レンジとコナツ②


「コナツって、俺と同い年だよな。えー? いたっけ。あの家に女の子」


 レンジは記憶を辿ろうとするが、首をひねったまま固まってしまった。


「あー、その頃から母さんアタシ連れてよく家出してたから、ほとんど家にはいなかったよ。たぶん」


「ていうか、なんで今まで言わなかったんだよそれ。びっくりなんだけど」


 コナツはうざったそうに、長い髪をかき上げた。残った片目の睫毛が長い。どちらも黒く艶やかだった。


「アタシは覚えてたよ。あんたの顔。そのころは目がパッチリで、かわいい顔してたな。そのクレメンタイン婆さんがね、アタシに言ってたんだよ。裏の家に生まれたレンジって子は、いつか世界を救う英雄になるって。バッカな話。婆さんは、占いやっててね。よくわけのわからないことを言ってたよ」


「ああ」


 その話を聞くと、レンジの胸がチクリと痛んだ。


「でも素直な子どもだったアタシは、それを信じてね。ネーブルを夜逃げしたあとも、遠く離れた街に住む、レンジって男の子のことを考えてた。いつか世界を救う英雄のことをね」


 バッカみたい!


 コナツは吐き捨てるように笑って、手のひらを振った。


「そんで母さんとも死に別れてさ、一人になっちまって……。このネーブルに戻って、アタシ、客を取り始めたの。ほかに取り柄なんてないしさ。この面体だし。まあ、アタシのことはいいんだよ。あんただよあんた。クソレンジ。あんたが、アタシの客になりはじめて、何か月かして気づいたんだよ。こいつ、婆さんが言ってた、あの世界を救う英雄、レンジだって」


「おまえ、俺にはそんなことひとことも言わなかったじゃねーか」


「言うかよ。バカ。アタシの小さいころの乙女心、返してくれる? 鏡見てみなさいよ。どんなやつが映ってんのって話」


 どんなやつって……。


 レンジは自分のもじゃもじゃ頭をなでると、もじもじとうつむいた。


「あーあ。クソみたいな街だよ、ここも。あんたも」


 コナツは吐き捨てるように言うと、また窓の外に目をやった。雨は蕭然と降りつづいている。

 そのかすかな音が、陰鬱なリズムで世界を包んでいる。


「アタシも」


 最後にそうつけ足して、コナツは黙った。

 窓の下を、水たまりを跳ねながら子どもたちが駆けていく音がした。


 レンジはふいになにかを思い出し、部屋の隅にあったカバンを手に取った。


「忘れるところだった。絵を描かせてもらう約束だったろ」


 パンパンに膨れたカバンから、レンジは画材を取り出した。


「ああ。なんか、言ってたっけな」


「最近趣味で絵をはじめたんだ。人間描くのは、はじめてだ。記念すべき第1号だぜ」


「なんだそりゃ。そんなことしてるから、いつまでたっても、うだつもレベルも上がらないのよバカ」


「うるせえな。モデル代に50シルバー余計に払っただろうが。さっさとこっち向け」


「めんどくせえ。このまま描けよ」


 コナツは窓際に座ったままで言った。


 レンジはコナツの向かいに椅子を持ってきて座った。そして安物のイーゼルを組み立てて、鉛筆を手に、「いいねえ。モデルがいいから、いい絵が描けそうだ~」と軽い口調で鼻歌をうたった。


「うっせ。アタシに価値はねえよ」


 コナツは怒った顔をした。化粧っけのない顔だった。


「おいおい。笑ってくれよ。お世辞じゃねえよ」


 苦笑するレンジに、コナツは怒ったまま、もう一度言った。


「アタシに価値はない」


 まるで挑むように怒りをたたえた隻眼の、その瞳に射すくめられて、レンジは黙った。黙って、手を動かしはじめた。


 お世辞じゃ、ねえんだけどな……。


『雨の降る窓際で片膝を立てて椅子に座る女』


 そんなタイトルになるだろうか。と、レンジは自分の絵の処女作について、考えていた。

 コナツは怒った顔を崩さず、レンジを見つめている。


「おまえさ」


 レンジは手元の鉛筆の先を見ながら言った。


「どうして今ごろになって教えてくれたんだよ。さっきの」


「……」


 コナツは表情を変えずに、息を吐いた。


「さあ。なんでかな」


 そうして、雨の匂いに包まれた部屋で、ふたり黙った。

 白い紙の上に鉛筆の走る音が、ささやかな夢や、希望や、憧れや、なにかそういうものの残骸を避けながら、木の床の上に静かに積もっていった。





 その次の次の月だった。

 レンジは街はずれの墓地に立っていた。身寄りのない人間や、金のない人間が埋葬される、街の共有墓地だ。

 寒々とした敷地の、土に埋められた黒い石に、コナツの名前が刻まれている。

 彼女が嫌っていた名前だ。その小さな石が彼女の生きたただひとつの証だった。


「こんなに小さくなっちまって……」


 レンジはつぶやいたあと、案内してくれた男に頭を下げた。コナツの属していた女衒の老人だ。厳めしい顔からは表情を読み取れない。

 老人は堰をひとつすると、片足を引きずりながら去って行った。

 レンジはしゃがんで、黒い石に手を合わせた。


 病気だったという。もうだいぶ前から悪かったらしい。クソみたいな街だと言ったこの街で、彼女は死んだ。彼女の生まれた街だった。


「ん。ここ置くぜ。おまえいつも吸ってた煙草、これだったよな、たしか」


 レンジは、石に刻まれた名前を見ながら、彼女の嫌ったこの田舎街で、貧しい暮らしと、そこから抜け出せない陰鬱な日々を互いに持ち寄り、過ごしたささやかな時間のことを思った。

 その傷だらけの体を。

 いつもなにかに怒っていた青い瞳を。

 きしむベッドの上で握りしめた、小さな手のひらのことを。


『アタシの小さいころの乙女心、返してくれる?』


 コナツのその言葉が、脳裏に浮かんだ。今もまだその言葉に責められている。一生責められるに違いない。


「世界を救う英雄、か……」


 レンジの背中にまた一つ重石が加わった。それはちっぽけなレンジを押しつぶし、もっともっとちっぽけにするような、そんな気がした。

 レンジは涙を拭いた。そして買ってきた小さな花を、そっと煙草の箱の隣に置いた。


 それからもう、絵は描かなかった。





























 ……昔の、夢を見ていた。




























 100年が経ち、夜空にまたひとつ、新しい星が生まれた。

 そこは全天でひときわ輝く、光の海のなかだった。

 その星を、たくさんの星たちが、待っていたのだ。





























 さらに時は過ぎた。

 地上では、新しい国が生まれ、またその国が衰えて亡んだ。



 かつてネーブルという街があった場所には、別の名前の街ができた。そこで人々は、かつてそこで生きた住民たちと同じように、埃っぽい街並みを眺めながらつつましい日々の営みを送っていた。


 そんな街に、観光客が押し寄せる一角があった。街の中心部にそびえたつ、立派な記念館だ。観光客たちは、スライムを模した形の奇妙な屋根の下に吸い込まれていく。

 記念館の中はざわざわとした人いきれでいっぱいだ。そこらじゅうで、子どもたちがスライムの帽子を被って走り回っている。


 人が集まっている壁際で、飾られている絵を見ていた女性が、その夫に向かって言った。


「ねえ。この絵、たいして立派な絵じゃないみたいだけど、そんなに値段がするものなの?」


「値段? 値段なんかつかないよ」


 夫は笑った。


「あら。価値がないのね。こんな偉そうに飾ってあるのに」


 夫はこの記念館に興味のない妻に、噛んで含めるように言った。


「いいかい。この絵は、魔界門を封印したり、大空洞事件を止めたりして、世界を何度も救った伝説の英雄が、生涯でたった一枚、たった一枚だけ描き残した絵なんだ。死後、生家の金庫に隠されていたものが見つかってね。こうして郷土の記念館に飾られているんだよ」


「へえ。奥さんかしら」


「奥さんじゃないよ。奥さんも有名人だ。この絵が、だれを描いたものなのかはわからない。今となっては、永遠のミステリーだ。そのことも含めて、この絵には途方もない価値がある。人類の宝だよ。値段なんかつけられないさ」


 夫は興奮して続ける。妻は退屈そうに相槌を打っていた。



 絵の中の下のほうに、鉛筆の小さな文字でこう書いてあった。


『雨の降る窓際で片膝を立てて椅子に座る女』


 途絶えることなく次々と訪れる人々は、だれもがみな、その絵の前で足を止めた。




 ――エピローグ レンジとコナツ・完

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【完結】スライム5兆匹と戦う男 毛虫グレート @aaikknoruy

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