Ⅴ.Departure
〈楽園〉の出口は、崖のようになっていた。どこまでも広がる雲海がアイオラの視界に満ちて、さらさらと吹く風がアイオラの頬を撫でた。
飛び立とう――そう思ったときだった。
「お待ちなさい」
後ろから、声を掛けられる。高くて、澄んだ声音だった。驚いたアイオラが振り返ると、そこには白装束に身を包んだ存在が立っていた。身長はアイオラの二倍ほどもあって、月を想わせる金色の瞳だけが見えていた。
「……あなたは」
「この〈楽園〉の〈管理者〉です。お久しぶりですね、アイオラ」
「……わたし、あなたと会ったことってありましたか?」
「ええ、ありますよ。〈地上〉で血みどろになって倒れていた貴女を助けたのは、紛れもなく私ですから」
「……血みどろ」
アイオラはその言葉を繰り返した。〈管理者〉はうっすらと瞳の形を細くした。
「……あの、お聞きしたいことがあります」
「構いませんよ。何ですか、アイオラ?」
「……〈地上〉とは、どのような場所なんですか!? わたしの家族が今も生きている〈地上〉は、一体どのような場所なんですか!?」
〈管理者〉はアイオラのことを、優しげに見つめた。
「〈地上〉はかつて様々な種族が繁栄していた、安寧の地でした。ですがその平和は、邪神テルデネブとその配下の侵略によって、呆気なく崩れ去りました。先住民は今も、テルデネブとの戦争を続けています。〈地上〉は悪意と殺戮が渦巻く、終焉の地なのですよ……」
アイオラはぱくぱくと、口を動かした。呼吸が乱れていく心地がした。
「……嘘、ではないんですか?」
「嘘ではありませんよ。アイオラ、頭をお貸しなさい……」
白装束から、一本の腕がアイオラへと伸びた。それから彼女の真っ白な髪の上に、〈管理者〉は手を置いた。
――〈思い出しなさい〉
〈管理者〉はそう告げる。
途端、アイオラの持っていた記憶の霞は、一気に晴れてゆく。
血。血。血。ともだち、血、血、血、こいびと、血、血、血、血――? 血、血、臓物、しらないひと、血、臓物、血、血、血――血。ともだち、血、血、血。血。
「…………あ、」
死。死。死。めいしょうしがたい、なにか。殺、殺、殺、死? 死、死――ころさないで。死、死、死の香り、死、死。たすけて? 死。死――死、死、死。
「……うわああああああああああああああああ!」
アイオラは頭を抱えてうずくまる。涙が勝手に溢れてきて、青紫色の瞳から滑り落ちた。真っ白な地面に当たって、弾ける。震えが止まらない。
「アイオラ。貴女はね、〈地上〉の記憶に長い間、苦しめられてきたのです。だから私は、貴女の記憶を隠してあげたのですよ。もう二度と、思い出さなくて済むように……」
〈管理者〉の言葉を聞きながら、アイオラは泣き続ける。長い時間が経って、ようやくアイオラは涙を拭って立ち上がる。
「……わたし、こんなに大事なことを忘れていたんですね……」
「ええ。……アイオラ、これでわかったでしょう? 〈地上〉は恐ろしい場所なんです。アイオラ、もう一度頭をお貸しなさい。また全てを忘れて、〈楽園〉の鳥籠の中で平穏な時間を過ごしましょう」
〈管理者〉の提案は、非常に甘美だった。
でもアイオラは、頷くことをせずに、首を横に振った。
「……ごめんなさい。わたしはその提案を、受け入れることができません」
「何故ですか? もうわかっているでしょう、〈地上〉には憎しみしか存在しないのですよ。またあの場所に戻って、何もできずに死んでいくのですか?」
「……わたしは死にません!」
アイオラは叫んだ。再び零れそうになる涙を拭って、彼女は微笑う。
「……わたし、思い出しました。家族のこと。それで、思いました。わたしは家族に会いたいです。絶対に、会わなければならないんです」
「…………」
「……もうわたしは、怖いものから逃げません。逃げたりしません。再び逃避を選択することなんて、絶対に、したくないんです……!」
アイオラはそう言って、〈管理者〉に背を向ける。
「アイオラ。貴女は愚かですよ」
「……そうかもしれません。でも、愚かだって構いません。家族にもう一度会えるなら、自分がどれだけ愚かであっても、構いません」
「そうですか。それならもう、私から言うことはありません」
崖の前に立つ。碧色の鳥が、遠くでアイオラのことを見つめている。
「……さようなら、〈管理者〉さん。わたしのことを助けてくれて、本当にありがとうございます」
言葉は返ってこない。
アイオラは寂しそうに微笑って、とん、と飛び立つ。
翼をはためかせる。
〈
鳥籠のアイオラ 汐海有真(白木犀) @tea_olive
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