これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい

錦魚葉椿

第1話

 離婚。

 細かいことはさすがにショックだったのかあまり覚えていない。

 ぐらぐらと熱された天ぷら油と排水溝の映像だけが目に浮かぶ。


 あの日、晩御飯に天ぷらを準備していた。

 元夫は「子供の食べるようなメニューは嫌い」「出来合いの総菜は嫌い」と毎日居酒屋のような料理を求める人だった。彼が帰宅する時間に合わせて料理ができあがっていないといけない。その日は少し遅れ気味で私は焦っていた。

 レンコンを揚げようとした時、玄関が開いた。

 夫が誰かを連れている。

 しまった、材料が足りない。

 客の分の晩御飯も出さないといけないと思って、私はパニックになった。


 だから、彼が何を言い出したのか、なかなか理解できなかった。


 ダイニングに据え付けた特注のテーブル。

 こだわりの多い彼が、作ったモデルルームのようなダイニングとリビング。

 間接照明。

 彼は相当に収入の多いほうであったけれど、住宅ローンも立地と眺望に相応しい額だった。彼の収入に対するほぼ限度額を借りたのではなかっただろうか。

 仕事ができる彼を尊敬していた。インテリアのセンスも素晴らしかったし、食べ物のこだわりも服のこだわりも、全部全部思い通りになるようにしてあげたいと思っていた。

 家の清掃は本職の友達から指導を受け、プロ並みに仕上げる。

 朝御飯と晩御飯の間、正社員フルタイムで結婚前通りに必死に働き、繰り上げ返済に全力で協力した。心から愛していたから、なんでもできた。


 自分の分の天ぷらを元夫と客の前に並べ、和ガラスのグラスに冷酒を添えた。

「と、いう訳だから、私は彼女と結婚したいと思っているので、絢はなるべく早くこの家を退去してもらえないだろうか」

 それ以前の部分は天ぷら問題をクリアすることしか考えられなかったせいか、聞こえていなかったのだろう。私の脳が意味を理解したのはそこからの部分だけだった。

 彼は悪びれる様子もなく、むしろ堂々としていた。

 まるでそれが当然の権利であるかのように。

 女性は私の並べた天ぷらを美味しそうに食べていた。


 火を消し忘れてグラグラに煮立った天ぷら油。

 このまま排水溝にながしてしまおうか。

 排水管の塩ビが溶けてこの高層マンションは大惨事になるだろう。

 そのくらいやらかしても許されそうな気がしたけれど、天ぷら油は放置することにした。

 天ぷら油の処分もわからない人に、せめて。



 私の収入はすべてマンションの繰り上げ返済にあてていたので、生活費や家財類に対し私が払ったものはなかった。私名義の貯金もほとんどなかった。

 彼は「生活を維持するのに君は資金を出していないので、備品等は持ち出さないでほしい。分与すべき財産はないが、当面の生活のために50万なら払う意思はある」と言って、テーブルの上に銀行の封筒に入った現金と領収書と離婚届を並べた。

 彼の希望を叶えることを人生の主目的に据えていた。

「離婚と速やかな退去」を望むのであればそうしなければ、とただそれだけしか考えられなかった。

 翌日朝、出勤した。

 急に休むとか、そういう無責任なことはできない。

 諸手続きのため二日ほど休みたいと告げた上司は、事情を聴いて真っ青になった。


 上司はその日のうちに、私と私と親しい同僚数名を不動産屋に連れ出し、ウィークリーマンションの契約をさせた。会社に近い、直ぐ見に行けるところ。

 朝、夫が出勤するや否や、梱包材を持った同僚たちが自宅になだれ込んでくる。

 何処から連絡が行ったのか清掃会社勤務の友達も制服で来ていた。

 わが社の人はみんな仕事ができるなあと感心している間に、荷物は梱包され、社有車のカローラフィールダーに積み込まれる。

 私の私物が撤去された家は隅々まで磨き上げられ更にモデルルームのように美しくなった。

 上下左右の家に退去のご挨拶もきちんとさせていただき、管理員さんにも「来週から新しい奥さんが来るそうです」との入居者変更連絡も怠らない同僚の仕事の抜けのなさに感心する。

 正午には離婚届と転居届を提出し、郵便局への届け出も終了し、新しい食器と日用品を揃え、荷ほどきも手伝ってもらって、五時からは他部署の皆も合流して「大離婚祝」が盛大に開催された。

 取得した有給休暇は一日。


 時間外労働が月100時間を超えるわが社は相当にブラックな企業ではある。

 私が離婚のショックで戦線離脱したら、想像を超えるカタストロフィが起こっただろう。その回避のためとはいえ、皆の愛と友情に心から感謝した。

 元夫にかけていた時間と熱量のすべてをそこから仕事に注ぎ、馬車馬のように働いて4年が過ぎようとしている。



 かつて自分が開いたSNSを開く。

 サイトは結構こまめに更新されている。別れる前と同じ状態で運営を続けられていて、元夫と天ぷらを食べた彼の妻の幸せそうな生活が綴られている。

「とてもおいしいケーキ」と題された写真に写りこんだ皿は新婚旅行に行ったスペインの思い出の品だったり、私が使った夫婦箸のままだったり。

 二人の不幸を祈る意図も幸せを羨む意図も全然ないのだけれど、毎回小さくダメージを受ける。それでもやめられないのはマゾだからだろうか。

「ベランダからの素敵な夕焼け」の写真。窓ガラスがひどく汚れていた。

 彼はマンションからの海が見える眺望を自慢にしていた。

 窓ガラスやベランダが汚れているのを本当に嫌がっていたのに、彼はこの窓が許せる人だったのだ、とそれがたまらなく辛い。

 あの状況で出された天ぷらを食べることのできる女。

 多分ちょっとだいぶおかしい人。

 SNSを見る限り、働いている形跡はない。

 私は有用で便利な女だったはずだ。あと6年ほど、私を妻としていたら住宅ローンは返しきっただろう。彼はその6年が待てなかった。なお、彼の精神回路には「これ以上君の時間を無駄にできない」とかいう私への配慮は一切ない。

 そういったことを建前にも持ってこないところが、彼を憎み切れないところでもある。

 6年後に同じように切られたとしても、私は彼を恨んだりしない。同じように綺麗に撤退したと思う。

 それなのに。

 彼は私がいらないから切ったのだ。

 どれだけ生活が不便になってもこの人と一緒に住みたかったのだと思うとへこむ。

 私が「美人でもなく、役に立つわけでもなく、精神を病んだつまらない文章とネットリテラシーを感じさせない写真をSNSに張り付けまくる常識の破片もない女」以下なことが刺さって抜けないガラスの破片のように痛む。

 彼を想ったすべての優しさは何の価値もないものだったのだと思い知らされる。

 私の優しさは何と名付けられるものなのだろう。





「―――――キャッチ・アンド・リリースが上手って言えるんじゃないの」

 同僚の凛子はそんな微妙な慰めとともにコーヒーを入れてくれた。

 自分の肌に化粧がのっていないのがわかる。

 離婚以降に付き合った人は片手を軽く超え、今回もめでたく「元彼」になった。

 元彼の皆さんはもはや必須イベントのように無職になる。ヒモになるのかと思ったら、二股していて新しい彼女のところに逃げる。

「酷い男を釣り上げるけど、誰もストーカーになってないんだもの」

「無職にすら逃げられるってむしろ不名誉じゃないかしら」

「絢に生活力がありすぎるのがいけないのかねえ」

 凛子は不名誉の件についての言及を上手に避けて、ふうとコーヒーの湯気を吹いた。

 尽くして、尽くして、尽くしたおしたい。

 好きな仕事だけさせて、好きなものだけ食べさせて、汚れひとつない家で神のように振る舞わせ、吸い込む酸素すら管理したい。

 無職になったってかまわないのに。

 むしろ私がいないと絶対に生きていけないのに、それに全然気が付いていないような自意識が肥大した我儘で口だけの男がいい。

 私がいないのに生きていける男なんて、いらない。

 この嗜好を満足させてくれる抜群のクズを探している。


「―――――そうねえ、まだ運命の王子様を探してるのよねえ」

私もコーヒーの湯気を吹いてみた。


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これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい 錦魚葉椿 @BEL13542

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