恵吾

 行為後に一度だけ「刺されたりはしないのか」と質問されたことがある。通算四十七人目の早川なつみという女性だ。深刻な様子ではなく、思い付いたので口にした程度の軽い台詞だったが、俺は暫く考えた。そして答えた。

 刺されたことはない。全員納得していたし、これからもそうなると思う。俺はあくまでなにかしらの通過点として夜にいる。女性が渡り鳥なら俺はそれなりに休める孤島みたいなもので、飛び去った後にわざわざ戻ってきた女性は一人もいない。

 俺の返答になつみは納得し、そうかもしんないねー、と既に俺から飛び立ち始めた口調で流した。

 だから続きは伝えなかった。

 刺されたことはない。しかしそのうち刺しにくる相手は一人だけいる。

 来たとして俺は、抵抗しないと決めている。


 高校時代の恋人だった霧島衣玖は、厳密には一人目ではない。俺の中での一人目は野崎恵美という同級生で、初めて求めてきた相手だ。何を求めているのか、表わす言葉は恐らくない。俺は据え置きの装置で、逃避のように目を逸らした場所に座っているようなものだろう。求めれば応える、そういう類の緊急措置だ。

 高校で衣玖に告白され、受けた瞬間に俺は自分で驚いた。断っていれば良かったのかもしれない。でも出来なかった。求めに応えるべきなのだと俺は決めて、はっきりいうならばその方が楽しいと確信していた。

 肉体は結局道具だ。情動はスポーツで、数をこなせばこなすだけ上達し、そこには目に見えない方程式があり、俺は楽しかった。あらゆる人に手を伸ばされて、面白かった。

 これを嫌がったのは二人だけだ。最初で最後の恋人だった衣玖と、最初で最後の親友であるだろう、文義だけだ。


「……いや、急にありがとうってなに、びっくりしたわ」

 店内行事のアナウンスが終わった瞬間に文義は訝しんで聞いてきた。暫く突っ立ったまま見つめ合っていたのだが、何事もなかったような声色だ。文義のこういう部分が気に入っていた。深刻でありつつ深刻にしない、俺を躱しながら撫で付けるような仕草がいつも、ちょうどよく馴染んだ。

 数歩先で振り向いた文義の後を追う。礼の理由は色々あった。しかし言葉は重ねず、店内に足を踏み入れた。

 随分賑わっていた。地域のアイドルが広場でライブを行うらしいと、通路沿いに設置された等身大パネルに出迎えられて知った。

「こんなアイドルいたんだなあ、全然知らなかった」

「俺も知らねえ」

 パネルをしげしげと眺める横顔は少し緩んでいる。文義は案外、アイドルユニットが好きだった。

 隣に並び、ライブの時間を確認する。二十分もすれば始まるようだ。

「見ていくか?」

 提案に文義は一分程度悩み、何の悩みかと思えば映画の時間がわからないと唸るように呟いた。

「いや、ライブの後でも観れるだろ」

「うーん、でもこう、ライブ観て映画も観てって、疲れない?」

「俺はそうでもないが」

「いやいやでもさあ、恵吾、お前ってこう……疲れてる時? とかに、おれのこと呼び出すっていうか、息抜きしたい時か、とにかくそういうちょっと休憩みたいなニュアンスじゃん、いつも。だから疲れないかって聞いたんだけど」

 一瞬目を閉じて眼球を緩く動かす。驚いて考える時の癖だった。文義は癖を把握しているようなので、神妙な顔で待っていた。

 店内アナウンスが響く。地域アイドルの宣伝と、間もなく開演という喚起が行われ、アナウンスの後にはポップなアイドルソングが流れ始めた。近くを、アイドルのファンらしき子供とその両親が通り過ぎる。俺は息を吐いた。ちょっとした休憩の息だった。

「アイドルをみよう、文義。映画はその後どうするか決めればいい、とりあえず行くぞ、どうせろくに目的があるわけじゃねえんだ、なんでもいい」

 何か言いかけたが言わせずに歩き出す。なんだよもう、と文句を言いながら文義が隣に並んでくる。人が多い。時折、女性が俺を盗み見る。文義と話しているため声をかけてくることはない。俺は休憩中だった。或いはメンテナンス中だ。

 ライブの行われる中央広場へと辿り着いた時に、ああそうかと、俺自身一つだけ思い付く。

 女性の相手をすることは好きで、楽しい。

 しかし疲れないわけではないのだと、俺はやっと、物事を別々に考えた。


 アイドルのライブはそれなりに楽しめた。妙なスキャンダルなどに巻き込む可能性を考えて、なるべく端に寄り少し屈んで鑑賞させてもらった。文義は大変喜んでいた。満面の笑みでCDを購入し、貸してくれと言えばお前も買えよと突っ込まれたがアイドルが手売りしていたのでやめた。文義もわかっているので、俺を列に並ばせはしなかった。

「仕方ないな、聴き込んでから貸してやるよ! 地域のマイナーアイドルだし、サブスクに入ってないかもしんないしなあ」

「最近は色々追加されているらしいが、俺もそこまで掘りはしねえし、まあ貸してくれ」

「おうよ。何曲目が好きだった?」

「二曲目」

「マジかよ絶対四曲目だろ」

「じゃあ四曲目」

「うっぜー!」

 文義は笑いながら俺の背中をどんと叩く。

「あ、映画どうする? おれどっちでもいいけど」

「俺もどっちでもいいが……まあ、行くか。座れるしな」

「なんなら寝れるよな、暗いし。ちょっとうるさいけど」

「ああ、相当疲れてりゃあ寝るかもしれん」

 どうでもいい会話を続けながら、三階にある映画館へ向かって歩いた。どこに行っても人の多い。やはり映画館も賑わっており、満席の映画もあった。封切りされたばかりのアニメ映画と人気のシリーズの最新作が埋まっていて、ならどれを観るかと二人で数分相談した。

 まったく席の埋まっていない、静かそうな映画を選んだ。もうすぐ公開終了だからだろう。一番端の小スクリーンに追いやられたその邦画は、俺と文義を入れても十人程度しか観ていなかった。

 面白い映画ではなかったが、少しだけ気に入った。文義がなぜか号泣していたからだ。横目で様子を見ながら俺は、ありがとうなと、口には出さず礼を言った。

 映画館を出て、回っている寿司屋で夕飯を済ませてから、時間を見て文義とは別れた。家まで送ると言われたが、用事があるから近くの駅までで構わないと断った。文義は用事の詳細はわかっているようで、お前本当にいい加減にしとけよなと溜め息混じりに言った。それでも車は駅に向かい、さっさと降りた俺を追いかけるよう、文義は助手席に身を乗り出して閉めかけた扉を遮った。

「なあ恵吾」

「なんだよ」

「友達でいてくれて、ありがと」

 それだけ言って即座に扉を閉めた文義は、照れ隠しのようなクラクションを鳴らしてから走り去って行った。

 俺の台詞じゃないのかそれはと、冷静に考えながら見送った。車が見えなくなってから、そうかあいつ、俺が急に発した礼の意味を考えて考えて出した答えをそのまま俺に向けて返したのかと、思い至った。

 じっとりとした夜が降りていた。スマホを開き、新着の数を確認してから、待機に戻した。駅には入らず歩き始めた。待ち合わせ場所は近かった、だからショッピングモールの映画館を指定した。

 今から会う相手は衣玖なのだと、結局最後まで伝えられなかった。伝える必要もなかったが、後々また小言を言われるだろうなと思えば伝えたほうが良かったし、俺の予想通りになれば、伝える必要はやはりなかった。


 衣玖の未練には気付いていた。知っていた、の方が正しい。二十三番目の相手だった津島真理恵が教えてくれた。衣玖が俺の相手だった女性に話を聞き回っているのだと、もしかして自分が余計な亀裂を入れたかと、心配して連絡をしてきたのだ。

 君のせいではないと丁寧に伝え、君に危害が及ぶこともないと断言した。真理恵は納得し、安心し、恵吾くんも気をつけてねと、締めくくった。

 衣玖は他の女性達の中には埋没しない。唯一の恋人だったからだ。一夜限りの関係ではなく、何度も体を重ねた相手は、衣玖以外に存在しない。

 俺はきっと死ぬだろう。刺されるか突き落とされるか、取り敢えず何かしらの攻撃は受けるだろう。夜道を歩きながら二種類の夕暮れを思い出す。高校の頃に初めて文義に怒られた時の夕暮れと、社会人になってからの、赤紫色の夕暮れだ。

 衣玖が図書館に来たことを知っていた。文義は気付いていなかったが、走り去る背中を俺は見た。見られたのだと直ぐに悟った。俺の肉体はあらゆる相手に開かれていても、精神の方はたった一人にしか預けられていない瞬間を彼女は見たのだろうと、その時に覚悟した。

 まとわりつく湿気が多い。夏の夜はほとんど海だ。冷めた夕暮れは戻って来ずに、俺は一歩ずつひとつの終わりに向かって歩いていく。


 愛そのものを与え続ける器官としての存在だった俺は、当然神でなければ不死でも万能でもない人間だ。だからいつかこうなると無意識ではずっと理解していたのかもしれない。本当にいい加減にしとけよな。何度も聞かされた小言を一人でホテルのベッドに転がりながら夜の影の中に沈む今この瞬間に、俺もそう思ってはいたんだよと初めて同意して少し笑う。その笑い声は掠れていてほとんど出ない、掻きむしった喉が既にもう痛くはなくて、俺の意識はゆっくり確実に夜の底へと沈み続ける。

 それでも最後の言葉くらいは言わせて欲しい。血まみれの爪でシーツを掴み、ありがとう文義と、潰れて腫れた喉を引き攣らせながら口に出す。


 ありがとう文義。ついでにさようなら。

 愛するって、苦しいな。

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ナイトフィッシングイズグッド 草森ゆき @kusakuitai

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