その創造主は、六人の王を生み出した。視覚の王、聴覚の王、触覚の王、味覚の王、嗅覚の王、そして名もなき第六の王。この王は、いずれ訪れる【終末の刻】まで封印されてしまう。いつか、この王のもとを訪れる者はいるのだろうか。いるとすれば、その者は誰なのか。そして、この二人の出会いは何を意味するのだろうか?
この作品の根本には、倫理の起源への問いがある。第六の王のもとを訪れる者の名前は、シャフツベリ。これは西洋において道徳感情論の始まりを告げたシャフツベリと同じ名だ。彼は、人間には道徳に対する「感覚」が備わっていると論じた。西洋は伝統的に視覚優位の社会であったが、彼を始祖とする道徳感情論は、人間においては表面をなぞるだけの視覚を超えて、他者と響き合う「共感性」の次元があると捉えたのだった。
当時は道徳という言葉で論じられた問題だが、現代では倫理と言い直した方がいいかもしれない。現代の倫理学においては、道徳は一般的な義務の要請を意味し、倫理は個別的な場面における価値判断を意味することが多い。そして、視覚の倫理、触覚の倫理などが議論の俎上に上がっている。
驚くべきことに、この作品はこの倫理学の次元を一足先に飛び越えてしまったようだ。私たちには、五感の倫理を超えた、第六の倫理がある。
この物語において、シャフツベリは第六の王をリバティと呼ぶ。リバティとは当然「自由」を意味するが、ただの自由 freedom ではない。これは、様々な闘いと運動を通じてようやく獲得される自由の謂いである。
この物語におけるシャフツベリの容姿をぜひ直に確認していただきたい。そして、五感を持たないリバティがこのシャフツベリを「目の当たり」にしたときの感動を、一緒に味わっていただきたい。そして、この二人が歩む道のりを、共に想像していただきたい。
これほどに美しい倫理の寓話を、わたしは他に知らない。