第21話 言語道断連呼(永正17年2月)

永正17年2月


 1日、物加波懐古、兵部少輔、玄清歸牧庵祖父近衞尚通を訪ねて来たそうだ。


 2日、宗碩月村齋が祖父を訪ねてくる。本当は昨日に訪れる予定だった様だが、少々取り乱す様なことがあり、今日来ることになったそうだ。



「酉玉が殺されただと!?」


 祖父の大声が屋敷の中を響き渡った。

 3日、近衞家の被官人である酉玉が殺害されたとの報せが届いたのだ。

 祖父は、天竺兵部少輔(細川天竺家)の許へ被官人である酉玉を遣わしていた。しかし、そこで殺害されてしまったそうなのである。


「言語道断、不便次第也」


 祖父や家中の者たちは、大いに怒り、嘆いていた。


 4日、大祥院大叔母継孝院叔母正受寺叔母が近衞家を訪ねてきた。

 酉玉の件については、祖父に命じられた家僕が天竺兵部少輔の被官に内々で相尋ねたところ、天竺家の若衆が酉玉を殺してしまったとのことである。天竺兵部少輔も存じており、酉玉を殺害した若衆の処刑を祖父に対して約束したのであった。


 同じ日に、摂津で細川高国方の越水城が落城したとの報せが届く。祖父は「言語道断」と嘆いていた。細川高国の兵は武具を捨てて退いたとの風聞が流れているらしい。

 2日続けて、近衞家にとって悪い報せが届くこととなった。そのため、家中の雰囲気は陰鬱なものとなってしまっている。是非とも、良い報せが欲しいところである。



 5日、6日と祖父の許に客が訪れ、家中の暗い雰囲気も少しはマシになった。

 その様な中、7日に宗碩が訪れ、摂津で細川高国が勝利したとの噂を持って来る。祖父は大層喜び、家中の雰囲気も和らいだものとなった。

 9日には、摂津での合戦では100もの敵の頸が討ち取られたとの風聞が届く。大叔母大祥院叔母正受寺・継孝院たちも訪れ、酉玉が殺された時の様な陰鬱な雰囲気も晴れた様に思われる。

 11日、玄清と宗碩が祖父を訪ねて来て、雑談したらしい。きっと、細川高国の勝利についてだろう。



「大慶とは此のことなり!」


 12日、細川澄元並びに三好之長が昨暁に退散したとの風聞が祖父の許に届いたそうだ。そのため、祖父は大喜びしている。

 玄清が祖父を訪ねて、注進を述べたそうで、語りあった結果、酉玉殺害事件について、典厩細川尹賢に書状を遣わすことになったとのことである。天竺家による成敗が約束通りに行われていないのだろうか?親交の深い典厩に事情を伝えることで、殺害した者の処刑を履行させようとしているのかもしれない。


 13日、今日は近衞家で和漢会始が行われている。慈照寺叔父など僧たちや連歌師が参加していた。

 細川澄元勢は、自らの陣に放火し、難波に寄陣したとの風聞が流れているらしい。そのため、近衞家を含め来客など細川高国と交流のある者たちの機嫌は良かったそうだ。



 17日、衝撃の報せが届く。細川高国勢が摂津で敗れ、帰洛したのだ。

 敗れた京兆細川高国、典厩、民部大輔細川高基左衛門佐細川尹賢弟たちは京都の六角堂へ帰ってきていた。

 細川高国は大樹足利義稙へ使者を送り、大樹の動座とその警固を申し出たところ、大樹は京に残ると主張し、申し出を退けられたそうだ。

 そのことを夜に訪ねてきた民部大輔から伝え聞いた祖父は「言語道断」と激怒していた。


 この日は、継孝院、正受寺、徳大寺父子徳大寺実淳・公胤、徳女中、日野内光、日野女中日野内光室、畠山尚順女などが近衞家を訪ねて来ている。一門、親類や細川高国と交流が深い公家衆たちであり、細川高国が敗れて帰洛したことに不安を感じて、祖父と話し合いに来たのであろう。


 因みに、祖父は、禁裏後柏原天皇に記録などを進上している。細川澄元と三好之長の軍勢が上洛したら、近衞家とて無事か分からないので、禁裏に進上したのかもしれない。


 18日、細川高国は近江の坂本へと奔った。

 祖父の許へ飛鳥井父子飛鳥井雅俊・雅綱と押小路師象が訪ねて来ているので、細川澄元勢が上洛した際の対応など話したのだろうか。


 19日、逍遥院三條西実隆が祖父を訪ねて来ている。珍しいことであるが、三條西実隆は細川高国と交流が深く、細川高国が京兆家当主となったことで、貧困から抜け出すことが出来たため、最も細川高国の恩恵を受けた公家と言える。祖父とは雑談をした様だが、細川高国のことについてだろう。


 細川高国が敗れたことで、細川高国と懇意にしていた公家衆などが不安になり、祖父のことを訪ねてきていた。家を没落させないために協力し合わなければならないのだろう。細川高国はそれだけ公家社会に寄り添った京兆家当主だったのだ。



 20日、徳大寺女中曾祖母が招かれ、朝食を振る舞われる。今日の朝食は御汁であった。

 日野家からは、一荷両種が届けられる。

 飛鳥井前大納言飛鳥井雅俊清少納言清原宣賢が祖父を訪ねて来た。夜になると、清少納言の許から細川澄元が畠山式部少輔畠山順光に送った書状の写しが進上される。内容は、細川澄元が足利義稙に忠誠を誓うと言った様なものだそうだ。また、公儀を憚り上洛しないとのことである。

 足利義稙が細川高国の警固の申し出を断り、近江へ動座しなかったのは、細川高国を見限り、裏切っていたからであった。足利義稙は密かに細川澄元に通じていたのである。


 21日、飛鳥井前大納言と押小路師象が祖父を訪ねて来たが、昨日の細川澄元の書状について話し合いに来たのだろう。


 22日、慈照寺叔父が近衞家を訪ねて来た。祖父は飛鳥井前大納言、新造近衞政家後室、飛鳥井雅親女、徳大寺へ一荷両種を贈っている。

 そして、近江坂本から、宗碩が祖父を訪ねて来た。宗碩は、細川高国とともに近江坂本へ下ったのであろう。


 23日、宗碩と押小路師象が祖父を訪ねて来た。雑談をしたそうだが、細川高国の情勢について話をしたのだろう。

 祖父は徳大寺御方女中公胤室、畠山尚順女入江殿今御所足利義稙妹へ三種一荷を贈ったそうだ。足利義稙に近しい人々に贈っているのは、細川澄元方への大樹の取り成しのためだろうか?



 細川高国が敗れてから、慌ただしい日々が続いたものの、近衞家は少しは落ち着いてきた。


 28日、新造が徳大寺へ両種一荷を贈ったらしい。

 祖父は、家僕を少々召し出して、酒を与えたそうだ。

 押小路師象、富小路資直、宗碩が祖父を訪ねて来て雑談をしたとのことだが、今後についての相談であろう。


 29日、玄清の連歌に禁裏から勅點を賜るそうだ。玄清本人は畏れ入っているらしい。



 近衞家の被官である酉玉が殺害され、越水城落城との報せから、細川高国勝利の風聞、細川高国の敗北の帰洛、細川高国の近江坂本への下向と畿内の戦況が激しく変化した。

 そのため、京の都にいる者たちは一喜一憂し、その対応に迫られている。何よりも家を残すため、公家衆は奔走していくしか無いのであった。

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