冷蔵庫の中には死体が詰まっている

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冷蔵庫の中には死体が詰まっている

 窓の外を眺め、彼を待つ。

 しとしとと陰鬱な雨が降っている。


「ただいま」

「おかえりなさい。あなた」


 私は微笑みかける。

 だが、夫はこちらを見もしない。


 わかっている。もう関係は冷めきっている。

 最後に抱かれたのはいつだったか。


 それもいい。

 どちらも子供を望まなかった。

 もう若さも情熱もない。


 それでも、夫婦という関係なのだから顔くらいは見てもらいたいものだと思う。

 はじめから結婚はかりそめのものだった。

 お互いを夫婦という役割に当てはめるだけのものだ。


 どうでもいい出会い。妥協。親や親族の期待。

 そうして私たちは結婚した。


 満足も充足もない。

 そんな結婚はそれなりの生活しか与えてくれなかった。



 それでもよかった。

 家庭という居場所、妻という役割があった。

 外へ出て働くことは嫌がられた。

 それならそれで、私は家の中で待つのが役割だ。

 そう決めて、私は生きている。


 彼にも役割がある。

 仕事をして、家を支える。

 彼はその役割を果たした。それなりの稼ぎ。

 それなりの豊かな暮らしをもたらした。


 だけど、私の心を埋めることだけはしてくれなかった。



「買い物いってくるわね。……たまには一緒に行く?」

「いや……俺は寝る」

「……そう。じゃあ、車借りるわね」

「ああ」


 彼の返事はいつもこんな風だ。

 なにを考えているのかわからない。

 出張の多い彼は、いつも家では眠たげだ。



 買い物の帰り。

 視界の悪い雨の中、ぼんやりと車を走らせる。


「あっ!」


 猫だ。飛び出してきた。

 黒猫を避けてハンドルを切る。


 強い衝撃。頭が痛む。


「……う」


 軽い自損事故だった。

 ドライブレコーダーが「衝撃を検知しました」と騒ぎ立てる。


 車を降りて外に出る。冷たい雨が私の顔に降り注ぐ。


 黒猫はいなくなっていた。

 轢いていない。

 後味が悪いことにならなくてよかったと私は胸をなでおろす。


 車の損傷も思ったよりもひどくない。

 ケガも頭をハンドルにぶつけて少し腫れただけ。


 病院に行く必要はないだろう。

 早く帰らないと夫が待っている。


 ドライブレコーダーが録画した旨を告げている。

 少し気になって、小さな画面で再生してみる。

 ……黒猫なんて映っていなかった。


 頭痛がひどくなる。

 早く帰らないと。


 警察を呼ぶのも面倒だったので、そのまま家に向かう。

 頭の中で何かが切れている。

 ……頭が痛い。



 なんとか家に帰ると彼はソファーで寝ていた。


「ただいま。……あなた、ごめんなさい」

「……なんだ? 遅かったな」

「車で事故にあって遅れたの」


 私はわずかな期待を持って返事を待つ。

 大丈夫か? そんな言葉を期待していた。


 夫として当然の言葉だろう。

 それが夫としての役割だ。


「事故? 無事なのか……車は。明日出張で使うんだ」

「……車はちょっとへこんだだけ。ケガもないわ」


 私は受け答えをしながら微笑む。

 それを見ることもなく、男は駐車場へと走っていく。


 私は窓からそれを見る。

 笑いながら彼を待つ。

 手に包丁を握りしめて。


「さよなら、あなた」


 戻ってきた男に微笑みかける。

 男はけげんな表情で私を見る。

 まるで私が誰だかわからないといった顔で。



 私は笑いながら死体を刻む。

 料理は得意だ。それが役割だもの。

 時間をかけてゆっくりと、を解体していく。


 腐ってしまわないように、細切れの彼を冷蔵庫に詰め込む。

 彼がこだわって買った大容量の冷蔵庫だ。


 冷蔵庫にすっかり収まった男は、この世から消えた。

 そして家で待つだけの私も消える。



 ドライブレコーダーに飛び出す黒猫は映っていなかった。


 映っていたのは出張に行ったという夫だったもの。

 それと知らない女の情事だった。

 前の出張も、その前も。ずっと前から。


 私の役割は消えた。待つべき男はいない。


 こんな世界など、どうとでもなればいい!

 私など消え去ればいい!


 冷蔵庫がブーンとうなり声をあげる。


 冷蔵庫のドアがひとりでに開く。

 そして、中からなにかおぞましいものがあふれ出てきている。


 夫であった男をしまい込んだ冷蔵庫は、冷蔵庫ではなくなっている。

 役割が変わった。


 そしてこの世界で役割を失った私は、目前に迫る黒い濁流を受け入れて、笑いかけた。


 冷蔵庫のドアが閉まる。

 私は消えた。

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