第47話 さよならと問う
近現代文学ゼミの小夜には、卒論のアドバイスを頼めない。中間発表の資料を、朔磨は徹夜で作っていた。
『今日話せる?』
「ごめん。レジュメの作成で忙しいんだ」
嘘が増える。
時間なんて、いくらでも調節できた。彼女から癒しをもらうことで、作業効率をあげる選択肢もあった。小夜の沈んだ声に、決意が揺らぐ。別れのときは迫っていた。
小夜にとって、つらくない別れ方ばかり検索してしまう。小夜をできるだけ悲しませたくなかった。付き合った時点で矛盾していることは、忘却の彼方だった。
さっくん見て見てと湯吞みの図面を差し出されたとき、可愛さに顔がにやけそうだった。だが、別れ話をするなら今だと感じた。一生懸命に書いたものを貶されれば、百年の恋も冷めるはずだ。
「そんなガタガタの図面は初めて見た」
笑い飛ばした朔磨に、小夜は目尻に涙を溜めていた。心ない言葉で、好感度はぐっと下がっただろう。これでいいと言い聞かせながら、朔磨は反射的に謝っていた。
ごめん。自分の都合で小夜を悲しませてしまったよね。
ごめん。一緒に食べるはずだったクリスマスケーキ、無駄させちゃうな。
ごめん。もう、大好きだとか愛してるの言葉を贈れないよ。
小夜が求めた関係を、彼女から壊すことを願った。爪の伸びた手を、小夜の腕にあてがう。
「お玉を落としちゃう」
「そのままシンクのふちを持っていて」
さっくんなんて大嫌い。その言葉を引き出せたら、月華の代用品という事実を突きつけなくて済む。最後に触れた小夜の腰は、ガラス細工のように折れてしまいそうだった。ほぐしていなくても朔磨の形を受け入れる小夜が、痛々しく見えた。
こんな自分が、月華に相手にされるのはありえない。一年記念を楽しみにしていた竹野内さんが不憫だと、朔磨を叱責するのが思い浮かぶ。だが、最初から覚悟して堕ちてきた。
「ねぇ、小夜」
きみは、僕が初めての彼氏で幸せだったのかな。松田先輩の方が、何倍も笑顔にさせたよ。記念日を忘れたふりをしたり、ぐだぐだなデートを目指したりすることなんて、絶対に起きない。
きみが楽しみにしているクリスマスは、松田先輩と過ごすべきだよね。小夜が望んでいなくても、松田先輩を見ていれば分かる。朔磨から解放されれば、幼なじみは必ず動く。
「別れてくれないか」
こんな最低な彼氏に、さよならを言ってくれ。罵って構わないから。
背を向けなければ、涙がこぼれそうだった。さっくん。何度も聞いてきた呼び名に、膝が揺らいだ。どうして離してしまったんだろう。偽りでも自分で選んだ恋だった。振った方が苦しむなんて間違っている。小夜の方が傷ついているはずだ。
唇を噛みながら、朔磨は階段を下りた。頭上を走る終電に小夜は乗れただろうか。よりを戻したいと思う前に、朔磨はトーク履歴を消した。
寝る前にぴこんとメッセージを受信したスマホを、朔磨は何気なく手に取った。どこが駄目だったのか教えてと、小夜から送られたものだ。
「小夜が駄目なんじゃなくて、僕と一緒にいるのが申し訳ないんだよ」
別れる原因のテンプレートを返した。小夜が沈黙した後、朔磨は寝つくことができなかった。
別れるのって、こんなに苦しかったんだ。月華に放った自分の言葉を、取り下げたくなった。昼間から月華と肌を重ね、互いの欠けたピースを埋めた。
■□■□
喫煙所の柵から、小夜の横顔が見えた。晃太朗に頭を撫でられ、チェスターコートが翻る。朔磨のあげたマフラーは巻かれていなかった。小夜からもらったプレゼントを、今も捨てられない朔磨とは違う。
つい先月まで愛していた彼女に、朔磨は目を覆った。
クリスマスの予定を反故にしてごめん。本音を言い出せない自分を許してくれとは言わない。ただ、これだけは分かってほしい。小夜のことを好きになった気持ちは、偽物じゃないんだよ。
「メリークリスマス」
届かぬ祝福を口にする。
朔磨は食欲がなくなっていた。小夜と付き合ってからの一週間と、同じ感覚だった。月華にはセフレと認識されていても、心では恋煩いと錯覚していた。二度目の恋ほど甘くない。朔磨が愛用する、雑に扱えば苦くなる銘柄のようだった。霜のように冴え冴えとした光を、おとといも消さないように抱きしめたばかりだ。クリスマスイブに会えない分、月華の髪にキスをした。
「梅林。本当によかったのか? あの先輩に譲っちゃってよぉ。予定はまだ開けているんだろ。奪っちまえ。まだ忘れられていないんなら」
「シフト入れたよ。後輩がね、急に体調崩しちゃったみたいなんだ」
朔磨からライターを借りた晃汰は、鼻で笑った。
「お人好しか。絶対仮病だろ。ナンパが上手くいって、クリスマスデートを優先するとかないわ」
「僕の代わりにはっきり言わないでよ」
「おー。怖い怖い。D坂の殺人事件ならぬ、大学坂殺人事件になりそうだな」
晃汰の軽口に、二本目の煙草を取り出した。
上代特殊仮名遣いで単語を書け。いつかの課題を出したとき、朔磨の目に月華の字が飛び込んでいた。
徳聞太道。「ともだち」と綴っていた。体だけの繋がりを欲する月華も、友達がほしくて堪らないのだ。
もしも月華と出会う前に、恋をしたのが小夜だったなら。月華を一人の友達として寄り添っていた。アイシャドウパレットを渡しそびれることもなかった。
露を攫う風に、朔磨は煙を吐いた。
〈完〉
さよならと問う 羽間慧 @hazamakei
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