第6話 「やなぎや主人」(性描写あり)
この劇画は、とても優れた作品ですが、性的な内容が多く含まれるため、気になさる方は大変恐縮ですがご遠慮くださるようお願いいたします。
カーテンを引いた真っ黒な背後から、ヌードスタジオの女の裸体が浮かび上がる。その正面に、男が座っている。
女がふと気づくと、男は横を見てもの思いに耽っているかのようだ。
「なんだ 見てないの」
「あんたって おかしいよ 来るたびに 見たり見なかったりだもの」
「この唄……」男はうなだれて流れる唄を聴いている。
「網走番外地ね 誰か階下でレコードかけてんのよ」「あんた どうしたの!」
男はいきなり夜の街に飛び出す。
「あれは去年の4月頃だった」「あの唄をきいてぼくは突然海が見たくなり 新宿から房総行きの列車にとび乗ってしまった」
背景は夜の街から夜の暗い海へと移り、そして暗い列車の窓辺で男は頬杖をつき、窓外にはどこかの町の駅舎が飛ぶように走る。
ここまでの大胆なコマ割り、ベタ(真っ黒な部分)をふんだんに使った展開は実に見事で、これまでのつげ漫画はなんだったのだろうと思わされるほど卓越した表現力が発揮されている。
「海さえ見えればどこでもよかった N浦という淋しい駅に降りたのだが」
夜の駅や小さな待合室に佇む男。写実的な、淋しげな味わいのある素晴らしいコマが続く。
「あの頃はいつも あんな衝動にかられそうな気分になっていた」
ページは再び客引きをするヌードスタジオの女たちの描写になり、その頃男はいたたまれない気持ちだったことを告白する。
再びヌードスタジオの部屋である。
回想シーンなのだろう。男は女と話している。
「あんたって本当におかしいよ 向こうの方からくるのをみると追われるようにしてくるんだもの」「実は睡眠薬やってるんじゃないの?」
女は睡眠薬をやめてからずいぶん太ったこと、いつまでもこんな商売やってられないが、いまさら処女みたいなふりもできないし、後悔していることを話し、いろんなことがあったんだけど、結局自分は駄目なのネ、と言うのだ。
雨が降っている。
再び房総である。
男は何気なく駅員に道を尋ね、駅員は男は宿屋を探しているらしいと察するのだが、「この町には宿屋はねえなァ、そこのやなぎやという食堂に頼めば泊めてくれないこともないが」と、その食堂に頼んでくれ、男はそこに泊まることになった。
やなぎやは、目の前の国道を走る車の運転手なんかを客にしている大衆食堂だった。
やなぎやは母娘2人暮らしで、父親は先の戦争で他界していた。
娘は独身なわけだが、このあたりから男の妄想がかった思考が働き始める。
男の想像では、娘さんは処女ではなく、ずっと以前、まだ十七、八の頃、お祭りの夜に青年団の若者に草むらの中で誘惑され、それからもほかに五、六人の若者と関係ができてしまい、海辺の松林の中とか、小船の中で逢引きを重ねていたに違いないとにらむ。
この具体的な空想は、いかにも作家らしいし、またつげ義春さんらしいとも感じる。
またつげ義春さんは、この頃こういう気分だったのだろう。
その夜、男はいつまでも寝付けなかった。
床の中でじっとしていると、「僕はいまここにこうしているんだなあ」と変に自分が意識されてならないのだ。
実際やなぎやは古い食堂で、男が寝ている部屋も、みすぼらしく侘しげで、そんな部屋にいる自分がなぜかふさわしいように思える。
そして、
「自分は本当はここにこうしていたのかもしれない」というような気分になる。
これは、「チーコ」から続く、作者の自意識の不思議な働きで、「自分がここにこうしていることの不思議」としかたとえようがない。
けれど夜半、娘さんが用足しに起きてきたので男は眠ったふりをする。
彼女ははだけた寝間着を直そうともせず、そっと男をうかがうような気配をみせると、そのまま階下の便所へおりて行く。
男はうかつにも煙草の火を消すのを忘れていた。
当然彼女は男が目をさましているのを知っていたに違いなかった。
とすると……あのような刺激的なポーズは……
そこから男は大胆な空想にふける。
男と娘さんはできてしまうという空想だ。
「いけない人ね」「私たちこんなになっちゃって……」
「いいじゃないか、結婚すれば」
「ほんと?」
「おれはやなぎやの主人におさまって毎日料理でも作っていればいいんだろ」
「そうしてもらえると助かるわ」「やっぱり女所帯じゃなにかにつけてネ……」
結局男は一晩中眠れないまま、房総を一周して東京に帰ってくる。
「そして……あれから1年を過ぎた現在でも」
房総行きの列車が走っている。
「その時のことを思い出すと……なぜか」
男はその列車の窓辺で頬杖をついている。
「あの店先で歳とった自分と彼女が佇んでいる情景が 色褪せた古い記念写真をみるように思い出されてならないのだ」
店先に自分と彼女が並んで佇んでいる絵が、実に懐かしい感じで描かれている。
男は一年ぶりにやなぎやを訪れる。カツ丼を注文し、娘さんと軽く会話を交わす。
そのあと男は店を出るが、娘さんが自分を覚えていないどころか、てんで忘れてしまってる様子に落胆する。
男は当てもなく歩き、行商の老婆から蛤(はまぐり)を買う。
その蛤にひかれて1匹の猫がついてくる。
男は砂浜で火を焚いて蛤を焼き、飲めない酒など飲んで夕暮れのひと時を過ごす。
男は猫をもてあそんで、網走番外地の唄を口ずさみ、「そうだ、誰かの小説に 猫の足の裏をまぶたに当てると冷たくて……」
「はははなるほど……ははっ」
「冷たくて いい気持ちだ」
つげ義春の旅路 レネ @asamurakamei
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