散文(構想の一部)

栄一は今月の分だと言って嶺二に封筒を手渡す。封筒は厚く膨らんでおり、裏を捲れば数字が七つ、円表示とともに並んでいる。嶺二にはそれを撥ね退けることも出来た。拒絶し、殴打することも、殺めることさえも(その後の是非はともかくとして)厭わないだけの理由はあった。外部に弁明する余地も突けば難なく溢れだすほどには、栄一の秘められた暗部を知っていた。しかしそれは感情論によって押し留められる。血の繋がりのある人物は、それだけで特殊な強い糸で結ばれており、易易とは切れぬ強固な塗装を無意識に施していく。その存在は通常の社会の倫理の枠から例外項目として置かれるほどに頑強なものだ。たとえそうしたくなくとも、時としてその関係性は決して断ち切れぬ鎖として立ちはだかり、虚脱や嘔吐する程の嫌悪によってさえ、呪いのように執拗に感情を揺さぶり、理性を排他し得るほどにまで増長する。そしてもうそうなってしまえば、そこから這いずり出ることが自意識では叶わなくなってしまう。ずっとそうだった。豊かな生活が出来るほどの金を受け取る子供と、それを受け渡す父親。単なる小遣いではない。悪魔との取引、可視化された贖罪、歪められた本能、そしてその真の姿を隠す為に用意されたヴェネチアンマスク、それがこの金と、私の持つ社会的権力の正体だ。薄汚れたもので、嶺二と社会は繋ぎ合わせられている。泥に塗れた冥界征きの往復切符を、行き帰り、闇の円環の中で使い続けてきた。仮面舞踏会が行われぬ日はなかった。狂宴は他人の意思を一切介在しない、歪曲した思想を持つ成人男性一人の荒い吐息によって支配され、使われる舞台は紫色のタールで満ちてゆく。そして若い男性がその責め苦に耐え続けるには、意識を幻想に委ねるしか方法はなかった。嶺二が父への憎悪を、この家に来るまで強く意識しなかったのも、その逃避が彼の意識を凌駕して居たからに他ならない。しかしそれも、万能機ではない。いずれは強大な怨情を伴ってつけが回ってくる。器に水を注ぎ続けるには、底に穴が開いていなければならないように。掛けられた負担は着実に嶺二の精神を蝕み続けていた。幾ら無意識に意識を飛ばそうと、無意識にも限界は存在する。虚構は虚構に過ぎないのだ、それが現実を回してくれる訳ではない。限界を迎えたその時こそ、それまでの反動も込んだ大火がこの二人の関係を包むだろう。そしてその時は、刻々と近づいていた。


---中略---


浴室に付されている鏡に映る、うっすらと骨筋が浮かぶ白やかで平滑な胸骨をみて、嶺二は項垂れた。そこに豊かな胸はない。喉頭部には喉仏が隆起しており、男性性を如実に主張している。肩幅は腰回りに対して広く、顎髭は毎日欠かさず剃り続けていようと、そんなことはお構いなしとばかりに生えてくる。嶺二は元来の肉体が持つ男性性と、後天的に生まれた女性性の狭間で勁烈に揺れていた。私は一体どちらに成りたいのだろう、瑞江さんのふくよかに膨らんだ胸に憧れを持ったのは、間違いなく私にある女性的な部分が感化したことによって湧いた感情だ。女性的な美しさを求めるのも女性性から来るものだろう。とはいえ、私の中にあるものは女性的資質だけではない。男性的部分――そう、たとえば今こうして思考している部分などは、まさに男性らしい行動じゃあないか。論理的思考は男性的資質によってなされるものだろう――いや、それは肉体が男性であるから、脳が男性の論理的思考をしているだけなのか?――考えていると鬱々としてくる。一向に定まらないセクシャリティは嶺二に恒常的な負担を強いていた。特に今のような忙しさのない時間帯だと、解答のない自問を逡巡している事が多い。嶺二はこの自問が何ら自分に良いものをもたらしてくれない類のものだと分かっていつつも、辞められない習慣になってしまっていた。しまったな、長い入浴で父に疑われたら後が面倒になる、早く湯に入らねば。嶺二は物憂げに身体の泡を洗い落とし、冷えた身体を湯船に浸けた。


---中略---


寸分違わぬ目元が、あの人間と自分の境界線を曖昧にする。同じ人間が居てはいけない。人間は常に同一な人物のいない存在でなければならない。ではこの眼の前に居る人間は何だ。私なのか、私ではないのか。私でなければなんだ。ホムンクルスか、ドッペルゲンガーか。どれも違う。この、自分でありながら自分ではない存在が自分の中に入っていく感覚は何だ。気持ち悪い。他人の体の一部が自分の身体の中に入っていく事が気持ち悪くて仕方ない。駄目だ耐えられない。こんな――こんなことは、あってはならない。これは間違っている。これは何か気のせいだ、間違いだ、そうだそうに違いない。そうか、これは夢か、今私は夢を明晰しているのか。いや、ならばおかしい。これが明晰夢ならば、夢を明晰した時から夢の所有権は私になるはずだ。何故私の思い通りにならない? 何故私の身体の中で異物が蠢動しているんだ。気持ち悪い、気持ち悪い――――景色が、白んでいく、白い、景色だ、酒を飲んでいるように頭がぼうっとしてきた。身体が勝手に動いていく。


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思い返しておりました。 @kanji

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