いませんでした。


 やがて喪が明けまして、我が子の頭から肩を覆うほどの大きな鉢を取ろうといたしましたが、吸いついたようにまるで離れません。

 愛する奥方を失い、その面影の残る我が子すら、このような奇妙な姿になってしまおうとは。お父上の嘆かれることに限りはありませんでした。



 さて、月日が経ち、後の供養も過ぎたころ。

 お父上の一族や近しき人々は「そろそろ新しい妻を娶ってはどうか」と言い始めました。いかにも、若君のことは皆女児だと思っておりましたから、御家のことや寂しき独り身を案じたお父上も、とうとう再婚を決断なさったのです。


 こうして、やってきた継母ですが「なんと醜くみっともない」と若君を憎み、事あるごとにいじめるのでした。

 継母がお子を授かると、いよいよそれも酷さを増し、お父上にさえデタラメの陰口を云うようになってしまったのです。


 とうとうその嘘により家を追い出されてしまった若君は、亡き母を想いその墓前で泣き濡らしておりました。


「今やお子もでき、父上も安心した事でございましょう。誰が惜しむ命でしょうか、わたしは母上の元へと向かいます」


 そう呟き、橋の袂から大きな川へと身を投げてしまったのです。


 然し、その大きな鉢が浮きとなり、流れ流れて沈むことさえ叶いません。

 流れ着いた先で若君はふたたび悲しみに暮れておりましたが、川に身を沈めようと浮いてしまえばどうにもなりませぬ。

 いくあてもなく歩いていけば、「鉢が化けて出たにちがいない」と道ゆく人々にすら嘲り、時には恐ろしがり笑われるのです。



 さてここに、その地の国司である山蔭三位中将やまかげのさんみのちゅうじょうという人がおわしました。

 あるとき中将は「鉢かづき」と呼ばれる者が彷徨い歩いていると噂に聞き、「その者を呼び寄せよ」と仰いました。

 中将は家来に連れられてきた鉢かづきをおもしろがり、その鉢を取ってやろうとしましたが、何人がかりであろうとまるで吸いついてしまったかのように取れぬのでした。


「鉢かづきはどこへ行こうと申すのか」

「いいえ、どこへだろうと行くべき場所はありませぬ。母と死に別れて家を追われ、挙句にこのような奇妙な姿にさえなりますれば、人はわたくしを怖じ恐れ、嫌いはしませど、哀れむ人などありません」


 ほう、これはおもしろい。そうお思いになった中将は、己の屋敷の湯殿にて雇うことにしたそうです。


 和琴わごん、笙、篳篥ひちりき、古今和歌集、万葉集、数々のお経や書物は母の元で習った若君でしたが、てんで役には立たぬのです。

 湯殿などやったこともない仕事です。つらい気持ちを詠みながら、物憂げに日々湯を沸かしておりました。

 若君の見目は、女児として育った通りの所作と細さでしたから、誰もこの「鉢かづき」を女と疑いませんでした。若君も、自身の名が「鉢かづき」として広まることは憂えども、母の守った秘密であると誰にも話すつもりもありませんでした。



 さて、この中将にはお子がおられました。上の三人はそれぞれが妻を得ておられましたが、四番目のお子、宰相の君と申す御曹子は唯一独り身でありました。

 見目麗しく、優美なお姿はまるで物語に伝え聞く光源氏かと云われれるほどです。

 宰相の君もまた、四季の折々を愛し眺めゆくのがお好きな方でありました。


 兄たちや母君もお風呂に入れど、宰相の君だけはいつも夜が更けて遅くなった時間に、独りでお風呂に入りました。

 鉢かづきの「お湯を、お移しいたします」と申す声が、優しく聞こえてきた宰相の君は、ふと「御行水」とて差し出される手足の美しさや言葉の端々に滲む教養を不思議に思いまして


「ねえ鉢かづき、今の時間、他に人はいないのだから何を遠慮することがあろうか。背中を流しておくれよ」


と仰いました。若君は昔を思い出し、人に入浴の世話をさせたことはあっても、人の入浴をどうして世話できるだろうかと思いましたが、逆らうこともなく浴室に向かいました。


「大丈夫だよ、もっと近くで話をしてみたかったんだ。私ときみは女同士なのだし」


 宰相の君はご覧になって、花が咲くかのように微笑みましたが。

 これに大いに驚いたのは「鉢かづき」と呼ばれた若君です。ひとり妻を娶らぬ四男坊として育てられた宰相の君こそ、若君とはまた逆に、男児として育てられた身の上でした。


 あまりのことに身を固くして戸惑う若君に、どうしたことだろうと宰相の君は朗らかに笑い、語りかけました。


「どうしていつも、そんなに自信がなさそうにしているんだい? きみのように美しい所作の者はなかなか見たことがないよ。口ずさむ歌は美しく、いつももっと近くで話してみたいと思っていたんだ」


 若君は驚きました。どう見てもお美しいのは宰相の君、そのお姿から目を離せなくなってしまったのです。

 やがて話すうちに己の身の上を打ち明けた若君に、宰相の君は大いに驚きましたが、追い出すこともなじることもいたしませんでした。

 ただただ、「そうかい、それはつらかったことだろう」と寄り添い、共に嘆いて夜を明かしてくださったのです。

 宰相の君もまた、観音様のお告げにより男児として育てられた身の上でありました。


「きみはすこしばかり痩せすぎだろう」とひっそり食事をお持ちになることや、湯殿の時間以外にも、鉢かづきの寝泊まりする場に宰相の君がお話にいらっしゃる機会が日に日に増えていったのです。

 このふたりだけの秘密の時間は、毎日嘆き悲しむばかりであった若君の心に、すこしばかり陽の光が差したようでした。

 然し、お相手は宰相の君です。どんなに心をお寄せになる言葉を囁かれても、きっと良い御人がいらっしゃる、己は物珍しさに遊ばれているだけだ、とふと物思いにふけっては、涙を流すこともしばしばでした。


 すると宰相の君は、「どうして泣く必要があるんだい。きみのように可愛らしい人はいまだ見たことがないよ」と微笑み、ますます若君を悩ませるのでした。


 そうこうしているうちに、毎夜毎夜、鉢かづきの元へ宰相の君が御渡りになっている、と屋敷の者の中では噂になっておりました。


 謂れのない言葉を浴びせられ、若君は宰相の君より貰い受けた横笛を眺めると「この笛のように、なんとふし(障害)の多い仲でしょうか」と呟きました。

 それを隠れて聞いていた宰相の君は、その頬をまるで紅葉のように赤く染めてこうおっしゃったのです。


「では節だらけの呉竹のように、何千年も伏し添うよ。誓いは絶えることはない」


 慌てて若君はごまかそうとしましたが、宰相の君は聞き入れません。


「今きみは、私のことを好きだと云ってくれたのだろう?」


 どうせ秘密を抱えた者同士だと、鉢かづきを妻に娶ると云いだしました。


 これに慌てふためき、宰相の君を諌めようとしなさるのは母君と乳母である冷泉でした。他の者に鉢かづきを宰相の君に近づけないようにと命じ、宰相の君をお呼びになりました。


「予期していた通りですね母上、然しもし父上の耳に入って手にかけられようとも、鉢かづきのためならば捨てる命すら微塵も惜しくありませぬ。従わぬと云って追い出すもよし、縁を切ろうとも構いませぬ」


 宰相の君の御心は、確かなものでしたが、母君も冷泉も「きっと鉢かづきは物の怪で、宰相の君をとり殺そうとしておるのでしょう」と聞き入れません。

 であればと、兄たちの妻を呼び、嫁比べをしてご覧なさいとおっしゃったのです。祈祷師を呼び、嫁比べとして人の質を問いただせば、必ずや正体をあらわしいなくなるであろうと考えなすったのです。


 そうするうちに、宰相の君は若君のもとを訪れ「あれをお聞き」と涙をお流しになりました。


「私は己が不甲斐ないよ、嫁比べなどと云ってきみを追い出したいだけなのだ。けれど、私には女としての心得がないから、君に何も教えてあげられないのだよ」


 初めて見るその涙に、若君は宰相の君のことが愛おしくてたまらなくなったのでした。


「わたくしのために、あなたを無用者にすることがどうしてできるでしょうか。ここを去りましょう、どうか泣かないでくださいませ」


 そう微笑めば、ますます宰相の君は「片時も離れたくない」と云って泣くのです。


「聞いておくれ鉢かづき。最初は心許せる友に出会えたと思っていた、その賢き返歌も、琴や笛の習いも、語らいも。全てが楽しくてたまらなかったのだ。でも今になってわかる、私は本当にきみの側で共にありたいのだと。きみにおくった愛の言葉は、どれひとつ嘘偽りないものだと誓うよ」


 鉢かづきは宰相の君のこの様子を見て、「わたくし一人、何処へでも出て行きましょう。縁が深ければ、また巡り会いますから」とついには離れようといたしました。

 すると宰相の君はその泣き濡れた瞳で見つめ返し、「いいえ、私もどこまでもお供いたしましょう」とおっしゃるのです。


 こうして、明け方近くまで名残惜しんだふたりは、とうとう共にここを去ろうと心に決めたのです。


「宰相の君、こんな化け物と呼ばれる身ではあれど、あなたに永久とわの愛を誓いましょう。何があろうと、わたしはもう泣きません、あなたを守れる者になろう」


 愛しい人や、もうこのような偽りの身分なぞ共に捨て去りましょう。そう口にした時です。これまで、どうしても外れなかった鉢が、かぱりと真っ二つに割れて落ちたのです。


 宰相の君は驚かれて、その月に照らされたお顔をよくよく眺めました。

 男にしては美しいと持て囃された己が霞むほどの、美貌をもった、されどまごう事なき男児であるお顔立ちです。


「はははっ。宰相の君、今はっきりとそのお顔立ちを目にすることができましたね。嬉しくてたまりませぬ」


 若君はそう云って微笑まれ、宰相の君を抱き上げ喜びを分かち合いました。

 宰相の君も嬉しく思われて、落ちた鉢を眺めますと、そこには十二単の小袖や袴に着物、金の盃に白銀の小道具、守り刀や砂金の橘、数々の宝物が入っておったのです。



 さて朝の日差し、嫁比べの間に少し遅れて現れたのは、それは美しい姫君でした。

 待ち受けて見ていた人々は、皆目をみはり、気をそがれておりました。誰もが、これがあの鉢かづきのはずはないと慄き、口を開くこともできません。


 これに兄のひとりが声をあげました。


「宰相の君はどこだ。奴め、負けを悟って逃げ出したな。やい鉢かづき、おおよそ、見目がどうあろうと下賎な身分は偽れまい、琴を奏でてみるがよい」


 その言葉に、姫君は美しく笑い、口をお開きになりました。「わたくしは、琴は弾けませぬ。ええ、兄上、わたくしのこともお分かりになりませんでしたか」と。


 なんと、十二単を纏い化粧を施しこの間に立っていたのは、まごうことなき宰相の君でありました。これには、皆々何も云う言葉もありません。

 どうしたことかと目を泳がせていると、嫁比べの間に一首の歌が響き渡りました。


 春は花 夏はたちばな 秋は菊 いづれの露に置くものぞ憂き


 これは、と中将の家の者、兄たち、そして母君の前に現れたのはこの世のものとは思えぬほどの、それはそれは美しき若君でした。


「わたしにはこの宰相の姫君ただおひとり、比べるまでもございませぬ」


 そう静かに告げられると、若君はそこにおわした姫君を抱き上げ、外に用意していた馬に乗り、風のようにさってゆきました。



「ねえ宰相の君。あなたが一緒ならば、もう鉢も宝物も必要ないでしょう」


 そう若君が困ったように訊ねなされば。


「何をおっしゃるのですか。夢も何もなかった浮世に、ようやく光が立ち上ったのですよ。それに、これから遠いところまでゆくのです、あなたの背負ってきた業か宝か知りませぬが、使わなくてはどうするのです。そうだ、今度わたくしに琴を教えてくださいませ」


 そう宰相の君——姫君はその腕の中で笑い返しておられます。


 可愛らしく、しかしそのしたたかな面は四男坊としてお屋敷にいた頃と変わりませぬ。

 鉢かづき——いや若君は。もう下を向くままの世を儚み嘆く偽りの姫君ではなく、己の御心とその足で、面を上げて愛する姫君と共に生きてゆく決意をなさったのでした。


 もしかすると、あの鉢は。

 若君が知らず知らずの間に己にいだいていた、暗く重いその心だったのかもしれませぬ。



 ふたりはその後、帝に気に入られる業績を成し遂げただとか、手に入れた宝物と共に遠い地でひっそりと暮らしただとか、様々な言い伝えがありますが。

 それはそれは仲睦まじく、いつまでも幸せに暮らしたそうです。

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