ナイトフィッシングイズグッド
草森ゆき
文義
お前本当にいい加減にしとけよなっておれは毎回言ったけど、恵吾が返してくる台詞もこれまた毎回変わらない。ハイハイ恒例のお小言ですねと顔に思い切り描いたまま「慈善事業なんだよ」とおれを適当にあしらい、好物らしいミントのガムを噛んだまま話は以上だと言わんばかりに切り上げられる。無慈悲だ。友達甲斐がない。実際おれが口を出す話ではないのだが付き合いの長い友達、なんなら親友にカテゴリーできる相手のことだからこれでも真剣に諭す気持ちを持っている。実際いい加減にすべきだ。なのでこうして一ヶ月ぶりに顔を合わせた今もやはり「お前本当にいい加減にしとけよな」から入る。
昼前の、モーニングにギリギリ滑り込む時間帯だ。人はまったくいない。一人だけいるが涼しい店内でも汗をかき続けているみたいで延々顔を拭いているからなんか嫌で離れて座った。大振りの窓が爽やかで明るく全体的には古風な作りで多分ご主人が純喫茶とか地域密着系統とかが好きで話し好きの常連さんとの会話なんかを楽しみに晩年を過ごすために作った喫茶店と思われて、おれはけっこう好きなのだが恵吾は食えるものがないとおれの台詞を無視して呟いた。
えっ言い返さずに無視したな。ちょっとびっくりして恵吾の顔をまじまじ見つめる。俯き加減でメニューを睨む恵吾の眉間にはなかなか深い皺が刻まれている。あまりにも不機嫌でさらにびっくりする、おれも改めてモーニングメニューのトーストを眺めてみるが確かに恵吾の食えるなにかはない。この男はシナモンバター小倉に各種ジャムとけっこう種類があるのに卵トーストしか食えない。しかも卵部分しか食えない。デザートのゼリーとヨーグルトはどっちも食えない。
圧倒的な偏食家。その偏食ぶりもいい加減にしとけよな。おれがもう一度口に出すと恵吾はやっとこちらを向いた。
「知るかよ俺は小麦を憎んでいる」
喧嘩腰の口調に思わずわははと笑ってしまう。小麦全般が好きではないのは知っているし大豆全般が好きではないのも知っている。若干変化と思ったがいつもの恵吾だ、ほっとする。
「まあでもさあ、これしかないんだから仕方ないじゃん。恵吾が食えないならおれが代わりに食べとくしとりあえず飲みたいもん頼みなよ」
「オレンジジュース」
「キッズかよ」
「コーヒーは好きじゃねえし紅茶も好きじゃねえんだよ、知ってんだろいちいち聞くな、つうか慈善事業なんだって何回言えばいいんだよ」
「偏食に関しては絶対違うじゃん!」
「これはこれで俺なりに考えた末の偏食だ、むしろ偏食じゃない選んだ食品はめちゃくちゃ買い込むし農家は絶対に喜んでいる」
恵吾の冷蔵庫にみっしり詰まったオレンジやミカンやグレープフルーツを思い出す。
「栄養素偏り過ぎって話をおれはしてるんだって」
「相変わらずうるせえな。文義、お前は俺の母親の何千倍も母親っぽいんだよ、そのまま一生俺のお母さんとして過ごしていくのか? それでいいなら俺はいいが俺以外の奴がどう思っているかは知らねえぞ、やたら世話焼いてやたらくっついてる理由とか目的とか心理とか考え始めると俺はいつも途中で脳が焼けるんだ全然わからねえから」
言い分が酷い。しかしこの「いい加減にしておけ」小言にまともな台詞が返ってきたのは初めてだ。ちょっと嬉しい。嬉しいので言い返したいが店員さんが注文まだかよという雰囲気でうろついているので一旦やめる。手招きで呼んで特製ブレンドのアイスとオレンジジュースを同時に頼み、おれはバタートーストとヨーグルトにして恵吾の分は卵トーストとゼリーにしておく。店員さんがカウンターの向こうに戻ってから、おれはわざとため息を吐いて頬杖をつき、おまえのために言ってやってるんだよなあというポーズをとるが恵吾は普通の顔でお冷やを飲んでいる。
「なあ恵吾、いい加減にしとけっておれが言う目的も真理も理由も大体一緒だよ。今おれたちが何歳かって話だよ、三十路じゃん。結婚しろとかそういうのじゃないけどさあ、いつまでもいつまでもお前がやってるようなことは続けられないんだろうしそろそろ誰か一人にしたっていいんじゃないかって、おれは言いたいんだよ、わかる?」
「まあ、一応」
「そうだろそうだろ、おれだってそうだよ。いつか結婚してどうにか家庭を」
「でも慈善事業だからな、需要がなくなるまではこのままだ。今は七人くらい相手がいる」
固まる。七人。今まで聞いた中でも多い方だ。
「えっ七人?」
思わず口にも出る。恵吾は頷き、トーストを持ってきた店員さんへと視線を移す。若い女性店員は恵吾に向かって微笑んで、その微笑みはちょっとした含みがあるようにも見えて、というか確実に含みはあって、おれが感じたんだから当然恵吾も感じ取って完璧なニュアンスを含ませた微笑みを店員さんへと返している。その空気。おれはなんともいえない顔をしているだろうが二人は特に気に留めない。
店員さんはペコリと頭を下げて仕事に戻る。恵吾は店員さん用スマイルからおれ用仏頂面に戻して、コーヒースプーンでパンの表面の卵ペーストだけをガリガリ剥ぎ取る。おれは心の中でひそかに呟く。慈善事業。恵吾が自分の抜群の見た目の良さを使用して行っている無銭労働。
平たく言えばヤリチンだ。
おれのいい加減にしとけよなが初めて口から出たのが高校生の頃で、その時は今よりもよっぽどいい加減にしとけよなと思っていた。若かったのもあるし、本当にびっくりしたからだし、恵吾には真面目にお付き合いしている女の子がいたからだし、お前には衣玖ちゃんがいるのに二組の野崎に手出したってマジかよとおれは柄にもなく怒っていたのだ。衣玖ちゃんは小さくてなんだか健気でふんわりしていてかわいい子だった。おれは高校からの衣玖ちゃんしか知らないが恵吾は中学の頃から面識があったらしくて、塾が一緒だったから話したことはあるとの答えで、なんとなく流れで付き合う感じになったとの弁だった。そして和やかにお付き合いを続けていた、ようにおれには思えていたけど全然違った。恵吾は罪悪感もなさそうな顔をしていた。夕暮れに染まりつつある黒板と時計とスピーカーを背景にしながら使い込まれた机に頬杖をついている黒い学生服の恵吾はこの頃から、なんなら五歳の頃から顔が抜群に整っていた。
おれはイマイチよくわかってなさそうな恵吾に引いていた。倫理観が欠落しているんじゃないかと心配になった。同時に衣玖ちゃんを思うと激しく胸が痛んだ。当時おれは親友の恋人をちょっといいなと感じてしまっていやいや親友の恋人だしでもかわいいし彼氏の親友だから仲良くしてくれるし笑った時にチラッと見える八重歯がまたかわいいんだよな待て待て恵吾の彼女なんだってばとか夜毎悶々とする趣味があったので、恵吾は心配だわ衣玖ちゃんは可哀想だわで妙な使命感に燃えていた。
「だからさ恵吾、衣玖ちゃんと付き合ってるのに他の女には手出すとか正直マジでないんだって! もしかしてそういう、浮気とかするの好きな感じなんだったらおれだいぶ引いちゃうし改めて欲しいっていうかやっちゃだめだろって話を今から熱く語りたいんだけどなんで野崎に手出したか聞いていい!?」
恵吾は瞬きをした。この瞬きをおれは多分ずっと忘れない。夕焼け色がまつ毛で爆ぜて、恵吾は一瞬、ほんの一瞬だけ驚いた顔をしたからだ。
「出してない、出された」
恵吾の短い答えにおれは早速詰まった。見た目だけは知っている野崎を思い浮かべてみて、どこかで目にしたらしい清潔感のある後ろ姿と真面目そうな横顔がパッと出てきて「あー頭が良くて物静かで顔もそれなりで地味に男人気のあるおとなしい女の子って感じかー」とか勝手に思ったことを思い出してさらに詰まった。野崎に手を出したんじゃなく野崎に手を出された? あの委員長じゃなく副委員長あたりにいて物静かに書き物とかしてそうなザ・文学少女みたいな野崎に? そう心の中で問いかけまくっていたら思いきり顔に出てたみたいで恵吾は一回ため息を吐いた。重たいため息は教室の夕焼けをゆっくりと冷ましていった。
「野崎、俺のことが好きだったらしい。で、衣玖がいるから付き合いはできないって言った。そしたら、抱きついてきて、困った。だから衣玖にその場で電話かけて確認した。これこれこういう状況になっているがお前の了承があればどうにかできると説明して、衣玖は了解した、瞬間に野崎に押し倒されてそのままだ。一応、衣玖は知ってる。それでもいいってあいつが言ったし、野崎は一回乗っかったらスッキリしたみたいで今は一組の川口と付き合ってるらしい」
教室がすっかり暗くて、おれはものすごく心細くて、なんで先公は見に来ねえんだよと完全に責任転嫁をしていたけれど、恵吾は頬杖をやめてさらに話した。
「文義。お前が知らないだけで俺、他にも何人か相手にしたぞ。男のお前にはわからないかもしれないけど、俺の顔とか体とか、かなり興味が湧くらしい。触ってみたくなるんだと。背も高いし掠れた声もいいって、街で声かけてきた大学生くらいの女が言ってた。そういう需要があるんだったら、俺も別に気持ちいいしまあいいかって思い始めて来てるんだよ。お前の倫理観の上じゃあけっこう引くことなんだろうけども、俺は今感じているまあいいかをそのまま実践し続けていくつもりでいる。つまりこれからも衣玖じゃない女とセックスし続ける。お前が嫌だろうと衣玖が拒否しようと、関係なく」
おれの思い出はそこで途切れちゃってて、もうほとんど夜になっていた教室をどうやって出ていってどうやって帰ってどうやって眠ったのか覚えていない。ただ翌日に恵吾と顔を合わせて何か考える前にいつも通りおはようさん! って声をかけたことは覚えてる。その時の恵吾の瞬きが夕暮れ時の瞬きとがっちり噛み合って、ああこいつ驚いた時は瞬きで相殺するんだなあなんて今更親友の癖を読み取ったことも、恵吾と衣玖ちゃんが結局別れてそれっきりなことも、野崎が高校卒業した瞬間に年上の男とデキ婚したらしいことも、しっかり覚え続けて生きている。
喫茶店を出るときに恵吾は店員さんからアドレスをもらって、今晩連絡するよとサラリと言った。店員さんははにかんだ。恵吾のなんら変わりない需要を目の当たりにしているおれはポケットの中にある車の鍵をガチャガチャ掻き回すくらいしかやることがなかった。
駐車場に出ると蒸し暑かった。すばやく車に乗り込んでクーラーの温度を最大まで下げ、恵吾がミントのガムを口に放り込みながら助手席に乗り汗もかかない横顔のままスマホと店員さんにもらった紙を交互に見て何やら入力している一連の様子をやれやれと眺めてから、なあどこいく、とフロントガラス越しの青空を見上げながら問いかけた。そもそもは恵吾が誘ってきたのだ。日曜日空いてるかって急に連絡してきて暇を持て余すおれは二秒で飛びついて、でもそうやって恵吾が誘って来る時の理由がなんとなくわかってもいるから暇じゃなくても飛びついてはいるだろう。返事がないのでまた横を見る。恵吾はスマホを下ろす。かち合った視線にお前は小学生の頃から、なんなら五歳の頃から変わらないよなっておれは思うけどただの願望かもしれない。
「映画でも見るか」
恵吾は思いつかなかったらしく無難な場所を口にする。今なんかいいのやってるっけと聞きながら、おれはひとまずサイドブレーキをゆっくり解く。エンジンが軋む。フロントガラスの青空が何かの照り返しで一瞬光る。
恵吾が「慈善事業」と言い切る不特定多数の女の人とのセックスは、恵吾に触りたい人間にとっては本当に嬉しいものなのだろう。衣玖ちゃんを思い浮かべるとおれにでもそれはよくわかる。彼女は恵吾の隣にいるときは本当に嬉しそうだった。新しく買ったらしいヘアピンを褒めてもらって触られた時の、花がゆっくり開くようなほころびの笑顔がふとよぎる。人間ってあそこまで緩まるんだなって驚いて、おれはきっとこの先どんな女性と付き合っても同じ顔を向けてもらえることはないんだろうなとまで思った。
そうやって女性にバカほどモテるこの親友は、友達と呼べる相手がおれぐらいしか存在しない。そりゃそうだこんな抜群に顔が良くてモテてヤリチンな男を横に置きたい同性なんてなかなかいねえよ彼女普通に寝取られるもん。実際寝取られたもん。でも仕方なかったっていうか「どうしても恵吾に触ってみたいから別れてほしい」って言われたときに、恵吾じゃなくて彼女に引いた自分の感情の動きをおれは全くうまく説明できない。でもその後に復縁したいと言ってきた彼女に死ねよって言っちゃった感情の動きは説明できる。
恵吾は本人が言うように相手が求めれば求めるだけ夜を過ごしているけれど、残ることはほとんどない。不思議なくらい、相手の女性は恵吾に対して執着しない。縋りついたりしない。他の女性を相手にしていると知っても全然泣き喚いたりもしない。これらは全部恵吾本人から聞いている。めんどくさいことにならない理由はおれにはもちろん恵吾にもよくわかっていない。でも近い言葉は「処理場」なんだろうなっておれは思う。逆ならけっこうある気がする。つまりセックス相手としてしか見られていない「女性」の話だったら聞いたことが何回かあって実際あいつヤリマンらしいよに食いつく知り合いとか高校の頃にまあいたし、おれもぶっちゃけかわいいかどうかは関係なくマジで? って一瞬思っちゃったし、その時のマジで? はどうしても誰かとセックスしたいけど相手いないしこの際突っ込めれば豚でも犬でもなんでもいいぐらいまであった童貞の性欲の結果だったわけだけど、処理できるならなんでもいいって事態は男でも女でもあるだろうから恵吾もこれに似ているのかもしれない。いややっぱ違うかも。だって恵吾は恵吾だからこそ求められているわけで、でも処理場だったとしても豚とか犬とかにするくらいなら常に開かれている抜群のイケメンの方がいいに決まってるからってことなんだろうか、違うかな、いやいやでもでも、ああまたわかんなくなってきたやっぱ全然なにもかも説明できないかもしんねえ!
ハンドルを切る。無言の間に辿り着いた大型のショッピングセンター(映画館付き)はそれなりに賑わっていて駐車スペースが全然ない。立体駐車場の上の方まで行ってやっとこさ駐車する。車を降りるとやっぱ蒸し暑くてああくそ夏は本当に最低だよっておれは意味もなく夏を嫌い始めるけど横を歩く恵吾が急にブハッと吹き出して笑うからちょっとびっくりして動きを止める。恵吾は間違いなくおれを見ている。身長差が案外あるので見下ろされている上に、影になってて細かい表情は読み取れない。おれと恵吾は蒸し暑さの中立ち止まる。
「なあ文義」
「なに?」
「ありがとな」
突然のお礼の意味がおれはやっぱりわからない。でも恵吾にもわかっていないらしくって、おれを見下ろしたまま一回だけ瞬きをしてその重たくてゆったりとした沈痛な瞬きをおれは黙ったまま見上げるしかできなくて、車の音も人の声もお客様へのご案内放送も聴こえているのにおれは、おれと恵吾は、そこに二人きりで立ち尽くしていた。
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