みみずのはこ

柚木呂高

みみずのはこ

 畑銀村で鴻巣亜弓こうのすあゆみという細くて可愛らしい女子高校生が、部活帰りの帰路についていたとき、どこからか拳よりも一回り大きいくらいの石が飛んできて彼女の後頭部にゴツンと大きな鈍い音を立てて当たった。女子高校生の意識は夕方の向こう側へと飛んで溶けていって、そのまま顔面からうつ伏せに倒れた。血が辺りにすうっと広がっていってキラキラと暗く光る、彼女の目は見開かれたまま生の輝きを失っていた。目撃者は誰もおらず、通りがかった村田の婆さんが見つけて飛び上がって警察に通報した。これが事件の顛末である。現場にはほとんど何も残されておらず、犯人がいるのか事故なのか、皆目見当がつかないといった有様であった。

 東堂玄二が現地に赴いたのは事件から二日後のことで、助手の望月薫と共に電車でやってきた。何もない広々とした田舎の風景を前に二人は疲れ切ったような顔で無人駅を降りると、迎えの車を探していた。空気はまだ少し湿っていて、朝露が雑草の首を傾げさせている。程なくして、依頼主である女子高校生の母親が車でやってきて、軽く挨拶を交わし合うと宿場まで連れて行ってくれた。小さな一間ではあるが、一応旅館風の間取りになっていて、こんなところに旅行客など訪れるのか甚だ疑問ではあるが、まるで観光地のような体裁であった。

「ありがとうございます。後ほど現場の方を見てみます」

「よろしくお願いいたします、亜弓はねえ、本当にいい子だったんですよ、いつも朝誰よりも早く新聞を取りに出てコーヒーを挽いてくれるんです、でも食事中に指の爪の間を穿る癖が抜けなくて、何度も言って聞かせたんですが治る気配はなかったですねぇ。部活は美術部だったんですが、さほど真面目に参加している様な感じではなかったです、顧問がいい加減だったみたいで、帰宅部がないあの学校で、何の部活もやりたくないっていうような腑抜けた学生が好んで選ぶような部活だったようですから、活動内容もなあなあのようで、でも亜弓が描いた絵は家に飾ってますよ、なんでもない果物と食器の静止画とかですが、うまくはないけれど味があるんですよ、それで」

「ああ、奥さん大丈夫ですよ。ゆっくりで、あせらずとも」

 鴻巣のお母さんは鼻を強くかむとティッシュを丸めて、その上からもう一枚ティッシュをかぶせてカバンの中へ仕舞った。娘の話をする彼女の表情はやわらかで、苦悩の痕跡はない。

「あ、大根とお肉、煮込んだんです、タッパーに入れてくれば良かった、お二人にも食べて貰えたのに、いい出来だったんですよ、娘とはあまり学校の話はしていなかったのですけれど、成績も悪くなかったし、通信簿にも素行に関して問題があるようには書かれていなかったので、自由にさせていたんです、いい子だったんですよ、爪を穿るのは本当に止めて欲しかったけれど、朝から食べ終えた皿の上にカスのようなものが落ちて、私は気分が悪かった、淹れてくれたコーヒーは美味しかったわ、豆は旦那が買ってきたものですけれども」

「明日はお葬式で大変でしょう、改めて時間を設けますから大丈夫ですよ。僕たちのほうでは今日は現場など見て回ります」

「葬儀は一日葬ですからすぐに終わると思います」

 東堂たちは娘が死んだ母親とは思えないくらい淡白な印象を受けつつも奥さんを宿の外まで見送った。風がやはり湿っぽくて、秋口の肌寒さと湿気で張り付く上着に収まりの悪い体をゆすりながら二人は現場へと向かった。

 現場は当時の様子を想像するにはあまりにも材料が足りないように見えた。足跡があるかと思ったが、人通りの多い道のようで、いくつもの足跡や自転車の轍が残っている。血の跡が少し残っており、周りを見渡すと隠れられる場所はないように思われる。ただ帰路から向かって右側は石造りの壁になっており、高さは三メートルはあるように見える。そこから石が落ちてきたら大きさによっては頭が割れてしまうのもおかしくない。

「この通りはバス停や駅に向かう道だから人の通りが多いんだ。もし人を殺そうと言うなら、こんな目撃者がいる可能性の高い場所を選ぶだろうか。計画的な殺人であったらこの場所を選ぶのはなんだか辻褄が合わないような気がするよ」

「見てください、ミミズですよ。こんなに大きなやつは都会じゃ全然見ませんね。すごい、気持ちが悪い。潰しちゃっていいですか」

「やっぱり事故なんじゃないかって思ってしまうけれど、当たったのは後頭部だから少なくとも後方から石は飛んで来ているんだよな。この壁の上からじゃあ角度が合わない気もする」

「ミミズってなんでこんな形しているんでしょうね。蛇よりもシンプルなデザインなのに、一層気色が悪い。蠕動運動自体がどうにも気味が悪いですよね。食後の人の腸を覗いているみたいでグロテスクです。なんでこんなのが生きてるんでしょうか、ああ、逃げてく。昔は雨の日の翌日のカラっと晴れた日に、コンクリートの上で干からびているのを見たことがある気がします。どこに消えたんでしょう。都会のミミズはみんな死んでしまったんでしょうか」

 日が落ちてきたので二人は宿に戻って食事を摂った。夜は虫の声がジージーとうるさく、外は明かりが乏しい、普段よりも深い闇と相まってどうにも二人とも寝付けない。望月は思い出したようにミミズの話をまた持ち出してグチグチと言っていたが、それが意味をなさない言葉のように響いて東堂を鈍らせていき、次第にやっと眠気へと変わっていった。


 天気は晴れ。田舎ともなると生徒も先生も数が少ない。親戚以外は雰囲気や服装でわかる為、学校関係者を見分けるのはどうにも容易そうであった。午前中のうちに告別式は終わって、東堂は来ていた学生や教師に話を伺うために近づいて行くことにした。

「鴻巣さん? いつも明るくて、色んな人と仲良くしてたよ」

 葬式のあととは思えない明るさで女学生が答えた。他の女生徒の方でも印象は概ね好評で、誰かに恨まれているような雰囲気はない。狭い学校でもスクールカーストというものがあるようだが、彼女らの話し方からその中でも鴻巣亜弓は不自由のない立場にいたのが見て取れる。容姿も良かったため、男子生徒の方でも人気が高く、隔たりのないさっぱりとした態度が好まれていたようだ。恨みを買うようなタイプではなさそうで、他の生徒が憎しみのあまり殺害してしまったというような風には思えない。とは言え学生の生活というのは表面だけでは何が起きているかわからないものでもあるから、絶対とは言い切れない。見落としもある可能性があるから早合点するわけにはいかない。

「鴻巣さんねぇ、成績も良いし、素行も良かったですね、字が綺麗でそれが印象に残っていますね、日直の日誌なども彼女が書くと独特の匂いがするようでした、うちは小さな学校ですから、学生の人数も多くはない、鴻巣さんには期待していたんですよ、いい子だったし、見た目も良い、ただあまり先生方の相手をしてくれる子じゃなかったですね、生徒と一緒にいるのが楽しいようなのか、私のことはあまり見てくれてなかった、授業中はしっかりと聞いてくれるから気分が良かったですがそれだけですね、普段は挨拶を少し交わすぐらいしかしてくれない」

 教員の多くは彼女を素行の良い生徒だと評していた。東堂の期待していた彼女の身の回りにある負の部分というものをあぶり出すような証言は得られそうにはなかった。彼はそれが不服なようであったが、望月は特に気にならないようでそのあたりの土を木の棒でほじくり返しているだけであった。東堂はその様子を見てため息をついたのだが、その時背中に嫌な違和感を感じて急いで上着を脱ぐと大きなコオロギが数匹入り込んでいて、それがぞわぞわと動いて気色が悪かった。振り返ると学生も教師も東堂を見てヘラヘラと笑っている。ぎょっとしていると、「冗談じゃないですか」と誰かが言った。みんなが同じような表情でこちらを見ているので、その様子が如何にも不気味で東堂は嫌な気分になった。

「尾野が来てない、鴻巣さんと同級生なんだけど、ずっと引きこもってて学校にも来てないんだ、気持ち悪いやつだし、きっと鴻巣さんを殺したのも」

「こら、あることないこと勝手に邪推してはダメですよ」

「尾野さん? どんな人なんですか?」

「村長の息子ですよ、学校に来たがらなくてもう二年近く学校に来ていません」

「なるほど、ありがとうございます」

 東堂はやっと何かしらの収穫を得たような気分になってホッとした。東堂は背中のコオロギをはたき落としてそれを踏み潰した。汁が靴底にこびりついたが、砂利を擦るようにして拭った。それを見ていた望月は嬉しそうにケラケラと笑っていた。

「そこで生徒が話してましたよ。亜弓さんは頭が割れて脳みそがデロリと飛び出ていたとか、普通に石が当たったくらいじゃそうはならないでしょう」

「でも死体を見たのは警察と村田さんと奥さんくらいじゃないのか」

「だから嘘かもしれないですね」

「棺に入っている様子ではそんな感じはなかったけれどな」

「子供の言うことですから」

「でも本当なら石は投げられたんじゃなくて何かしら道具を使って飛ばされてきたようなものだ」

「本当じゃないかもしれませんよ。ここの住人、ちょっとおかしいですよ。生徒も教師も何か気色が悪い」

 秋口だというのに湿っぽい空気が肌に張り付くようで不快感を催させた。飛んでいる羽虫が濡れた肌に張り付いてはたき落としてもはたき落としても、虫の体の一部が腕や頬に残るようであった。東堂は嫌な顔をしながら宿に戻り、明日は引きこもりの同級生とやらに会ってみようと決めた。虫が鳴いている、今日も寝付くまでに時間がかかる夜だった。


 翌日、簡単な手土産を持って村長の家に向かった。流石に他の家々と比べると立派な作りで、少し古くはあるが大きな家だった。村長は噛み煙草を口の中に含みながらもごもごと話したが、二人の対顔を快く受けた。古い木の匂いのする廊下を抜けて二階に上がっていくと、また広い廊下に出た。その奥の方の部屋が息子の部屋だという。

「息子はもう二年も学校に行ってません、来年は受験だと言うのに勉強をしている様子もない、その癖飯は一丁前に食う、親の言うことは聞かない、ねえ、天罰ってやつを信じますか、私は昔人を殴って歩いていたんだ、人が何か用事を持って外を出歩いているのが気に食わなくて誰彼構わず殴ってたんです、私は目的がなかったから、人が何か目的を持っているのが羨ましかった、みんな等しく自分のように無目的で何もない時間を虚しく過ごす気持ちを味わって欲しかった、きっとそのときのことの罰が今になって自分の家族に降り掛かったんだ、息子は何もしていませんよ、家の中で私が稼いだ金を使って好きなものを買って、飯を食って、寝ている、夢も希望もあったものじゃない、ねえ哀れじゃないですか、どうかこいつにガツンと言ってやって下さい」

 村長は部屋をノックすると、大声で「開けろ! お客さんが来てくれたぞ!」と言った。それからシンとして、やはり駄目かと思っていると扉がキイと小さな音を立てて開いた。中から細身の老けているのだか童顔なのか判然のつかない顔がヒョッコリと出てきて、「誰ですか」と言う。

「東堂と望月と言います。鴻巣亜弓さんのことで何かご存知でないかと伺いに来ました」

「はあ、鴻巣さんのこと」

「ちょっとだけでもお話できませんか」

「まあ、暇なんで、どうぞ」

 村長の方は「ではごゆっくり」と言って早々に階下に降りて行ってしまった。部屋は引きこもりのイメージとは違ってよく片付いていて清潔だった。十二畳ほどでとても広々としている。ベッドの横にはサイドテーブルがあってタブレット端末が置かれていた。近くには小説の並んだ戸付きの本棚が一つ、部屋の反対側に大きめのテレビとデスクトップパソコン、最新ゲーム機も揃っているようで、ずいぶん快適に引きこもり生活を送っているのが伺える。本人はと言えば、肌は荒れていて体臭も何日も風呂に入っていない者特有のアンモニア臭がぷうんとしていた。

「それで、聞きたいことってなんですか」

「鴻巣亜弓さんが亡くなったことはご存知ですか」

「知ってますよ、葬儀に出なかったことですか、僕は引きこもりなんで学校の連中と顔を合わせるのが辛かったから行かなかっただけです」

「鴻巣さんとは交友はなかったんですか」

「同級生だからありましたよ、まだ学校に通っていた頃はよく話しかけてくれました、誰にでも分け隔てない快活な女の子だったと思います、引きこもってからは全く会っていません」

「それじゃあそう繋がりは深いわけではないのですね。特別な感情とかは抱かなかったですか」

「好きになったかどうかって話ですか、確かに学校に通っていたときは数少ない話のできる子だったから気になったりはしましたが、登校を止めてからはすっかり忘れていました、特別な感情というものがそういう意味合いのことならば何もありません」

「そうですか」

「僕を犯人だと思いますか」

「え、いや、そんなことは」

「良いんですよ、引きこもりは普通のものとは違う、異質なものだと皆は感じているのでしょうね、確かに僕の生活は健全なものではないし、親のスネを齧って時間を空費しているだけですから、そういう理解不能なものが存在しているというだけで疑いを向けられるのは理解しています、僕は無害な男ですよ、自分が嫌になることはあります、しょっちゅうね、ですが怖いんですよ、他者が、特にこの村の者たちが、何を考えているかわからない」

「わかりますよ、他者が何を考えているかわからなくて恐怖を覚えるのは誰もがそうですから」

「そうではないんです、この村の連中は少しだけだけれど、決定的に異常なんだ、僕の親もそうだし、同級生もそう、近所のおばさんやおじさんもそう、みんなどこかおかしい、引きこもっている自分が一番正常だと考えるのはおかしいでしょうか、それでも彼らとは距離を取っていたい、僕はいずれここを出ていきます、働くことになるでしょう、それでもここにいるよりはマシだ、知らないやつと話すのは怖くない、怖いのは知っているやつと話すことですよ」

「知らないやつと話すのは怖くないんですか。僕は怖いですけどね」

「それはあなたが交友関係に恵まれているからです、僕は知っているやつのほうが怖い、何を言われているのか、何を思われているのか想像するだけで身震いしますよ、両親だってそうだ、本当のところどう思っているんだって考えますよ」

「ご両親は、もしかしたら心を痛めているかもしれませんが、きっと愛していますよ」

「信じるのは難しいですね」

「……鴻巣亜弓さんのことで他に何か知りませんか。誰かと仲が悪かったとか、些細なことでもいいです」

「僕はここ二年間ずっと学校での交友関係は知りません、でも誰でもあり得ると思いますよ、恨みを持っていなくても、親しくても、この村の連中は誰もがそうする可能性がある」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味です、おかしいんですよここのやつらはだから嫌なんだ、そして僕も結局のところ同じなんだ」

 そう言うと尾野は俯いてしまい、これ以上は話すことはないと体で示していた。東堂はここまでかと思うと暇を告げて部屋を出る。ドアを締めるとき、チラリと尾野の姿をもう一度確認すると、俯いた猫背の男の姿があった。その姿はひどく見窄らしく、東堂の哀れを誘った。望月は話の間ずっと部屋の中を眺めていて落ち着きがなかったが、急に口を開くと、「あの子は普通の子ですね」とこぼした。村長に挨拶をと思ったら引き止められて茶を勧められ、息子のことやよくわからない愚痴などを聞いていると家を出る頃には外はもう日が傾いていた。風はぬるく薄膜が張り付くようで不快だった。旅館まで歩いていると村人と思われるお婆さんが二人を呼び止めた。

「調査頑張ってくださってるんですってね、お疲れなさいね、良かったらこれどうぞ、うちで採れた柿なの、何かわかったら教えてちょうだいね、亜弓ちゃんいい子だったから悲しいわ」

「ありがとうございます。できる限りのことはします」

「もしかしてあなた達が石を投げたなんてことだったら、簡単に済むんだけどね」

「いや、僕たちは鴻巣亜弓さんが亡くなってから来ましたから……」

「うまいことはないものね」

「はあ……」

 宿に着くと、ちょうど夕飯がそろそろできると言うので、東堂と望月はそういえば昼は何も食べていなかったのを思い出して、腹の虫を鳴らした。空腹のおかげかどうにも箸が止まらない。食べ終えてもまだ少し、何か口にしたいという欲求が収まらなかったので、貰った柿を食おうと袋を開けると、イラガやアブラムシがたっぷりとついていて、二人はギョッとした。虫が多すぎてどれも手に取る気になれず、虫が外に出ないようにビニール袋の口をキュッと縛るとゴミ箱に捨ててしまった。びっしりと蠢いている虫を見たせいでなんだか肌がムズムズする。

 夜中、虫の鳴き声に悩まされていると、窓ガラスがゴツンと鳴った。二階にある部屋だから誰かがノックするなんてことはない、なんだか気になって東堂は窓を開けて見てみると、道の向こうにぼうと立っている人影がある。「なんですか」と東堂は言ったが、人影は微動だにしない。しばらく待っても動く様子がないので、これは木か何かを人と見間違えたのだなと思い窓を締めた。望月は我関せずといった風で、スマートフォンの光を浴びて顔ばかりが見える。東堂はやれやれと布団に入ってしばらくあとにぐうぐうと寝息を立て始めた。


 翌日は再び現場に出向いた。やはり多くの発見はできそうになかった。

「やっぱりこの人通りの多さで人に目撃されないように殺すというのは難しいように思う。突発的に行った犯行であるか、事故であるかの二択になる気がするな」

「今日もミミズがいる。雨も降ってないのに。なんだってこんなに多いんでしょう」

「そうなると道具を使った線はおおよそ消えたと言っても良いかもしれない。彼女が通学用のバスを使ったとしたら同じバスに乗っているか、バス停を降りたあとからここまでの間に何か悶着があったと考えられるから、道具を用意する時間があるようには思えない」

「あ、踏みますよ」

「なあにミミズくらい」

「ぎゃあ」

 東堂が壁を眺めながら後ろへ下がっていると、通りかかった爺さんの足を踏んづけてしまった。爺さんは蹲って「痛い痛い」と繰り返していた。

「すみません、大丈夫ですか。調査に集中して周りが見えておりませんでした。立てますか、手をお貸しします」

 すると爺さんはその手をパシリと払って一人で立ち上がると、東堂たちの方を向きもせずに足早にその場を離れていってしまった。「だから言ったのに」と望月が地面を棒でほじくり返しながらため息交じりに言う。東堂はバツが悪そうに頭を掻いた。

 結局のところ何の情報も得られず、調査はどうにも上手くいかない。村の聞き込みで得られる情報は鴻巣亜弓が明朗快活な良い子で、多くの者から好かれていたと言うことくらい、ネガティブな印象や関係が仄めかされることはなかった。むしろ誰も彼もが同じようなことを言うのに違和感を覚えるほどであった。引き篭もりで村の者から疎まれていた尾野でさえ、鴻巣亜弓に悪い印象を持っていなかったということは、やはり村人のそれらの総評は間違っているわけではないということの証左である。鴻巣亜弓に事前に恨みを持っていた者はいそうにない、あるとすればその日の会話や行動で誰かの怒りを買ってしまい、カッとなった犯人が無計画に犯行に及んだという可能性、もしくは事故であるという可能性だ。結局警察がまごまごしているのと同じ状況になってしまった。東堂は自分の不甲斐なさに深いため息をついた。

 途中経過を報告がてら、依頼主である鴻巣の奥さんを尋ねることにした。ほとんど進展がないという事実が心苦しいが、聞き込みや現場調査が一段落した今、一度現状を伝えるということはしておいたほうが良いと東堂は考えた。日も落ちかけ、帰路を歩く学生たちの姿がほんのチラホラと見える。学生の足は早く、東堂や望月を元気に追い越して行く。そのたびに妙な視線を感じていると、ふと学生たちの喃語が耳に入る。

「ほらぁ、やっぱり怪しいって、みんなに聞き込みとかしてるんだって、自分がやったことを私達に擦り付けるつもりよ」

「でも証拠はないんだろう、何でも噂なら信じるってのか、あ、待って、目が合った、怖っ、なんだろう目の下がくまで真っ黒だ、気色悪い」

「ね、やっぱりそうだと思うのよ、みんなを見る目が異常だもの」

「うーん、確かにそうかもしれないなぁ」

 望月はスマートフォンを眺めながら歩いていたがふと顔を上げると、何かが飛んできたのが見えた。とっさに避けるとそれは地面にベシャリと割れた。熟れた柿だ、中には虫が何匹も蠢いている。周りを見渡したが、投げた本人と思しき者は見当たらない。普段何事にも無頓着であまり周囲を気にしない望月ではあるが、何か悪意のようなものを肌に感じて気分が悪い。

 鴻巣亜弓の母親は元気そうにしていた。娘を失ったばかりの親とは思えないくらい溌剌としていて、東堂は呆気にとられてしまった。途中経過の報告を行っている間も何が面白いのかずっと笑顔でウンウンと頷いている。話を聞き終わると茶菓子を作ったのでと勧めてくる。奇妙な違和感を感じつつもお菓子を頂いて暇を告げるが、鴻巣の奥さんは玄関からいつまでも東堂と望月を見つめ続けていた。

 二人が歩いていると村人たちの姿がそこかしこに見える。極端に住人の少ない村ではないのは確かだが、このように多くの村人が道に出てぼうと立っているのを見るのは初めてである。まるで何かを見に出てきたかのように並んでいる。

「亜弓ちゃんの頭が割れたんですって」

「村長さんの息子さんに罪をなすりつけようとしたみたいだぞ」

「葬式の間もウロチョロと学生や先生方に話をして回っていたそうだ」

「水岡の婆さんのあげた柿をゴミ箱に捨てちまったらしい」

「浜本の爺さんを踏んづけて怪我させたらしいじゃない」

「鴻巣さんも気の毒に」

「なんてやつらだ」

 村人たちのこそこそとした話し声が、シンとした帰路の道に響いて渡る。東堂たちは嫌な居心地の悪さを感じながら道を行く。ただならぬ雰囲気を感じて二人は互いに目配せをして宿に戻る道を止め、自然と駅へと向かって足を伸ばしていた。その背後から村人たちがついてくる気配がするが、東堂たちは不気味に感じて振り返ることも何か発言することもできずにいる。急に走れば村人たちに何か刺激を与えてしまうかもしれない、まるで悪意の風船が張り詰めたような空気がそこにはあった。何か変化を与えてしまうと破裂してしまうかもしれないような奇妙な緊張感。普段あっけらかんとしている望月も青白い顔をしている。

 湿った空気がシャツを濡らして肌に張り付いてくる。虫がブンブンと飛んでいる。何度も調査したあの道まで来ても村人たちは遠巻きにゆっくりと付いてくる。その影が夕日に照らされて細長く伸びていた。望月は握っていたスマートフォンを手から滑り落としてしまい、急いでかがんで拾おうとするとジャガイモが一つ飛んできた。それからはあっと言う間だった。石が飛んできて、望月の頭に当って、血が流れる。東堂は急いで望月を立たせて駅へと走る。村人の誰も彼もが一斉に石を投げてくる。肩や背中に大きな石が当って青あざを作りながら二人は走った。電車は来ない。石はなおも飛んできていて東堂と望月に当たり続ける。望月は出血がひどく気を失ってしまった。揺さぶっているが何の反応もなく助かりそうにない。東堂は顔を泣きそうなほどくしゃくしゃに潰して「やめてくれ」と言ったが、口の中で言葉だけが空回って外に出なかった。葬式で見たことがあるような女学生が投げた拳より一回りくらい大きい石が東堂の頭をぐしゃりと潰した。血が広がって干からびたミミズを濡らしている。村人は静かに二人の最後の人間の死骸を眺め続けていた。彼らは逆光で影のような姿でゆらゆらしながら「かわいそうに、かわいそうに」と言っていた。そうして人類は永遠の眠りについた。

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みみずのはこ 柚木呂高 @yuzukiroko

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