エピローグ
レンジとコナツ①
窓の外は雨が降っていた。さあさあという音が、レンガ造りの街を包んでいる。
薄着の女が、窓のそばに置かれている椅子に片膝をついて座り、煙草を吸いながら外を見ていた。
部屋の中には、その窓から流れてくる湿気が満ちていて、床に触れる女の片方の足の裏には、しっとりした木の感触があった。
「なあ、これ、ほら。まじなんだって。メモしたから、本当」
部屋の隅にあるベッドの上で、上半身裸の男が寝転がりながら、古ぼけた手帳を見ている。
「コナツ、って言ったんだよ。スライムが。断末魔で。コナツ、コナツだぜ。お前の名前!」
レンジは寝転がったまま顔を上げて、窓際の女を見た。女は振り向きもせず、「あっそ」と言った。
「いやー。今まで、ココナッツ! はあったんだけどな。今度のは完璧だぜ。こう……。潰れながら、……コナツ……! ってな。聞いたときは興奮したなあ。どうよ」
コナツは、自分の名前が好きじゃなかった。それを連呼する男は、もっと好きじゃない。
短くなった煙草を窓枠に押し付けて消し、外へ落とした。そして椅子の上に置いてあった煙草入れからもう一本取り出して、マッチで火をつけた。
「変わんねえなあ、おまえ」
煙を吐き出し、窓の外を見たままコナツはぼそりと言った。
「え? なんだって?」
レンジは、手帳のスライム断末魔コレクションを眺めながら、ベッドの上で左右に揺れていた。
コナツは、娼婦だった。それも、娼館につとめるようなランクではなく、民家の一室で客を取るような最下層の性風俗の女だ。
コナツの体には、無数の傷がある。古い傷ばかりだ。切り傷が主だったが、火傷のような跡もあった。それらが全身を覆っている。そしてその顔には、左目を覆うような引きつり傷があった。
どれも、子どものころに、母親の元に転がり込んでいた愛人の男がつけた傷だった。
コナツの体は痩せていて、鎖骨が浮き出ている。顔の傷を除くと、器量は良いと言えたが、とてもではないが良い条件で客を取れそうもなかった。だから、コナツは今日も自分の家に客を上げている。
コナツは笑わない。愛想笑いなど、クソくらえだ。生きるためにしていることに、笑いは生まれない。
「おまえさ。悪魔の石切り場ってとこ、いかねえの?」
コナツが外を見ながら言った。
「え? ああ。悪魔の石切り場か。最近ゴールドラッシュみてえになってんな。行き止まりって思われてた第三層の底が抜けて、お宝いっぱいの第四層が出て来たとかって」
レンジは手帳を閉じた。
「ま、俺には関係ねえよ。あそこは元々、高レベルご用達だからな」
「そっか」
「俺は明日も、西の岩場で、もやしゴブリン退治さ~」
レンジは歌うように言って体を起こし、伸びをした。
こういう場所では普通であれば時間いくらで客を取るのだが、コナツは1回80シルバー。それでずっとやっている。
次の客がまだ決まっていない時は、レンジはだらだらと彼女の部屋に居座った。コナツはうるさいことは言わなかった。客とトラブった時は、窓からハンカチを振るのが合図になっている。同じような娼婦たちの家が集まる通りを見張っている女衒の男も、ハンカチが振られない限り、乗り込んできて客を叩き出しはしない。
「どうした。そのゴールドラッシュのせいで客が減ってんのか」
コナツのため息が聞こえて、レンジは声をかけた。羽振りが良くなると、男どもはこんなところではなく、ちゃんとした娼館へ足を運ぶようになる。
「うるっせえなあ。出すもん出したらもう帰れよ」
コナツはまた煙草を外へ投げ落とした。
白い煙が消えると、部屋に雨の匂いが強くなる。それが部屋に染み付いたコナツの匂いと混ざり、レンジの中に甘いような、苦いような感傷が湧くのだった。
「あんたも、いつまでアタシのとこに来てんだよ。あんたくらいだよ。冒険者やってて、いつまで経ってもうだつがあがらねえの」
その言われ様にレンジは少しムッとした。
そして、「金出して来てやってんのに、なんだよその言いぐさは」と言おうとして、思いとどまった。
かわりに、床に投げ出していた上着に手を伸ばした。
「なっさけな」
コナツの吐き捨てるような言葉は、レンジをプツリと刺した。
もし羽振りが良くなったって、俺は、おまえが……。
そう言いかけた言葉は、抑揚もなく、そのまま宙に消えた。
そしてまた、煙の匂いが部屋に流れた。
「アタシさあ。あんたのこと、前から知ってたんだよね」
椅子に座ったまま、コナツがぽつりと言った。
まったくの初耳だった。レンジは袖に手を通しながら、「どういうこと?」と訊いた。
「前からって、俺が客になる前か?」
コナツは、ふーっと大きく煙を吐いた。
「もっと前。小さいとき」
「え? そんな前から?」
「アタシ、南のオーランドって町の出身だって言ったでしょ。でも、生まれはこっちなの。ネーブルっ子。でも小さいときに、母さんがアタシを連れて男と駆け落ちしてね……」
「まじかよ。知らなかった」
「それどころか、あんたの家のすぐ近所なの。知ってる? クレメンタイン」
レンジは驚いた。懐かしい名前だった。
「うちの裏に住んでた婆さんだよ。え? おまえ、あの家の子だったの?」
コナツは、口にしたことを少し後悔した顔で、ため息をついた。
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