衣玖
クッキーを作った。お菓子作りは苦手でほとんどしたことがなかったけれど、ひとつ食べてみるとそれなりの味がした。紅茶が余っていたので紅茶クッキーだ。みっつほど、綺麗に焼けていると思われるものを選び、丁寧にラッピングし始める。
中の見える透明の袋はとても便利だ。なにが渡されたか一撃でわかる。人間もこうだったら楽なのにねと、私は虚空に向かって呟いた。でもその言葉は、ちゃんと人間の方向を見つめていた。
私は馬鹿なのかもしれない。そんなことないよと言ってくれそうな相手はいないし、いたとしても馬鹿なままクッキーを焼いて詰めているだろう。
仕上がったプレゼントを鞄の中に突っ込んだ。鏡の前に座り、一度スマホで時間を見る。もう夜だ。約束までもあと少し。化粧ポーチを引っ掴んで机に広げ、マスカラ、ファンデーション、アイライナー、リップと順番に並べてから鏡の中を覗き込む。疲れた自分が私を見ていた。くまを隠すためのコンシーラーも用意して、夜だけどなと一人で勝手に自嘲した。
化粧を済ませてから外に出る。お盆を過ぎて、夜風が少し涼しくなった。人のあまりいない住宅街は静かだ。ヒールの音が妙に目立って、なんとなく慎重に歩いてしまう。
鞄の紐を強く掴む。私はこれから二度目の玉砕をするだろう。わかりきっているのに怯えていた。そして足は止まらなかった。
早く恵吾に会いたい。
あの非情で馬鹿みたいに魅力的な人に会って、今度こそすべてを終わらせたいのだ。
中学の頃に通っていた塾で、恵吾は異様に目立っていた。とはいえきっと女子の間だけの話だ。彼の周りにいた男子は特に意識している素振りはなかったし、イケメンだな、程度の感覚だったのだと思う。
私を含めた女子は違った。恵吾は一口では言い表せない吸引力を持っていた。ただ悠々と、所定の席に座っているだけなのに、私たちは彼が気になって仕方がなかった。
でも、話し掛けはしなかった。私以外の女子も、あからさまに近づいたりはしなかった。そこには暗黙のルールがあって、抜け駆けをした瞬間に針の筵が決定するような、牽制しあったゆえの連帯が生じていた。
あくまでも塾の中ではだ。彼が中学校でどうだったのかは知らない。彼の唯一の友達らしい文義くんに聞いてみたこともあるけれど、別に普通だったかなあ、で話は終わっていたから、永遠に謎なのだ。
転機は高校生の頃にやってきた。同じ高校に受かり、同じクラスになった私と恵吾は、夏頃には付き合い始めた。告白は私からだった。彼は二つ返事で承諾してくれて、私は当時とても舞い上がっていた。本当に好きだった。授業中、斜め前の席にいる恵吾を見ているだけでも胸が弾んで、登下校を共にするたびに高鳴った。高校も、恵吾に会うために行っていたようなものかもしれない。
そのくらい好きだったし、今でも好きだ。
だから高校の頃、他の女子と関係を持っても平気か聞かれた時に、別れなくていいなら平気だと答えてしまって、ずっと後悔していた。
恵吾が壊れ始めたのはその時からだと、思っていた。
「衣玖」
話し掛けられてはっとする。いつの間にか待ち合わせ場所についていた。公園のベンチに座っていた恵吾がおもむろに立ち上がる様子を、振り向きながら視界に入れた。
「ごめんね、ぼーっとしてた」
言い訳しながら髪の先を指で梳く。毛束は引っかかって少し重たい。時間が取れなかったからだけれど、巻いた方が良かったなと後悔した。
目の前に立った恵吾は笑みを浮かべた。暗い夜の中でも、彼の容姿は際立って整っている。切れ長の目と短すぎない頭髪が涼しげだ。長身の恵吾は私を見下ろし、じゃあ行くか、と軽い調子で口にした。
どこに行くのかなんて聞く必要はなかった。私から連絡をして、私からすべて提案して、今日の逢瀬を決めたのだから、頷いて歩き出す。
夜の街はいつも他人行儀だ。突然寂しくなり手を伸ばすと、なんの抵抗もなく握ってくれた。恵吾は道の先を見つめたまま、繋いだ手をあやすように揺らす。ねえ恵吾。話し掛けると、相槌のような返事があった。ねえ恵吾、久しぶりだね。うん、久しぶり。会いたかったけど、勇気が出なくて。いいよ、俺だって連絡、しなかったから。うん、そうだね。ああ、そうだろ。
まったく意味をなさない会話を続けながら、私たちはホテルに向かう。恵吾にとってはいつものことだ。彼は高校生の頃からずっと、不特定多数の女性に求められるまま、体を繋げ続けている。
野崎さんと二人きりで話したのは、私が大学生の時だ。野崎さんは高校生の頃、恵吾に触れたいと言い出した女の一人で、私が恵吾に抱いてもいいかと確認をとられた相手だった。
昼過ぎの、女ばかりのグループが多いカフェだった。フラペチーノが美味しいらしかったけど、私も野崎さんもアイスコーヒーを注文した。会おうと約束したわけではなく、たまたま出会してどちらも立ち止まった。それで、野崎さんの方が急に、顔を歪めて頭を下げた。本当にごめんなさいと真剣な声で言われた理由は聞き返さなくともわかっていた。
頭を上げさせて、私は彼女をカフェに誘った。聞いてみたかったことがあった。誘いの理由はわかっているみたいで、遠慮の素振りは見せつつも、言われるままついてきた。
野崎さんは専業主婦らしかった。子供は二歳で、今は義理の母親に見てもらっていると話し、疲れた様子で笑みを浮かべた。育児は大変だろうなと、浅い感想しか抱けなかったから、なにも言わずにコーヒーを飲んだ。苦くて冷たくて、余計に喉が乾く味がした。
「あの、まだ恵吾くんと……?」
黙っていると問い掛けられた。私は首を振り、
「もう他人だよ」
と、元々他人だったくせに虚勢を張った。
「そうなの?」
「うん、大学も離れたしさ、恵吾ってほら、ヤリチンだし」
野崎さんは笑い声を上げたけど、ごめんと言ってすぐにおさめた。
「いいよ、気にしてないってことはないけど、あんなの受け入れる恵吾の方がおかしいじゃん」
「いやでも、……本当にごめんなさい、あの時は完全にどうかしてたっていうか……」
「どうかって、どういうふうに?」
つい前のめりになって聞いてしまった。野崎さんは不意をつかれた顔をしたけれど、視線をうろうろ動かして、言葉を探すように眉を寄せた。私は彼女の頭の中が纏まるのを待った。聞きたかった話が聞けるはずだと確信していた。
ややあって、野崎さんは顔を上げた。浮いた熱を拾い集めたような、強い瞳にどきりとした。
「恵吾くんて、触りたくならない?」
一瞬迷うけど、なる、と答えた。彼女は頷き、更に続けた。
「イケメンだし、背も高いし、全体的な雰囲気はちょっと危なげで、見てて全然飽きないんだけど、なんていうか、確かめてみたくなる、なったんだ。この人だったら受け入れてくれるはずだ、この人なら絶対になんとかしてくれるって、意味のわかんない感情が湧いてきて、手を伸ばしたら実際に、その時の彼女……あなたに確認とってまで受け入れてくれて、それで、本当に嬉しかった。私ってすごく地味でしょ。恋人なんてできないって悩んだ時もあったくらい、地味なところがコンプレックスだったんだけど、それが、恵吾くんにはなにも関係がなかった。物凄く優しくしてくれて、物凄く満たされた。でも一回でその、なりふり構わないくらいに触りたかった気持ちが消えちゃって……幻滅したとか、思ってた感じと違うとかでもなかったのに。それが、本当に不思議で。でももういいかなって。唯一の心残りは衣玖さんだったんだ。すごく傷付けたと思う、許さなくてもいいけど、もう一回だけ謝らせて。あの時は、本当にごめんなさい」
いいよ、とか、気にしてない、とか、当たり障りのないことを答えた。野崎さんはほっとした顔をして、ありがとうと肩の力を抜いた声で言った。
野崎さんとはそれきりだ。連絡先の交換もしなかったし、聞きたいことは聞けたので、もうどうでも良かった。
それから私は、恵吾と関係を持った女の人たちに何度か話を聞いた。大体野崎さんと同じような弁で、もうほとんど未練はないのだと笑っていた。これだけモテるのならばと恵吾と話していた記憶のある男の人にも聞いてみたが、こちらはすべて外れで、好感どころか嫌悪や嫉妬の交じる意見が散見された。
でも、一番感じたのは畏怖だった。同性にとっての恵吾は、魅力的どころかできれば関わりたくない相手で、なにひとつ理解できない不気味な存在であるようだった。
そうなると、疑問が浮かび上がってきた。
文義くんだ。
彼だけは、どうして恵吾とずっと仲良くしていられるんだろうか。もしかして彼は、恵吾に触れたい瞬間があるのだろうか。
他の女の人と違って、未だに恵吾を好きでいる自分と同じように。
ラブホテルは思いのほか静かで綺麗だった。下品な装飾や表示を想像していたので肩透かしを食らったが、恵吾は慣れた様子で部屋選択のタッチパネルを操作していた。
こういう場所にはほとんど来ない。彼氏がいた時も利用したのはたった一度で、旅行先のホテルが取れていなくて仕方なくだった。疲れからなにもせずに眠ったことまで覚えている。
その時の彼氏とは三ヶ月も続かなかった。恵吾の後に付き合った男性は四人ほどいるが、全員一年もたずに別れてしまった。
私が、恵吾に未練があるからだ。それを感じ取られていたのだろうと、今は思う。
「衣玖、高校の頃は可愛かったけど、今は綺麗っていう方がしっくりくるな」
恵吾は流れるようにそう言って、広いベッドに腰掛けた。棒立ちでいると手招きされて、躊躇するくせにふらふらと近付いてしまい、伸ばされた両腕の中に自分から飛び込んでいた。抱き締められて、頬が熱くなる。好き、と思わず口に出て、取り下げようとするけどその前にキスで塞がれた。
高校の頃も、恵吾とは何度もした。恵吾は恵吾で、野崎さん以降、私に限らずいろんな人と体を重ねていた。そうするのが当たり前、という雰囲気だった。憎かった。同時に恐ろしいくらいのめり込んで、どこかの誰かと過ごした気配を嗅ぐたびに、自分で上書きしたくなって何度も私から恵吾を誘った。
高校卒業後に別れたのは、意地だった。恵吾が大好きで、ずっと一緒にいたかったけれど、他の女を抱いて帰ってくる恋人や旦那なんて耐えられなかった。
恵吾が私の腰を引き寄せる。手慣れた動きでベッドの上へと倒されて、抵抗するどころか自分で服を脱ごうとする。会いたいと、連絡をした。恵吾の連絡先は消していたけれど、ちょっと辿ればすぐにわかった。文義くんには聞かなかった。これは高校卒業時の私ではなく、今の私の意地だった。
広いベッドの白いシーツは海のようだ。溺れるように沈み込んで、その度に恵吾がすくい上げた。網に絡め取られているような気分だった。でも幸せだった。ずっと恵吾に触りたかった。触り続けたかった。好きだった。
好きになって欲しかった。
大学を卒業した後に、恵吾に会おうと思ったことがある。
直接コンタクトしたわけではなく、連絡先を消していなかった文義くんにメッセージを送った。未練があるとか恵吾に会いたいとか、実際の理由は包み隠して、高校の卒業アルバムを見ていたら懐かしくなったと嘘をつき、適当に話を盛り上げて、成人もしてるんだし飲みにでも行こうかと提案した。好感触の返事を見てから、恵吾を連れてきても大丈夫だよと、緊張しながら打ち込んだ。文義くんはわかったと返してきて、会う日程は滞りなく決まった。
その時文義くんは、仕事に関連する資格の勉強をしていたらしく、休みの日は大体図書館にいると言った。約束の日も、そうだった。今の恵吾について聞き出そうかと、私は時間前に図書館へと向かったけれど、向かわなければ良かったと後悔している。
文義くんはいた。図書館の、主に学生が使用している勉強用のスペースで、居眠りしていた。人はあまりいなかった。赤紫の夕暮れが、奥の窓枠の中に浮かんでいた。
入ろうとしてやめた。文義くんの前の席に恵吾が座っていたからだ。彼はハードカバーの本を読んでいた。つまらなさそうな横顔は、高校の頃からなにも変わらない。話し掛けると笑ってくれるけど、誰も見ていない時はいつも退屈そうだった。不機嫌なのかと思う時すらあった。
少し悩み、声をかけようと踏み出した、その時だった。
「おい、文義」
唐突な呼びかけに足が止まった。呼ばれた文義くんはなにも答えず、そのまま居眠りを続けていた。恵吾は溜め息を吐き、部屋の時計をちらりと見てから、本を閉じた。約束の時間まではまだあるけどもう移動するのかと、慌てて離れかけるけど、違った。
恵吾は腕を伸ばした。指先は文義くんの頭に乗って、ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜる動きは雑だった。文義くんは唸りながら顔を上げて、なんだよ眠いんだよと不満そうに言ったけど、恵吾は尚もぐしゃぐしゃ混ぜ続けていて、マジでやめろって! と怒られてから笑い声を上げた。
本当に嬉しそうな笑い声だった。むすっとする文義くんを眺めている横顔は信じられないぐらいに穏やかで、私は思わず踵を返してしまっていた。
急な用事で行けなくなったとメッセージを打ちながら図書館を飛び出した。振り向いても建物の姿が見えなくなったところで送信ボタンを押し、返事が来る前に電源を落として、電柱の影にうずくまった。
落ち着こうと、深呼吸した。でも無理だった。
ぼろぼろ溢れてきた涙の理由は一言で、たった一言で説明できてしまった。
負けだった。私だけじゃなく、恵吾に惹かれて触りたくなった全員が、幼馴染の男性ひとりに負けていた。
恵吾は私、いや私達の嫌がることはなにもしない。他の女を抱いてもいいのか、了承を得られなければなにもしなかったと思う。無理矢理ナンパしてホテルに連れ込まれたと言った女性は一人もいない。男性も、畏怖や嫌悪はあっても直接何かをされたわけではなかった。
高校の頃にヘアピンを褒めてくれたのだって、私が喜ぶからそうしてくれたにすぎないのだ。
文義くんだけだった。
恵吾が自発的に触ろうとする、からかって遊ぼうとするような相手は、あの男たった一人だけだった。
「ねえ恵吾。これ、作ったんだ。食べて」
行為の後、シャワーも浴びずに鞄を開き、出したクッキーを押しつけた。恵吾は瞬きを落としてから、なにも言わずに受け取った。彼の偏食は知っていた。色んなものを食べないけれど、唯一柑橘類だけは大好きで、あんた食べ物だけじゃなくて人間関係もびっくりするぐらい偏食なんだよと、言ってしまいたくなったがどうにか堪えて鞄の中をさらに探った。
滅多に吸わない煙草を引き摺り出した。一ミリの細いメンソールを口に咥え、薄暗いままの部屋の中で火をつけた。じり、と先端が燃える。煙を吐きながら恵吾を見ると、彼はめざとく視線を拾った。
数秒見つめ合ってから、恵吾はふっと息だけで笑った。
「俺、衣玖に言ったっけ」
「聞いてないけど、そうだろうなと思って」
「そうか、そうだよな、文義にすら言ってなかったしな……」
恵吾はクッキーの封を開けた。透明なラッピングはガサガサ鳴って、部屋の中には煙草の匂いが篭り始めた。
「待って」
どうしてもひとつだけ確認したくなり、クッキーを含みかけた恵吾を一旦止めた。冷静な目は私を見つめた。待ってくれているようだった。だから私は一縷の望みと慈悲をかけた。
「恵吾、私のこと、好きだった? 高校の時だけでも、ほんの一瞬でも、好きだって思ってくれてたの?」
恵吾はしばらく黙った。煙草が燃え尽きて、部屋の暗さが一段階下がった頃に、彼はゆっくり口を開いた。
「俺多分、そういうのないんだ。だから誰でもいい。俺で埋められるんだったら、それでいいよ。みんな好きだしみんな嫌いなんだと思う。文義だけ、違う。あいつはなんていうか、俺がなにやっても友達でいるだろうから、好きとか嫌いとかじゃなくて、いて当たり前のやつなんだ。いつも小言いうけどな、それが結構、俺にとっては嬉しいよ」
吸い殻を捨てて、恵吾の膝に乗り上げた。手首を掴んでクッキーを口元に持っていかせると、彼は重たく瞬きしながら私を見たけどほとんど抵抗しなかった。もう死んでくれ、と祈った。さっさと倒れて私の中から出て行って、同時にずっと私だけのものとして墓の中に行ってくれと、願いながら手作りのクッキーを頬張らせた。
恵吾は大人しく食べた。飲み込んでから、悪かったと謝った。今更だった。全部全部もう今更どうにもならない話だった。
膝の上から退いて、ベッドに倒れ込んだ恵吾を見下ろした。彼は喉を引っ掻き顎を引っ掻き、激しく咳き込んで唾液と共にドロリとしたクッキーを吐き出した。それでもまだ悶えた。もう一枚食わせようとしたけど止めた。万が一生き残ったとしても、恵吾は私の名前を出さないだろうという確信があった。
誰も好きではないけど誰でも愛せるこの人は、ある意味では献身的なのだろう。まるで慈善事業だ、馬鹿らしい。
衣服を身に纏い、苦しみに喘ぐ声を背後にして、部屋を出た。外はまだ夜で、風は涼しさを増していた。伸びをすると背骨がぼきりと大きく鳴って、ちょっと恥ずかしくなった。
家に帰ったら、残りのクッキーを食べてしまおう。私にはアレルギーもないんだし。
そう口に出してみると、なんだかとてもスッキリした。
今までにない開放感だった。
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