思い返しておりました。

@kanji

本編

「嶺二さん、今までありがとう」

豊崎瑞江は深いお辞儀をして、それから背筋をぴんと伸ばした。顔を保とうとしているが、目元の窪みから流れるものに抑制は効かない。

「契約は満了されています。それに今生の別れという訳でもないでしょう?」

沖田嶺二は彼女を宥めるように優しい声色を出して答えた。しかし目下のところは彼も消沈していた。それを隠していたのは気を遣って、に過ぎない。確かに仕事は契約によって双方を結び、期の満了や何かしらの理由によって関係を終わらせるものだ。資本主義、司法制度の効いた国家の下で生きる人間に、それを阻む権利はない。とはいえ、そうして正論を振りかざしてこの始終をのり切ろうとしても、落胆を全く見せずにいることは至難だった。嶺二の表情にも隠し切れない色は現れていた。瑞江はそれを見ると、辛いのは私だけじゃないのよ、と自らを鼓舞して、頬を拭いながら笑顔を作り、嶺二へ次の行き先を教示した。

「実家方に連絡しておきましたから、路頭に迷うことはないですよ」


 短い間でしたが、ありがとうございました。嶺二は涙が流れぬように目元を固く結び、口元を引き締めて深くお辞儀をした。最後まで嶺二さんは格好良いお人だったわ、瑞江は別れ際そう思っていた。最後は凛々しくありたい、嶺二は別れ際そう思っていた。そして嶺二は広々とした玄関で靴を履き、玄関扉の取っ手に手を掛けて押し開いた。気品に溢れた上等な木質の扉は、この館の主が有する権威を示すには十分な象徴的役割を果たしていた。嶺二は開いた扉の隙間から外に出ると、一旦革鞄を足元に置き、振り返って再度礼をした。四年とはいえ私を働かせてくれたのだから、それも良い給料で。礼は尽くしてもあり過ぎるということはない。瑞江も礼を返してくれる。共に、相手を臨む眼差しには尊敬の念が篭っていた。双方が一瞬見合い、それから嶺二によって扉は丁寧に閉められた。嶺二は向き直って懐にある銀時計に触れて時刻を確認しながら、瑞江と別れたその余韻を噛み締める。「別れというのは名残惜しく、余韻が残る程度が一番良い」それが嶺二の持論だ。時計の短針が十一の位置にあることを確認すると、彼は仕事に赴く際の凛乎とした面を崩して、呼吸を整えた。さて、どうしようかしら。このまま家には帰りたくないわ。まだ外の空気を吸っていたいもの。音楽屋さんに行ったり、飲み屋さんに行ったりだってしたいわ。だって本当の休暇って久々だもの。嶺二の中にあるひとつの電源が、かちりと入っていた。嶺二は気怠い気持ちを胸に秘めつつ、実家に居た頃の昔日を少し――あまり良くない思い出よ――思い出してみる。そうしていると、心拍数や脈拍数が増していくのが手に取るように分かった。拍動は更に速度を増していく、止まらない。頭の中が一瞬真っ白になって意識が薄れ、少しずつそれが元に戻っていく。少し怪しかったけれど、大丈夫よ、大丈夫。今までだって耐えられたんだから、これからも大丈夫、大丈夫。私は平常、平常。嶺二は誤魔化し誤魔化し、混乱を沈めようとする。ほら、落ち着いてきた。私も大人になったものだわ。前は取り乱してしまったけれど(頭の中では、拳を壁にぶつけていた過去が浮かんでいる)、今はきっと上手にあしらえるわよ。それに……心配事も、ある。


 嶺二は門へと続く赤煉瓦で舗装された小道を足早に抜けると、鉄門を開け身を滑らせて、屋敷の主である豊崎源治の私有地から外に出た。冷え冷えとした十月の始まりだったが、その分空も澄み渡っており空気が美味しくなっている。嶺二は肺いっぱいに息を吸うと、ゆっくりと吐き出した。美味しいわ。嶺二は鞄からシャグを取り出して手早く巻き、銀製のシガレットホルダーに挿しこむと火をつけた。心地よい苦味がゆっくりと舌先にやって来て、心を癒やす。何年ぶりかしら。務めていた頃は辞めていたから本当に久々ね。やっぱりきちんとした煙草は良いものよ。重い気持ちから一時抜け出せるし、何より落ち着けるもの。嶺二は口からシガレットホルダーを離し煙を吐きながら、何という気なしに吸口の部分に目をやった(持ち手部分には果実樹の絵柄と共にアルファベットと英数字で“シルバー九百二十五 倫敦製”と丁寧な彫金が施されている) 。そこには強く噛まれたひとつの跡が見える。むろん嶺二はそのような口付け方をしない。これは強い噛み癖のある彼の父によるものだった。それを思い出した途端、嶺二の脳内には幾つかの情景が映写機のように一コマずつ投影され、記憶の断片――豪奢な女性物の洋服、紅い蝋燭、暮明の広い洋間、作家物の万年筆――が頭の中にふっと湧いた。そうよ、どうして忘れていたのかしら。これは父が海外出張の時に私へ買ってきた土産品だったじゃない。嶺二は忘れもしないはずだったことを忘れていたことに驚く。暫く使っていなかったからすっかり忘れていたわ。頭の中では父のことを忘れた日なんて無かったのに、それが父の小物になると忘れるなんて、もう老いてしまったのかしら。嶺二は動揺してタールの混ざった唾液を誤って気管に入れてしまい、思わず咳き込んだ。気管に入り込んだ唾液が戻り、口内に苦味を蘇らせる。しかしこれは、心地良い嗜好品としての苦味ではない。どれだけ考えようと煙草による苦味だけではないように思われた。今くらい忘れさせて欲しいものだわ。嶺二はまた煙草を一口吸うと、目線を上向かせた。


 彼の目交には公孫樹が列をなして植えられており、歩道は一面黄色く染まっていた。さながら秋の絨毯である。車道も黄色い葉溜まりが散見された。今も周囲では公孫樹の葉がはらりと落ちている。沈思していた頃は気付かなかったが、とても美しい光景だった。どうして今まで気付かなかったのだろう、と嶺二は自分を笑い飛ばす。こんなに綺麗なものがすぐ目の前にあったんじゃない、と。嶺二はひとつの公孫樹へと近づくと、その足下に敷かれていたまだ先ほど落ちたばかりの一枚の葉を掬い上げ、こう思った。でもこれも今は美しいけれど、一周間も経てばこの美しさは色褪せて、茶色い滲みばかりの腐葉土の基になってしまうのよね。そうなってしまったらもうそれは公孫樹じゃなくてただのごみよ。ああ、この光景を切り取ってずっと手元に持っていられたらいいのに。嶺二はすぐに出来もしないことを願ったわ、と先の願望を否定するように思い、指先で拾った葉を弾き飛ばすと、再び煙草を一口吸った。秋は暮れゆく最中が一番美しいわ。少しずつ灯火が消えてゆくようで、そんな繊麗さもまた素敵。儚さが秋の魅力よね。ああ、駄目よ、感傷的になっては。気分を変えなくちゃ。嶺二は自分にそう言い聞かせる。その時、鞄から幾何学的な音が鳴り響いた。これは通話着信を報せる音調だ。かん高い音が規則的に連続して鳴っている。嶺二は急いで電話を取り出すと、呼吸を整える為に一拍空け、それから応対ボタンを押した。


「はい、沖田嶺二です。どちら様ですか」

嶺二は礼儀正しく、上品な響きを意識して話す。

「私だよ、覚えているかな」厳かな枯れた声が返ってくる。父だ、と嶺二はすぐに分かった。何年家を開けていても実の親の声を忘れはしない。

「覚えております。息災そうで何よりです」極めて冷静に、極めて男性らしく声低くそう応える。

「そうか、では安心した。連絡は瑞江さんから受けている。車をそちらにやったから、門の辺りで煙草でも吸って待っていなさい」

「分かりました。用をかけまして申し訳ありません」

いいのだよ、と栄一が言うと電話は切れた。時間にすれば一分にもならない。やはり事務的なんだな、と嶺二は思った。


 対人向けに一度切り替わった意識は、私的な意識へ切り替わるのには少し時間がかかる。嶺二は心の緊張が解されるまでを、煙草を吸って待つことにした。彼は半ばでたち消えてしまった煙草に再び火を点けると、少し荒く吸った。そして栄一が言っていた言葉を思い出す。『煙草でも吸って』か。敵わないな。何年経っても、親は子のする癖が分かる生き物なのか。嶺二は父親を嫌っていた。理由は恐らく無い――果たしてそうだったろうか? 兎に角、嶺二にとって親というものはなりたくない存在だった。緩んだ空気が嶺二の脇を流れる。気付くと一台のリムジンが嶺二の側に着けられていた。目立つ音なく止められていたことに彼は感心しつつ、携帯を取り出して栄一からの着信時間と現在時刻を見比べた。電話が来てからものの数分でご到着。ここまで計算してあの電話のタイミングか、流石だな。嶺二は煙草を掻き消すと、シガレットホルダーを鞄にしまう。その頃合いを見計らって、執事である御堂吉行は嶺二に声をかけた。


「お待ちしておりました、嶺二様。ご足労頂き感謝いたします。本当であれば玄関までお迎いに上がるべき処でしょうが、何せ私有地でございまして。流石に私めも私有地には無断に入ることが出来ませぬ。ご無礼をお許し下さい」

気にしなくて良いのだがな、と思いつつ、嶺二は厳粛そうな声を作り「此方こそご足労感謝します」とそれに応じた。立場上畏まらずとも良いのだが、昔から嶺二は吉行の白髪や片眼鏡から老成された年月の重みを感じており、その為に現在でも一目置く存在として認識されていた。

「どうぞ、嶺二様」吉行は後部座席を開けて嶺二を出迎える。嶺二は「ありがとう」と返し柔らかな席に腰を下ろした。車内は微かに女性向けの香水が漂っていた。恐らく冴子の送迎を先にしていたのだろう。嶺二はそう当たりをつけて、吉行にもう閉めて良い、と目配せした。吉行はそれを解すると静かに扉を閉め、再び運転席に戻るとシートベルトを締め、嶺二にもそれを求めてから、鍵を右手で所定の場所に差し込みながら左手でドライブミラーを嶺二の顔が映るように向けた。そうして嶺二へにっこりと微笑むと、再び後部が映るように鏡の位置を調整し「出発致します」と声色朗らかに言った。


 車内は無言で、御堂吉行も沖田嶺二も一言も発していなかった。そして、どちらも話そうとはしていなかった。颯爽と現れて嶺二を迎え家に送るという流れは昔から、それこそ嶺二が生まれてすぐの頃から変わらない。吉行は思っていた。久々に嶺二様に会えましたが、どうにも瞳が曇ってらっしゃる。煙草の香りは――ロスマンズロイヤルですか。ウィンストンから変えられたのですね。そうですか、そうですか。ロスマンズロイヤルとはまた良いご趣味をなさっている。吉行は基本的に嶺二に対して様付けを行う。それは義務的な意思からではなくあくまで自由意志での行為だ。吉行は嶺二が幼少の頃より沖田家に務める専属の執事だった。その頃から既に髪色は白くなっており、銀縁の片眼鏡をしている老年だった。齢は勤め始めた頃で四十路を超えた頃だっただろうか。背筋のきちんと伸びた折り目正しい人物であり、背広を丁寧に着込んだ後姿は実年齢よりも良い意味で若々しく見え、それと白髪や腕、顔に刻まれた細かい皺が対照的で、そのふたつが同居しているからなのだろうか、独特の柔和な空気を辺りに帯びさせており、控えめに言ってもそうそう見つからない程度には良い執事だった。

「豊崎様のご屋敷でのお勤めは、はて何年でしたかな。――お疲れ様で御座いました」吉行は静寂を切り、嶺二に問うた。嶺二は後席の窓から流れ行く景色を眺めながら、それに返す。

「四年ほどですね、良いお家でしたよ。秘書の瑞江さんも美しい、仕事のお出来になる女性でしたから」嶺二は取り留めの無い範囲のことを話した。問題だってそりゃあ起きましたけれど、そんなことを吉行さんが聞きたい訳じゃないでしょうからね。だから平和な部分を思い出して、言葉を選びましたよ。声色も、だから恐らくは柔らかく聞こえたでしょう。吉行さんはその辺り非常に聡い方ですから。くぐもった声を出せば異変を察して、必要のない心配をするに決まっています。嶺二にとってそれは本意ではなかった。吉行は嶺二にとって身内の中では数少ない信用できる相手。その人に負担をかけることを無駄にしたくはないというのが嶺二の言い分だった。リムジンはなだらかな坂を降りきり、一般的な住宅街を抜けて、高級住宅が並ぶ地区へ入ろうとしていた。


「父は達者でやってますか」

嶺二は不意に尋ねた。黙ってはいられない、というより、微妙な空気感が堪らずに思わず聞いた、という感じである。

「ええ、本当にお元気ですよ。今日も熱心に書いてらっしゃいます。本当に書くことがお好きなんですね、ご主人様は」

そうかな、と嶺二は言った。

「そうですよ。でなければ現在でも続いてはおりませんでしょう。零から一を創るということは、並大抵のことではございませんから」

吉行は敬いの念を多分に含んだ恭しい声でそう話した。少なくとも父は偉大じゃない。長々とした説明、自慢気な口調、進捗具合で百八十度変わる態度。どれを取ってもあんまり尊敬できる物ではない、と嶺二は感じていた。おまけに父は酒癖が悪い、丁度良い飲み方が出来ないのだ。いつも深酒をして、その度に何かにつけて突っ掛かり、自分の――いや、よそう。

(途中で自分が何を話しているのか分からなくなったこともある)

後ろ向きな考えは生産的なことを何一つ産み出してはくれない。嶺二は腕組をして家に到着するのを待った。途中で煙草を吸うことを吉行に断り、火を点けてから窓を開けてもらった。火の点きは悪かった。ライターの残油が少ないのだろう。太陽には雲が掛かり、湿った空気が辺りを包み込んでいる。季節の節目というのは天候が変わりやすい。開けられた窓からは強い風が吹き付け、嶺二の後ろで結わえた長い黒髪を揺らめかせた。

「風が強くなってまいりましたね。もうすぐお家に到着致しますし、窓をお閉めしましょう」「いや、ですがそれでは」

吉行さんが、と嶺二が言いかけたところで、既に窓は吉行の操作によって上げられ始めていた。吉行は窓を閉めるボタンを押しながら言った。少しの間なら大丈夫ですから。それにほら、冴子様は窓を開けてお吸いになりたがらないですから、以前よりは幾分か慣れましたよ。冴子と同席したことのない嶺二には分からなかったが、話をその後少し聞くと、昔からですよ、と柔らかな口調で吉行は答えてくれた。嶺二の視点からはドライブミラーで吉行の顔は見えなかったが、きっと微笑してるのだろう、と嶺二は思った。吉行さんは優しすぎる人だから。


 家が見えてきた。嶺二が生まれ育った家だ。鉄柵と共に手入れの行き届いた植物たちが見えてくる。「門の前に着けましょう」吉行はそう言って徐々に速度を落とし、緩やかに門扉の前に車を止めた。車体は歩道すれすれ、十五センチといった処だろうか。嶺二は改めて吉行の仕事の良さを褒め讃えた。昔から吉行さんの運転は巧いと思っていたけれど、久々に見ると一層その技巧に磨きがかかったように感じた。吉行は振り返って嶺二の方を向くと、ありがとうございます、ですが私めのしたことは大したことじゃないのですよ。と、謙遜しながらも少し照れた調子で言った。人間味があるのも、嶺二が吉行に好感を覚えた理由だ。


 吉行は先程のように丁寧に後部座席に続く扉を開けてくれる。嶺二が礼を言って鞄を取り出すと、吉行も礼をし、車庫に入れてゆきますのでお先に上がられていてください、と言った。嶺二は懐から銀の煙草入れを取り出して中身を覗きこんだが、巻いていたストックが切れている。仕方ない、と嶺二は鷹揚な手つきで手巻煙草を取り出し、紙の上に少しばかり取り出して形を整え、舌で紙の端についた糊付け部分を濡らし巻きつけると、シガレットホルダーに押し込んで吸口部分を軽く噛み込み、ライターで着火した。今度は一度で綺麗に火が点った。自然な香気が、これは植物から取れた成分なのだと実感させる。助燃剤の入っていない、刺々しくない、円やかな自然な甘みが口内を廻る。口の中で転がし、満足すると鼻から吐き出す。他者から見れば見た目の悪い行為だが、実際これが一番味わえる方法なのだから仕方ない。神経にゆっくりと煙草の成分が行き渡ってゆくのが感じられ、嶺二は束の間の寛恕へ身を委ねていた。これはひとつの至福の形態である。ひと吸いひと吸いを丁寧に、口の中で柔らかな繭を転がすように含み撫でると、相応の対価が欣喜の泉から運びだされ、嶺二の心は水を得た魚のように生き生きとし始める。潤いを孕んだ艶やかな気持ちが頭の中の、胸の奥の柔らかな部分を満たしてゆく。嶺二は無心の、されど満たされた、母親が側にいる赤子のような気分になった。それは、惰性で吸うものとは全く異なる喫味だった。


 一服を終え嶺二が鉄門を開けて入ると、以前には視えなかった女郎花が植えられていたことを知った。誰が植えたのでしょう。母は園芸などする趣味など持ちあわせておりませんし、それでは父が? いいえ、そんなイメージはないですね。嶺二は庭を抜けると、玄関前へと辿り着く。黒壇と黒鉄で造られている堅牢な玄関扉だ。露西亜からの輸入物だと父が言っていたことを思い出す。嶺二は扉に備えられた輪を二度叩いた。


「戻りました、嶺二です」声を張り上げて言う。家中にはおおよそ返事が出来る者が父しか居ないからだ。母は繁華街や海外に大抵出掛けている、父は書斎に篭もり執筆をしている。となれば、父に聞こえるように声を上げる他に扉を開ける術がない。嶺二も沖田家の鍵を持ってはいるが、それは四年前のものである。沖田家では一年ごとに鍵の型を変えるので、嶺二の持っている鍵は既に使いものにならない代物に成っていた。遠方から静やかな足音が聞こえ、そう間も無く扉は開かれた。


「おかえりなさい」

出迎えたのは1人の男性だった。名は栄一と言う。片手には万年筆を持ったまま、顔には銀縁の細長な眼鏡を掛けている。

「執筆中でしたか?」

栄一は返事の代わりに、嶺二の全身をざらりと見た。

彼が銀縁の眼鏡をするのは、執筆中のみである。彼なりの執筆という儀式的行為への神具だった。栄一は嶺二の革靴、下服、上服、胸元に掛かった銀時計に付属している鎖(銀時計自体は嶺二の懐に仕舞われているが、それを繋ぎ止めている鎖は表に出ており、鎖の端は胸元のピンに掛けられている)、耳朶の紅玉ピアス、髪型をひとつひとつ目視した。それが済むと栄一は嶺二を家内に迎え入れる。栄一は昔からそのような確認癖のある人物だった。嶺二が幼少の頃など、衣服に泥などが付いていると家には入れずに、何度となく泣き出していたものだ。その際に栄一はブラシを自室より持ってきて、嶺二に泥の落とし方を教えると、後は自分でやりなさい、とぴしゃりと言って一度足りとも嶺二の代わりに汚れを落とすことはせず、それが済まなければ家へ入ることを決して赦しはしなかった。他のことを含めても栄一の教育指針はまず躾る時間を短く、が第一にあり、上階級らしい礼儀を身につけさせることは二の次だった。勉学はとやかく言われた記憶が無い。元より研究肌だった嶺二の性格を幼少の頃で既に見抜いていたのだろう(俗に言う放任主義である) 。そのご期待に逸れず、嶺二は世間では優秀と呼ばれる階級の学校へと順調に進学していった。だが、高校を卒業した後は大学に進みたがらず、結局栄一の旧知の仲であった豊崎家の使用人として仕えることになった。それが四年前のことである。


 栄一は厳格と言うよりも、境界線を明瞭に引いたような接し方をする人間だった。嶺二も始めこそはその簡素な接し方に愚図りもしたものだが、それが不動のものだと知れると渋々ながらも習慣として受容したようであり、次第に栄一のやり方に反抗することもなくなっていった。

嶺二はそれらを回想しながら、実に四年ぶりになる我が家の床に踏み入った。床はニス塗りのなされた紫壇であり、玄関を抜けた先の左方にはマホガニーの木棚が見え、棚上には切子の花瓶にその季の花々が品良く佇んでいる。中央の壁には落ち穂拾いの絵画が額縁に入れられて飾られており、右方には栄一の蒐集している革靴たちが硝子張りのコレクションケースに所狭しと収容されていた。靴たちはこれ見よがしに「優等生」であると主張している。 幾つかの靴が消えており、新しい顔ぶれがその分増えていた。嶺二が側に寄ってそれを見ると、趣向が変化したことが分かる。以前は羊皮を気に入っていたようだが、今はオーストリッチが多くを占めていた。父のことだ、自らの齢のことを考えて丈夫なものを好んだのだろうか。そうしていると、栄一から声がかかった。

「珈琲を淹れますから、居間に来なさい」


 栄一は嶺二に手招きをした後に居間を抜け、食堂を抜けて台所に踏み入った。さて、嶺二が帰ってきた。嶺二は深めに煎ったドミニカが好みだったな。栄一は焙煎済みのキャニスターをひとつひとつ覗き見た。ドミニカの珈琲豆は暫く焙煎していない。失念していた、と栄一は軽いため息をつく。栄一は食器棚の下に置かれた小さな保存庫からドミニカの生豆を取り出し、計量器で二百グラムをきっちり量ると、バットにその生豆を丁寧に開け広げた。発酵した豆や未熟な豆、虫穴のある豆などを弾いていく。この作業があるかないかで味の質が異なっていくことを、栄一はよく知っていた。やれやれ、これではもう少し時間が掛かりそうだ。栄一は嶺二に少し淹れる時間が遅れることを知らせ、了承を得ると換気扇の前で胸元から仏煙草を取り出して一服着いた。


 バットから豆を集めて焙煎機へ注ぎ入れる。窓を開けて換気扇を消し、ガスは強火を維持、側には砂時計を用意して、軍手を両手に着け――開始だ。火元から焙煎機を三十センチほど離して縦横に強く振る。最初は生豆内の水分を飛ばしていく。ここを雑にすると後々に影響する。芯まで火が通りにくくなり、味わいに青臭さの残る厭な珈琲になってしまう。その為慎重に時間を掛けて火を入れ、徐々に熱を加えていく。五分ほどそのまま振り続け、生豆が網の上を転がる音が少し乾いたものに変わると、次の段階に進む合図である。そこから火元へと距離を少しずつ近づけながら火を加えていく。すると生豆の色合いが少しずつ茶色がかったものになっていく。シナモンと呼ばれる状態に近づいていく。その頃になると豆が爆ぜる音が聞こえ始め、生豆の薄皮が火花となって散ることも増え始める。この辺りから我々が飲する既存の味の要素が形成され始める。パチパチと鳴りながら、煙が沸き立ち、甘い砂糖のような香りが鼻孔をくすぐる。ここが焙煎の妙と言えよう。芳しい香りは、挽く時とはまた異なる類の良さ――香ばしさだけでなく、甘い芳香をも含んでいる――を放っており、それは焙煎する者のみが有し得る特権でもある。たとえるのであれば、アイヌの狩猟者だろうか。彼らは危険と隣り合わせの役割をしているが、その分だけ上質な栄養源である内蔵を手に入れることができる。内蔵は持ち帰っても悪くしてしまうし、だからと言って捨てるのは勿体無い。だから食す。それは生けるものへの礼儀であり、敬いであり、供養である。珈琲は生き物のようにすぐに悪くなるということはないが、それでも煎った後は急速に酸化が進んでいく。焙煎後に一年持つと称する焙煎師もいるが、栄一はそれを是としない。珈琲豆だって生き物なのだ。処理を行った後は早く飲むべきだし、飲みたいが為に焙煎をするのだろう。そう思っているのである。


 一度目のピークを終えると、栄一は再び火元から焙煎機を離した。丁度始めの工程辺りの距離へ。それから数分ほどじっくりと熱を加えて仕上げていく。そうしている内に二度目の豆が爆ぜる音が聞こえてきた。嶺二が好む焙煎具合はこの辺りだ。栄一は火を消して、ドライヤーで熱した豆を冷やしに掛かった。これを行わなければ焙煎は止まらず、せっかく調整した工程が台無しとなる。それを終えると再びバットに戻して豆を点検し、焙煎は終了した。


 栄一は思っていた。やはり時間が掛かるな。砂時計を三度返した。十五分程度掛かったことになる。栄一は手早く薬缶に水を注ぐと火にかけた。抽出用具をその間に用意する。サーバー、ドリッパー、珈琲ポット、フィルター、等など。珈琲ミルで豆を粗めに挽き、サーバーにドリッパーを重ね、フィルターをあてがい、粉となった豆を入れた。それらを終えた頃合いに湯が湧く。栄一の行動は凡て計算の上で行われている。彼は珈琲ポットに湯を移し替え、温度計を挿し込んで湯温を確認する。その間に珈琲カップを二人分用意して、湯を差す。温度計の数値が落ち着いた。双方のコップに湯を差し終えた直後だ。目盛りは八十五度を指し示している。良い塩梅だ。栄一はゆっくりと湯を注ぎ入れ始める。手は抜かず、優雅に。微妙な具合を保ちつつ、きっちりと二杯を淹れ終える。

栄一が居間に戻ると、嶺二は革張りの洋書を手にして待っていた。まだ読み始めたばかりなのか、捲ったページ数は少ないように見える。私の書斎に一度行ったのか、と栄一は思いながらそれの邪魔にならないようにと、静かに机に珈琲を置く。が、嶺二はそれに気づくと直ぐ様本に栞をして受け皿を手にとり、珈琲に口をつけた。父の淹れる珈琲はいつも少し温いから、あまり間を置いて飲みたくないんだよな。栄一も嶺二が飲みだすのを見やると安心したように自らも飲み始めた。嶺二は過去を追憶しながらも徐々に家に居た頃の記憶を取り戻し始めていた。四年間、短くはない時間だったけれど、取り立てて長いという時間でもなかった。やるべき事は尽きなかったし、家に居ないことによって得られた充足感は何物にも代えがたい体験だった、と嶺二は豊崎家に勤めていた頃を追憶していた。二人の珈琲を啜る音が居間を賑やかす。嶺二は珈琲を啜りながら、こんな事を考えていた。そういえば、父の書斎に入ったのはいつ振りだろう? 彼は読んでいた小説の冒頭――エマ・ウッドハウスは端正の顔立ちをした利口な女性であり……云々――を思い返しながら、過去の記憶の糸を手繰り寄せる。すると途端、嶺二は頭の表皮が内側から突き破られるような鋭い痛みに苛まれた。それまで崩していた相好も(これは作っていたものだが)、苦悶を表すものへ変わり、両目も強く閉じられた。栄一も流石にこれには動揺し、持っていたカップを置くと心配そうに顔を寄せた。

「どうした、大丈夫か。体調が悪いのなら部屋へ行くか?」栄一の声色も緊張が乗ったものになる。「心配しなくて、大丈夫だから、飲んでて」嶺二は栄一に心配を掛けぬようにとそう言ったが、実際の処は何故頭痛が突然襲ったのか分からないようだった。嶺二は痛む頭を抑えながら、この痛みの原因を探る。痛みに耐えながらなので、思考の回転は統一感なく疎らで、巧く回ってはくれない。それでも必死に首をひねりながら考える。何せ原因がつかめないのだ。原因がつかめない何かが起こると、嶺二はたとえ辛くともそれを探らずにはいられない性分だった(根っからの研究肌である)。ああ、――厭な思い出止まりだった悪夢のような日々が一枚ずつ剥皮されるように、奥底に潜む真の姿を現してゆく。そうして紐解かれる過去の記憶は、決して綺麗な光景ではなかった。書斎が――夜、書斎、洋酒……寝床、父の背、脂の口臭(頭に思い浮かべたのはそこで止まった。嶺二の頭がそれ以上記憶の箱の中身を覗くことを拒んだのかもしれない)――邪な情が充満した巣窟であったこと、その全貌を思い出すのにそう時間は掛からなかった。

「ごめんなさい、やっぱり部屋に戻ります」「後で薬を持っていくか?」「気持ちだけで」嶺二は言い様のない吐き気に襲われ、トイレへ駆け込み、先ほど飲んだ珈琲や今朝瑞江さんに出してもらったオムレツや紅茶やパンなどの諸々を吐き出してしまった。ごめんなさい、瑞江さん。嶺二は心の中で瑞江に謝りながら、残った胃の中の内容物を喉奥に指を入れて吐き出した。


 胃の中を空にした嶺二は洗面所で口を濯ぎ、軽くなった胃腸の重い感覚に苛まれながら、廊下を伝い小部屋に入った。じめりと湿気たそこは彼の私室ではなく、ある特別な人間を秘匿する目的で造られた四畳ほどの狭い部屋だ。嶺二はそこに入ると内鍵を閉めた。狭い床には固定された錠が取り付けられている。嶺二は懐に仕舞い込んだ無数の鍵の中からひとつを迷いなく探し当てると、その床にある鍵穴に差し込み、時計回りに一回しした。がちゃり、と鈍い音がする。それと共に錠が外れ、裏に隠れた地下への取っ手が姿を見せた(鍵を開けなければ地下への引き手が現れないように細工が施されている。他にも地下室には巧妙に隠された細工が無数に張り巡らされていた。むろん嶺二も知覚していない仕掛けも多く存在する)。嶺二は立ち位置を変えて地下への可動部となる枠の外に周ると、取っ手を引き上げてロックを掛けた。暗んだ階下への階段が姿を現す。そして彼は降り始めた。降りながら彼は、「何年振りに逢うことになるんだろう、元気にしてるかな」と、その先に居る人間に思いを馳せていた。嶺二にとってその者は、少々特殊な関係で繋がれていた。嶺二にとって数少ない心の許せる間柄であったその人間は、しかしこの家にとっては異物であり、“居てはならない存在”だった。故に秘匿された。理由は簡単である。嶺二は階段を降りきると、鉄扉をゆっくりと開けた。

「吉行さんですか、まだ食事の時間には早いですよ――その足音は、お兄様」

訝しげな声を出したその主は、身体を横たわらせていた。……そこに居るのは、彼の弟だ。厳密には腹違いの、ということになるが。しかしそれが彼の弟が存在しない者として扱われている要因ではない。何よりも問題なのはその肉体が――尋常の人間ではない異形であったからだ。

「ただいま。元気そうだね、きちんと食事はとっているかい」

「ええ。吉行さんの料理は美味しいから、僕でも残さず食べられます」

嶺二以上に白皙な彼は、肋骨の輪郭がそれとはっきり分かるほどに痩せこけ、耳は妖精のように縦長に伸びており、臀部には現代の人間にはないもの――尻尾、が垂れていた。

「前あった目眩は消えた?」

嶺二が努めて明るく尋ねると、「最近は随分と減りましたね。ですが代わりに視力が少し落ちました。なかなか上手くはいかないものですね」そう苦笑しながら彼は返した。彼のか細い声を聞き、久々の再会を喜んだ嶺二だったが、それは彼と嶺二自身の関係性に潜んだ暗部をも思い出させるきっかけとなった。嶺二は一方で彼の話に合いの手を入れながら、もう一方で彼についての記憶を手繰り寄せていた。


 そうだ、そもそも黒子である彼に名はない。嶺二も、彼には名を付けていなかった。何故なら名のない彼に名を付けることは、彼のことを私物化するように感じられていたからだ。本当は名を付けてあげた方が、彼も喜んでくれるのかもしれない。そう思っていた時期もあったが、嶺二はそれをすれば彼が間違いなく自分に依存することが分かりきっていた。現状ですら依存している感は否めないのだ。そして依存された処で、彼を救ってあげることが出来るだけの力を嶺二は持っていなかった。依存という行為は薬物に似ている、と嶺二は思った。一度深みに嵌ってしまえば、以前には戻れなくなるからだ。依存は塩水のように、一度得てしまうとそれが当たり前となって、次からそれと同等、あるいはそれ以上のものを、相手に求めるようになる。それが哀れみによる優しさだったとしても、それを受けた人間は寵愛を受けたと錯覚するだろう。依存する人間は総じて繊麗で、内に内に負を溜め込みやすい性質がある。その稟賦が自分にもあった嶺二には、彼の辛さが痛いほどよく分かっていた。だからこそ、彼が自分に依存しかけていることを早い時点に感づき、依存させないようにした。一線を引き、距離を取ることで彼の特別にならないようにしてきた。そうしていたことを思い出して、嶺二は胸が痛んだ。依存はした者もされた者も、碌な末路を辿らない。真理だ、何も間違っては居ない。だからこそ腹が立った。嶺二は自らを責め立てた。己が内に棲まう弱さを自覚し、拳を石壁にぶつけた。やり場のない怒りが鈍痛と引き換えに打音となって、地下貯蔵庫に谺する。どうしようも出来ない弱さを、不甲斐なさを、無力さを、嶺二は呪った。胸中から溢れんばかりの自責の念が湧き出る。忌む者が多い嶺二にとって、忌まれることのない彼は、心を支える一助になっていた。自分こそ彼に依存する側であったのかもしれないと、嶺二は彼と会話する中で気付いてしまったのだった。相矛盾したものが、もう少しましなものであれば、融解させようもあっただろうに。前提からして無理難題であったこの問題に、嶺二は為す術がない。そして、気づく前から実は「依存されているようで、依存しているかもしれない」と薄々感づいていた嶺二は、益々腹に夥しい自己嫌悪を孕むことになった。無茶なこと、無理なことは折り重なって層を生す。もう塞翁が馬、などと悠長なことを言っていられるような状態ではなくなっていた。

 臀部に尾がある彼は唐突に石壁に拳を打ち付けることに心底驚いていた。しかし、何となく事情は飲め込めたようで、嶺二に声を掛けることはなかった。どうなされたのですか。私が何か失礼なことを致してしまいましたか。彼はそう問いたかったが、既の所で嶺二の怒りの矛がどこを向いているのか察することが出来たようだった。


 豊崎瑞江は嶺二を送り出した後、屋敷へと戻り執務室で帳簿から沖田嶺二の名を二重線で消すと、それまで続けていた書類の見直しに入った。そして貸借対照表を見て、頭を抱える。そんなことをここ何日も続けていた。右方には三角印が頭についた金額――負債を示す数値が積み上がっており、それに対して左方に記された益は微々たるものだった。このままではにっちもさっちも行かなくなる。しかし、負債を埋め合わせようにも埋め合わせるものが現状では非ず、そしてその目処も立ってはいなかった。豊崎家の経営する事業は終焉を迎えようとしていた。破産である。時代が変わってしまったのだ。経営者であった豊崎源治が悪い訳でもない、商売相手であった企業が悪い訳でもない、従業員の皆々が悪かった訳でもない。勿論、瑞江の仕事振りが悪かった訳でもない。ただただ、時が移ろって世が求める産物とこの企業が造り出す産物を繋ぐ帳尻が合わなくなってしまったから、駄目に成ってしまっただけ。だけ、と言うと小さな事のように聞こえるかもしれないが、実際には重大なことだ。しかし、そうは言えど瑞江にはやりようがない。彼女には行き詰まった企業を立て直す能力も無ければ、時代そのものを変えるだけの権力もない。彼女が出来ることと言えば、ただ襲い来る荒波に反しないようにしながら、流されないように掴めるものを掴んで生きることだけだった。しかし、その掴める物の支えが効くのも残り僅かになっている。それが尽きれば瞬く間に瑞江は波の力に揺さぶられて下流へと流されていってしまうだろう。そして企業も同じ道を辿ることになるだろう。瑞江にはそれが直感的に分かっていた。何せ彼女にも企業にも、もう濁流となってしまった時代の流れへ対抗出来るだけの手札が手元には残されて居ないのだから。瑞江は諦念に侵されつつ、秘書机に片肘をついて記入用の万年筆の筆先を見つめていた。それでもどうにかしたい、けれどどうしようもない。そんな弱い葛藤が彼女を襲っては消えてゆく。金色に輝いている筆先は、負債に塗れた貸借対照表を歪めて反射していた。君まで現実を見せなくても宜しいのに、と瑞江は思う。彼女は現実から逃げ出すように、嶺二のことを思い浮かべ始めた。嶺二さん、美しくて格好良くて、礼儀もきちんとしていて。まあそれは彼にとっては当たり前のことなのかもしれないけれど。本当に惚れ惚れするくらい綺麗な人だったわ。美しい長髪、端正な顔立ち、透徹な黒い瞳、皺ひとつない衣服の着こなし、絞られた身体つき。どれを取っても、彼女には彼が、自分にないものを凡て持っているように感じられていたのだった。彼が働いていたどんなシーンを思い浮かべてみても、そこには汚点のひとつもない凛乎とした嶺二の佇まいがあった。


 それに対して私のこの有り様といったら――考えるだけで頭が痛くなる。どんな体たらくぶりなのよ。瑞江は嘆息しながら、さらしによって抑えられた胸の緩やかな坂を指でなぞりながら、嶺二への恋情を引きずる。彼への想いを巡らせていると、瑞江は胸が苦しく悶えて堪らなくなるのだった。それでも辞められないのは、きっと今でも諦めきれていないからだろう。

「良い大人になっても、お前の心は今でも少女のままなんだな」昔の男が言った台詞を思い出して、瑞江は無性に腹が立った。当時はそれを言われて一晩泣き通したものだ。良い意味で言われたのならば嬉しいことと言うのは、悪い意味で使われると傷になる。どうしてあんな些々事を今になって思い出すんだろう。今更私の前に現れてこないでよ。彼女は突然思い出してしまった男のことと、自身の肉体の不貞さとで、二重に腹が立った。そして、それを自嘲するように机の端に置いてあった来客用のチョコレートの残りを放り込む。どうせ心は今でもメルヘンです、とぶつくさと溢しながら。舌先でチョコレートを舐めると、心はひととき自由になる。瑞江は、今優しいのは貴方に付いた甘さだけよ、なんて柄にも気障な台詞を脳裏で思い浮かべてひとり恥ずかしくなりながら、塊の半分目辺りを噛み砕く。大きい胸なんか邪魔以外の何物でもないわ。胸の大きさが母性を表している、なんていう理想主義に浸りきった「清楚な女性」なんてお伽噺の中で十分なのよ。 肩がこるし、好きでもない男に色目で見られる。そこには清楚の欠片もないわ。俗物のやらしい瞳しかない。ああ、でも嶺二さんになら別よ。だって好みの男性から求められればそれに答えあげたいじゃない、そう思うのは女の性でしょう? ……けれどそれは想像上の話よ、現実は違う。あの方は最後まで私に想いを告げてくることはなかった。あるいは私が勇気を出してこの情を伝えればかわったのかもしれないけれど――それでももう終わってしまったの、いくら願おうと後の祭りなのよ、本当に惜しいことをしたわ。瑞江はそう嘲りつつ、でもね、と自分を鼓舞する。



――(本文ここまで、後は散文)

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